2022年10月16日

10月16日礼拝「次に来るときに」第二コリント12:14〜15(12章)

10月16日礼拝「次に来るときに」第二コリント12:14〜15(12章)
コリント人への手紙からの説教も、今日と次回で終わりです。パウロの手紙はどれも難しいし、コリント人への手紙はややこしい。全部で四回は書かれた手紙のうち、二つが聖書の中に残され、他の二つの手紙は見つからないのですが、それでもパウロのしていたことが伝わってくると、どれだけコリント教会のためにパウロが心を費やしていたか。私は以前、グレース会の方たちにコリント書からお話ししたことがありましたが、その時もパウロの牧会者としての配慮と愛を感じましたが、今回はさらにパウロの思いに触れることができた気がします。いいえ、パウロ以上にキリストがコリント教会を愛し、そして、今、私たちをも愛していてくださることを皆様にも感じていただけたら感謝です。
さて、14節でパウロが
14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。
と語っているように、手紙を受け取ったコリント教会の人たちに会うために、今度はパウロ自身が彼らを訪問するときが来ます。再会できることは喜びですが、心配でもあります。前の手紙を運んだテトスの報告では、コリント教会は最悪の状態を脱して、良くなってきていると聞きましたが、それから数ヶ月が経って、再びパウロへの反対者たちが活発になって、今度会ってみたら、前以上に悪くなってはいないか。そんな心配もあります。
牧師は教会がどうなっていくのかを心配します。でも、何かの問題が解決しても、また違う問題も起きるでしょう。一番大切なのは、中心がぶれないで正しく成長することです。例えるなら、子どもは怪我をしたり病気になります。でも成長して体力がついていけば、やがては元気な身体になっていくでしょう。教会にとって、また教会に連なっている一人一人にとって何が大切なのか。それがパウロの手紙の要なのです。
パウロが次に来るときまでにコリント教会の人たちに対して彼が願っていること。それを三つのポイントに分けてお話ししたいと思います。第一に「弱さが誇り」ということ。第二に「犠牲の愛」、そして第三に「築き上げるため」という順序で進めてまいります。
1.弱さが誇り(1〜10節)
1節から少しずつ読んでまいります。
1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
これは前の章で語られたことの続きでもありますが、パウロがあることを誇っています。前の章では自慢話をするのは愚かであるが、と前置きしつつ、パウロ自身のことを証ししています。それは大切なことを教えている証しですが、それを聞いた人の中には、そんな証しはたいしたことない、と蔑む人もいるでしょう。
教会で証しが語られるとき、それはキリストを証ししないで自分の自慢となるなら問題ですが、その人がキリストによって救われたことを語る時、例え、それがパッとしない話であったとしても、決して価値が低いのではありません。私は牧師家庭で生まれ、ずっと教会で育っていたので、クリスチャンになるのも特に劇的な体験があった訳ではありません。他の人の証しを聞くと、ドラマチックで、自分はそれと比べると地味な証しだと恥ずかしく思っていました。でも、それが私に神様が与えてくださった恵みですから、決して無価値だと思う必要は無いと教えられました。
コリント教会の中には奇跡的な体験をした人がいて、その人は自分の証しこそが最高だと自慢していたのでしょう。そこでパウロは今まで言わなかったけれども、一つの体験を語ります。2節。
2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。
3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──
4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

パウロは、まるで自分以外の誰かであるかのように語っていますが、明らかにこれはパウロの体験です。でも、それを自慢したくはないので、わざと「この人」と言っています。彼は第三の天と呼ばれる、人間には近寄ることが許されていない場所にまで引き上げられて、他の人に伝えてはならない特別な言葉を聞いた。まるで幻のような体験でした。これこそ、コリント教会で自分を誇っている人には適いっこない証しです。でもパウロは、自分を誇りたくはないし、証しを人と比べるつもりでもない。パウロは、この幻のような体験よりも、その後の体験を伝えたいのです。7節。
7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
パウロに神様が与えられた肉体のとげが何であるかは書かれていません。おそらく目の病気のことだったと言われます。それが無ければ、もっと宣教の働きができるのに、とパウロは三度祈った。三回だけ、ではありません。おそらく何日も断食して祈るような真剣な祈りを三度した。でも「とげ」は取り除かれない。代わりに主が語ってくださったのです。9節。
9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

「わが恵み、汝に足れり」、とキリストが語ってくださったのです。そして、パウロの弱さこそ、キリストが力を発揮してくださる機会です。自分の力に頼るなら、それは自分の力以上のことはできない。でも弱いからこそ、主に頼り、主が働いてくださるなら、自分の力以上のことが成される。だからパウロは弱さを誇ると言いました。
この世の基準は、強さを誇ります。弱肉強食の世界では弱さは恥です。でもクリスチャンは自分を誇る高慢の罪から救われ、自分ではなくキリストを誇る。だから弱さでさえ神がくださった恵みであり、誇りなのです。パウロが願ったのは、コリント教会の人たちの持っていた間違った誇り、この世の誇りが変えられて、キリストを誇り、自分の弱ささえも感謝するものとなって欲しいのです。私たちは何を誇りとしているでしょうか。私にとって一番価値があるのは何でしょうか。この世の基準ではなく、神の国と神の義が第一だと証しする者となりましょう。
2.犠牲の愛(11〜18節)
二つ目のことに移ります。13節を読みます。
13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。
パウロは「不正」という言葉を使っていますが、もちろんパウロが不正なことをしたのではありません。パウロはコリント教会には経済的な負担をかけずに伝道しました。他の町で宣教したときは、その町にできた教会がパウロたちの働きをサポートしました。それは彼らが捧げることにおいて信仰が成長するためでした。中には貧しい教会もありましたが、その教会も喜んで自分のできることをしてキリストの働きを支えました。ところがパウロはコリント教会においては、自分のお金を使って生活しながら伝道したのです。これはパウロも特例だと認めています。原則は教会が宣教者を支えるのだとパウロは、例えば第一コリント9章などで教えています。負担をかけなかったのは不公平かもしれない、だから不正を赦して欲しいと語っていますが、それはコリント教会の人に迷惑をかけたのではありません。迷惑をかけなかったと詫びている。なぜでしょうか。
以前もこのことについて話したことがありますので、今日はそれには触れず、15節を読みます。
15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。
パウロはコリント教会のためなら、自分自身を使い尽くすと言いました。それがパウロの愛だからです。いいえ、パウロを愛し、教会を愛してくださったキリストの愛。それは自己犠牲の愛です。イエス様は私たちを救うためにご自分の命さえも差し出してくださった。この愛によって救われた私たちは、イエス様と同じ事はできなくても、少しでもキリストのため、また兄弟姉妹のために犠牲を払うことを厭わないのです。
パウロが願っているのは、自分の愛を知って欲しいからではなく、パウロの姿を通して、もう一度キリストの愛に気がついて欲しいからです。私たちは愛に関しても、この世の愛を基準としてしまいます。この世の愛は、自己中心で、自分の気に入った者、自分にとって益となる者だけを愛します。また、この世の愛は自己満足や高慢で、相手のことを本当に思うのでは無く、自分の思ったことをして満足し、「これだけしてやっているのに」と思い上がります。だから愛しているはずが、反感を受けたり、相手をダメにしてしまいます。私たちの愛がキリストの愛により変えられるとき、神を愛し、隣人を愛することが、あるべき愛による働きとなっていくのです。
でも、何て自分は愛が足らないのだと、思い知らされます。そのとき、こんな自分でさえも愛してくださったキリストの愛が私に注がれている事を知らされ、自分ではなく、聖霊が内側から変えてくださり、キリストの愛に生きるように導いてくださるのです。
3.築き上げるため(19〜21節)
三つ目のポイントに移ります。パウロは何度も手紙を書き、これまで二回、訪問をし、これから三回目です。どれだけのことを彼らに語ってきたでしょう。書いてきたでしょう。それは何のためにしてきたのでしょうか。19節。
19 あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。
パウロは自分を弁護したり推薦しているのではありません。自分のことを書きながら、それを聞いたコリント教会の人たちがキリストによって変えられ、キリストの姿へと近づけられ、教会がキリストのからだとして正しいすがたになっていくこと。それがパウロの願いです。「すべては、あなたがたを築き上げるため」と語っています。
今年の池の上教会の標語は「キリストのからだを建て上げるため」です。教会のことであり、そのキリストのからだの部分部分であるお一人お一人のことです。コリント教会は問題の多い教会だと紹介しました。具体的には多くの罪があった。でも、罪は悔い改めたら赦していただけます。パウロが手紙を書いたのは、彼らが悔い改めるためです。もし悔い改めないままでいるなら、ついには神の裁きを受けることになるということをパウロは心配していました。二つの手紙を通して示されてきた様々な罪。それは私たちには無関係だ、ということはありません。形は違っても、同じ罪が私たちの中にもあるでしょう。でも、十字架によってその罪からきよめられ、そしてキリストの似姿に変えられて行く。これが福音の恵みです。
パウロが言いたいことを他の手紙で一言で語っているのが、有名な御言葉です。
ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
「キリストの形なるまで」とは、山根先生の自叙伝の題名でもあります。池の上教会に連なるお一人お一人も、キリストのかたちがその人の内に形造られ、教会がキリストのからだとしてのあるべき姿となること。そのためにパウロが祈っていたように、山根先生、恵代先生をはじめ、多くの牧師たちが祈り、御言葉を伝えてきました。いいえ、牧師だけが祈るのではなく、犠牲を払うのではなく、それをキリストのからだの一員である私たちみんなが共に担っていくなら、どれほどの祝福があるでしょうか。
まとめ.
パウロは三回目の訪問を前にこの手紙を書き、彼らが信仰の備えをするように願っています。そして、パウロを遣わされたキリストは、再び地上においでになります。それが再臨です。その日まで私たちは何を目指して生きるのか。教会はどこにむかって前進するのか。聖書はそれを私たちに教えています。私たちも「キリストの形なるまで」、共にキリストのからだを建て上げてまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2022年10月09日

10月9日礼拝「愚かな自慢話」第二コリント11:27〜30(11章)

10月9日礼拝「愚かな自慢話」第二コリント11:27〜30(11章)
自慢話というのは、誰でもしてしまうことはありますが、あまり自慢ばかりしてしまいますと、聞いている人からは嫌がられます。それでも自慢したがる人は愚かに思われます。でも人間と言うのは自分を良く見せたがる部分があります。人から良い評価を受けたいものです。ですから自慢話は知らず知らずにしてしまうのです。自分のこと、自分の家族のこと、自分の学校や会社など、自分が所属している集団を自慢する。自分のしてきた成功体験を繰り返して語りたくなる。人がそれをしているとすぐ分かりますが、自分がしているのが自慢だと気が付かずにしていることもあります。
さてクリスチャンは証しをします。そのときに気を付けるのは自慢話にならないことです。自分を良く見せるため、自分の失敗や弱さを隠したくなります。でも、証しとは自分ではなく、自分を救ってくださったお方を証言することです。自分の弱さ、失敗、そして罪。その中からキリストが救い出してくださった。ですから素晴らしいのは自分ではなく、キリストが素晴らしいお方。神様こそ褒めたたえられるべきお方。それがクリスチャンの証しです。
今日、開かれております第二コリント11章は、パウロが自慢話をしています。なんでパウロともあろう人が自慢なんか、と思うかもしれませんが、理由があります。そして、パウロが本当に語りたかったことを読み取りたいと思います。いつものように三つのポイントで。第一に「パウロの心配」、第二に「パウロの誇り」、そして第三に「パウロの救い」ということをお話ししてまいります。
1.パウロの心配(1〜15節)
1節に目を向けます。
1 私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。
そして少し先ですが16節。
16 くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。
17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。

パウロは愚かだと思われるかもしれないと分かっていながら、わざと自慢話をしようとしている。なぜでしょうか。18節。
18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
19 あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。

どうも、先に自慢話をしている人たちがいるようです。そして、そんな自慢話をよく我慢して聞いているな、と半分呆れているみたいです。それでもパウロが自慢をするのは、彼らの自慢話が悪い影響を引き起こしているからです。もどりまして2節。
2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

これは当時の文化ですが、娘を嫁がせる父親になぞらえて、教会を花嫁と呼んでいます。教会をキリストの花嫁や妻に例えるのは、聖書の中に度々出てきます。賛美歌にもあります。これは一人一人が花嫁になるのではなく、教会全体が一つの存在として花嫁と言われる。パウロはコリント教会がキリストの花嫁に相応しい純粋な存在となることを願っているのに、それを汚そうとしているのが悪魔です。具体的には、パウロの反対者たちが自分を自慢して、逆にパウロのことをけなし、その結果、コリント教会のある人たちは、パウロの語ることに耳を傾けなくなり、間違った教えがはびこるようになる。彼らは愚かな自慢話にすっかりと騙されている。だからパウロは自分の敢えて自慢話をして彼らの目を覚まさせようとしているのです。4節で、
4 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。
と語っているのは、「みごとにこらえている」と言っていますが、実際には騙され始めているのです。どんな自慢話に騙されているか。いくつか、ここにほのめかされています。5節。
5 私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。
ここに「大使徒」と語っているのはワザとで、敵対者はパウロをけなすために、十二使徒こそ大使徒であって、パウロは大したことないと言うのです。自分たちは大使徒である、あの十二使徒の一人、おそらくペテロでしょうか、使徒ペテロから洗礼を受けたんだと自慢していたのでしょう。また6節最初には
6 たとい、話は巧みでないにしても、
パウロは少し話下手だったようですが、ある伝道者、恐らくアポロの事でしょうが、大変に言葉巧みだった。私はアポロ先生の説教に感銘を受けてクリスチャンになったんだ。そして7節。
7 それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪だったのでしょうか。
8 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。

パウロはコリント教会からは報酬を受けずに、他の教会からの援助で生活をしながら、時には自分の手で仕事をして生活費を稼いでいた。そのことを非難する人がいたのです。実際、世の中では給料をどれだけ受け取っているかがステータスとなることがあります。そして高給取りであることがその人の能力が高いと評価される。ですからパウロよりもたくさんのお金を要求する人が偉い、パウロは自分にやましいところがあるからお金お受け取らないんだ、と悪口を言うのです。パウロはコリントの町の人がお金に執着しているのを見て、あえて彼らからはお金を受け取らない。それは、救いは無代価で与えられるということを分かって欲しかったからです。
私たちも知らず知らずのうちにこの世の考え方に影響されて、実は御心とは異なる評価、間違った判断をしてしまうことがあります。有名な人、力のある人、自分に利益をもたらす人が価値があると、その人を誇り、その人に関係している自分を誇る。でもパウロは10章17節で
10;17 誇る者は、主を誇りなさい。
本当に誇るべきは主イエス・キリストだけなのです。
2.パウロの誇り(16〜30節)
二つ目のポイントに移ります。パウロはここまで分かっていながら、あえて、自慢をしようとしています。その自慢を見てみましょう。22節。
22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
へブル人とは、簡単に言えば、ヘブル語を話すユダヤ人で、ギリシャ語を話すがヘブル語は話せないユダヤ人を見下していたことが使徒の働きにも出てきますが、パウロも異邦人にはギリシャ語で語っていますが、当然、ヘブル語で話す、そしてヘブル語の旧約聖書に精通していました。また彼らはイスラエル人、栄光ある民族だと誇り、アブラハムの子孫として神様の祝福の約束を受けていることを自慢していた。でも、パウロもイスラエル人であり、アブラハムの子孫です。ただ、それを自慢して異邦人を見下すことをしなかっただけです。そんな見かけ上の血統よりも、もっと大事なのはキリストによって救われたことです。23節。
23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
コリント教会の派閥のなかには「キリスト派」があったと第一コリントの1章に書かれていますが、確かにクリスチャンは本来は誰もがキリストの弟子です。でもそれを自慢して他者を見下す人がいたので、パウロは、それならば自分もキリストのしもべだ。しかし、キリストのしもべとは偉ぶることではなく、キリストが迫害されたように僕も迫害を受ける。それがしもべの証しだというのです。ここからパウロの苦しみ自慢が始まります。犯罪を犯したのではないのに牢獄に入れられ、鞭で打たれた。石打ちの刑に遭ったこともある。船が難破し、盗賊に襲われ、同胞であるユダヤ人からも、また異邦人であるローマ帝国の役人からも苦しめられ、飢えて、寒さに凍えてきた。もし苦労話が大切なら、パウロほど自分の苦労を語ることが出来る人はいないでしょう。28節。
28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

コリント教会だけでなく、各地の教会から知らせが入るたびに、他の人たちのために心を痛め、神様にとりなしの祈りをし、また手紙を書いて彼らを戒め、励まし、導くために、いつも弱い人や躓きそうになっている人のことを考えていた。そこには堂々とした力強い伝道者ではなく、心を痛める弱さが語られている。30節。
30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
この世は、弱肉強食の世界です。自分の弱さを語ると、その弱点を攻撃され、弱い存在を蔑み、批判されます。でもイエス様は、十字架上で弱さをさらけ出して、私たちを罪から、自分を誇る高慢な罪から救ってくださったのです。自分を誇るときはキリストから離れています。自分の弱さを認めるとき、キリストはそばにいてくださり、私たちはキリストの似姿、キリストのかたちに似ていく。ですから、クリスチャンは弱さを誇りとし、キリストをほめたたえるのです。
3.パウロの救い(30〜33節)
三つ目のことを話して終わりたいと思います。11章のまとめとしてパウロは一つのエピソードを語ります。32節。
32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。
33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。

最初、ここを読むとき、何か違和感を覚える人もいるでしょう。どうしてパウロはこんなエピソードを語るのか。苦しみ自慢の続きとして語るには、もっと大変な困難を取り上げたら良いのに、と思います。でも、それも私たちの陥りやすいことかもしれません。こんな大変な経験をしたんだと誇る。それは、その苦難を耐えることが出来た強さを誇りたくなるのです。でも、弱さのある自分だからこそ、神様の助けが必要なのです。「丈夫な人には医者はいらない、いるのは病人である」とイエス様も教えられたとおりです。
パウロが最後に取り上げたのは、小さな体験ですが、彼がクリスチャンとなって最初のころに受けた迫害です。ダマスコ途上でイエス様と出会って、彼は変わった。それまでは迫害者だったのが、宣教者になった。ダマスコの町でさっそくキリストを証ししようとして、捕まえられそうになった。そのとき、仲間たちがパウロをかごに入れえて城壁からつり下ろして逃がしてくれた。かごに入れられてつり下ろされるとき、パウロは何を考えたでしょうか。自分の無力さです。ぶら下げられて何もできない。ただ助けてもらっただけ。自分の力なんてない。でも、それが救いなのだとパウロは痛感したのです。自分の力ではなく、ただ神の恵みによって救われた。この体験がパウロのクリスチャン生涯、伝道者生涯の土台となったのです。
私たちの人生の土台は何でしょうか。自分の力、自分の成功体験でしょうか。それはいつか崩れ去るときが来ます。人生の最後には消えてなくなるものです。でも、神の恵みに生きる人は、死ぬときにも神の恵みの御手に自分を委ねて平安です。天国に入るのは自分の功績によるのではなく、神の恵みです。パウロは自慢話をしたかったのではなく、誇る者は主を誇り、弱さを誇り、恵みによって生きることを伝えたかったのです。
私たちは何を誇り、何によって生きているでしょうか。
まとめ.
イエス様のご生涯をたどるなら、いつも弱い人に目を向けておられたことを思い出します。ですから、もし私たちが自分の弱さに気が付くなら、その時、キリストが私に心を配っていてくださる。自分の力や功績を誇り、誰かの力に頼るとき、それはキリストのしもべのあり方からずれてしまっています。私たちは何を誇り、何を証しするか。ただ主をあがめ、主を誇る者とならせていただきましょう。
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2022年10月02日

10月2日礼拝「厳しい言葉の理由」第二コリント10:15〜17(10章)

10月2日礼拝「厳しい言葉の理由」第二コリント10:15〜17(10章)
今、礼拝では『コリント人への第二の手紙』という一つの書を一章ずつ解き明かしてメッセージを取り次がせていただいております。このような説教の仕方を、連続講解説教と言います。聖書はどの箇所からお話ししても素晴らしい恵みがそこにあるのですが、連続してお話しすることで、一箇所を読んだだけですと感じることができないこと、その書全体を通して語られている神様からのメッセージに触れることができるという良い点があります。欠点としては、同じ書からのメッセージが続くので、飽きてしまうかもしれない、ということがあります。一つ前の『コリント人への第一の手紙』から続けて、皆様にもご忍耐をいただいて続けてまいりましたが、いよいよ終盤に入ってまいりました。終盤というのは、9章までと少し変わった書き方となってきて、最後の13章までつながっていきます。どう変わったかと言いますと、口調が厳しくなってきている、と感じます。ここまでは、混乱した教会の人たちが苦しんでいた。でも、彼らは自分の罪を悔い改めた。その辛い、悲しい思いにいる人たちへの慰めの言葉が多かったのですが、この10章からは厳しい言葉で彼らの罪を叱っている。でも、厳しい言葉を使っているのには理由があります。決して、感情的になって叱りつけているのではなく、厳しい言葉でなければ伝えられないメッセージがあるのです。
いつものように三つのポイントで。第一に「神の裁きの力」、第二に「御言葉の力」、そして最後に「力の主を誇る」という順序で進めてまいります。
1.神の裁きの力(1〜6節)
さて、口調が変わったと言われている、10章の1節から少し読ませていただきます。
1 さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。
2 しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。

1節でパウロが自分のことを語って、「私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です」と言っています。自分のことをそんな風に言うだろうか。実は、これはパウロと言うより、パウロに反対する批判者たちがパウロの悪口を言っているのを、パウロはちゃんと知っていた。彼らは、パウロという奴は、手紙では強気なことを書いているけど、面と向かって話すときは弱々しい、とパウロをけなしている。同じことが、10節にも出てきます。
10 彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」
手紙は強気な書き方だが、話しぶりはなっていない。当時の説教者の中にはギリシャの学問の一つである弁論術に長けていて、見事な話し方で語る人もいた。それと比べるとパウロの説教は素人の話し方だ、とでも言っているのでしょう。確かにパウロの手紙は時には厳しい言葉と内容ですが、でも時には慰めと愛に満ちた配慮を観ることができる。ですから話すときも、相手を見て、優しく話すこともあれば、相手が厳しい言葉でも受け止めてくれる信仰があると、相手を信頼して厳しいメッセージを語ることもある。批判者は、表面的な語り方だけを見て、悪口を言っているのです。そこでパウロはコリント教会の多くの人、特に自分たちの罪を認めて、涙ながらに悔い改めた人たちには慰めのメッセージを語ったあとで、今度は批判者たちに対しては、彼らは真剣にメッセージを聞こうとしないので、ここでは厳しい口調で語って、彼らにも悔い改めを迫っているのです。
パウロは言います。彼は、批判者たちに対しては勇敢に振る舞うことができる。もっとはっきりと言うなら、5節。
5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

パウロの背後には、パウロを異邦人宣教に遣わされた神様の権威が控えている。ですから、パウロは行って、彼らを罰することもできる。でも、直接に行って彼らを裁くのではなく、その前に、どうにか彼らには自分の罪に気がついてもらい、悔い改めの心となってから会いたい。ここにパウロの、反対者たちに対してさえ持っている愛があるのです。パウロは批判者たちも、救いの恵みに与って欲しいのです。だから、聞く耳を持たない批判者たちには厳しい言い方で語りかけて、神の言葉に耳を傾けて欲しいのです。
神様は私たちを滅ぼそうとしておられるのではなく、救おうと考えておられる。しかし、そのためには、まず罪を悔い改めることが必要です。そのために、厳しく語られることが聖書にはある。厳しい言葉には理由があるのです。ある人がこうおっしゃいました。「あなたは、神様に叱られたことがありますか」。御言葉によって聖霊が叱ってくださるのは、私たちを救いたいからです。小さな子どもには優しく語ることも必要です。まずは愛の言葉をたくさん受けて、神様との信頼関係、つまり信仰を育むことが必要です。でも、大きく成長するにつれて、叱られることもある。それを受け止めるように成長した証拠です。キリスト教の中には厳しい面があります。聖書は、特に旧約聖書は厳しい言葉がある。でも、それは私たちを救いに導こうとしておられる神様が背後におられるのですから、私たちは厳しい言葉を拒んでしまうなら、いつになっても成長が進まない。耳障りの良い話や、自分にとって益となる話ばかりを求めるのではなく、時には神様の前に真剣に進み出て、厳しくもある神の愛を知らせていただきたいと思います。そして、その御言葉に応答して、もし悔い改めるべき事があれば、それを受け止める。神様は私たちに御言葉へと応答を決断するように語っておられるのです。
2.御言葉の力(7〜11節)
パウロの厳しい言葉の背後には、神様の厳しさがあり、またパウロの恵みのメッセージは、神様の愛の現れです。この神様は、語られた言葉が事実となるお方です。「光あれ」と言われると、光が存在するようになった、と書かれている通りです。預言された通りに救い主が来られた。ですから、神様の言葉を伝えるパウロも、手紙で書いたことをその通り実行しようとします。10節と11節。
10 彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」
11 そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。

ここだけを読みますと、パウロは厳しいことを語ったら、厳しい行いをするのか、とパウロのことを怖い人のように感じます。でも、パウロの本心は、8節にあります。
8 あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、
ここでパウロは、自分には神様からの権威が授けられているが、それは、批判者たちを倒すために用いるのではなく、建てるためだ、と言うのです。聖書の中に、愛に満ちた言葉もあれば、罪に気がつかせるために厳しい言葉もあるのは、教会を、私たちを建て上げるためです。キリストのからだと呼ばれる教会が建てあげられるには、優しい言葉ばかりではなく、厳しい言葉も必要です。パウロの権威は、救いに導くためであり、罪に対しては罰を与えることを警告するためにもあります。それは矛盾しているのではなくて、教会がバランスの取れた健全なからだとなるため、また私たちの信仰も正しい姿に成長するためです。
パウロに権威を授けた神様は、私たちにも聖書を通して語り掛け、その御言葉にどのように応答するかは私たちに委ねられています。御言葉を聞いても受け入れず、神様に背を向け続けるなら、やがて御言葉が警告している通りに裁かれる。でも、厳しい御言葉でも、それを語ってくださる神様を信頼して、受け入れるなら、救いに導かれ建て上げられていくのです。自分でそうならなければならない、ということではなく、御言葉に、その力があるのです。
3.力の主を誇る(12〜18節)
三つの目のポイントに移ります。
パウロを批判する人たちのことは、第一の手紙の時にもお話ししましたが、コリント教会には分派分裂という問題がありました。具体的には、パウロ派、ペテロ派、アポロ派といったように、指導者たちの誰につくかで争っていたのです。パウロはコリント教会を開拓した人ですから、パウロ派があるのは不思議ではありませんが、それ以外の人たちはパウロの権威に反対するために、彼を批判し、悪口を言っていた。この10章からは、そのような人たちに対して書かれている面もあります。
反対者たちは、パウロと他の誰かを比較して、パウロの足らない点を攻撃します。アポロは雄弁な説教家でしたので、パウロの説教が洗練されていないと文句を言う人がいた。またペテロは十二使徒のリーダーであり、キリストから直接に権威を授かったので、パウロには権威は無い、と批判があった。そして、そのような悪口に振り回されて、パウロの言葉を聞かなくなる人も出てくる。ですから、パウロは、時には厳しい言葉も使って、彼らの誤解を解き、もう一度、福音の前に立ち返るように語ったのが、この手紙なのです。
パウロ自身は自分を他の誰かと比較して、自分の方が偉い、と言うのではありません。12節。
12 私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。
13 私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。

反対者たちは、パウロが自分の分を超えて、他の人が宣教した教会を自分のものとしようとしている、と言いがかりをつけます。でも、コリントに伝道したのはパウロが先で、その後にアポロが来たのですが、そもそもキリスト教の宣教が始まったのはエルサレムからだから、世界中の教会は十二使徒であるペテロの働きだ、と屁理屈を言う人もいたのでしょう。でも、それはパウロが言うように、知恵のないこと、神様から見るなら愚かであり、パウロは、誰が福音を伝えても、結果として多くの人が救われたら、それで良いじゃないか、という人です。
人間は高慢な部分があって、何かを誇りたい。自分を誇るか、自分に関係する人を誇って、さも自分も偉くなったかのような顔をする。パウロは言います。17節。
17 誇る者は、主を誇りなさい。
誰が福音を伝えようと、誰の働きが大きいとしても、その人を救ってくださったのはキリストです。主が十字架について私たちを救ってくださった。ですから、本当に栄光を受けるべきお方はキリストです。教会は、キリストのからだと呼ばれ、その「かしら」、これは「頭」という字を使いますが、教会のからだにとって頭である「かしら」とはキリストです。教会がキリストの手となり足となって多くの働きを成し遂げても、それはキリストがしてくださったことだと受け止めて、主を誇る。それがキリストに従う者のあり方です。
証しということを時々お話しますが、自分の信仰体験を他の人たちに伝えて、神様からいただいた恵みのお裾分けをするのですが、その時に大切なのは、自慢話にならないように、という事です。自慢は、自分を誇ります。証しは、キリストを誇り、救ってくださったお方に感謝と栄光をお返しすることです。証しに限りません。私たちがする奉仕もキリストのためです。礼拝も、自分のためではなく、キリストの栄光をお返しするのです。私たちの信仰生活が自分のためにならないように気をつけましょう。もちろん、主に礼拝をお捧げした結果、私たちの心に平安が与えられ、力に満たされる。それは神様からの恵みであって、まず私たちは主のために礼拝を捧げるのです。
救い主イエス・キリストこそ、私たちを裁く権威を持っておられる教会のかしらです。また私たちを罪から救い、聖め、天国まで導いてくださるお方です。またキリストこそ、私たちの力を与えてくださるお方です。そして、私も主のものです。この信仰に至るために、自分を誇り、自分のために生きる罪を示されて、悔い改める必要がある。ですから聖書は厳しい言葉も優しい言葉もあって、私たちに語り掛けているのです。
まとめ.
聖書を読んでいて、あるいは説教を聞いていて、厳しい言葉が心に迫ることがあります。それはあまり嬉しくはないかもしれない。自分の罪深さを知って、気落ちするでしょう。でも、自分が弱いからこそ、キリストの恵みが私たちを救うのです。イエス様は、私たちの救い主、私たちの主なのです。このお方を信じて、御声に耳を傾けてまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教