2022年09月11日

9/11礼拝「喜びにいたる慰め」第二コリント7:4〜10(7章)

9/11礼拝「喜びにいたる慰め」第二コリント7:4〜10(7章)
今日、開かれておりますコリント人への手紙第二は、その名前の通り、手紙です。使徒パウロがコリント教会の人たちに書いた手紙が聖書の一つの書となっています。聖書は読みやすいように1章、2章と区切られていますが、本来の手紙は、皆さんも手紙を書いたことがおありでしょうが、1章、2章というように区切ることはないでしょう。ですから、7章はもともと6章からつながっていて、1節と2節は6章と結びついていて、3節で話題を転換して、4節から新しい話題が書かれている。それは「慰め」ということで、先ほど司会者に読んでいただいた4節から10節までに5回ほど「慰め」という言葉があり、その反対の「悲しみ」という言葉も何度か出てきます。悲しみが慰められる。誰でも、苦しいとき、辛いとき、悲しいときがある。でも私たちが信じている神様は慰めの神です。6節にこう書かれています。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は
気落ちしたときに慰めてくださる。素晴らしい恵みだと思います。でも、どのように慰めてくださるのか。それは喜びに至るまで慰め続けてくださるのです。
いつものように三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「慰めの神の働き」ということ、第二に「御心に沿った悲しみ」、そして最後に「誇りと信頼による喜び」という順序で勧めてまいりたいと思います。
1.慰めの神の働き(1〜7節)
昨日も教会員の方のご葬儀が行われました。八月は二人の教会員が天に召されました。それぞれのご家族によって違いがありますが、寂しさを感じる方は決して少ないはずはない。大きな損失をしたり、失敗をするのも悲しいかもしれませんが、愛する家族が突然に亡くなることは、人間誰もが悲しみを感じることです。自分や自分の家族友人に関する苦しみだけでなく、教会の兄弟姉妹が辛いとき、教会全体が弱っているときに、心から平安でいることはできない。大きな悲しみや苦しみの場合は、誰かが慰めようとしても、表面的には言葉をかけることができても、心の奥に届くような慰めの言葉は、なかなか出てきません。しかし、人間には誰も慰めることができないようなときに、神様はその人を慰めようとして働いてくださるのです。気落ちして、心がうなだれているときに神様の御言葉に慰められた体験をした方もおられるでしょう。何かの出来事が、小さなことであっても、それが心に響いて、神様からの慰めとなることもあります。
さて、手紙を書いたパウロ自身が神様からいただいた慰めについて少しお話ししたいと思います。5節から読みます。
5 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。

これはパウロの第三回伝道旅行のときです。エペソでの伝道を終えて、パウロは主に陸路でエーゲ海の周りを左周りで進んでいき、マケドニアに着きました。マケドニア地方にはピリピやテサロニケといった町があります。そのころ、パウロの心は「気落ちしていた」と書かれている。どうしてか。パウロはコリント教会の問題を聞いて心を痛め、どうにかしようとしていました。手紙を書いた。それがコリント人への手紙第一です。手紙を送っても解決しない。そこで使徒の働きには書かれていませんが、パウロはおそらくエーゲ海を渡って直接にコリントに行って、彼らと会った。でも上手くいかない。パウロはエペソにもどって、もう一度手紙を書いた。それが今は残っていない手紙で、悲しみの手紙とか涙の手紙と呼ばれています。手紙を書き送ってから、その結果、コリントの人たちが手紙をどう受け止めたのか、パウロは心配でした。これまで手紙を書いても直接に会っても上手くいかなかった。今度の手紙で、また誤解を与えたり、反感を生んだら、ますますコリント教会との関係はこじれて行ってしまうかもしれない。そう思うと、パウロは自分のしてきたことが無駄だったのだろうか。先走りして行ってきたのが間違っていたのだろうか。そう思うと心が沈んでいったのです。コリント教会の問題だけではありません。伝道旅行では、盗賊に会ったり嵐に会ったりすることもあり、町について伝道すると迫害を受けます。そのようなことが度重なって、パウロの心は気落ちしていたのです。
私たちも似たような経験をすることがあります。人間関係が悪化して、話をしても手紙を書いても、何をしてもますます悪化していく。誰かからいわれのない批判を受ける。相手のためにと思ってしたことが誤解されてしまう。最初は頑張ってどうにかしようと思っていたのが、失敗が度重なると、もうダメかと諦めそうになる。パウロはそんな心持ちだったでしょう。そのどん底だったときに、神様は慰めとなることをしてくださったのです。それは「テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました」とあります。
エペソから手紙、これは涙の手紙とよばれているものですが、その手紙をパウロは弟子のテトスに託して、テトスはエペソから直接にエーゲ海を渡ってコリント教会に行きました。手紙を届けてから、テトスは今度は陸路で海の周りを右回り、パウロたちと反対向きでマケドニア地方に進んでいった。反対向きに回っていますから、どこかで落ち合うでしょう。それがちょうどマケドニアのどこかだったのです。テトスと落ち合うのは打ち合わせ通りですから、不思議なことではありません。でも、それがパウロの一番気落ちしているとき、ちょうどその時にテトスと会えた。信頼する弟子であり、また彼だけが単独で別行動をしていたのですから、この時代の旅は決して安全ではない。テトスのことも心配していたのが、無事に落ち合うことが出来た。それが小さな慰めでした。そしてさらに、7節。
7 ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
テトスと会えただけでなく、テトスがもたらした知らせです。あの手紙を読んでコリント教会の人たちが変えられた。テトスはテトスで不安な心で手紙を運びました。これを読んだらコリント教会の人はどう受け止めるだろうか。テトスは弟子としてパウロのことをよく見ていましたから、パウロの心配が良く分かっていた。でも、実際にコリント教会にいって手紙を渡したら、手紙を読んだ人たちは涙を流した。これが「涙の手紙」と呼ばれる所以です。涙を流して悲しんだのは、自分たちが間違っていたと気が付いたからです。そしてパウロがコリント教会の人たちをどれほど愛しているかが分かって、彼らもパウロへの尊敬と愛を確認した。その様子を見て、まずテトスが慰められた。そしてテトスはそのことをパウロに知らせたとき、パウロも慰めを受けたのです。
悲しみの中で打ちひしがれている人を神様は憐れんでいてくださり、神様の時が来たら慰めを与える、そのためにすでに働いておられるのです。コリント教会の人たちが手紙を読むころには、彼らの心を少しずつとかしてくださり、素直な思いで手紙を読むことができた。頑なな心のままですと、こちらが何をしても受け入れることが出来ません。でも神様が何かをして、彼らの心を変え始めておられた。そこから悲しんでいた人たち、パウロもテトスも、そしてコリント教会の人たち自身も悲しんでいたのが慰められた。イエス様が山上の教えで語られたとおりです。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」。慰めの神様が必ず慰めてくださり、神様からの慰めはついには喜びにまでいたる慰めです。だから悲しむ者は幸いだと言われた、その通りです。
2.御心に沿った悲しみ(8〜13節)
二つ目のポイントに移ります。8節から読みます。
8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

あの手紙というのは涙の手紙か、それともコリント人への手紙第一のほうかははっきりしませんが、パウロは自分のしたことで彼らが悲しんだのを知って、パウロも悲しかった。でも、この悲しみは、やがて慰めにかわる。なぜか。それは「あなたがたは神の御心に添って悲しんだ」と書いています。神のみこころに添った悲しみとは何でしょう。その反対は世の悲しみと書いてあります。世の悲しみとは神様抜きの悲しみ、神様から離れた悲しみです。悲しみのあまり、すっかり神様から心が離れていると、問題を解決できるはずがなく、ますます悲しみが深まっていく。でも神の御心に添った悲しみは、悲しみつつも神様に近づくのです。
旧約聖書の詩篇には信仰者たちの祈りがたくさん残されていて、中には悲しみや苦しみの中の祈りがあります。「神様、なぜですか」と神様に食って掛かっているような祈りもあります。それでも神様に心を向けている。やがて祈りは変えられて行き、最後には神様に感謝し、賛美するようになる。
コリント教会の人たちの悲しみも、神の御心に添っていた。ですから、彼らは神様に祈り、聖書の言葉を読み、聖霊の呼びかけに耳を澄ませた。その時、パウロが悪いとか、あの罪を犯した人が悪いとか、誰かのせいにしていたのが、聖霊が自分自身の罪に気が付かせてくださり、彼らは人ではなく、まず自分が悔い改めた。神様の言葉によって悔い改めに導かれらとき、そこには必ず救いの御業が起こります。他者ではなく自分が変えられるとき、問題は解決に向かうのです。
3.誇りと信頼による喜び(13〜16節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。13節。
13 こういうわけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。
テトスの報告を聞いて、コリント教会の問題が解決に向かっていることを聞いて、パウロは慰められた。でもテトスは、コリント教会の人たちが悔い改めて変えられたのを見てきたので、喜びがあった。その喜びがパウロにも伝染してパウロも喜ぶようになった。悲しみから慰め、そして喜びに変えられていったのです。この喜びはどこから来るのか。14節。
14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったからです。
「私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇った」と書いていますが、なんと言って誇ったのかは書いていません。きっと、コリント教会の人たちの良いところを誉めたのでしょう。実際は、コリント教会は問題だらけの教会で、誇れるような教会ではない。でもパウロは彼らの良い点を見ていた。
私たちは他者の悪いところばかり見て裁いてしまうことがあります。でも、その人の良い部分に目を留めるとき、希望が与えられます。きっとコリント教会の人たちはいつか分かってくれるはずだ。そうテトスに語って手紙を運んでもらった。その誇ったとおりになって、コリント教会が変えられた。パウロが彼らを信頼していた、その信頼のとおりになったのです。そして、この信頼は喜びに至ります。16節。
16 私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。
信頼がさらなる信頼を生み、ついに全幅の信頼を寄せるまでになったとパウロは喜んでいます。この信頼関係がどれほど大切でしょうか。信頼が薄いと、ちょっとしたことで相手に失望して、裏切られたと思ってしまう。でも信頼があるなら、ちょっとやそっとのことでは揺るがない関係となります。そのような関係を、人に対しても、それ以上に神様に対しても信頼することが出来るなら、どんな問題があって、悲しみや苦しみがあっても、必ず慰めが与えられ、喜びにまで至るのです。
最初に戻って、4節。
4 私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。
パウロがコリント教会のことを諦めなかったのは、最初から彼らを信頼していた、誇りとしていたからです。このような関係を私たちも築き上げていきたい。キリストのからだを建て上げるとは、そういうことです。お互いのことを誇り合い、信頼し合う教会は、嵐が来ても揺るがされません。揺らいでも立ち直ることが出来ます。そして嵐を乗り切ったとき、そこに大きな喜びがあるのです。
まとめ.
悲しみの中にいる人たちがおられます。その人たちに天からの慰めがあるように、私たちは祈ります。でも、祈っている自分自身にも慰めが必要なのではないでしょうか。コロナ禍にあって、心も体も疲れ切っている。経済的な問題、もつれた人間関係、いろいろな問題が積み重なるなかで、心が気落ちしているのに気が付かないほどに疲れ果てている。そんな私たちにも神様からの慰めが必要です。いいえ、神様はすでに働いておられ、見えないところで手を伸ばしていてくださる。私たちが慰めの神様に立ち帰って御声に聞き従うなら、神様が喜びに至らせてくださるのです。
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2022年09月04日

9/4山根師記念礼拝「神のしもべとして」第二コリント6:1〜10(6章)

9/4山根師記念礼拝「神のしもべとして」第二コリント6:1〜10(6章)
池の上キリスト教会の創立者である山根可弌先生が1989年の9月18日に召されたことを覚えて、毎年、九月の第一日曜日に記念礼拝を持ってまいりました。先生の残してくださった信仰の証しは、「キリストの形なるまで」という自叙伝に記されていると共に、山根先生の薫陶を受けた方たちによって受け継がれています。池の上教会の創立五十周年の記念誌にも飯島兄が分かりやすくまとめてくださっていますので、是非お読みいただければと思います。コロナ禍が終わって多くの方々と一緒に礼拝ができるようになったとき、また直接に山根先生に触れた方々からお証しを聞かせていただく機会を持ちたいと願っています。今日は、コリント人への手紙を通して、神のしもべとして生きたパウロの姿を見ながら、山根先生の生涯に学びたいと思います。
いつものように三つのポイントで、第一に「苦難と恵みの僕」、第二に「心が開かれる」、そして第三に「神の聖さを求めて」という順序でメッセージを進めてまいりたいと思います。
1.苦難と恵みの僕(1〜10節)
山根先生のご生涯については、自叙伝が数年前に復刻されましたのを読んでください。先生がクリスチャンとなるまでの間、奥様である山根恵代先生、後に教会のお母さんと呼ばれるようになりますが、恵代夫人の大変な忍耐と犠牲があったことはご存じだと思います。キリスト教に反対していた山根先生が教会に行くようになり、やがて信仰を持ち、洗礼を受けた。自叙伝には「全き回心」と書かれている、「昭和十三年二月二十三日午前四時二十三分」と、古い方は覚えておられますね。山根先生がキリストのご臨在に触れた。生涯の中で三回、全財産をなげうった尊い犠牲。献身して牧師となり、六十歳のときに池の上教会を創立された。その間、どれほどの犠牲を、いいえ、ご自分を捧げて、また多くの苦難を味わわれたことは、一言では述べ尽くせません。イザヤ書に記された救い主の姿の一つに「苦難のしもべ」と言われる預言がありますが、キリストに従う者は大なり小なり、苦難のしもべとして犠牲を払うこともあります。でも、どうしてそれができたか。それは、それ以上の恵みを神様からいただいたからです。これも有名なエピソードですが、山根先生があるとき、神様から過去の罪を示されて悔い改めた。そのとき、その罪が赦された恵みに大きな喜びが与えられ、バスの中で下駄で足を踏まれたけれど、痛いどころか、「ありがとう」と感謝した。もちろん、このエピソードだけでなく、山根先生の後半生は恵みに満たされた日々だった。だから、素晴らしい働きをされ、キリストの栄光を示すことができたのです。
聖書に目を向けたいと思います。先ほど読んでいただいた、第二コリント6章の1節から、特に4節からパウロは自分の半生を語っています。1節、2節。
1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

パウロが、今は恵みの時、救いの日です、と確信を持って言えたのは、その救いに与ったからであり、それが神様からの一歩的な恵みだったと知っているからです。それまでキリスト教を迫害していたパウロが、キリストと出会って人生が変えられ、迫害者から伝道者に変えられた。しかし、恵みにより始まった新しい人生は、多くの苦難がありました。4節。
4 あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、
5 また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、

まだまだ続きますが、このリストは、想像上のことではなく、実際にパウロが体験したことがほとんどでしょう。忍耐、悩み、苦しみ、嘆きはパウロの心の中のことです。むちと入獄、暴動に巻き込まれ、徹夜で苦しめられた。聖書に記されていることです。パウロはそれが神のしもべの姿だと言うのです。確かに、旧約聖書で神のしもべと言われる人たちは、様々な苦難を受けました。でも、それと共に大きな恵みもあった。その例を挙げたらきりがありません。
でも、このリストは、パウロの苦労話や自慢ではありません。コリントのクリスチャンも、いくらかは苦難があり、やがて大きな迫害の時代がやってくる。でも、それは神のしもべとされた証しであり、それを乗り越えるように豊かな恵みもあるのです。この真理は時代を超えて証しされてきました。私たちも同じ恵みによって救われ、新しい命に生かされているのですから、例え苦難があったとしても、それは神から見放されたのではなく、それどころか神のしもべとされた証しであり、パウロが「推薦している」と言っている通りです。
苦難ばかりと感じるかも知れません。でも、恵みも尽きることはない。すでに十字架による救いの恵みは与えられ、天国の約束が与えられた。そして、今も、その時に必要な恵みが用意され、これからも与えていただける。パウロは旧約聖書の言葉を引用して、
2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
と言っています。苦難の中でも、今は恵みの時と信じて、祈りましょう。そのとき、神の恵みがどのようなものかを知らせていただけるのです。
2.心が開かれる(11〜13節)
二つ目のポイントに移ります。パウロが挙げた苦難のリストは、詳しい説明はありませんが、それはパウロがこれまでコリント教会の人たちにすでに語ってきたことだからです。パウロは自分の考えや聖書の知識だけでなく、自分の過去の罪も失敗も全て語ってきた。それを、11節。
11 コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。
パウロは心を開き、隠し事なく、語ってきた。それは真実を話して、信頼を受けて、そして彼らがパウロの教えを聞いて恵みを受けて欲しい。でも、パウロが愛を込めて知恵を尽くして忍耐の限りをつくして語っても、なお誤解があり、聞こうともしない者もいる。心を開いているパウロに対して、コリントの人たちの中にはパウロに対して心を閉ざしてしまっている人がいた。12節。
12 あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。
13 私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。

この手紙を受け取ったコリント教会の状況は何度かお話をしましたが、一言で言うなら混乱した教会であり、パウロが一所懸命に語り掛けても、パウロを誤解して悪く受け止めたり、敵対する人たちもいた。でも、パウロはそれでも彼らを我が子として受け入れ、救いに導こうとしていたのです。パウロはいつも心を開いていた。でも、心を閉ざす人は、自分で自分の心を狭くしているのです。
誤解や行き違いもありますし、人間ですから攻撃的な言葉を使ってしまうかもしれない。いくらかは自分も言い過ぎかと気づくこともありますが、私が悪かったと認めたくないと、ますます相手を攻撃し、相手の言うことは悪くしか受け止めないように、自分で自分を思い込ませてしまう。だからなかなか冷静に見極めて、相手を受け止めることができなくなるのです。人間関係がうまくいかないのは当然です。
でも神様は人間がどれほど敵対しても、それでも私たちを救おうと語り掛け続けてくださる。神様は心を広くして私たちを受け入れようとしていてくださいます。自分から心を狭めないなら、神様のお声は心に響いてくるのです。
山根先生がクリスチャンとなる前は、むしろキリスト教に対して心を閉ざしていた。再婚して最初は、妻である恵代夫人が教会に行くことも反対だった。でも彼女の姿を通して少しずつ変えられて行ったのです。やがて家庭での集会を許し、ついに教会に一緒に行くようになった。絶対に聞かないぞと心を閉ざしたままではなく、聞く姿勢を持つようになったとき、最初は讃美歌の歌詞に心が惹かれ、やがて聖書の御言葉が響いてきた。山根先生の証しを読むと、クリスチャンとなってからは、聖書の言葉をそのまま受け入れる姿が目に止まります。心を閉ざすのではなく、最大限、心を開いて、神の言葉として受け入れて、従っていった。それが山根先生のクリスチャン人生でした。だから、神様も山根先生の生涯を導くことができたのです。私たちは御言葉に心を開いているでしょうか。
3.神の聖さを求めて(14〜18節)
もう一つ、証しを読んで感じたのは、山根先生がいかに純粋な信仰を求め続けておられたか、ということです。時には、人よりも神様に従うことを選んだため、道を異にするときもあった。それまで牧師として働いてこられた教会から離れて池の上教会を創立されたのも、その一つです。純粋な信仰、聖なる神様の前に生きる信仰でした。
先日、聖書学院の牧師研修コースで、メソジスト運動の創立者であるジョン・ウェスレーのことを学びましたが、ウェスレーも純粋な信仰を追い求め、特に聖なる神様にならって聖い生涯を送ることを求め続けた人です。学生の時から「ホーリー・クラブ」という会を作って仲間と一緒に聖い生活を求めていった。それがメソジストと呼ばれるようになった始めです。彼も信仰の遍歴を重ね、ある日、ついに聖書の御言葉によって心を揺さぶられる経験。それは山根先生の「全き回心」と共通するものがあります。その時の体験が、今、私たちが聖めと読んでいる体験へとつながっていく。「求めよ、さらば与えられん」との御言葉もありますが、聖なる生き方を求めたウェスレーが聖化の恵みへと導かれたように、山根先生が純粋な信仰を求めて素晴らしい信仰体験へと導かれた。私たちは何を求め、何を目指して歩んでいるでしょうか。
パウロが、コリント教会の人たちに「心を広くしてください」と言って語ったのが、どのようにするのかが、14節から始まります。
14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
この「不信者と。つり合わぬくびき」というのが、具体的に何を指しているのか。その箇所は難しいというか、誤解を与えてしまうかも知れません。良く言われるのは、「このくびきとは結婚のことで、信者は不信者と結婚してはいけない」という解釈があります。しかし、日本もそうですが、圧倒的に不信者の方が多いコリントの町で、不信者との結婚を禁じるのは適切では無く、このことは第一手紙の7章でパウロが結婚問題について詳しく語っているのを読むと、決して禁止しているのではない。もちろん、恵代夫人が山根先生と結婚したときの苦労からも分かるように、難しいこともあるでしょう。しかし、それは信者同士の結婚でも、人間ですからぶつかることはあります。
他に、クリスチャンではない人たちとの関係を否定するような意味で受け取る人もいますが、それも第一の手紙をよく読むと、5章の中で取り扱っています。パウロは、不信者と交際を禁じて隠遁生活をするようにとは教えていません。むしろ、クリスチャンでは無い人たちと共に生活する中で、聖い生活を通して証しをし、福音を伝えていく。それがクリスチャンの生き方です。
聖書の教えを生活に適応するとき、理解が難しい部分は、聖書全体から理解をすることが大切です。「光と暗やみに、どんな交わりがあるでしょう」とパウロが14節で書いているように、確かにキリスト者の目指すところと、この世の生き方とは違いがあります。でも聖書は何と言っているか。16節。
16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

私たちは生ける神の宮、聖霊の宮とされ、神様は私たちの間に住んでいてくださる。インマヌエルの神です。しかし、このお方は、高く聖なるところにおられる神であると同時に、低くなって私たちと共にいてくださるお方です。どうしてか。それは私たちが罪から離れて、聖なる者とされるためです。この箇所は、下の引照を見ると分かるように、旧約聖書のあちこちから引用されている言葉です。17節に関してはイザヤ書の預言で、バビロンによって滅ぼされるイスラエルの民に対して、捕虜として連れて行かれたバビロンから出てきて、帰ってくることを語っている言葉です。でもそれをコリントの人たちが町を出てエルサレムに行くようにとはパウロは解釈していない。むしろ、置かれているその場所で、汚れたものから離れる生活、神を父として、このお方に従う生活です。この結論が、7章1節です。
7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
そこに至るには、時間も忍耐も必要です。祈りと信仰がいつも求められます。でも、それが私たちをますます神様に近づけ、聖なる者として成長させてくださるのです。
まとめ.
自叙伝を読んでも、山根先生と恵代先生は、同じ信仰ですが、その働きは違います。それはキリストのからだの部分部分として違いがあるからです。私たちも山根先生や他の信仰の先達と全く同じにならなくても良い。でも、自分のできることをとおして、神の僕として用いていただくなら、山根先生の信仰に倣う者なのです。

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2022年08月21日

8月21日礼拝「新しい生き方」第二コリント5:14〜15(5章)

8月21日礼拝「新しい生き方」第二コリント5:14〜15(5章)
私事ですが、先日、また一つ歳を取りまして、人間誰でも一年に一つ、年を取り、特に大人になりますと年老いていくことを実感するようになります。だんだんと無理が出来なくなり、力も衰えていく。でも、それを認めるのがイヤで、いろいろな努力をなさっている方もおられると思います。しかし、確かに人間は衰えていく存在です。そんな私たちに勇気を与えてくれる御言葉が、先週、お話しした第二コリントの4章の16節です。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
クリスチャンであるということは、神様によって毎日、新しくされる。それが新しい生き方であり、永遠の命です。この生き方を、今朝は第二コリントの5章を通して、ご一緒に考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に、「地上の幕屋」ということ。第二に、「新しく造られる」。そして最後に、「和解の使節」という順序で進めてまいります。
1.地上の幕屋(1〜10節)
1節から読ませていただきます。
1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

幕屋とは、当時の貧しい人が住むテントのような住居です。「地上の幕屋」とパウロが語っているのは、もちろん、実際のテントではなくて、肉体のことを指しているのは分かりやすい例えだと思います。地上の幕屋である肉体はこわれていく。でも、神がくださる建物、「天にある永遠の家」とは、天国で与えられる新しい体。それは衰えたり壊れたりすくことがない、永遠のからだです。それが与えられるまで、すなわち天国に行く希望を持ちつつ、地上の肉体の中で苦難を味わっている、とパウロは現実の私たちの姿を描いているのです。
地上で生きながら、天国の体になれるなら、もう老化も病気も無くなって、どんなに良いだろうかと思いますが、今は、神様が御言葉によって保証していてくださる天国の約束を信じて、希望をもって生きるのが地上での人生です。このことを私たちに保証するために神様が与えてくださったのが、5節。
5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

聖霊が私たちの内にいてくださることが天国の保証だとパウロは言います。だから、「いつも心強い」。肉体的には弱さを覚えることもあるでしょう。私も昔っから忘れっぽいところがあったのですが、還暦を過ぎてますます忘れることが増えてくる。しかし、何歳になっても聖霊は私たちの内にいて助けてくださるお方です。ですから、天国の保証は無くならないのです。もちろん、地上の肉体の中にいる限りは、「主から離れている」ときもある。四六時中、神様のことを考えることはできません。でも、自分が出来なくても、神様は眠ることも微睡むこともないと詩篇に書かれていますが、私の意識が仕事や勉強や、違うことに向かっている時でも、聖霊がいてくださることに信頼する。それが信仰です。7節で「見るところ」とは私たちが自分で分かることです。「見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」。神様を信頼するから、「心強い」ともう一度言っている。この信仰も神様の賜物であり、保証なのです。8節。
8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
肉体を離れて主のみもとにいる方が良いというのはパウロの本音です。それは、もう地上で生きるのはイヤだから止めたいということではなく、キリストとずっと一緒にいることの素晴らしさを何よりも貴いと思っているからです。このことを違う言葉で語っているのが、ピリピ人への手紙1章(23節後半)です。
ピリピ1:23後半 私の願いは、この世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかに勝っています。
24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

パウロは、自分のためではなく、コリント教会やピリピ教会、また、まだキリストの福音を知らない人たちに御言葉を伝えるために生きるのです。(第二コリント5章)9節。
9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
自分のための生き方ではなく、主に喜んでいただく生き方です。自分のための生き方は地上だけで、いつか終わりが来ます。でも主に喜んでいただくことを願う生き方は地上だけでなく天国にまで続く。これが永遠の命の生き方なのです。でも、どうしたら主に喜んでいただけるでしょうか。それは自分で決めるのではなく、神様が私たちに求めておられることを知らなければなりません。
2.新しく造られる(11〜17節)
11節からの段落でも大切なことがたくさんあるのですが、全部をお話しすることはできませんので、少し飛ばしまして、14節。
14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。
キリストの愛が私たちを取り囲んでいる、と新改訳第三版は訳しています。ここは翻訳によっていろいろと工夫されていますので、比べてみると面白いところです。キリストの愛が私たちを捕えている、と、もう捕まっている。支配しているとも訳すこともできます。私が好きなのは、「キリストの愛が私に強く迫っている」という口語訳です。「キリストの愛」というと、なんだか甘っちょろいと感じる方もおられるでしょう。日本語の愛という言葉の与える印象が原因です。旧約聖書では「ねたみの愛」という表現もあるくらい、神の愛は圧倒的な力のある愛です。キリストの愛は十字架です。命がけの愛であり、私たちの身代わりとして神の怒りを受け止める覚悟のある愛です。父なる神が三位一体としてわが身である一人子を手放すほどの痛みを伴った愛です。人間の文化による愛ではなく、聖書が告げる神の愛を知るとき、それは私たちに迫ってきます。まるで、強力な軍隊のごとく、私たちに迫り、取り囲み、ついには捕えて、私たちはキリストのものとされる。15節。
15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
自分のために生きる、古い生き方から、キリストのために生きる新しい生き方を選ぶとき、何が起きるか。17節。
17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
イエス様がニコデモという人に、「人は新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われましたが、古いままの生き方では結局自己中心、自分のためですから、神に喜ばれることが出来ない。キリストのものとされ、キリストのうちに生きるとき、神様が新しく造り変えてくださる。それが、神様が喜んでくださる生き方です。なぜなら、これが、神様が計画された道だからだと、18節の最初で、「これらのことはすべて、神から出ているのです」と語られていることなのです。
3.和解の使節(18〜21節)
18節は話題の転換点となっています。
18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

ここに「和解」という言葉が繰り返されています。まず、神様との和解です。罪を悔い改め、神様に背を向けて歩んでいた生き方から、神様に顔を向け、キリストに従う生き方となる。そのとき、背いていた罪を赦していただいて、神様との和解を与えていただける。迫ってきたキリストの愛に全面降伏して、全部を神様に委ねるとき、神様の平和が与えられる。
そして、他者との和解です。自分が他者と和解するだけでなく、他の人も神様との平和に入ることが出来るように、神様からの和解の言葉を伝える。それが「和解の務め」であり、20節では「キリストの使節」と言っています。20節。
20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
今回、メッセージの準備をしながら、繰り返してこの御言葉を読んでいて、ハッとさせられたのは、「懇願しておられる」という言葉です。神様は、キリストの愛によって私たちを包囲し、迫ってきている。勝利は神様のものです。ところが、その神様が懇願しているのだというのです。和解をしなさい、いいえ、和解を受け入れて欲しい、と。パウロも、「キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」。
神様は私たちを見ていて、心を痛めておられるのです。私たちが自分勝手な生き方から離れずに、まだ神に背を向けている。その自己中心がどれほど周囲の人を苦しめ、また自分自身の魂を傷つけているか。神様との関係にひびが入り、神様が与えようとしておられる祝福を受け止めそこなっているか。そんな私たちの姿を見るのが忍びなくて、早く、降伏して、神様を信頼して、受け入れて欲しい。それが神様の最大の、そして緊急の願いであり、これ無しにどれほど努力をしても、神様は喜べない。
みなさん。人間はいつか人生の終わりが来る。これは年齢とは関係なく、若い人でも同じです。それがいつ来るか、ご存じなのは神様だけです。その神様が私たちに迫ってきて、和解を受け入れろ、いいえ、受け入れて欲しいと懇願しておられる。そして、キリストから遣わされたパウロがコリント教会の人たちに願っているのです。
まず、自分が神様と和解をする。そして、次に和解の使者として、和解の言葉を私たちも委ねられています。私たちは、今日、またここから遣わされて、それぞれの生活や仕事に帰っていく。それは和解の使者としてなのです。これが新しい生き方なのです。
まとめ.
キリストの愛が私に迫っている。でも、神様は私たちを力づくで従わせようとはなさらない。キリストが戸の外に立って戸を叩いている、と黙示録に書かれています。私たちが心の戸を開き、キリストをお迎えし、和解のことばを受け入れとき、神様の新しい創造の働きが私のうちにも始まる。一回だけではありません。私たちはすぐに古い生き方、自己中心な生活に戻ってしまいがちです。ですから聖霊は何度も何度も、忍耐をもって語り掛けてくださる。そのたびに閉じかけていた戸を開いて、主を私の王として心に迎え入れる。それが日々、新しくされることです。今日も、また明日も、キリストと共に、そしてキリストのために生きる生き方を一歩ずつ歩んでまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教