先週の元旦礼拝で、今年の池の上教会の標語として、マタイ6章33節より、「神の国と神の義を第一に求めよ」とさせていただきました。神の国とは、神様を王とする国です。これは新約聖書だけでなく、旧約聖書の時代にも「神が王である」ということが言われています。詩篇にも「主は王となられた」という詩がいくつもあります。イザヤ書も同じ事を違う言い方で語っています。それは、神様はイスラエルだけでなく世界の王である、ということです。世界の王であるなら、時代を超えて私たちにとっても王です。ですから、この年、私たちは王であるこのお方に従ってまいりたいと思います。
今日は、イザヤ書の、とても長いのですが、13章から19章を通して「主こそ王」であるということをお話ししたいと思います。いつものように、三つのポイントで。第一に「神に逆らう国」、第二に「国々を裁く王」、そして第三に「神に祝福される者」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.神に逆らう国(13:1〜22)
昨年末、イザヤ書の1章から12章までを取り次がせていただきました。クリスマスに関わる御言葉も多いですが、全体としては、南王国ユダと、その都エルサレムに対するメッセージであり、南北含めて、イスラエル全体への神の言葉が語られています。イスラエルは、自分を救ってくださった神様に背いたために、滅ぼされなければならない、という裁きの言葉が預言されています。でもイスラエルだけが裁かれるのはどうしてか、という疑問に対して、13章からは、神様はイスラエルだけではない。世界の全ての国々を裁くのだ、という事が語られていきます。
13章から23章までは「諸外国への裁き」と呼ばれます。13章と14章には、バビロン、アッシリアといった、古代中近東の大帝国でさえ神の裁きを受けることが語られています。14章の終わりには、長い間イスラエルを苦しめ続けていたペリシテへの裁き、15章と16章にはモアブ、17章ではアラムと、アラムに追従していた北王国イスラエルも一緒に裁かれます。18章ではクシュ、これはエチオピアのことです。19章はエジプトへの裁き。これを一つ一つ説明していきますと大変です。今までのように一回の説教で一章か二章ずつですと、毎週、どこかの国の裁きの事をお話するというのは、聞いている方も嫌になってきますので、今回は一気に19章までお話ししたいと思います。
特に、先ほど読んでいただいた、13章の最初にはバビロンの名前が出てきます。
13:1 アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。
13:2 はげ山の上に旗をあげ、彼らに向かって声をあげ、手を振って貴族の門に、入らせよ。
これは神様が多くの軍隊を集めてバビロンを攻撃させる様子を描いています。バビロンとは「神の門」という意味ですので、「貴族の門」という言い方を使っています。全世界から強い国々を、神様が招集してこの国を滅ぼすという、神の裁きが宣告されています。
少し不思議なのは、イザヤが活躍した時代は、アッシリアがメソポタミア世界を治めていて、周辺の国々を支配していた。イスラエルもやがて飲み込まれ、ユダにも手が及ぶのですが、そのとき、バビロンは小さな国で、アッシリヤに苦しめられていた。イザヤが死んだあと、数十年してからバビロンが大きくなってアッシリアでさえ倒してしまうのですが、まだ小さかったバビロンがどうして最初に取り上げられているのか。それは世界の国々の代表ということです。
面白いことに、バビロン、と書かれている言葉は、原文ではバーベルとなっています。これはバベルの塔で有名なバベルと同じ言葉です。このバーベルは、創世記の最初だけはバベルと訳されますが、それ以降は同じ言葉がバビロンと訳される。でも実は同じことです。バビロン、すなわちバベルは、世界の歴史の最初から神様に背いた国の都です。歴史が進み、バビロンという大帝国になっても神様に逆らい、そして、聖書が教える歴史の最後、黙示録の時代になっても、バビロンは登場して、神様に裁かれてバビロンは滅亡します。つまり、バビロンというのは一つの国の名前である以上に、神様に背き続ける人間の国の代表なのです。いつの時代も、古代から未来に至るまで、人間の国々は神様に背き続ける。それは、神の民と言われたイスラエルも同じです。どこかの国を非難するということではありません。その国にも良い人もいるでしょう。悪いと言われる人だって、家に帰れば良いお父さん、お母さんかもしれません。でも、それが集まって国となると、人間の罪が政治や経済を利用して悪を働き、人々を苦しめるのです。
これは国のような大きなものだけではありません。例外なく、全ての人の心の内にある罪が、神様の背を向け、悪を働き、誰かを苦しめる。どうして、13章からの部分は様々な国々を取り上げているか。代表だけ挙げたら十分ではないか。それは、例外なく全ての国、全ての人が等しく神の裁きを受けるからです。それは、古代中近東の国具にだけではない。イスラエルだけの話でもない。今の私たちも同じなのです。
2.国々を裁く王(19:1〜17)
二つ目のポイントに移ります。途中を飛ばしますが、もし興味のある方がおられたら、一つ一つの国に対する裁きの言葉を読んでみてください。それぞれ裁かれる理由や、裁かれ方は違います。いつ裁きが来るかは、歴史をひもとくと、様々な時代です。共通しているのは、いつか必ず神の裁きが下されるということです。
最後のエジプトのことが19章に述べられています。エジプトは将来の裁きだけでなく、過去にも裁かれたことがある。それは出エジプト記に書かれています。19章の5節。
19:5 海から水が干され、川は干上がり、かれる。
19:6 多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は、水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。
ここにはエジプトへの裁きを象徴するように、川と海への裁きが語られていますが、ご存じのように、出エジプト記では、ナイル川は水が血になって臭くなり、紅海は水が分かれて干上がった地を人々が渡りました。あのとき以上の災いが下される、という預言です。神様の裁きは、いつか分からない、遠い未来であって、自分には関係ない、と人々は考えます。でも神様は、それは過去にもあり、今も起こりうる、そして未来にも、何度も来るかもしれない。
この神様の裁きが下されるときのことを、預言者たちは度々、「主の日」と呼びました。主の日とはたった一日のことではなく、何年も、何回も起こりうる裁きの時です。19章16節。
19:16 その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。
「女のように」とは、女性差別ではなく、当時の軍隊は男性だけでしたから、戦うことが出来ない人たちという意味です。神様の力の前には男も女もなく、勇士でさえも、なすすべ無く倒される。ですから、神様の裁きの御手を見て、恐れおののくしかない。
日本の国は災害の多い国ですから、そのための備えに関しても世界一でしょう。それでも、予想を超えた大きな災害によって被害を受ける。天災だけではありません。私たちは、人生においても、また仕事においても、様々な事態を想定して備えますが、考えてもいなかったことが起きるのも人生です。自分の力ではどうすることもできなくなったとき、人間は恐れおののくのみなのです。
しかし、ただ恐怖で恐れるだけでしたら、滅びを待つだけですが、もし、神様の御手の前に頭を垂れて、その裁きの原因となった自分の罪を認めるなら、恐れは悔い改めに変わります。そして、悔い改め、悔いし砕けた心になったとき、神様は救ってくださるのです。
3.神に祝福される者(19:18〜25)
三つ目のことに移ります。18節。
19:18 その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。
「その日」とは、先ほどの16節の「その日」と同じです。主の日、神様の裁きが下される日。でも、その同じ日が、悔い改めるなら変えられるのです。主に誓いを立てる、とは神様を信じて従う誓いです。一つの町の名前は「イル・ハ・ヘレス」、その意味は、ちょっと難しい。難しいのは、決して悪いことでは無く、何だろう、何故だろう、と考えるきっかけとなります。翻訳者は成るべき分かりやすくしてくれるのですが、分かりやすいと、分かった気になって、ささっと読み過ぎてしまうので、少し難しい言葉があったら、立ち止まって、深い意味を教えていただくチャンスです。
さて「イル・ハ・ヘレス」は、直訳すると、裁きの町、あるいは滅びの町ということです。でも、それでは神の裁きによって滅ぼされてしまうだけです。ところがもう一つの意味があって、「太陽の町」、それは救いを象徴します。太陽自身も、時には強い熱によって日照り引き起こし、裁きの象徴ともなりますし、その暖かさと光は癒やしと恵みを与える。裁きと救いの両面があります。神様のなさる御業は、裁きであると共に救いでもあります。それは決して矛盾しているのではなく、神の裁きの前に悔い改めて立ち返るなら、神様は裁きを救いに変えてくださる。それを具体的に成就したのが十字架です。キリストが神の裁きを受けてくださったことにより、救いが与えられる。でも、それは信仰と悔い改めが必要です。神様が与えてくださる救いを拒むなら、救いは裁きに変わります。
エジプトやアッシリヤといった大帝国、多くの国々を苦しめてきた国であっても、もし悔い改めるなら救われる。それは、この二つだけでなく、エジプトやアッシリヤは世界の国々、世界中の人々の代表です。22節から読みます。
19:22 主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。
19:23 その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。
19:24 その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。
19:25 万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。
すごいと思いませんか。私は思います。アッシリヤはイスラエルを滅ぼし、イザヤの死後はエジプトを攻撃して倒します。そんな歴史を考えると、三つの国が一つとなって神様に仕える。そして神様は三つの国を祝福される。これを素晴らしい、と思わなかった人たちもいます。
最後の25節を、エジプトやアッシリヤが祝福されるのはけしからん、イスラエルだけが神様に祝福されるんだ、と考えたのはユダヤ人でした。そこでユダヤ教の学者たちは、この25節を解説して、「ここには『わたしの民エジプト』と書かれているけれど、その意味は、『私の民イスラエルはエジプトから救い出された』ということだと屁理屈を言っています。でも、神様がなさろうとしている救いの御業を受け入れなかったためにイスラエルは裁かれることになる。
神様は謙って従う者を救ってくださいます。それは、自分の考えはこうだ、と拘るのではなく、神様がなさることにアーメンといって受け止めることです。王様のなさる裁きと救いをそのまま信じるのです。「神の義」とは、神様の正義です。それに従うことを要求します。しかし、神の義は逆らう者を裁くと共に、謙るものを救ってくださる。裁きの王は、救いの主として私たちを救ってくださるお方なのです。
まとめ.
イザヤが預言したのは、まず紀元前のイスラエルの滅びと救い、そしてメシア、救い主による救いですが、最後には世の終わりにまで預言者の目は向けられていきます。世の終わりに関しては、イザヤの知らなかったことも新約聖書では教えられています。世の終わりには、キリストがもう一度おいでくださる。これを再臨といいますが、そのとき、キリストは世界を裁く、最後の審判をなさると同時に、主を信じる者を救い上げてくださる。今、私たちはこのお方を信じ、お従いするのです。
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