2022年11月06日

11月6日礼拝「救いへのチャレンジ」イザヤ書1:18〜20(1章)

11月6日礼拝「救いへのチャレンジ」イザヤ書1:18〜20(1章)
先月でコリント人への手紙が終わり、今日から、旧約聖書を開いてまいります。詩篇の続きを、とも思っていたのですが、詩篇を続けていますと、あと3年くらいかかりそうで、同じ書物から続けるよりも、一端違う書物に行ったほうが良いかと思いました。詩篇はイスラエルの歴史の中から生まれてきた多くの賛美と祈りを集めたものですが、イザヤはその歴史の中で神様からの御言葉を伝えた人です。イザヤ書を通して、その歴史に触れ、特にイスラエルが滅亡してバビロンに連れて行かれ、ついにバビロンから救い出されるという歴史を預言しているイザヤ書が終わってから、詩篇の後半に出てきます、捕囚前後の時代の祈りに触れたいと思っています。
さてイザヤ書の題名は、預言者イザヤの名前から採られていますが、イザヤという名前の意味は、「主の救い」、あるいは「主は救い」ということです。人間を救ってくださる神様を語っている預言書です。このイザヤ書を通して、もう一度、私たちの救いとは何かを学んで参りたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「罪を悟る」ということ、第二に「赦しを論じる」、そして第三に「救いを委ねる」という順番で進めて参りたいと思います。
1.罪を悟る(2〜15節)
1節は預言者イザヤが活動した時代を告げています。ウジヤ王からヒゼキヤ王まで、四代の王様の時代にまたがって活躍した預言者です。この時代、イスラエルは既に南北に分裂しており、北王国イスラエルはこの時代に滅亡し、南王国ユダは生き延びましたが、やがては滅びるときが来ることをイザヤは預言しています。どうして国が滅びるなんてことになったのか。その原因は人々の罪です。どれくらい罪深かったかというと、自分がしている罪を罪だと気がつかないほどです。イザヤは人々が自分の罪を悟って神様の前に悔い改めることを願って語っています。2節と3節を読ませていただきます。
2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

これはヘブル語の詩で書かれていて、印象に残る言い方を使っていますが、日本語ですとあまり感じません。2節は、育てられた子どもが親である神様に逆らっている。当時の文化では、子どもは両親に従うべきことが、十戒にも記されていて、「あなたの父母を敬え」が常識の世界にあって、イスラエルは育ててくれた神様に逆らっている。これは大きな罪です。さらに3節は動物の例えを用いています。牛は誰が自分の飼い主であり、だれが自分の世話をしてくれるか、誰について行けば美味しい草にありつけるか、知っている。ロバは少し愚かだけども、飼い葉桶を知っていて、どこにいけば食べることができるかくらいは知っている。それを比べると、イスラエルは動物以下だ。誰が自分の主であるかを分かっていないし、どこに行けば恵みに与ることができるか分からない。なんで、こんな侮辱のような言い方なのでしょうか。
人間、愚かだと言われたら反発したくなります。そして、その指摘が間違っているか、言われた言葉をしっかりと聞くことになる。イザヤはこんな厳しい言葉を投げかけながら、人々が聞いてくれることを願っているのです。それは、人々の罪の結果、国中が傷つき痛んでいる。5節。
5 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

神様に反逆すると、人間はあるべき姿、本来の生き方ではなくなり、結局は自分を苦しめ、周りの人を傷つけ、そうして国全体が傷だらけになっている。6節は肉体の怪我になぞらえて罪の状態を描き、7節は具体的に述べています。7節。
7 あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。
イスラエル王国の歴史は他国による侵略です。食い荒らされ、やがて首都であるエルサレム以外は敵の手に渡り、エルサレムだけが孤立し、包囲される。これはヒゼキヤ王の時代に現実となります。そのまま行けば、ついにはソドムやゴモラのように完全に滅亡してしまう。いいえ、まだ神からの裁きが下っていないだけで、滅ぼされる直前のソドム・ゴモラと変わらないほどに罪深い。ですからエルサレムにいる指導者たちに対して10節。
10 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
あなたたちはソドムの民と同じだと言われたら、いいや、私たちはそんなに悪くは無い、と言うでしょう。だって、自分たちは毎年、定められた祭りを行い、儀式を守っている。でも、神様はおっしゃるのです。あなたたちのお祭りや儀式は、信仰を伴わない、形だけで、神様を礼拝していると言いながら、裏では悪事を平気で行っている。そんな見せかけの儀式や集会を、もうこれ以上見たくない。14節。
14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。

祈っても聞き入れられないのは、あなたがたの手が血まみれだからだ。これは殺人の罪を意味する表現です。人を傷つけることを行っているのに、宗教行事を行っているから自分は正しい、と考えていたのです。
ウジヤ王は大変に有能な王様で、国を経済的に繁栄させた。でも、その陰では社会的な腐敗が進んでいて、弱い者たちが苦しめられ、血を流している。それがソドムと同じだと神様は言うのです。そして彼らの信仰は形だけで、罪に塗れた生活をしている。そのままでは国はソドムのように滅ぼされるときが来る。預言者は、その罪を指摘しているのです。
こうお話ししますと、大変に厳しく聞こえます。でもイザヤ書を最後まで続けて読みますと、実は救いの恵みに満ちている。しかし、神様の祝福にもう一度与るようになる前に、まず、自分の罪を悔い改めなければならない。その第一歩として、自分のうちに罪があることを認めなければならないのですが、人間の罪は自分を騙して、罪を罪だと気がつかないように自己弁護をしています。だからイザヤは彼らが自分の罪を悟るように、厳しく語っているのです。このイザヤのメッセージは、私たちには無関係なのでしょうか。
2.赦しを論じる(16〜20節)
二つ目のポイントに進みます。神様がイスラエルに求めておられること、それは律法の中に記されています。それは一言で言えば、悪を離れて正義を行え、ということです。16節。
16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

「神の国と神の義をまず第一に求めよ」とイエス様は教えられましたが、神の国とは神様の支配に従うことであり、それは神の義、神様の御心に適う正しさを伴うはずです。
実際のイスラエルは悪から離れようとせず、正義を踏みにじっていました。そんな彼らは神の裁きによって滅ぼされるのが順当です。神は正義の神様です。17節には正しさを意味する言葉がいくつか使われています。善をなす、公正、正す、正しい裁きなどです。イザヤ書全体でも様々な言葉を用いて神の正義を表現しています。その正義と比べるなら、人間の正義は自分勝手です。白ではなくグレーです。いいえ、罪と血に染まって真っ赤になっている。罪を赤と表現するのは珍しいことです。18節。
18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
緋のように赤いというのは、ある人は衣類を赤く染色するのに例えていると言います。白い服にトマトソースが染みついたら、なかなか取れない、もう真っ白には戻らない。それが人間の理屈です。自分の罪が大したことないと思っているときは、少し頑張ったら白くなると考えます。でも、自分の罪の大きさ、深さ、深刻さに気がつくと、こんな自分は赦されるはずがない、と考えるのです。でも神様は、「論じ合おう」とおっしゃる。あなた方の罪は滅ぼされるのが当然なほどに酷い。でも、その罪、人間にはどうすることもできない罪に染まった心を、神様は白くすることができる。そのことを信じるか。そう神様は私たちにも訴えておられるのです。主の救いとは、人間が自分の力や理屈でどうにかできるというレベルではなく、全能の神様が救ってくださると言われる、そのお言葉に信頼することなのです。
3.救いを委ねる(21〜31節)
イザヤ書は、ただ神様が救ってくださるんだから、何も考えずに、信じろ、というような信仰を教えているのではありません。むしろ神様のお考えをしっかりと受け止めることが大切です。三つ目に神様の救いの計画についてお話ししたいと思います。
21節から26節は、特徴的な詩の形で書かれています。21節。
21 どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。
22 おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。

これはエルサレムのことを語っているのですが、かつては忠心の都、つまり神様に従う町だった。でも、それが遊女に例えられるように、まことの神ではない、偶像を拝むようになってしまっていたのです。公正や正義ではなく、今や人殺しの町になった。金属に例えるなら、純銀ではなくて不純物だらけで価値のない金属、かなかすだ。お酒に例えるなら、良い酒だったのが、水増ししてまずい酒になってしまった。これが今のエルサレムの現実だとイザヤは指摘します。しかし、後になってエルサレムは変えられます。25節。
25 しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。
26 こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。」

神様はかなかすになった金属を溶かし、不純物を取り除いてくださる。偶像を取り除いて、正義の町、忠信な都にしてくださるのです。この逆転現象は、とこで逆転が始まるか。それが24節です。
24 それゆえに、──万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ──「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。
この節の前後で、罪だらけの今の姿が、神の義に添った姿に変わり始める。それは、主の御告げ、すなわち神の言葉が語られたときからです。神様が計画した救いが実現するとき、エルサレムが、神の民が、あるべき姿に変えられ始める。この預言は、神のことばであるお方がこの世に来てくださったことで成就します。「わたしの敵に復讐しよう」と、キリストが十字架で神の怒りを引き受けてくださり、罪に打ち勝ってくださった。キリストこそ、私たちが罪から義へと変えられる逆転の中心なのです。イザヤの時代には実現はしませんでしたが、彼が預言したことが後の時代に実現し、キリストによって完成する。それが主のなしたもう救いなのです。
このキリストによる逆転、罪人が義人に変えられる救いの御業は、私たちの人生にも成就します。キリストに出会い、十字架が私の罪のためだと認め、神の救いの御業に信頼するとき、キリストは私の生涯において逆転の中心となって、私たちの生涯を造り変えてくださるのです。神様は聖書を通して救いのご計画を示してくださった。この御言葉を信じて受け入れ、そして神様が私になそうとしておられる救いの計画に従う。それは、自分の思い通りに救いを達成するのではなく、神様のご計画に従い、神様のお働きに自分をまかせるとき、神様が道を示し、力を与えて、従わせてくださいます。その時、私たちの人生も新しくされ、緋のように赤い罪に染まった心がきよめられて、雪のように白い心としてくださるのです。
まとめ.
預言者たちは、時には厳しく罪を糾弾します。でも、示された罪は、私のことだと認めるなら、神様の救いの道が開かれているのです。イスラエルは愚かな罪人であり、赦されないほどに罪に染まっていた。それでも神様は救おうとしてイザヤに語らせてくださった。この御言葉を私たちも受け止めて信じ、神の赦しの恵み、きよめの信仰を確認させていただきましょう。
タグ:イザヤ書
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2022年10月30日

今日の説教原稿はありません

今日は信徒による証し礼拝でした。
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2022年10月23日

10月23日礼拝「信仰の最終確認」第二コリント13:9〜11(13章)

10月23日礼拝「信仰の最終確認」第二コリント13:9〜11(13章)
私たちは大切なことをするときは、どこかで確認をします。海外旅行に行くときは、パスポートなどをちゃんと持っているか、出かける前に最終確認します。学校では、入るときに入学試験によって、その学校で学ぶ力があるかを確認し、卒業するまでに何回もの試験によって卒業に相応しい学力がついたかを確認します。大きな仕事をする方々は何度も確認をしながら進めるのではないでしょうか。
礼拝ではこれまでコリント人への手紙、これは使徒パウロがコリントの町にあった教会のクリスチャンたちに向けて書き送った手紙ですが、今日でおしまいになります。パウロは手紙を閉じるにあたり、また、この手紙を彼らが受け取った後に、直接に会うためにコリントに行く。その前に確認をしなければならないことがあったのです。私たちも節目節目で信仰を確認していく。その信仰に関して確認すべきことを、手紙の最終確認である第二コリントの13章から考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのことをお話ししてまいります。第一に「自分を吟味する」、第二に「他者のために祈る」、そして最後に「変わらない祝福」と言う順序でメッセージを取りつがせていただきます。
1.自分を吟味する(1〜6節)
1節から少しずつ見てまいります。
1 私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。
パウロがコリント教会を訪問するのは、今度が三回目だと語っています。一回目は『使徒の働き』の18章で、パウロが初めてコリントの町に行って福音を伝えた。その結果、救われる人たちが起こされて誕生した教会がコリント教会です。その土地パウロは、次の町に進み、伝道旅行を続けました。二回目の訪問は『使徒の働き』には記録されておらず、コリント人への第二の手紙の中で短く言及されているだけで、それは失敗に終わったつらい記憶でした。そして、今度は三回目。どうなるでしょう。
この直接の訪問の間に、パウロは全部で四通の手紙を書き送ったことはこれまでも何度かお話ししてきました。その四通のうち、1番目と3番目の手紙は残っておりません。2番目と4番目の手紙が聖書の中に残されている。それがコリント人への手紙第一と第二です。これらの手紙を通して、ついにコリントのある人たちは罪を悔い改めて、教会は立ち直ろうとしていました。でも、全員が悔い改めたわけではない。13章では、その、どうしても悔い改めようとしない人たちのことを念頭に置きながら、最後の勧告をしているのです。もし、間もなくパウロがコリントに到着する、それまでに悔い改めないなら、パウロはその人たちを裁かなければならない。有罪判決を下す前に、パウロは1節の後半で、「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認される」。これは裁判の方法です。一人の証言ですと間違うかもしれないので、必ず二人か三人の証言によって判決を下す。パウロは三回目の訪問だから、今度は必ず判決を下すことになる、と大変に厳しい口調です。2節の最後にも「容赦しない」なんで、少し怖い言い方です。でも、それくらいに言わなければならない状態の人たちだったのです。でもパウロは彼らにも悔い改めて神からの赦しを受け取って欲しくて、厳しく語っているのです。これは一部の人たちだけの問題ではなく、教会全体に対しても、最終確認が必要だと、5節。
5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか
確認すべきは、自分が信仰に立って歩んでいるか、です。キリストを信じ、信頼して従っているなら、失敗があっても立ち直ることができます。信仰の確認は、私たちにも大切なことです。
まずパウロは、自分を吟味しなさい、と勧めています。人から言われたからでは、反発をしたり、自己弁護をしてごまかしたりしてしまいます。でも自分から進んで自分を吟味する。吟味するというのは試験するということです。学校のテストで、最後に確認をします。その時、自分は間違うはずがないと思っていると、間違っていることに気が付かない。自分に甘くしても、テストを提出したら、採点する人の判断で正しいか間違っているかが決定するのですから、自分に甘くしても良い結果になるはずがない。ですから、自分は間違うかもしれないからと、自分に厳しく見直しをする。自分で自分を吟味するとは、自分勝手な判断で自分を良しとするのではなく、御言葉の前に自分をさらして、間違いを受け入れる覚悟で、自分と向き合うのです。
そして、次に、「あなたがたのうちにはキリストがおられることを」と語っています。このキリストについては、4節でこう言っています。
4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。
キリストは、十字架につけられ、私たちの罪の身代わりとなってくださったお方であり、神の力によって復活されたお方です。十字架と復活のキリストを信じているか。そして、今は自分が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる。そのことを認め、キリストと共に生きているか。それが確認すべき大切な信仰なのです。
私たちが毎週、礼拝を捧げるのも、実は十字架と復活のキリストへの信仰を確認し、新しい一週間、キリストに従って歩むことを確認しているのです。また、礼拝だけでなく、様々な集会や、毎日、聖書を読んで祈るのも、信仰を確認しているのです。もし信仰が乱れていたら、神様が吟味しておられる、その御声に耳を傾けるのです。また、人生には時折、試練がやってきます。試練と言う言葉は、試験と言う言葉と同じです。試練の時こそ、私たちは信仰に立って生きることを確認し、神様の力によって立ち上がらせていただくのです。神様が与えてくださる日々の機会、また特別な時を、自分自身を見つめなおし、あらためて神様を信頼していく確認の時とすることができたなら、幸いです。
2.他者のために祈る(7〜10節)
二つ目のことをお話しします。パウロは厳しい口調で確認を迫るだけではありません。牧会者として彼らのために祈っている。もちろん、祈っているのは言うまでもありませんが、コリントの人たちに「祈っているよ」と語っています。それは、彼らにも祈る者となって欲しいからです。何を祈るのでしょうか。7節。
7 私たちは、あなたがたがどんな悪をも行わないように神に祈っています。
パウロは彼らが罪から離れるように、もし罪を犯してしまっているなら、悔い改めで神の赦しの恵みを受けるように、とりなしの祈りをしています。さらに9節。
9 私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。
完全な者になることを祈っている。コリント教会の様子を見ると、完全どころか問題だらけです。でも、パウロは彼らが罪を赦されて救われた、というところで満足するのではなく、さらに信仰が成長し、キリストの似姿を目指すことを願っているのです。そのために、パウロはずっと祈り続けている。それは忍耐の祈りです。彼らの中にはパウロに反発している人もいる。攻撃し、非難する。でも、パウロは彼らのためにも祈るのです。忍耐し、忍耐し、でも彼らが変えられていくと信じている。それはキリストが変えてくださる。パウロも迫害者から宣教者に変えられた。ですからパウロは諦めずに祈り、何度も祈り続けるのです。
クリスチャンの祈りの特徴は、自分のため以上に、他の人のために祈ること。とりなしの祈りです。それは簡単ではありません。特に誰かの救いのために祈るのは、忍耐が必要です。そして救われたら、あとは放っておくのではなく、さらに成長のために祈る。一生、祈り続けるかもしれません。でも、教会の創立者である山根先生のために、奥様の恵代先生が忍耐し祈り続けた。その祈りに神様が答えてくださったことを私たちは知っています。
自分が祈るだけですと、力不足を感じるかもしれません。でも教会は祈りの家です。兄弟姉妹が一緒に祈っていてくださいます。特に祈りの友なら詳しいことを話して祈ってもらえる。また事情は良く分からなくても、誰かが心配して、察して、祈っていてくださる。祈りが弱い私のためにも誰かが祈って支えていてくださる。それがキリストの体なる教会です。祈る教会は成長するとも言われますが、反対に祈らないとその教会は力を失います。祈っているか。それも大切な確認事項です。
3.変わらない祝福(11〜13節)
最後に、手紙の結語でもある祝福の言葉に目を向けたいと思います。11節。
11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
12 聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。
祝福とは、何か良いことがあるとか、良いものが手に入るというような、目に見える、時には物質的な祝福を思い描く人もいるでしょう。確かに旧約聖書の時代には、当時のイスラエルの人が理解できるように、分かりやすい祝福が教えられています。豊作や長生きなどが祝福とされました。でも、新約時代になって、もっと大切な祝福が示されていきます。11節でパウロが願っているのは、まず「喜びなさい」。ピリピ人への手紙が喜びの手紙として有名です。何度も「喜びなさい」と命令しています。でも、命令されたから仕方なく、喜んでいるふりをするのは、本当の喜びではない。喜びなさいとは、主が喜びを与えてくださるから喜ぶということです。そして、神様からの喜びとは、人間が自分では喜べない状況に陥っても、そこで心に与えられる喜び、それが祝福です。物質的な祝福がいくらたくさん与えられても、心からの喜びが無ければ、それは祝福にはなりません。内側からあふれ出る喜びが祝福です。
完全な者とされることも大きな祝福です。悲しんでいる人に慰めが与えられる。バラバラになってしまったコリント教会に一つ心が与えられ、お互いに和解をし、一つとなってキリストに仕える。教会に与えられる祝福です。平和は、旧約聖書ではシャロームと言われます。これも、話すと長くなるので、今日はやめておきます。そして、11節の最後には、「愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます」。神様が共にいてくださる。インマヌエルであるイエス様が心のうちに、また教会にいてくださることこそ、最大の祝福です。
これらの祝福は、必ずしも目には見えないものかもしれません。でも、それが教会にあって具体的に実っていくのです。12節の「聖なる口づけ」については以前にお話ししたことがあります。当時の文化では挨拶として互いに口づけをしていた。日本なら「聖なるお辞儀」かもしれませんが、大切なのは聖なる関係、聖なる交わりです。聖なる交わりの反対は俗的な交わりです。人間の関係は、良い面もありますが、トラブルもあります。それは自分中心だからです。神様から離れているなら、人間関係は罪のために歪んできます。でも、いつも神様を中心として、御心に従っているお互いであるなら、トラブルがあっても神様が平和へと導いてくださいます。挨拶はもちろんのこと、お互いのために祈り、御言葉の恵みを分かち合う。教会ならではの交わりとはどういう交わりかを考えてまいりましょう。
この聖なる関係、これは使徒信条の中では「聖徒の交わり」と呼ばれています。この交わりを支えているのは、神様が共にいてくださる祝福です。ですからパウロは最後に、13節。
13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
お気づきかと思いますが、これは礼拝の最後に牧師が祈ります、祝祷の原型となった祈りです。キリストの恵みが注がれ、神の愛の中に歩み、聖霊が私たちの内にいて交わりを助けてくださる。これが教会の交わりの土台なのです。毎週、牧師の祝祷を何気なく聞いておられる方もいらっしゃったとしても、でもこの祈りはパウロの時代から現代にいたるまでずっと続けられてきた祈りです。だから、牧師は「代々限りなく、永遠に、そして豊かにあるように」と祈るのです。これは神様が私たちに与えてくださる確認です。この恵みの中で生きるなら、必ず信仰は支えられ、成長していくのです。礼拝の最後に、祝祷の祈りに「アーメン」と答えるとき、私たちの信仰が確認されるのです。
まとめ.
コリント人への手紙はいったん終わりますが、これからも通読や家庭集会などで御言葉を味わい、信仰を確認していって欲しいと思います。来月からは旧約聖書に戻りますが、旧新約聖書全体の御言葉によって、様々な面から自分を吟味し、信仰を確認していく。それが私たちの信仰生涯です。それはいつまで続くのでしょうか。一つには人生の終わり、天国に行くまで。もう一つはキリストがもう一度おいでになる再臨の時まで。パウロが三度目にコリント教会を訪問する前に最終確認をしているように、私たちもキリストが来られるまでに、そして、この世における生涯が終わる前に、信仰を確かめ、祝福の内に歩みましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教