2022年09月25日

9月25日礼拝「祝福に満ちた収穫」第二コリント9:6〜8(9章)

9月25日礼拝「祝福に満ちた収穫」第二コリント9:6〜8(9章)
これまで皆様とご一緒に「コリント人への手紙」を読んでまいりましたが、この手紙には、コリント教会の抱えていた問題、それは実は私たちにも無関係ではない本質的な課題でもありますが、その問題に対して使徒パウロが、クリスチャンの、またキリストのからだである教会のあるべき姿を教えています。この大きなテーマと共に、小さなテーマ、それは「聖徒たちへの献金」と呼ばれていますが、正確には困窮していたエルサレム教会への援助金という話題がありました。今日、開かれております、第二コリント9章は、その援助金問題について取り扱っている最後の箇所です。すでに2、3回、この援助金のことをお話ししてまいりましたが、もう一度、御言葉に耳を傾けたいと思います。なぜぜならば、この問題は、私たちにとっても祝福となることだからです。
「祝福に満ちた収穫」と題しまして、いつものように三つのポイントで、第一に「祝福に満ちた贈り物」、第二に「神に喜ばれる贈り物」、そして最後に「感謝の溢れる贈り物」という順序でメッセージを進めてまいりたいと思います。
1.祝福に満ちた贈り物(1〜5節)
1節から読み進めてまいります。1節。
1 聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。
2 私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。
3 私が兄弟たちを送ることにしたのは、この場合、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。
4 そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。

1節で「聖徒たちへの奉仕」と書かれているのが、先ほども申し上げましたが、エルサレム教会の聖徒たち、クリスチャンたちへの援助のことで、「いまさら書き送る必要はない」と言いながら書き送っているのですが、それは彼らの中には忘れかけている人がいるので確認のために書いているわけです。パウロが手紙を書いている場所はマケドニア地方にある教会、恐らくピリピかテサロニケだと思いますが、マケドニアの諸教会にパウロは、アカヤ地方、すなわちコリント教会では昨年から準備が進んでいると自慢した。そのことでマケドニアの人たちは、よし自分たちもコリントに負けないぞ、と奮起した。それなのに先に始めていたコリント教会が実はまだ準備できていませんでした、ではみっともない、と語っているのです。
パウロは、ここで、この援助金を強制しているのではなく、むしろコリント教会の人たちが自主的に進んで始めたことを思い出して欲しいと言っているのです。このことをまとめているのが5節。
5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
特に5節最後の「献金を、惜しみながらするのではなく、行為に満ちた贈り物として用意しておいてください」。何度か申し上げてきましたが、ここで「献金」と言っているのは、正確には援助金のことですから、私たちも時には援助をします。9月の最初の日曜にはラブローフ献金と言って、ワールドビジョンを通しての援助金を捧げています。援助と言うのは、惜しみながらすることではなく、好意に満ちた贈り物だと言っている。援助は自由な気持ちに基づくものであって、強制的なことではありません。そして、それは献金についても同じことが言えるのでして、教会の献金はあくまで自発的な行為です。
最近、問題となっている、ある種の宗教と言うかカルトでは、献金をしないと悪いことになると脅すようなやり方とか、救われるためには献金が必要だという詐欺めいたやりかたです。聖書は、救いは神様からの一方的な贈り物であって、私たちがお金で買い取るようなことでは決してない。献金は神様への感謝であり、感謝を超えて、自分を捧げる思い、すなわち献身だと教えられています、
さて、コリント人への手紙の中で、この献金、正確には援助金ですが、何か所か「献金」という言葉に日本語に訳されているのは、パウロはギリシャ語でいくつかの言い方を使っているのですが、今日はそれを全てお話しすることはしませんが、この5節では「贈り物」と二度書いていますが、これは「祝福」という言葉を使っていると、欄外の注釈を見ると直訳では「祝福」だと書いています。私たちは祝福とは神様が私たちにくださるものだと考えています。ところが聖書は、私たちが他の人に、特に困っている人、弱い人に贈る援助も「祝福」なんだと教えているのです。それは、神様の祝福は、時には神様から直接来る場合もありますが、時には、誰か人間を通して祝福を送られる。神様が私たちに注いでくださる祝福は、私のためであると同時に、私を通して誰かを祝福するためでもあるのです。祝福を独り占めすることは神様の御心ではない。豊かに与えられた祝福は他の誰かのための分も含めて与えられたのです。
しかし、それですと、豊かに与えられた人しか援助をすることはできない、と考えてしまいます。確かにコリント教会は裕福な教会でした。しかし、それに対してマケドニア地方の教会は貧しい地域です。しかし、貧しい人たちが精一杯に援助をしようとしている。無理をしているのでしょうか。そうではなく、喜んで助けようとする人を、神様も喜んで助けてくださる。それが祝福です。力の無いと思っていた自分も誰かのために手を差し伸べることが出来るんだ。そうなれたこと自体が神様の祝福なのです。惜しみながら、という言葉も下の注釈を見ますと「貪欲」という言葉を使っていることが分かります。貪欲な生き方ではなく、祝福に満ちた生き方、自分が他の人にとっても祝福の存在となれるということを覚えたいと思います。
2.神に喜ばれる贈り物(6〜9節)
二つ目のことをお話ししたいと思います。6節。
6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る。これは分かりやすい真実です。種を蒔かないのに収穫を期待するのは間違っている。それは神様の定めた原則です。それをパウロはこの援助金にも当てはめて、他の人を助ける行為も、豊かにすることで自分にも豊かな収穫が与えられると教えているのです。「神は喜んで与える人を愛してくださいます」。これは、他の人を助けることが出来ない人は愛してくださらない、という話ではありません。神様の愛は、私たちが何かをする前、いいえ、神様に敵対していたときから既に愛してくださった。神様は人が喜んで誰かを助けることを見て、喜んでおられるのです。
小さな子供が一所懸命に大人を手伝う姿を見るとほほえましく感じますし、それだけ成長してきたことを大人は喜びます。強いられてする働きではなく、自分で決めて、それを実行するように成長してきていることが神様の喜びなのです。なぜでしょうか。8節。
8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
神様は私たちに、必要なものを与えてくださるだけでなく、さらに満ちたらせ、あふれるばかりにして、それを他の人にも及ぼすようにしてくださる、そういうお方だと言っている。それだけ神様を信頼しているのです。神様が私たちを用いて他の人にも祝福を注ぐようにしてくださる。だから私たちが神様に感謝するだけでなく、他の人を助けることを神様も喜んでおられる。喜んで行い、また神様がそのことを喜んで、もっとその働きができるように祝福を増し加えてくださる。だからパウロはコリント教会の人たちに何度も援助について話しているのです。神様は私たちにもこの神様のお働きに加わるようにと招いていてくださるのです。
3.感謝の溢れる贈り物(10〜15節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。11節、12節。
11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

あなたがたはあらゆる点で豊かになって、と言っています。コリント教会は経済的には豊かだった。でもその豊かさを神様からの祝福だと気が付いて、祝福を他の人に及ぼす働きには、まだ乏しかった。惜しみなく与えるという神様の働きに参加することにも豊かになることを進めている。それが、感謝を生み出す。援助を受けたエルサレム教会も神に感謝するでしょう。そして、この働きに参加できた諸教会も神様に感謝する。さらに12節には、「この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ち溢れるようになるからです」。感謝が満ち溢れていくのです。
パウロがこの援助金に熱心に取り組んでいた理由は、エルサレム教会、すなわちユダヤ人クリスチャンと、そしてコリントを始めとする異邦人クリスチャンたちの間にあった溝というか、時には敵対心にまでなっていた。でも、どちらも同じキリストによって救いの恵みに与ったのですから、和解して欲しい、一つとなって欲しい、それが神様のご計画だとパウロは考えていた。そのためにこの援助が用いられるように願っていたのです。援助を受けたエルサレム教会が異邦人クリスチャンに感謝し、それまでは異邦人を見下していたユダヤ人ですが、クリスチャンとなった異邦人の愛の働きを見て、異邦人が神によって変えられたと知って神様をあがめ、そして両者の関係が敵対関係ではなく、愛し合うものとなっていく。14節で、「彼ら」というのはユダヤ人クリスチャン、「あなたがた」というのはコリント教会を始めとする異邦人クリスチャンたちです。14節。
14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。
15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

ユダヤ人が異邦人を嫌っていたのが、どうにか和解するというだけにとどまらず、慕うようになる。これこそが、パウロにとって「言葉に表せないほどの神様からの賜物なのです。パウロも神に感謝して、9章を、そしてこの問題に関する話を閉じています。感謝がますます広まっていく。なんと素晴らしい神様のご計画でしょうか。
エルサレム教会が、援助が必要なほどになった理由はいくつかありましが、一番はその地方を襲った飢饉です。中近東世界では、飢饉は度々やってきます。そのために貧しくなるものもいる。でも旧約聖書は、そのように困窮した人たちを助けることを律法で教えています。このときは、この飢饉が、ユダヤ人教会と異邦人教会を愛によって結びつけるきっかけとなっている。もちろん、全ての災害がそうだということではないでしょう。でも、多くの人が災害に遭った人たちを助けようと手を差し伸べるのを見ますと、そこにも神様の導きがあるのだろうかと私たちは考えます。
まとめ。
多くの問題があり、苦難の中にいる人たちがいます。私たちもこの二年半、コロナのために悩んできた。でも、困ったな、どうしてこんなことが、と嘆くだけでなく、神様に祈ること、信頼することをも学んできたのですが、さらに、この問題を通して、私たちは他の人、困っている人のことを考えるようになることも神様が教えておられるのです。教会に来ることができない人たちのために、何ができるかを考えましょう。できることを、強いられてではなく、自ら喜んでできることをする。そして、助けることが出来たことを神に感謝し、助けられたことを通して、相手に感謝し、神様に感謝する。感謝が満ち溢れるようになる。そのために、私たちも用いていただきたいと願います。神様は私たちを用いるためにもっと祝福を注ごうと準備しておられるのです。
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2022年09月18日

9月18日礼拝「持てる力によって」第二コリント8:10〜15(8章)

9月18日礼拝「持てる力によって」第二コリント8:10〜15(8章)
昨今は、テレビや新聞で統一協会のことが取り上げられ、カルト宗教が政治と結びついたり、たくさんのお金を巻き上げたり、と批判されています。このような宗教がらみの問題が起きたとき、怖いのは、全ての宗教が同じだと考える人も出てきて、キリスト教への拒否反応のようなことになってくると、私たちが信仰生活を送ることにも否定的な目で見られかねないし、伝道することがますますやりづらくなってきてしまいます。キリスト教会は、そんなのとは違うんです、と主張しても、外部の人からは同じように見えてしまうかもしれない。そのような中で、献金ということを語るのも気をつけなければならなくなります。聖書は決して強制的な献金ということを教えていないのですが、むしろ献金の正しい意味を理解して、それが恵みでもあることを知ることが大切です。
なかなか、礼拝説教でも献金について触れることが少ないのですが、でも、こうして順番に聖書を開いてまいりますと、今日の聖書箇所のように献金という言葉が出てくる。その時にはきちんと献金についてお話しするのが良いと思うのです。ただ、以前にもお話ししたことですが、8章の10節にあります、「この献金」というのは、私たちが考える献金よりも、エルサレム教会への援助金、寄付金という働きですので、ここに書かれていることをそのまま私たちの献金に当てはめるというのではなくて、でも彼らがしていた献金の意味は私たちの献金に対しても大切なことを教えていると思います。それは、献金が神様のご計画に関わることだというメッセージです。いつものように三つのポイントに分けてお話ししてまいります。第一に「富む者とされた貧者」、第二に「神の国の経済学」。そして第三に「熱意と信頼の同労者」という順序で進めて参ります。
1.富む者とされた貧者(1〜10節)
1節から少し読んでまいります。
1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

マケドニアの諸教会の中には、ピリピ教会やテサロニケ教会がありました。この地方は、アテネやコリントがあるアカヤ地方と比べるなら、地方の貧しい地域にある教会です。でも、彼らは貧しくはあっても、神様の恵みに応答して、エルサレムの聖徒たちを支える援助の働きに大胆に参加したのです。なぜパウロはコリント教会の人たちにマケドニアの諸教会のことを話したのでしょう。彼らがしているのだから、あなたたちはもっとすべきだというような、同調圧力ではありません。実は、10節を見ますと、10節後半に、「あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行っただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。」つまりコリント教会が言い出しっぺで、それを聞いた他の教会も、自分たちもその働きに参加しよう、と頑張っている、という話なのです。ところが言い出したコリント教会は、様々な問題が起きていたため、いつのまにか後回しになっていた。それをパウロは励まして、始めた働きをせっかくですから成し遂げるようにと手紙の中で何度も触れているのです。
マケドニアの諸教会は、2節にあるように、貧しい教会でした。極度の貧しさと書かれています。また激しい試練と書いているように、コリントだけでなく他の教会にも試練や問題があった。でも、彼らは、そのような状況にもかかわらず、神様の恵みに対して喜びが満ちあふれ、惜しみなく施す、と書かれているとおり、自らの力に応じて、時には力以上に捧げたのです。神様の救いの恵みは、私たちに感謝と喜びをもたらし、その喜びは試練の中にあっても消え失せるどころか、ますます光り輝くような喜びとなるのです。パウロは、コリント教会に人たちにも、この喜びを知って欲しい。そのために、まず彼らのプライドに訴えます。コリント教会は経済的に豊かな教会であり、知恵や信仰に関しても豊かだと彼らは思っていた。だったら、弱く貧しい教会以上に、その力を発揮できるのではないか。これはコリント教会から搾り取るということではなく、神様のために捧げ、神様の恵みに生きることで、彼らにも豊かな恵みが注がれて、かつての喜びを取り戻すようになること。パウロはそれを願っていたのです。豊かな恵みにすでに与っている彼らが、さらに愛に富んだ者となって欲しいと、彼らに訴えかけている。7節。
7 あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。
このパウロの勧めの背後にあるのは、キリストの恵みです。9節。
9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
キリストは神の御子の位を離れて、地上で貧しい大工の子となり、石の枕に寝るような厳しい生活をした。それは、私たちが神様の救いの恵みに富む者となるためなのです。このことは、コリント教会だけではない。私たちも同じように、イエス様の恵みによって富む者としていただいたはずです。ですから、私たちも、このパウロの勧めに耳を傾けるのです。
2.神の国の経済学(11〜15節)
二つ目に、経済学と言いましても、この世界の経済に関しては、私は素人です。でも神の国の経済学は、聖書が私たちに教えているところです。13節から少し読みたいと思います。
13 私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。
14 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。
15 「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。

余っている者が足らない者に分け与えることで、みなが平等になる。これはまるで社会主義というか、富の再分配という経済学の話に似ています。ただ、聖書が違うのは、そこにも神様がおられる。神様が私たちに恵みを注ぎ、その恵みは全員に一律に同じものが与えられるのではなく、多い人も少ない人もいて、一見、不平等です。でも神の国は、個人主義ではない。むしろ愛によって支え合う共同体であり、弱い部分を支え合うキリストのからだです。ですから、あえて人によって多い少ないがあることで、その愛を実践できるようにしておられる。これが神様のご計画です。個人個人が満たされて、自分だけで生きるのではない。支え合うことでより強く結びあう。それは物質的な恵みが多くあるよりも素晴らしい恵みです。
私たちが持っているものは、元をただせば、神様から来ている。それを神様がどのように用いなさるか。でも、神様はそのお働きのために私たちを用いて、神のしもべとしてくださるのです。だから、聖書の中に捧げることを教え勧めている箇所がたくさんあるのです。決して、誰かが富を巻き上げるためではなく、教会の中で、また教会を通して、神の恵みの経済学が実践されるのです。
イエス様が「天に宝を」と教えたのも、地上の生涯が終わったあとの天国のためであると同時に、今の地上においても、教会が神の御国となることを考えておられ、その結果、「貧しい者は幸いである」という教えが成就するのです。地上にあって、もう天国は始まっている。それはあたり前では無く神様の奇蹟であり、それが教会の愛の関係において実現する機会となるのです。
3.熱意と信頼の同労者(16〜24節)
三つ目のポイントに移ります。11節、12節。
11 ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。
12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。

ここには、喜んでする、熱意を持ってすることが語られています。神の国の建設、またキリストのからだを建て上げる働きは、私たちが熱心にそれに取り組むなら、素晴らしく前進していきます。その熱心は、どこから来るのか。
大飢饉の影響で貧しくなっていたエルサレム教会を、異邦人教会が援助して支えるという計画は、コリント教会が始めたと聞いたマケドニア諸教会が、コリント教会の熱意を知って、自分たちもしたい、と進み出た。熱心に良い働きをしている人を見ると、応援したくなります。熱意は伝わるのです。今度は、マケドニア諸教会の熱心がコリントに遣わされたテトスを通して、火が消えかけていたコリント教会に燃え移る番です。他にもエペソを中心とする小アジア地方の諸教会も参加しています。でも、人間的な熱心には落とし穴があって、熱心の余り暴走したり、あるいは一時的な熱心が長い時間の中で消えてしまうこともある。熱心さだけでなく、もう一つ、信頼が大切です。
18節。
18 また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。この人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されていますが、
19 そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。
20 私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています。

これはどういうことかと言いますと、各地の教会で集めた寄付金を持って行くのに、襲われたり盗まれたりする危険もある。そこで各地の教会からそれぞれ代表者を選んで、パウロと同行した。『使徒の働き』を読みますと、一時期、パウロの同行者の人数が増えているのは、そのためです。それは、外部の敵、盗賊などの危険だけでなく、それをパウロがごまかして懐に入れるのではないか、という不信感をおこさえたりしないため、もちろん、良い働きに皆が参加したかったからでもあります。
熱意だけでは偏ることもある。お互いの信頼関係をしっかりと築くことも大事です。信頼関係が確かなら、協力もしやすいし、力や熱心が弱るときは、他の人が助けてくれる。これは聖書が教えている知恵です。教会は、一部の人だけが熱心だというのでは、その人たちが疲れ果ててしまう。それぞれは持てる力によって助け合い、支え合う。それを他の人も信頼して、任せたり、できることで助けたりする。この関係が培われていくとき、キリストのからだはより強固なからだとなって成長し、前進していきます。教会の質が高まると数も増える、ということを先日も月報の『いづみ』に書かせていただきました。神の国を建て上げるなら、それがキリストのからだの建設なのです。
人によって力やタイプは違いますが、そのような様々な人が力を合わせるのが、教会の素晴らしい点です。教会は牧師も信徒もお客さんではありません。ましてや、「お客様は神様だ」なんていう考えは、聖書に反しているのは明らかです。むしろ、だれもが同労者です。もちろん、最初は、誕生したてのクリスチャンがベテランの信徒と同じ事ができるかは難しい。でも子どもには子どもにしかできないことがあるように、教会に連なる人は誰もが持てる力によって神様に仕え、共に働く同労者なのです。23節。
23 テトスについて言えば、彼は私の仲間で、あなたがたの間での私の同労者です。兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光です。
24 ですから、あなたがたの愛と、私たちがあなたがたを誇りとしている証拠とを、諸教会の前で、彼らに示してほしいのです。

コリント教会の人たちに、テトスを、パウロ先生の同労者であり仲間だと紹介しています。他の兄弟たちも諸教会からの使者、教会の代表者だと紹介しているのも素晴らしいですが、もっとすごいのは、「キリストの栄光」と呼び、パウロは彼らを、また、あなたがた、コリント教会を誇りとしている。この信頼関係と愛による熱心がパウロだけでなく、他に人たちにも広まって行くのです。
まとめ.
コリント教会とパウロたちの働きを見てきましたが、私たちも同じです。自分の持っている力と、自分だけでなく他の人を信頼する。そのことを熱心にさせていただきましょう。私たちも神様の計画、神様のお働きに参加させていただけるのです。とは言っても、自分は何もできない、と思われる方もおられるでしょうか。確かに人によって、若い時にできることと、高齢になってできなくなること。でも年齢を重ねたからこそ、落ち着いて信仰をしっかりと持つなら、若い人たちの尊敬と模範となります。働きは様々ですが、お互いを信頼して、お互いに持てる力を出し合って、共に歩む教会とならせていただきましょう。

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2022年09月11日

9/11礼拝「喜びにいたる慰め」第二コリント7:4〜10(7章)

9/11礼拝「喜びにいたる慰め」第二コリント7:4〜10(7章)
今日、開かれておりますコリント人への手紙第二は、その名前の通り、手紙です。使徒パウロがコリント教会の人たちに書いた手紙が聖書の一つの書となっています。聖書は読みやすいように1章、2章と区切られていますが、本来の手紙は、皆さんも手紙を書いたことがおありでしょうが、1章、2章というように区切ることはないでしょう。ですから、7章はもともと6章からつながっていて、1節と2節は6章と結びついていて、3節で話題を転換して、4節から新しい話題が書かれている。それは「慰め」ということで、先ほど司会者に読んでいただいた4節から10節までに5回ほど「慰め」という言葉があり、その反対の「悲しみ」という言葉も何度か出てきます。悲しみが慰められる。誰でも、苦しいとき、辛いとき、悲しいときがある。でも私たちが信じている神様は慰めの神です。6節にこう書かれています。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は
気落ちしたときに慰めてくださる。素晴らしい恵みだと思います。でも、どのように慰めてくださるのか。それは喜びに至るまで慰め続けてくださるのです。
いつものように三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「慰めの神の働き」ということ、第二に「御心に沿った悲しみ」、そして最後に「誇りと信頼による喜び」という順序で勧めてまいりたいと思います。
1.慰めの神の働き(1〜7節)
昨日も教会員の方のご葬儀が行われました。八月は二人の教会員が天に召されました。それぞれのご家族によって違いがありますが、寂しさを感じる方は決して少ないはずはない。大きな損失をしたり、失敗をするのも悲しいかもしれませんが、愛する家族が突然に亡くなることは、人間誰もが悲しみを感じることです。自分や自分の家族友人に関する苦しみだけでなく、教会の兄弟姉妹が辛いとき、教会全体が弱っているときに、心から平安でいることはできない。大きな悲しみや苦しみの場合は、誰かが慰めようとしても、表面的には言葉をかけることができても、心の奥に届くような慰めの言葉は、なかなか出てきません。しかし、人間には誰も慰めることができないようなときに、神様はその人を慰めようとして働いてくださるのです。気落ちして、心がうなだれているときに神様の御言葉に慰められた体験をした方もおられるでしょう。何かの出来事が、小さなことであっても、それが心に響いて、神様からの慰めとなることもあります。
さて、手紙を書いたパウロ自身が神様からいただいた慰めについて少しお話ししたいと思います。5節から読みます。
5 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。

これはパウロの第三回伝道旅行のときです。エペソでの伝道を終えて、パウロは主に陸路でエーゲ海の周りを左周りで進んでいき、マケドニアに着きました。マケドニア地方にはピリピやテサロニケといった町があります。そのころ、パウロの心は「気落ちしていた」と書かれている。どうしてか。パウロはコリント教会の問題を聞いて心を痛め、どうにかしようとしていました。手紙を書いた。それがコリント人への手紙第一です。手紙を送っても解決しない。そこで使徒の働きには書かれていませんが、パウロはおそらくエーゲ海を渡って直接にコリントに行って、彼らと会った。でも上手くいかない。パウロはエペソにもどって、もう一度手紙を書いた。それが今は残っていない手紙で、悲しみの手紙とか涙の手紙と呼ばれています。手紙を書き送ってから、その結果、コリントの人たちが手紙をどう受け止めたのか、パウロは心配でした。これまで手紙を書いても直接に会っても上手くいかなかった。今度の手紙で、また誤解を与えたり、反感を生んだら、ますますコリント教会との関係はこじれて行ってしまうかもしれない。そう思うと、パウロは自分のしてきたことが無駄だったのだろうか。先走りして行ってきたのが間違っていたのだろうか。そう思うと心が沈んでいったのです。コリント教会の問題だけではありません。伝道旅行では、盗賊に会ったり嵐に会ったりすることもあり、町について伝道すると迫害を受けます。そのようなことが度重なって、パウロの心は気落ちしていたのです。
私たちも似たような経験をすることがあります。人間関係が悪化して、話をしても手紙を書いても、何をしてもますます悪化していく。誰かからいわれのない批判を受ける。相手のためにと思ってしたことが誤解されてしまう。最初は頑張ってどうにかしようと思っていたのが、失敗が度重なると、もうダメかと諦めそうになる。パウロはそんな心持ちだったでしょう。そのどん底だったときに、神様は慰めとなることをしてくださったのです。それは「テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました」とあります。
エペソから手紙、これは涙の手紙とよばれているものですが、その手紙をパウロは弟子のテトスに託して、テトスはエペソから直接にエーゲ海を渡ってコリント教会に行きました。手紙を届けてから、テトスは今度は陸路で海の周りを右回り、パウロたちと反対向きでマケドニア地方に進んでいった。反対向きに回っていますから、どこかで落ち合うでしょう。それがちょうどマケドニアのどこかだったのです。テトスと落ち合うのは打ち合わせ通りですから、不思議なことではありません。でも、それがパウロの一番気落ちしているとき、ちょうどその時にテトスと会えた。信頼する弟子であり、また彼だけが単独で別行動をしていたのですから、この時代の旅は決して安全ではない。テトスのことも心配していたのが、無事に落ち合うことが出来た。それが小さな慰めでした。そしてさらに、7節。
7 ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
テトスと会えただけでなく、テトスがもたらした知らせです。あの手紙を読んでコリント教会の人たちが変えられた。テトスはテトスで不安な心で手紙を運びました。これを読んだらコリント教会の人はどう受け止めるだろうか。テトスは弟子としてパウロのことをよく見ていましたから、パウロの心配が良く分かっていた。でも、実際にコリント教会にいって手紙を渡したら、手紙を読んだ人たちは涙を流した。これが「涙の手紙」と呼ばれる所以です。涙を流して悲しんだのは、自分たちが間違っていたと気が付いたからです。そしてパウロがコリント教会の人たちをどれほど愛しているかが分かって、彼らもパウロへの尊敬と愛を確認した。その様子を見て、まずテトスが慰められた。そしてテトスはそのことをパウロに知らせたとき、パウロも慰めを受けたのです。
悲しみの中で打ちひしがれている人を神様は憐れんでいてくださり、神様の時が来たら慰めを与える、そのためにすでに働いておられるのです。コリント教会の人たちが手紙を読むころには、彼らの心を少しずつとかしてくださり、素直な思いで手紙を読むことができた。頑なな心のままですと、こちらが何をしても受け入れることが出来ません。でも神様が何かをして、彼らの心を変え始めておられた。そこから悲しんでいた人たち、パウロもテトスも、そしてコリント教会の人たち自身も悲しんでいたのが慰められた。イエス様が山上の教えで語られたとおりです。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」。慰めの神様が必ず慰めてくださり、神様からの慰めはついには喜びにまでいたる慰めです。だから悲しむ者は幸いだと言われた、その通りです。
2.御心に沿った悲しみ(8〜13節)
二つ目のポイントに移ります。8節から読みます。
8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

あの手紙というのは涙の手紙か、それともコリント人への手紙第一のほうかははっきりしませんが、パウロは自分のしたことで彼らが悲しんだのを知って、パウロも悲しかった。でも、この悲しみは、やがて慰めにかわる。なぜか。それは「あなたがたは神の御心に添って悲しんだ」と書いています。神のみこころに添った悲しみとは何でしょう。その反対は世の悲しみと書いてあります。世の悲しみとは神様抜きの悲しみ、神様から離れた悲しみです。悲しみのあまり、すっかり神様から心が離れていると、問題を解決できるはずがなく、ますます悲しみが深まっていく。でも神の御心に添った悲しみは、悲しみつつも神様に近づくのです。
旧約聖書の詩篇には信仰者たちの祈りがたくさん残されていて、中には悲しみや苦しみの中の祈りがあります。「神様、なぜですか」と神様に食って掛かっているような祈りもあります。それでも神様に心を向けている。やがて祈りは変えられて行き、最後には神様に感謝し、賛美するようになる。
コリント教会の人たちの悲しみも、神の御心に添っていた。ですから、彼らは神様に祈り、聖書の言葉を読み、聖霊の呼びかけに耳を澄ませた。その時、パウロが悪いとか、あの罪を犯した人が悪いとか、誰かのせいにしていたのが、聖霊が自分自身の罪に気が付かせてくださり、彼らは人ではなく、まず自分が悔い改めた。神様の言葉によって悔い改めに導かれらとき、そこには必ず救いの御業が起こります。他者ではなく自分が変えられるとき、問題は解決に向かうのです。
3.誇りと信頼による喜び(13〜16節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。13節。
13 こういうわけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。
テトスの報告を聞いて、コリント教会の問題が解決に向かっていることを聞いて、パウロは慰められた。でもテトスは、コリント教会の人たちが悔い改めて変えられたのを見てきたので、喜びがあった。その喜びがパウロにも伝染してパウロも喜ぶようになった。悲しみから慰め、そして喜びに変えられていったのです。この喜びはどこから来るのか。14節。
14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったからです。
「私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇った」と書いていますが、なんと言って誇ったのかは書いていません。きっと、コリント教会の人たちの良いところを誉めたのでしょう。実際は、コリント教会は問題だらけの教会で、誇れるような教会ではない。でもパウロは彼らの良い点を見ていた。
私たちは他者の悪いところばかり見て裁いてしまうことがあります。でも、その人の良い部分に目を留めるとき、希望が与えられます。きっとコリント教会の人たちはいつか分かってくれるはずだ。そうテトスに語って手紙を運んでもらった。その誇ったとおりになって、コリント教会が変えられた。パウロが彼らを信頼していた、その信頼のとおりになったのです。そして、この信頼は喜びに至ります。16節。
16 私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。
信頼がさらなる信頼を生み、ついに全幅の信頼を寄せるまでになったとパウロは喜んでいます。この信頼関係がどれほど大切でしょうか。信頼が薄いと、ちょっとしたことで相手に失望して、裏切られたと思ってしまう。でも信頼があるなら、ちょっとやそっとのことでは揺るがない関係となります。そのような関係を、人に対しても、それ以上に神様に対しても信頼することが出来るなら、どんな問題があって、悲しみや苦しみがあっても、必ず慰めが与えられ、喜びにまで至るのです。
最初に戻って、4節。
4 私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。
パウロがコリント教会のことを諦めなかったのは、最初から彼らを信頼していた、誇りとしていたからです。このような関係を私たちも築き上げていきたい。キリストのからだを建て上げるとは、そういうことです。お互いのことを誇り合い、信頼し合う教会は、嵐が来ても揺るがされません。揺らいでも立ち直ることが出来ます。そして嵐を乗り切ったとき、そこに大きな喜びがあるのです。
まとめ.
悲しみの中にいる人たちがおられます。その人たちに天からの慰めがあるように、私たちは祈ります。でも、祈っている自分自身にも慰めが必要なのではないでしょうか。コロナ禍にあって、心も体も疲れ切っている。経済的な問題、もつれた人間関係、いろいろな問題が積み重なるなかで、心が気落ちしているのに気が付かないほどに疲れ果てている。そんな私たちにも神様からの慰めが必要です。いいえ、神様はすでに働いておられ、見えないところで手を伸ばしていてくださる。私たちが慰めの神様に立ち帰って御声に聞き従うなら、神様が喜びに至らせてくださるのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教