2022年05月08日

5月8日礼拝説教「あなたは奴隷ですか?」1コリント7:17〜24(7章)

5月8日「あなたは奴隷ですか?」1コリント7:17〜24(7章)
先ほど読んでいただきました第一コリントの7章ですが、内容としては主に結婚について書かれているようです。ただ、初めて読む人は戸惑うかもしれません。例えば8節にはこう書かれています。
8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。
9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。

パウロは独身であったと言われますが、この章では結婚をしても良いが、しない方がもっと良いとは、罪を犯すよりは結婚するほうがましだ、という感じで、この章が結婚に関する教え、あるいは決まりだとすると、結婚に関して否定的な考えになります。でも、聖書のほかの箇所を読むと、結婚が大切なことであり、神の祝福であることも分かります。一体、どう考えたら良いのか。さらに、7章では、ある部分では、パウロはこれは自分の個人的意見だ、違う部分では、これは主の命令だと言い、またほかの箇所では、これは命令ではない、と言います。
このことを整理するために、1節を見ますと、こう書かれています。
1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。
「あなたがたの手紙に書いてあったことについて」と言っています。つまり、コリント人への第一の手紙が書かれる前に、コリント教会の人たちからパウロに手紙が書かれ、そこに彼らからパウロへの質問があったのだと分かります。その質問への答えとしてこの章は書かれています。ただ、その質問が具体的にどうだったのかは、7章から推測するしかありませんし、ましてや、その質問が出された背景となる出来事や教会の状況に関しては分からないわけです。相手のことを詳しく知らないのに、表面的なことだけを見て批判や意見をするなら、見当違いのことを言ってしまうことになりかねませんが、私もこの7章に関しては様々な解釈があるのですが、あまり断定的なことは言わない方が良いと思います。もちろん、だからと言って、この章は学ぶべき価値がないはずはありませんし、御言葉として従う必要はない、と言うのは言い過ぎです。読んだ人が、それぞれ聖霊に示されることを受け止めていくのだと思います。
いきなりややこしい話から始めてしまいましたが、この7章を理解するのは単純ではない。そこで、結婚と言う主題から少し離れて、17節からの部分、そこには割礼という問題と、奴隷に関して書かれていますが、このことをきっかけとして、7章全体から御言葉を考えてまいりたいと思います。長い前置きとなってしまいましたが、いつものように三つのポイントで。第一に「割礼と奴隷」、第二に「律法と御言葉」、そして第三に「今は危急の時」という順序でメッセージを進めてまいりたいと思います。
1.割礼と奴隷
今日の説教題は、「あなたは奴隷ですか」と、変な質問です。昔の欧米にあったような奴隷制度は、今の日本にはありませんが、国によってはそのような制度があったり、また制度としては認められていなくても、奴隷のように扱われてしまっている人たちもいます。もちろん、社会問題としての奴隷制度についてお話しするのは、もっと時間を必要としますので、今日はしません。ですから「あなたは奴隷ですか」という質問を、恐らく違う意味で受け止めた方もおられるでしょう。例えば、罪の奴隷、という言い方を時々します。自分でもコントロールできず、したくないのに罪を犯してしまう。その意味で人間は罪の奴隷となることがあります。それはいつもお話ししていますので、罪の奴隷のことでもありません。
17節から、特に21節から23節でパウロが奴隷と言っているのは、当然、当時のローマ社会における奴隷のことです。奴隷と言っても自由に動けるときもあったので、教会には奴隷の身分の人もクリスチャンになって教会員としていたわけです。また、例えば借金のために奴隷となった者はその借金を返済すると言った条件を満たせば奴隷が解放されて自由人となることもできました。ではクリスチャンとなった奴隷はどうすべきか。21節。
21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
パウロは、奴隷のままでいることも、自由の身となることを目指すのも、どちらも良しとしています。旧約の律法でも、条件を満たして奴隷から自由人になる方法も書かれていると同時に、条件を満たしても今の主人のもとにとどまって僕として仕える方法も書かれています。奴隷でも自由人でも、神様の前には問題ではない。22節。
22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。

クリスチャンとはキリストのものとされた存在です。ですから主によって罪から解放された自由人であり、主に従う僕、つまり奴隷でもある。人間の奴隷となってはいけない、というのは、パウロが当時の社会に遭って奴隷制度を否定しているということではなく、むしろそれを超越しているのであって、奴隷であるか否かという表面的な状態は本質的な問題ではない。奴隷でも自由人でも、キリストを信じて救われ、キリストを主として従うのです。
同じことを、割礼に当てはめたのが、18節です。
18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。

パウロ自身はユダヤ人ですから割礼と言う儀式を受けていましたし、ユダヤ人が割礼を受けることを否定したりはしません。しかし異邦人クリスチャンが割礼を受けなければ救われないとする意見には断じて反対であったことは、『使徒の働き』や他の手紙に書かれています。重要なのは、それぞれが神の言葉に従うことだと言っています。
コリント教会における結婚問題についても同じなのだと思います。どんな事情があったのかは分かりませんが、結婚しようとする人、結婚しないと決意をする人、結婚に関わる問題で悩む人、それぞれが神様に従うという原則をしっかりと保って、自分や人の意見だけで決めてしまわない。でも、どんな結果になっても主はその人をすでに受け止めておられるのですから、これからも御言葉によって歩むなら、間違いは正されるでしょう、御心に従うように導かれていくことでしょう。この原則は、割礼や奴隷、結婚だけでなく、あらゆることにも当てはまると思います。例えば学生ならば、どの学校に進学するか、どんな仕事につくか。それ自体は自分で決める自由があるのですが、その中でいつも神様は自分に何を求めておられるか、聖書を通して御心に従う。この原則に立つなら、どの道を進んでも、主に従って一歩ずつ進んでいけるのです。
2.律法と御言葉
少し長くなりそうですので、二つ目のことは簡単にお話ししようかと思います。19節で、
19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。
ここで神の命令を守るとはどういう意味なのでしょうか。ユダヤ人は旧約聖書の律法を守って、割礼を受けていました。それはクリスチャンになっても彼らは自分の息子たちに割礼を施したことでしょう。では、異邦人クリスチャンはどうなのでしょう。旧約聖書は古いから守る必要はない、ということではありません。ユダヤ人は神様がイスラエルと結んだ契約の故に、割礼を受けることが祝福への手段と受け止めていましたが、異邦人クリスチャンはイスラエルの契約ではなく、イエス様による新しい契約によって救われたので、救いの条件として旧約聖書の律法を守る、ということはしない。でも、神様の言葉であることは確かですから、私たちも旧約聖書を通して御心を教えられて、それに従うことは大切です。少しややこしいので、このことを分かりやすく語っているのが、35節。
35 ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。
この前後を読むと、パウロは結婚問題に関して語っているのですが、それは「あなたがたを束縛しようとしているのではありません」と言っています。ユダヤ人がある意味ではモーセの律法に束縛されていたと同じように、パウロの教えによって束縛されて、がんじがらめの信仰生活になることは、パウロの本意ではありません。「むしろあなたがたが秩序ある生活を送って」と書いていることから分かるように、どうやらコリント教会からの質問の背景には、これらの問題が混乱を引き起こしていた。ですからパウロは彼らには秩序が必要だと考えて7章を書いた。でも、その教えによって束縛しようとしているのではない。秩序ある生活の目的は、「ひたすら主に奉仕できるためなのです」。私たちにはそれぞれ自由があるでしょう。守るべきだと考える秩序もあるでしょう。それは割礼、奴隷、結婚、どの問題でも言えることです。でも、それが一番大切なことではなく、主に仕えること。それも、強制されるなら束縛となるかもしれませんが、自ら進んで、ひたすらに主に仕える。それが一番大切なことであり、祝福に満ちた道だからです。
今年の教会の標語、「キリストのからだを建て上げるために」も、制度とか自由とか自分の考えに縛られているのではなく、誰もが、どんな立場でも、喜んで主に仕え、奉仕をささげ、それぞれの賜物を用いて、自分のために生きるのではなく、キリストのからだである教会で奉仕をし、からだが成長していく。そのために御言葉に聞き従っていくのです。
3.今は危急の時
最後に、この7章において、もう一つの大切な面について触れて終わりたいと思います。17節。
17 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
また20節と24節。
20 おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
パウロは、そのままの状態でいなさい、と繰り返している。ですから、奴隷は、自由人となっても良いけど、奴隷のままで良いし、結婚していない人はしないでも良い、ということになるのです。どうして「そのままの状態に留まれ」、と言うのか。それは26節。
26 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。
今は危急のとき、という意識です。緊急事態というような危機的状況あっては、他の様々なことは一旦脇に置いて、一番大切なことを優先します。例えば、災害のときのように生命の危険が迫っているときもそうです。先月は札幌に行ってきましたが、飛行機に乗ると「安全について」というアナウンスがあり、避難する方法が教えられます。避難のときは荷物は持たない。それが避難の妨げとなるからです。自分の荷物は自分の自由ですが、緊急時には命の方が優先です。パウロは、この危急の時だから、奴隷が自由となるための努力や、結婚するための心配りを第一とするではなく、救いにとどまることを最優先する。それが7章全体について背後にあるのだと思います。
パウロが危急の時と言っているのは何か。それは再臨です。1世紀のクリスチャンはキリストがすぐにでも帰ってこられると信じていた。その再臨のときに他のことに心がいっぱいになっていて、キリストのことが疎かになっていたら、花婿なる主をお迎えすることができない。ですから危急のときに何を優先するかは重要だったのです。しかし、反対に危急の時だからと言って、日常生活の秩序を失っていたのがテサロニケ教会で、テサロニケ教会への手紙ではそのことを指摘しています。
私たちにとって、今は危急の時でしょうか。キリストの再臨は、それがいつかは誰も知りませんが、イエス様は、いつ来ても良いように備えなさいと教えておられます。ですから、直ぐにでもおいでになるという危機感をもたなければなりませんが、同時に、再臨がずっと後でも良いように秩序正しく歩むことも大切です。正反対のようですが、危急の時であるという意識と、平常の時として正しい歩みを保つこと、その両面を見据えつつ、バランスのとれた信仰生活を送っていただきたいと思います。
まとめ.
現在は、コロナ禍という状況で、時には間違った情報や多すぎる情報に振り回されて、それの奴隷になってしまっては大変ですが、私たちは主の僕として、どんな時でもキリストを第一として、仕えていく。あなたは何の奴隷でしょうか。喜んで主に仕え、従う者となりましょう。
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2022年05月01日

5月1日礼拝説教「真実なパンのために」1コリント5:6〜8(5〜6章)

5月1日礼拝説教「真実なパンのために」1コリント5:6〜8(5〜6章)
今日は久しぶりでコリント書に戻ります。先ほど司会者に読んでいただいた中で、8節の後半に「純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか」と書かれていますので、今日の説教題として「純粋で真実なパンの祭り」とつけようかと最初は思いついたのですが、もっと有名なパン祭りもありますので、「真実なパンのために」というタイトルにしました。もちろん、実際のパンの話ではありません。純粋なパンをどのように作るかは、専門家の方々がおられます。でも聖書の中でパンは大切な意味をもって語られることがありますので、このコリント書を通して、私たちのなすべきパンの祭りということを考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けて進めて参ります。第一に「罪を取り除く」ということ、第二に「裁くべきこと」、そして最後に「神の栄光のため」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.罪を取り除く
さて、コリント書のことを少しお話しします。使徒パウロがコリントの町にできた教会のクリスチャンたちに書き送った手紙ですが、このコリント教会は問題に満ちた教会でした。問題の第一に挙げられていたのは、分派・分裂です。パウロ派、アポロ派といった派閥に分かれて争いあっている。キリストのからだである教会が内部分裂し争い合っている状態はあるべき姿ではありません。そして二つ目に大きな問題としてあげられているのが、性的な罪ということで、5章から始まって6章の終わりの方にも同じ問題が取り上げられていますので、今日は5章と6章からお話しさせていただきたいと思います。
性的な罪と言いましたが、姦淫や不品行と聖書に書かれている罪です。コリントの町は交通の要所で、商業が発達し、大変に豊かな町でしたが、同時に性的には大変に乱れた町でした。「コリント人のようだ」とは不品行な人を指す言い方だったそうです。そんな町の雰囲気に影響を受けたのか、もともとコリントで生活していた人たちだったから、クリスチャンになってからも多少は性的な罪に陥りやすかったのか。いいえ、パウロは、クリスチャンでは無いコリントの人たちが見ても、眉をひそめるような。「異邦人の中にもないほどの不品行」だと告げています。しかも、その罪を隠そうとするのではなく、自分はこんなこともできるんだと誇っている。周りの人も、それを肯定して、やめさせようともしない。神様のお名前が汚されるような状態だったのです。パウロは、そのような罪は教会から取り除かなければならない、と厳しく語っています。
真実で純粋なパンとは、罪を取り除いた状態を意味します。元々は、旧約聖書の律法で、過越の祭のときは「種入れぬパン」と言いますが、パン種、酵母のようなものでしょうか、それを入れないパンを使うことになっていた。発酵させてふっくらとさせる時間もないほどに急いでエジプトから出なければならないことを表すためです。この祭りの時期は家中を探して古いパン種を取り除くのです。このパン種を、人間の罪を象徴するものとして教えることがありました。(もちろん、パン種が悪いのではなく、時には律法でパン種を入れたパンを使う儀式もありましたので、あくまで象徴としての話です。)パン種を小麦粉の塊に混ぜてこねると、やがて発酵して膨らむように、人間の罪を放っておくと、やがて大きくなっていく。だから不品行の罪を誇るようになり、それは教会全体にも広まって、他のクリスチャンもおぞましい罪を平気でするようになってしまう。そうなったら、キリストのからだを汚すことになって、神様に滅ぼされてもおかしくないのです。
純粋なパンとは、私たちの心から罪を取り除くことから始まります。誰でも罪はある。でもそれを認めずに隠して、思い上がるのでは無く、へりくだって悔い改めることです。そうして、過越の祭のように、キリストの救いを感謝して礼拝を捧げるのです。礼拝前のひとときは、一週間の忙しさや悩み、日常の心乱すことから解放されて、心を静めるときですが、そのとき、一週間の生活を振り返り、自分の心の中を顧みて、見つけた罪を悔い改めて、純真な思いで神様の前に進み出るなら、豊かな祝福を味わうことができるのではないでしょうか。
2.裁くべきこと
二つ目のことに移ります。パン種を取り除く、自分の内側にある罪を悔い改めて取り除くことも簡単なことではありません。しかしコリント教会の状態は、さらに悪かったのです。その罪を犯している人たちが悔い改めるどころか、悪い影響を与え始め、このままだと教会全体が裁かれるような姿になってしまう。そのとき、パウロは、その人を取り除くように命じています。13節。
5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。
これは、一歩間違えると、教会にとって都合の悪い人を排除する、阻害することになります。教会は愛によって結びついていますから、誰かを排除することは心情的にもできない。しかし、それが教会全体が神に背くようになることを止めるためには、悔い改めない者を排除せよ、とパウロは言うのです。特に、5章の終わりから6章にかけて、パウロは何度も「さばく」という言葉を使っています。12節。
5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
言い方は複雑ですが、単純に言うなら、内部の人をさばきなさい、と語っているのです。私たちは「裁き会ってはいけない」と教えられています。自分を正しいと考え、他の人を非難して攻撃することは、教会にあってはいけないことです。しかし、さばかなければならない場合もあるのです。
神の愛ということを誤解して、神様は愛だから何をしてもゆるしてくれる。この「ゆるす」という言葉も日本語の漢字では二通りあって、聖書が教えているのは恩赦の赦の字で、「罪を赦す」ということですが、もう一つは許可の許の字で、「罪を許す」、つまり罪を犯すことを許可する。これは聖書の教えではありません。神様の愛が罪を許可する愛なら人間はますます悪くなっていき、それは御心のはずがない。神様は十字架の贖いによって罪を赦してくださいますが、私たちが罪から離れることを願っておられます。神は愛だからこそ、罪を犯し続け悔い改めようとしない者を放っておいて悪化させるのではなく、その人を裁くことで間違いに気がつかせ、悔い改めの機会を与える。この意味において、神様は教会にさばく権威を与えているのです。
コリント教会は、排除の前には何度もこの人を戒めたり、忍耐して諭したり、できる限りは立ち直られようとしたでしょう。でも、ますます高慢になっていくのです。だからパウロは最後通告をしているのです。このコリント人への手紙第一を丁寧に読んで行きますと、不思議な言葉に気がつきます。明確なのは、5章の9節です。
5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
パウロは「前の手紙」と言っています。実は第一の手紙よりも前に、違う手紙を書き送っていたのです。その時点でも彼の罪が伝えられていて、パウロがこうしなさいと前の手紙で書いたときに、それを誤解した人もいたので、この「第一の手紙」という二番目の手紙を書いているのです。当時の手紙は往復するのに数ヶ月もかかったでしょう。その間、コリントのクリスチャンたちは彼をどうにか説得しようとして、どうすることもできず、パウロに相談した。そこでパウロも最終手段として、彼を教会から追い出すように指示したのです。
これは現代でも、教会には「教会戒規」と呼ばれる規則があります。罪を犯し続け、誰の忠告も受けず、ついには教会全体にも悪影響を及ぼすようになったとき、最終手段として、その人を罰するという規則があります。とうぜん、愛し合う教会にとっては痛みです。でもそれを痛みを避けて罰を与えず罪を許可しているなら、教会が純粋なパンではいられなくなって、キリストの栄光を汚してしまいます。ですから愛を持って罰しなければならないこともあるのです。
裁き会うことは確かにあるべき姿では無い。でも罪に対して曖昧であることは神の教会を破壊することにもなります。もちろん、パウロは見捨てたのではなく、5節では
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
これはちょっと難しい内容ですが、この人が終わりの日に救われることを願っているのです。また、次の6章では、裁きについての教えが続いた後で、6章11節。
6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
こうして罪が洗われ、聖なる者とされる道を示している。教会のなすべき裁きとは裁き会うことではなく、その人が救われるために避けられない痛みであり、これも愛の現れなのです。
3.神の栄光のため
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。6章12節。
6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。
罪を赦されて救われたということは、何をしても良いということではない。何が教会にとって益となるか。13節後半。
からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
救われた私たちのからだは、罪を犯すためにあるのではなく、キリストのために存在するのです。このことを明らかに語っている有名な御言葉が6章19節と20節です。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

私たちが救われたのも、聖霊が心の内に宿っていてくださるのも、それは自分のからだで神の栄光をあらわすためです。一人一人のからだもそうですし、教会全体もキリストのからだとして、それは神の栄光を表すためのからだなのです。
純粋なパンのためには、罪を取り除く必要があるでしょう。時には犠牲を払い、時には痛みを感じることもありますが、でも私たちを救うためにキリストが受けてくださった痛み、父なる神の心の痛みも、私たちへの愛です。でも罪を除くことばかりを考えているなら、律法主義と言われるように、他者を裁くようになってしまいます。罪を取り除くにしても、でもその人のために祈り、その人が悔い改めにいたって、神様に感謝を献げるようになるにしても、全ては神の栄光が表されるためです。
まとめ.
教会の目的は神の栄光です。自分の満足や自分の栄光では無い。罪を赦された私たちが自分自身を主におささげし、御心に喜んで従うとき、神様が栄光を、教会を通し、私たち一人一人を通して、証しさせてくださるのです。今は教会は厳しい時を通っています。困難の中におられる方々も少なくない。でも、それら全てを通して、ついには神様の御業がなされて栄光を拝する時が来る。そのことを信じて、御声に従ってまいりましょう。
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2022年04月17日

4月17日礼拝説教「今も満ちている命」エペソ書1:20〜23

4月17日礼拝説教「今も満ちている命」エペソ書1:20〜23
イースター、おめでとうございます。まだコロナ禍にありますが、今年も主イエス・キリストの復活を祝う礼拝を持てますことを感謝します。病気に対しても戦争に対しても、私たちは力の足らなさを痛切に感じますが、死に打ち勝たれたキリストは全てに勝利されるお方です。今日は特に復活の意味についてご一緒に聖書から学び、復活の主を信じることをもう一度深く考えたいと思います。復活の主イエス様は今も生きておられ、その復活のいのちは今も教会に満ちていることを覚えましょう。
いつものように三つのポイントに分けてイースターのメッセージを取り次がせていただきます。第一に「全能の力による復活」ということ、第二に「全ての上におられるキリスト」、そして第三に「教会はキリストのもの」という順序で進めてまいります。
1.全能の力による復活
さて今日はエペソ書を開いております。復活の出来事は福音書に記されていますが、その意味は聖書全体に示されています。エペソ書は、今年の教会の標語にもなった御言葉が4章にあり、キリストの体なる教会について教えている大切な手紙ですが、教会のかしらであるキリストのことも同時に教えています。
この手紙で、パウロはエペソ教会のクリスチャンたちのために祈っていることは、彼らが全能の父なる神の力がいかに偉大であるかをもっと知って欲しい。この神の力を知らないから、私たちは、「ああ、もう無理だ」と言って諦めたり、不信仰になってしまいます。パウロが知って欲しいと祈った、その全能の力が、先ほどお読みしました、20節の最初に出てきます。
20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
神の全能の力は、特にキリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた、と書かれています。使徒信条の中で「三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白されていますが、正確に訳すならば、「よみがえらされた」です。イエス様が十字架で亡くなられたとき、ご自身の力では黄泉に下ったままなのです。父なる神様に「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と祈られた。委ねたということは、任せた、ということです。ですから復活できたのは父なる神の力、全能の力なのだと聖書は告げているのです。多くの奇跡を行ったイエス様です。神の御子です。でも、死んだなら、そこから自力では起き上がれない。それを父なる神の力で「よみがえらされた」のです。
復活というと、教会に来る前の人は当然そうですし、教会に通うようになっても、最初の内は復活なんて信じられない。でも、やがて聖書が教える神様を知るようになり、この神様を信頼するとき、これほどの偉大なお方なら、復活もおできになるかもしれないと、何となく受け入れることができるようになるでしょう。でも、復活は何となく信じるくらいではもったいない。信じられないほどのこと、驚くべき偉大な奇跡なのです。他にも信じがたいことはあるでしょう。でも復活は最大の奇跡です。最初の弟子たちはイースターの朝に復活の主と出会いましたが、半信半疑でした。何度もイエス様を見て、触れて、最後は聖霊が下ってくださり、確信を与えてくださった。聞いても見ても信じられなかったほどの驚くべき出来事です。私たちは復活を、それほどの驚きをもって信じているでしょうか。
クリスチャンになるとき、あるいは人によっては暫くしてからかも知れませんが、復活を受け入れ信じる者とされた。では、もう一歩進んで、この復活の奇跡を成就させた父なる神の全能の力を信じているでしょうか。信じがたい復活を巻き起こした力は、今も無くなったはずがない。いいえ、私たちのために十字架で贖いをしてくださったイエス様を復活させて、私たちに永遠の命を与えてくださる神様の、その全能の力は、私の人生にも働いてくださる。このことをしっかりと信じるなら、今、私が悩んでいること、苦悩している問題、信じがたいようなことでさえ、「その全能の力をキリストのうちに働かせ」たように、私の人生に、またこの教会にも、その力は発揮していただくことができると信じる者となれるのです。
2.全ての上におられるキリスト
主イエス様を復活させた全能の力は、さらに
天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

天に引き上げて、父なる神の右の座に着かせたのも、全能の力によるとパウロは語っています。そして、キリストを「すべての支配、権威、権力、主権の上に」、つまりあらゆるものの上に置かれた。イエス様は十字架という大切な働きを終えて、天にお帰りになって、仕事が終わって休んでいる、というのではなくて、全てのものの上におられる。ですから、キリストは全てのものを従わせる権威も力も持っておられ、あらゆる問題も解決できる。どんな問題があるのでしょうか。病気、経済、人間関係、罪の問題、それだけでしょうか。仕事や勉強は、自分の仕事であり、キリストは無関心なのでしょうか。いいえ、主イエス様は、私の生活の全ての問題に目を向けておられ、全てを従わせることができる。でも、それを妨げるのは、「私」です。これくらいは自分でできる、これは自分の思い通りにしたいからイエス様も黙っていてください。そう言葉に出さなくても、自分中心な私たちは、イエス様が私の全て、私の心、私自身でさえ、キリストの支配の下にあることを忘れている、いいえ、認めようとしていないのではないでしょうか。
復活の主は、今、私の主人として、私の上にもいてくださり、私たちの上に全能の力を働かせて、人生を造り変え、新しい人生、永遠の命にしてくださるのです。どうしてイースターがおめでたいのか、それはイエス様が復活してくださったということは、全ての問題をも造り変えて新しくして、神様の御心のままにしていただけるからです。
3.教会はキリストのもの
さらにパウロは続けます。22節。
22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

父なる神様は、貴い御子を救い主としてこの世に遣わされただけでなく、今も主イエス様を、二千年前の弟子たちに、そして今でも、クリスチャンに与えてくださり、教会のかしらとしてくださった。でも、キリストが私たちに与えられ、私たちのものであるとは、私たちが自分の好きなようにして良いということではありません。キリストがかしらであり、教会はキリストのからだとして、キリストの命令に従う存在です。キリストは教会のものであり、教会はキリストのものです。キリストが教会をご自分のものとされるとは、イエス様も教会を自分の好き勝手に扱うということではありません。むしろ問題だらけの教会、また一人一人を、愛を持って導き、父なる神にとりなし、ご自分のものである教会を大切にしてくださる。だから、聖霊を教会に遣わしてくださったのです。
聖霊が教会の中に働いておられるとき、聖霊を遣わされたキリストも共にいてくださる。いっさいのものを満たすことがおできになるキリストが教会の中に満ちておられる。これは大変に凄いことです。私たちは自分の体を大切にします。健康や長寿のために多くの財や時間を費やす方は少なくないでしょう。それくらい、自分の中に自分の思いが満ちていて、何よりも自分は大切です。でも、イエス様はそのような人間の思い以上に、私たちを愛して、教会に深く関わっていてくださるのです。このイエス様に、私たちが連なっているとき、キリストのうちにある命が私たちのうちにも豊かに満ちて、キリストに生かされる人生、それが永遠の命なのです。
まとめ.
キリストの復活は二千年前に終わった出来事ではありません。キリストは今も生きておられ、天で御座に着いていると同時に、聖霊によって教会のかしらとしていてくださいます。池の上教会にも、復活の主のいのちが今も満ちている。このお方を信頼し、御心に従い、全能の力により復活の命に生かしていただくなら、今の困難にも乗り越えさせていただけるのです。
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