2022年03月20日

3月20日礼拝説教「御心を知るために」1コリント2:6〜10

3月20日礼拝説教「御心を知るために」1コリント2:6〜10
このコリント人への手紙を書いたパウロという人は、もともとユダヤ教のパリサイ派に属する律法学者で、旧約聖書に精通していました。ですから彼の書いた手紙を読みますと、大変に難しい言葉を使って、複雑なことを語っていますので、読むのに苦労することが少なくありません。彼は、現代で言うなら高学歴で、知識に満ちた学者でした。でも、過去の経歴よりも、また学んできた知識よりも、もっと大切なことを彼は知った。それが、先週もお話ししました「キリストのことば」と、1章の18節の有名な御言葉です。
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
また、2章の最初にも
1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

そして、前回の結論ですが、5節。
5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
知恵ではなくて信仰なんだ、だから知恵なんかいらない、と言っているのではありません。人間的な知恵には限界がある。でも、神様からの知恵、神様が私たちに知らせようとしていることを知ろうとしないなら、自分は何でも分かっているつもりで、実は神様の御心から離れてしまう。ですから、神様の御心を知る知恵が必要なのです。
前置きが長くなりましたが、いつものように三つのポイントで。第一に「隠されていた知恵」、第二に「知らせてくださる聖霊」、そして第三に「キリストの心を知る」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.隠されていた知恵
6節からもう一度読みます。
6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

成人の間では知恵を語ると言っていますが、成人とは20歳以上ということではなくて、成熟したという意味です。コリント教会には、自分たちは知恵がある、成熟したクリスチャンだと思いあがっていて、お互いにどちらが偉いと争う。それが成熟できていない証拠なのですが。パウロは、成熟したあなた方なら難しい知恵も分るだろう、と彼らの聞く耳を引き付けています。この知恵は、この世の知恵ではなく、神様の知恵です。それは7節では「隠された奥義」と呼んでいます。奥義とは、この世の人には隠されていた神の深い知恵です。ですから人間には知ることができないのが奥義なのですが、それを持っておられる神様が知らせようと思う者に知らせることができる。それが、10節。
10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。
この啓示とは、隠されていたこと、ベールに覆われていたことが、覆いを取り除かれて明らかにされることです。神様は私たちに奥義を知らせてくださる。それが啓示です。この啓示という言葉は、特に聖書学を学びますと、聖書とは神様が私たちに啓示してくださったことばで、この聖書の中に、神様が私たちに知らせようとしておられることが余すところなく記されているのです。
奥義とは何か、この聖書は奥義をどう教えているか。奥義ですから簡単に一言で語れるようなものではないと思いますが、パウロが奥義ということを他の手紙でも教えている箇所がいくつもあります。ローマ書では、異邦人が救われることが奥義だと語り、エペソ書は、いがみ合っていたユダヤ人と異邦人がキリストのからだである教会において一つとされることを奥義だと語っています。コロサイ書やテモテ書ではキリストが神の奥義そのものだとも語っている。他の書簡や、イエス様の教えでは奥義をどう語っているかも、重要です。こうして聖書全体から学んでいくと段々と奥義ということに目が開かれていくのが、大変に面白いと私は思います。
神様は決して意地悪で隠しておられるのではなく、私たちが自ら求めて聖書を読むなら、その時その時に、その人の信仰に応じて、教えてくださる。すると聖書がもっとわかるようになる。その喜びを残していてくださるのだと思います。隠されていた、でも今はキリストによって聖書を通して、一生かけて知ることが出来る。でも、それは神様から離れて独り歩きするような知識ではありません。聖書を知れば知るほど、もっと神様の御心に近づく。それが啓示ということです。では、どうしたら御心を知ることが出来るのでしょうか。
2.知らせてくださる聖霊
二つ目のポイントに移ります。もう一度10節。
10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

御霊とか聖霊と紹介されている、三位一体の神の三番目のお方です。三位一体自身が奥義であって、簡単にはお話しできないくらい難しいのですが、神の奥義を啓示するのは御霊の働きだと10節は語っていて、さらに神の御心を知るのは聖霊だけだと11節は語っています。私たちは、この聖霊によって御心を知るのであり、この方以外の者は御心を知ることはできないのです。12節。
12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
パウロは、私たちは神の御霊を受けた、と語っています。これはペンテコステの日に聖霊が下られて教会が誕生し、今もキリストを信じる者には聖霊が心に宿ってくださるのです。どうして、それほどまでに聖霊が大切で、またなぜ、神様は私たちに聖霊を与えてくださったのか。その答えがここに述べられているのです。聖霊は私たちが神の御心を知るために来てくださった助け主です。13節。
13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
「御霊に教えられたことば」、すなわち「御霊のことば」とは、具体的には聖書の御言葉です。聖書は聖霊によって書かれました。実際に書いたのはパウロなどの人間ですが、彼らを導いて書かせたのが聖霊です。ですから奥義も神の知恵も聖霊ご自身に関しても、私たちは聖書を通して知るのです。反対に聖書を分からせてくださるのも聖霊の働きです。神様が聖霊を私たちに遣わしてくださったのは、聖書を通して神様の御心を知り、神様が奥義として送ってくださったキリストを信じるためです。どうして教会では毎週、礼拝で聖書を紐解き、またクリスチャンは毎日聖書を読むように勧められているのか。それは聖書を通して聖霊の助けをいただいて、御心を知るためなのです。
3.キリストの心を知る
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。14節から。
14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

生まれながらの人間は、自分の知恵で何でも分かると思っていて、なかなか聖書のこと、キリストのことが理解できないことがあります。まして御霊のこと、聖霊ご自身のことは人間の理解を超えています。逆に、人間は自分の知恵で理解できないことを拒む傾向があります。学校の勉強はそうですね。数学は難しい、理解できない、だから嫌いだという生徒が多かった。私が教師の時のことです。勉強のことは置いておいて。聖書のことも、最初は理解できない。だから、こんなことは信じられない、と受け入れようとしないことがあります。聖霊の助けによらなければわからない。
15節に「わきまえる」という言葉が出てきます。14節の後半も含めて、三回も「わきまえる」という動詞が使われています。正しく判断する、という意味です。聖霊の助けが無ければ聖霊のことを正しく判断して理解することはできない。そして、御霊を受けている人は全てのことをわきまえ、つまり正しく判断するが、他の人たちは彼のことを正しく判断できずに、愚かだと思うかもしれない。そうですね。復活とか処女降誕とか奇跡を信じているなんて言ったら、馬鹿にする人もいるでしょう。ただ、ここで気を付けて欲しいのは、自分は聖霊を受けているから何でも正しく判断できると考えると、間違いを犯しやすい。また、自分は正しく判断できるが、他の人は自分のことを正しく分かっていない、と考えると高慢に陥りやすい。私が御霊を受けた人かどうか以上に、私ではなく御霊が大切です。
細かい話ですが、聖霊がどのように働かれるか、10節では「御霊はすべてのことを探り」とあり、14節では「御霊のことばをもって御霊のことを解く」、つまり御霊が理解させてくださり、14節、「御霊によってわきまえる」、正しく判断する。これらの動詞は、ずっとやり続けるという表現、現在進行形のような言い方です。御霊が与えられたというときは、もうすでに与えられた、という完了形であるのと違う。どういうことかと言いますと、私たちは聖霊によって教えていただくのは、一回だけ教えられたら、あとは自分の力で何でも判断できているのではない。これまでも、またこれからも、何度も、ずっと、教えられ続けるのです。いいえ、聖霊によって教えていただき続けることからちょっとでも離れたら、もう私たちは自分の判断で間違った考えに陥るのです。でも、間違えたときに、聖霊が語り掛けてくださる。御言葉と祈りの中で聖霊が教えてくださって、それは違うよ、と示してくださったときに、すぐに素直に、その御声に従う。それが御霊によってわきまえる、ということなのです。
神様の御心を知って、御心に適う正しい生き方をするためには、いつも御霊に教えられ、御霊に従う従順な心が大切です。少しでも、自分はもう理解できていると高ぶったとたんに、御心から離れてしまうからです。自分を正しいとせず、自分の知恵に頼らず、何度でも聖霊によって御言葉を教えられ、軌道修正をしていただく。これが知恵なのです。
では、聖霊は御言葉を通して何を私たちに示されるのか、何が御心なのか。それが16節の最後。
ところが私たちには、キリストの心があるのです。
あるでしょうか。私たちは心からキリストの思いに従っているでしょうか。「私たちにはキリストの心がある」とは、聖霊のことです。聖霊は「キリストの霊」と呼ばれることもある。聖霊によって聖書に書かれているキリスト・イエスのことを知るとき、特に何がわかるか。それが「十字架のことば」です。すでにイエス様を信じ受け入れたときに、十字架のことばが分かるようになった。キリストは私を罪から救うために十字架についてくださった。そう、私たちは信じて洗礼を受けた。でも、もうそれで十字架のことが全て分かったのかというと、さらにこれからも聖書を通して知り続け、もっと深く十字架を知る。そのたびに、十字架の恵みに感謝して、喜んでキリストに従う者となっていき、キリストのものとして相応しい聖なる者とされていく。ここに神様の御心、また、はるか昔からの神様の計画、つまり奥義があるのです。
まとめ.
今日は「御心を知るために」と説教題をつけました。御心を知るのは、もっと勉強したら良いか。それも素晴らしいことですが、祈りと聖書を通して働かれる聖霊の導きをいただいて、謙ってその御心に従うために御心を知るのです。知ったと言いながら、従わないなら、それは人間の知恵で理解した、わかったと思っているにすぎない。喜んで御心に従うまでに、もっとキリストの十字架を分からせていただきましょう。
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2022年03月13日

3月13日礼拝「知恵よりも賢いもの」第一コリント1:18〜25(〜2:5)

3月13日礼拝「知恵よりも賢いもの」第一コリント1:18〜25(〜2:5)
パウロの書いた手紙は、前半で教理、つまりキリスト教の大切な教えについて書かれていて、後半でその教会にあった問題に関しての指導、言い換えれば倫理的な教え、となっていると言われます。ところがコリント人への手紙は、最初からコリント教会の諸問題について書かれています。しかしよく読みますと、パウロはただ単に彼らの問題を指摘して裁いているのではなくて、コリント教会の問題点を通して、間違った姿を示して、では正しい姿はどうなのか、ということを語って、実は救いの本質について教えている。先週、お話ししましたのは、コリント教会で分派があり、互いに争っていた。その原因の一つが彼らの高慢であり、特に知恵を誇る文化があります。古代ギリシャには哲学などの学問が発達していて、アテネが有名ですがコリントもそれに対抗するように、知恵を重視し、自分の知恵を誇るような傾向が教会の中にもあったのです。そこで今日の部分では、救いをもたらす本当の知恵とは何か、ということを語っているのです。
いつものように三つのポイントに分けて進めてまいります。第一に「神の愚かさによる救い」ということ。第二に「教会における神の知恵」、そして第三に「神の知恵を体験する」という順番で御言葉を取り次がせていただきます。
1.神の愚かさによる救い(18〜25節)
とても有名であり、重要な御言葉ですので、1章の18節を読ませていただきます。
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力なのです。
この十字架のことばとは何か、ということは先週も少し触れましたが、「ことば」という単語には大切な意味があります。パウロはユダヤ人としてヘブル語で律法を学んだ人ですが、ギリシャ語での教育も受けていて、いわばバイリンガルでした。ヘブル語では「ことば」を意味するダーバールという単語には、「ことば」という意味と「出来事」という意味があります。神様が「光あれ」と言葉を発したとき、その通り、光が存在するようになった、と創世記の最初に書かれていますが、神のことばは出来事となり、事実となる。ですから十字架のことばとは、十字架の出来事、つまりイエス様が十字架で死なれたこと、三日目に蘇られたこと、それらの出来事全体をさしています。ギリシャ語では「ロゴス」という名詞を「ことば」と訳します。ヨハネの福音書の冒頭に「初めにことばがあった」とありますが、これは初めにロゴスがあった。この場合のロゴスは、単なる言語としての「ことば」ではなくて、物事の本質というか原理というような意味で使っています。ですから十字架の「ことば」とは、十字架の出来事の本質、その意味を指している。
いきなり難しい話から入ってしまいましたが、どうしてイエス・キリストが十字架についたのでしょう。十字架とはローマ帝国での死刑の方法です。どうして十字架につけられたイエスが救い主なのか、復活なんてありえない、と考えて、救いが分からない人が多かった。でもパウロは、人間の知恵や議論では神様を知ることができないのであって、信仰によらなければ救われない、と教えるのです。22節。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にはつまづき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

ユダヤ人はイエス様に対して「しるし」、すなわち奇跡を要求しました。それは救い主なら奇跡を行ってローマ帝国からイスラエルを独立させて欲しかったからです。ですからイエス様が十字架につけられたら、もう救い主とは信じられない。躓いてしまったのです。ギリシヤ人は知恵を求めます。救い主が十字架につけられるなんて、愚かなことです。でもパウロは、この愚かとでもいうべき十字架こそが神の知恵だと語るのです。
私が中学生のころ、既にイエス様を救い主として信じ、洗礼も受けていたのですが、神の存在について考えていたころがあります。いえ、神様を素朴に信じていましたが、見えない神様ですから、本当におられるのか、どうしたら目に見えない神様の存在を証明できるだろうか。そんなことを考えていたころに、21節の言葉に出会った。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
これを読んだとき、人間は自分の知恵では神様を知ることができないし、それが神様の定めたことなのだ、と考え、納得してしまった。ですからそれ以上、神の存在について悩まなくなってしまったのですが、もう少し知恵があったら、存在とはどういうことか、と考えて哲学者を目指していたかもしれません。
確かに見えない神の存在も理解が難しい。十字架が救いの道であるなんて、最初は理解しがたい。でも、いつしか十字架は私の罪を赦すためだったということを信じ、救われるのです。宣教のことばの愚かさ、十字架、十字架と語る宣教のことばの前に、むしろ自分の罪を悔いて謙るとき、救われるのです。
こうして、この世に送られた救い主である御子を十字架につけさせるという神様の計画は愚かなように見えて、イエス様が十字架で死なれた時、弟子たちももう駄目だと諦めて逃げ出してしまった。でも、この十字架こそが人間の罪を贖うことができる、神様の知恵だったと聖書は教えているのです。
2.教会における神の知恵(26〜31節)
では、どうして十字架が神の知恵なのか、二つ目のポイントに入ります。26節でパウロは
26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありませんでした。
ここで「召し」とはクリスチャンとなるために召されたということで、コリント教会の人々がどのように救われたのか。パウロのコリント宣教のことが『使徒の働き』18章に書かれていますので、後でお読みください。パウロは一年半という彼の伝道旅行の中では比較的長い期間、コリントで伝道し、「この町には、わたしの民がたくさんいる」と神様がおっしゃった通りに多くの人が救われた。それがコリント教会の始まりでした。でも多くの人が救われたということは、その中には身分の低い者も多くいました。当時のローマ世界では奴隷の数が多く、身分の高い貴族などはごく一部の、ピラミッド型の社会でした。ですから町の多くは平民や奴隷階級で、教会でも身分の高い人は少なかった。そして奴隷は教育を受けることなどできませんから、知恵のある人も多くはなかった。それをパウロは、知恵がない、身分が低い、力がない人を神様が選んだのだと語るのです。29節。
29 これは、神の御前ではだれをも誇らせないためです。
もし知恵があるから救われるなら、自分の知恵を誇るでしょう。でも自分を誇るという高慢は罪です。ですから神様は無に等しい者をあえて選ばれたともパウロは語っています。神様に選ばれたモーセは失格者でした。ダビデは数にも入れられない味噌っかすでした。でも神様の恵みによって選ばれた。だから「誇る者は主を誇れ」と31節でも引用されているように、誇るべきは自分ではなく、神様なのです。
救われた者は、ではどんな存在なのか。30節。
30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
「キリストのうち」とは教会のことです。私たちはキリストのからだである教会の中で救われるのです。ここで教会と言っているのは、建物に限られない。私もイエス様を信じる祈りをささげたのは屋外です。でも、教会の人たちが祈っていてくださり、また教会学校の先生が祈りを導いてくれた。すべては教会の働きの中にあったのです。教会抜きに、自分の力だけで救われるのではないのです。キリストの中にいる私たちにとって、ではキリストはどんなお方か。「キリストは、私たちにとって、神の知恵」だと語っています。また義となり聖となり、贖いとなられた。それだけではなく、私たちにとってすべてとなってくださった。違う表現を用いるなら、キリストこそ教会のかしらです。もっとも大切な存在です。ですから私たちは誇るなら主を誇る。私の知恵なんかではない。神様の知恵であるキリストによって救われたんだ。こうしてイエス様を誇りとするとき、自分を誇る高慢の罪から解放され、お互いに自分を誇っていがみ合うという分裂から守られるのです。十字架のことばによって人間を救うという神様の計画は実に見事です。ここに神の知恵があらわされているのです。
3.神の知恵を体験する(2章1〜5節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。2章の1節。
1 さて兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。

ここでパウロはかつてのコリント伝道の時を思い起こしています。その時の彼は失意の底にいました。コリントに来る前、パウロはアテネで伝道していました。アテネと言ったら哲学や学問の中心地です。パウロも学問には自信があった。群衆を前に難しいことを語って、人々の耳を引き付けた。でも肝心のキリストのことを話し始めたとたん、知恵を求めるアテネの人々はパウロから離れていってしまった。パウロは自分の知恵に頼り、自分の教養でできると思っていたのが、失敗した。ですから失意のまま、コリントに来たのです。弱くなっていた彼は、アテネのように知恵を重んじるコリントの町でしたが、もう人間の知恵を用いるのではなく、ただキリストのことを証ししようと決めたのでした。ところが学問や教養ではなく、ただキリストのことを語ってときに、コリントで多くの人がキリストを信じて救われたのです。どうして、そんなことが起きたのか。4節。
4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
人間の知恵や力に頼って行き詰まったパウロは神様に信頼し、神様の言葉に従った。そのとき聖霊が豊かに働いてくださったのです。
知恵や知識を求めることが悪いのではありません。でも人間の知恵には限界があります。とことん知恵を求めて学んで壁にぶつかっても良いし、そうなる前に自分の力の足らなさを知って、そして神様に信頼するとき、神様の不思議な知恵が発揮され、人間の常識では無理だと思っていたことが可能となる、いいえ、誰よりも頑固で自己中心で罪深い自分のような者でさえ、神様は十字架によって救ってくださる。この神の知恵の素晴らしさを、パウロもコリント伝道で実感したように、私たちも自分の人生の中で、自分の知恵や力ではなく、神様の知恵と力によって救っていただくという、体験をするのです。自分の小さな知恵で、こうやったらこうなるんじゃないか、などと「捕らぬ狸の皮算用」をして失敗していたのが、神様に信頼して、御言葉に従っていくとき、自分では想像もしていなかった神様の最善の働きを、私も経験させていただけるのです。その時、私たちは心から神様の知恵をほめたたえるのです。
まとめ.
「知恵よりも賢いもの」と説教題をつけました。1章25節で
25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
神様が愚かであるはずがありません。でも人間は高慢ですから、まるで自分は神様よりも賢いかのように考えてしまい、神様を愚かに考えてしまう。なんで、こんなことが起きるのかわからないとき、自分の知恵では計り知れないほどの神の知恵、人間の常識では愚かに感じるとしても、実はどんな人間の知恵よりもはるかに賢い。この神様を私たちは信頼しているのです。
posted by ちよざき at 13:00| Comment(0) | 説教

2022年03月06日

3月6日礼拝説教「壊されない土台」第一コリント1章4〜10節(〜18節)

3月6日礼拝説教「壊されない土台」第一コリント1章4〜10節(〜18節)
今年の教会の標語は「キリストのからだを建て上げるため」です。キリストのからだとは教会のことであり、教会を建て上げるというのは建物のことではなく、教会があるべき姿として成長していくことです。ですから教会堂という建築物のことではないのですが、一つの譬えとして建物に関する表現を使って、「建て上げる」と語っているわけです。建物を建て上げるためには、まず土台が大事です。イエス様のたとえ話で、砂の上に建てた家と岩の家に建てた家、というのがあります。砂の家に建てた家は、大水になると簡単に流されてしまう。でも岩の上に建てた家は土台がしっかりとしているので、簡単には流されない。教会をしっかりと建て上げるためには、土台が確かなものでなければなりません。今日は「壊されない土台」と題して、キリストのからだを建て上げるための土台についてお話ししたいと思います。
いつものように三つのポイントで。第一に「恵みへの感謝」、第二に「土台を破壊するもの」、そして第三に「十字架のことば」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.恵みへの感謝
さて、先週から新約聖書に入り、しばらくのあいだコリント人への手紙を開いてまいります。先週はコリント人への手紙第一、簡単に省略して「第一コリント」と呼びますが、第一コリントの1章の1節から3節。これは手紙で言えば、差出人と受取人、そして挨拶文にあたる箇所でした。先ほど司会者に4節から読んでいただいきましたが、9節までは挨拶の続きのような箇所とも考えられます。コリント教会のことを誉めていて、本当に言いたいこと、それが10節から始まる本文だ、と理解することもできます。でも、手紙を送ったパウロという人は無駄に相手を誉めるようなことはしません。むしろ、コリント教会のことを誉めたいのが本心だと思うのです。いきなり「お前が悪い」と言われたら誰でも反発したくなりますが、「あなたはこんなに素晴らしい人なのに、どうしてこんなことをしてしまったのか」と言われると、心にグサッと突き刺さります。
コリント人への手紙を読みすすめますと、確かに問題が多い教会です。パウロの書いた他の手紙から、いろいろな教会の現状が見えてきますが、どこの教会にも大なり小なり、様々な問題があるのですが、コリントほど問題が多く指摘されている教会はない。でも、問題だらけのコリント教会ですが、良い点もあるのです。そして、そのことを、ただコリント教会を誉めるというのではなく、4節にこう書かれています。
4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。
パウロの書いた文章は長くて複雑なので、日本語に翻訳しても、一回読んだだけでは分からないで、何度も読んで初めて頭に入ってきますが、この節で、最後に「あなたがたのことをいつも神に感謝しています」。確かに問題は多いのですが、でも神様に感謝しているのです。なぜ感謝できるのか。それは、「キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに」。神様の恵みが与えられたから感謝なのです。キリストのからだである教会が建て上げられるのは、神様の恵みのゆえです。そして、神様が与えてくださった恵みを思うと、神様に感謝しないではいられない。この恵みへの感謝が教会の大切な土台です。
パウロがコリントの町に行って福音を宣べ伝え、そこに教会が誕生したときの様子は、『使徒の働き』に記録されていますので、機会がありましたら是非読んでいただきたいと思います。アテネでの伝道が成功とはいえない、残念な結果に終わって気落ちしていたパウロが、それでも長い時間をかけて伝道したのがコリントです。また失敗するのではないか、と恐れを感じていたパウロを神様は励ましてくださり、仲間や助けを備えてくださり、多くの異邦人が救われた。それがコリント教会です。ですから、神様の恵み無しにはコリント教会は生まれなかった。パウロはその恵みを思うたびに神様に感謝しているのです。
5節から少し読みます。
5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かなものとされたからです。
6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。

ここで、ことばや知識において豊かであること、すなわちコリントの人たちがキリストについて良く知っていたことを挙げています。また7節では「どんな賜物にも欠けるところがなく」と賜物の豊かさを挙げています。「賜物」ということについては、大切なことですし、わずかな時間でお話しすることは難しいので、またいつかお話しする予定です。今は、才能や能力のように理解していただいて良いかと思います。ですからコリント教会の人々は、知識においても能力においても豊かであった。それは素晴らしいことです。さらに7節後半では、熱心に待ち望んでいる。信仰の熱心さを挙げています。「主イエス・キリストの現れ」とは再臨のことですが、これも大きなテーマですから、違う機会にお話しします。コリント教会は知識や能力が豊かで、熱心な信仰を持っている。そして8節を簡単にまとめると、世の終わりに至るまで神様が彼らを守っていてくださる、とパウロは語っています。こうして神の恵みを数え上げていくと、そこに感謝が生まれます。パウロはこう証しすることで、コリント教会の人たちにも神の恵みを感謝して欲しい。これが教会の大事な土台なのです。
神様の恵みを恵みとして受け止め、それを感謝する。感謝が無ければ、やがて不平不満となり、教会は崩れていきます。私たちも、もう一度、キリストを通して与えられた神の恵みを今まで以上に深く知って、恵みへの感謝を忘れず、この神様への信頼を堅くするなら、どんな困難が襲ってきても、揺るがされることはないのです。
2.土台を破壊するもの
二つ目のポイントに移ります。9節、10節。
9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
10 さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

9節も大切なことを言っています。私たちはキリストとの交わりに入れられた。キリストのからだの一員として受け入れていただいた。そしてキリストとの交わり、キリストのからだである教会での交わり、からだの他の部分である兄弟姉妹との交わりに入れていただいたのです。だから、その交わりから離れてはいけない。10節で、キリストの御名によってお願いする、とわざわざ言っているのは、それが大変に大切なことだからです。パウロがお願いしているのは、彼らが一致することです。というのは、実際は一致していなかったということです。
コリント教会には多くの問題があった、と最初にお話ししましたが、その問題のまず1番、それが分裂分派、ということでした。11節以降に具体的な状況が記されていますが、固有名詞は当事者でないと分からない名前もあります。一か所だけ、12節。
12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
コリント教会の中にいくつものグループがあって、それがいがみ合っている。創立者であるパウロにつく人たちがいます。アポロは有力な巡回伝道者です。ケパは使徒ペテロのことです。そしてキリストさえ、一つのグループの「みこし」となってしまっています。決してパウロもペテロも教会を分裂させたいなどとは思ってもいない。コリント教会の人たちが勝手に彼らの名前を使って争っているのです。
分裂の原因はパウロやペテロにあるのではありません。人々の中にある自己中心や高慢といった罪が原因です。自分たちが一番正しい、自分は他のものよりも偉い。そんな思いがあるときに、些細なことで分裂が起きます。そして、キリストとの交わりによる一致は壊されてしまうのです。争い合っているなら、そこには恵みへの感謝は忘れ去られています。かしらであるキリストを見上げて、キリストの御心を中心として一致することができない。一体性が失われるなら、その教会は土台がガタガタになり、やがて倒れてしまいます。建て上げるどころではなくなるのです。
13節の後半から「バプテスマ」という単語が何度も出てきます。バプテスマとは洗礼のことです。パウロがこのことを話しているのは、そのような問題があったからです。すなわち、パウロから洗礼を受けた人たちがそれを自慢して、自分たちこそ教会の中心メンバーだ、と主張したのでしょう。だからパウロは、実際はパウロが洗礼を授けたのはごく一部だと証言している。15節。
15 それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。
洗礼はパウロの名前によって受けるのではなく、神の名によって授けられるものです。権威は人間ではなく、神の権威による救いであり洗礼なのです。17節は誤解されやすいかもしれません。
17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
これは、バプテスマは大切ではないと言っているのでは決してありません。イエス様の宣教命令と言われる、マタイの福音書の最後の聖句では、「バプテスマを授けよ」とはっきりと命令しています。パウロが言いたいのは、福音の大切さです。すなわち、十字架によって罪が赦されて救われる、というキリスト教の中心です。この救いを明らかに証しするためにバプテスマを受けるのであり、福音抜きにバプテスマを授けても意味がないし、キリストの十字架が空しくなってしまうのです。この福音のことを最後にお話ししたいと思います。
3.十字架のことば
有名な御言葉ですが、18節を読みます。
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
ここで「十字架のことば」と言っているのは、イエス様が十字架上で語られた七つの言葉がありますが、そのことではなく、それも含んでいますが、十字架の出来事全体です。四つの福音書にそれぞれの立場から物語られている。この十字架の話全体を「十字架のことば」、いいえ、その十字架がどのような意味を持っているのかは、聖書全体に、あちこちで語られているメッセージでもあります。
キリストの十字架によって救われるという神様の恵み、これこそが教会の土台です。コリント教会にたくさんの恵みが与えられていたことは、最初にお話ししましたが、たとえ自分たちは恵みが少ないなと思っているとしても、最大の恵みである十字架の救いは誰に対しても与えられるものです。他に何も無くても、十字架の救いの恵みがあるなら、そしてその恵みに感謝しているなら、私たちの信仰も、そして教会も揺るがされることはないのです。これこそが「壊されない土台」です。どうか、お一人お一人が、救っていただいた恵みを忘れずに、いつも十字架を感謝するものとして歩んでいただきたいと願います。
まとめ.
今年は「キリストのからだを建て上げるため」という標語を掲げました。それにはまず、今一度、救いの恵みを確認して、救ってくださったキリストに従う思いを新たにしましょう。この土台がしっかりとしているなら、あとは神様が成長を助けていてくださるのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教