2023年01月29日

1月29日礼拝「神と共に生きる」イザヤ26:15〜21(24〜27章)

1月29日礼拝「神と共に生きる」イザヤ26:15〜21(24〜27章)
今日は召天者記念礼拝ということで、礼拝堂の両側に写真が並んでいます。また、礼拝の前には前方にも映し出していただきました。年々、写真の数が増えて行きますのと、古い時代の方に直接に会ったことがある方も少なくなっていきます。さらに何十年か経ちましたら、亡くなられた方のことを覚えている人も減っていくことでしょう。でも、教会では昔の人たちのことも大切にしていきます。それは、この方々は天国で再会するからです。
今日は、人生には終わりがあることと、その先にあることを、聖書を通してご一緒に考えてまいります。今、礼拝では旧約聖書のイザヤ書を続けて開いておりますので、今日も26章を読んでいただきました。この個所から、「神と共に生きる」と題してメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントに分けていきます。一つ目に「全てに終わりがある」ということ、第二に「神に祈る時」、そして第三に「神による逆転」という順序で進めてまいります。
1.全てに終わりがある(24〜27章、イザヤの黙示)
さて、今日、初めてイザヤ書を読む人もおりますので、少し、背景のようなことをお話ししたいと思います。旧約聖書の時代、イスラエルは神様に救われました。エジプトで奴隷とされて苦しんでいたのですが、神様がモーセを遣わして、救ってくださり、神様と契約を結んで、神の民としていただき、住む土地を与えていただいた。どれだけ感謝したでしょうか。ところが、彼らは神様を裏切って、自分たちの好き勝手なことをした。神様から与えられた法律である律法を捨てて、神様がお嫌いなさる悪いことを積み重ねていった。このままでは神様に見捨てられても当然です。そこで神様は何度も神のしもべ、預言者たちを遣わして、イスラエルが悔い改めて神様に従うようにと告げてきたのです。その一人が預言者イザヤでした。彼はエルサレムの人々に神様の言葉を伝えます。このままでは国は滅び、エルサレムも破壊される時が来る。でも人々は、自分たちは滅びることはない。それに他の国だって悪いことをしているのに、どうして自分たちだけが滅びなければならないのか。私たちも、自分は正しいとか、ほかの人もしているじゃないか、と言って、言い訳をすることがあります。神様は、他の国々も神の裁きを受けると告げて、だからイスラエルも決して裁きを逃れることはできないと語られた。ここまでが前回までにお話ししたことです。イザヤ書の13章から23章まで、色々な国の名前を挙げながら、それぞれの罪と、その罪に対する神の裁きが下される。そして、今日、お話しします24章から27章には、どの国、あの国、ということを超えて、全世界が神に裁かれるということが描かれています。
24から27章を全部お話しすることはしません。長いだけでなく、髪の裁きによって世界が滅びるという、恐ろしい話ですから、読んでいくと気が重たくなっていきます。でも少しだけ拾い読みをしたいと思います。まず、24章の1節から5節を読みます。前方にも映されますので、そちらをご覧ください。
24:1 見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。
24:2 民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。
24:3 地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。
24:4 地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。

ここには全地が荒廃すること、また人々は散り散りバラバラになり、身分など関係なくなる。4節には世界がしおれる、天もちもしおれる、と天地の滅びについて語られていきます。さらに読んでいきますと、天体までもが光を失うと書かれています。こんな調子ですから、途中は飛ばして、27章の1節。
27:1 その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。
これは当時の人が恐れていた海の怪物のことです。蛇のような竜のような怪物です。本当にいるのかと考えられるかもしれませんが、人間にはどうすることもできない恐ろしい存在でさえも、神様に滅ぼされる。
さて、この個所は、世界の滅亡と、天地万物が滅びること、また人間が恐れる蛇のような存在も滅ぼされる。このようなすさまじい情景は、聖書の他の箇所にも似たような描写が出てきます。その中で有名なのは、聖書の最後にあります、ヨハネの黙示録で、この世の最後に世界が滅びると書かれていて、大きな蛇というのは悪魔のことを指していて、その蛇も倒される。天体も光を失う。とてもよく似ていますので、24章〜27章は「イザヤの黙示」と呼ばれています。
私たちは、世の終わりに神の裁きがあるということが聖書に書かれていることを知っています。でも、それが今すぐに起きるとは思っていない。いや、それが本当だとしてもはるか先の話で、自分には関係ない、と考えるのが普通だと思います。それに世界が滅びるなんて大げさではないか。確かに、ある国が亡びるということは歴史でも教わった。また現代でも、50年前と比べるなら、名前が変わった国もあれば、国境が変わっている地域もある。一つの国が滅亡しても、またほかの国が起こり、国の名前は変わっても、人類は変わらず続いていく。ある意味、その通りです。
でも、世界の歴史ではそうだとしても、私たち自身の生涯ではどうでしょうか。誰かの人生が終わるときがくる。でも、他の所で新しい人が生まれる。でも、親しかった人が戻ってくるのではない。人生はいつか終わる者です。そして、私にも終わりが来る。これは厳粛な真実であり、また、つらく寂しいことです。
2.神に祈る時(26:7〜21)
二つ目のことをお話ししたいと思います。それは神様に祈るということです。26章の8節を読みます。
26:8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。
「あなたのさばき」とは、神様が全てを裁く、その厳しい事実の中で、「主よ」と神様に語り掛けている。これが祈りです。この「主よ」という言葉が、この章に何度か出てきます。私たちはつらい時、苦しい時、神様に祈ることがあります。自分の力ではどうすることもできないときに、神様に助けを求めます。真剣に祈らざるを得ない、そんなときが人生に何度かあるのではないでしょうか。しかし、同時に、「どうせ祈ったって、ダメじゃないか」と諦める思いを持つこともありますが、でも心のどこかで神様に思いを向ける。そんな部分が誰にでもあります。
クリスチャンは、特別な時だけでなく、普段から神様に祈る習慣があります。でも、祈ったらすぐに物事が好転するとは限らないし、祈っても困難はやってきます。それでも、祈り続けなさい、と聖書は教えています。でもいつまで祈るのでしょうか。問題が解決するまででしょうか。いいえ、解決できない問題もあります。でも、祈るときに、いつか、神様が答えてくださるときが来るのです。それは聖書の言葉を通して、あるいは誰かの言葉を通してかもしれません。神様が自分の心に語り掛けてくださる。その語り掛けは、問題の解決では無いとしても、問題に関係する疑問への答えかもない。あるいは、まったく違う方向から、思ってもいなかったことを語ってくださる場合もあります。
旧約聖書にヨブという人物が登場します、このヨブは、あるとき大変な苦難に遭う。周囲の人は、お前が何か神様を怒らせるような悪いことをしたんじゃないのかと心無いことを言います。でもヨブは真剣に神様を信じ、神様が嫌う悪を離れて、正しく生きてきた。でもヨブの心には、神様、なぜ自分はこんな苦しみを受けるのですか、という疑問がありました。ある日、神様がヨブに語り掛けてくださった。でも疑問への答えではありません。しかし、ヨブは神様が自分に語ってくださった。自分を忘れたり無視していたのではない。そう気が付いたとき、彼の心は満足し、平安になったのでした。
親しい人が天に召されて悲しみを感じている人もいるでしょう。自分自身や、愛する人のことで悩んでいるかもしれません。どうぞ神様に祈り続けてください。時が来たら、神様はあなたにも語ってくださるからです。
3.神による逆転(26:19〜20)
預言者イザヤは、遣わされたエルサレムの人々に、将来の滅亡を予告し、でも、本当は滅んで欲しくはない。だから悩みつつ、神様からの言葉を伝えていた。そして、彼は同時に神様に祈った。預言書の中には、そのような祈りもたくさん出てきます。イザヤの祈りにも神様は答えてくださり、ヒントを与えてくださっています、14節。
26:14 死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。
ここには、死んだ人は生き返らない。そして、その人たちの記憶も消えていくときが来る。写真に飾られている人たちのことを、覚えている人もいる。でも、古い人のことを知っている人は減っていく、何百年か経ったら、覚えている人はわずかになるでしょう。何千年経ったら、記憶からは消えていく。これは厳しいですが、真理です。ところが、19節。
26:19 あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。
ついさっき、死んだ人は生き返らない、と言った舌の根が渇かないうちに、死んだ人は生き返ると語る。これは矛盾のように思います。でも、良く読むと、「あなたの死人」、すなわち、ただ死んだというのではなく、主にあって死んだ人です。神様との関わりの中で人生の終わりを迎えた、ということでしょう。写真が飾られている方たちは、池の上教会の信徒だった人、あるいは教会との関わりがあった、教会員との繋がりがあった、あるいは、イエス・キリストを信じていた。一人一人、その関わり方は違います。親しかった人以外は、知らないかもしれません。でも、神様はその人のことを知っていてくださった。そのような人は、いつか蘇って、喜び賛美するときがくる、と告げているのです。
人間は有限な存在です。長く生きても120年と言われる。いつかは自分も終わりが来る。でも、神様は永遠の存在です。ですから、神様のものとされるなら、神様は決してその人を忘れるようなことはない。その人の見も心も全て知っておられ、終わりの時に、もう一度生きた存在としてくださることが、神様にはできるのです。そのことを信じている私たちにとっては、死は終わりではない。世界は滅亡して消えてしまうのではなく、死を通った人は、天国、永遠の神様の国へと入れていただける。このことを私たちは心に覚えていきましょう。
まとめ.
私は、牧師になる前は高校の教師でした。あるとき、新入生のクラスの担任になることになった。でも私は昔から覚えるのが苦手で、特に人間の顔と名前を一致させるのに苦労していました。でも担任する生徒を知らないでは困る。そこで、入学願書に貼ってある写真をクラスの人数分、写真の顔と名前を毎日見て、必死で覚えたのを思い出します。会堂の左右にある写真の中には、私が池の上教会に赴任するより前に召された方もおられますから、直接はあったことがない。昔の人は忘れていくかもしれない。でも、この方たちは昔の人ではありません。未来に、天国で再会する方たちです。ですから、毎年、召天者記念礼拝をするのは、この写真を見て、会ったときに、「ああ、あなたでしたか」と挨拶できるように、毎年確認をしているのです。神様を信じて、教会とつながっていくなら、神様は必ず天国でひきあわせてくださる。この希望をしっかりと握りしめていきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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