2023年01月01日

元旦礼拝「神の国と神の義を第一に求めよ」マタイ6:31〜34

元旦礼拝「神の国と神の義を第一に求めよ」マタイ6:31〜34
あけましておめでとうございます。今年もご一緒に御言葉の恵みを味わってまいりたいと思います。いいえ、ただ味わうだけでなく、神の御言葉に導かれ、従っていきましょう。
池の上教会の今年の御言葉を祈り求めている中で示されたのが、先ほども読んでいただきましたが、マタイの福音書6章の33節です。
33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
特に、この聖句の前半から「神の国と神の義を第一に求めよ」を教会の標語とさせていただきます。
皆さんも、一人一人の今年の御言葉を祈っておられると思います。またクリスチャンに限らず、今年の目標を立てる人もいるでしょう。また日本では多くの人が元旦に神社に行って願い事をする。今年はこれが欲しい、こうなりたい。でも私たちは、ただ自分の願いが叶うことだけでなく、神様が私たちに何を語っておられるか、そしてその御言葉に従って新しい年を進んでいくことを願っております。個人もそうですが、池の上教会は何を求め、何に従っていくのでしょうか。昨年は「キリストのからだを建て上げるために」との標語を掲げました。それは教会を建て上げるということですが、建築物のことではなく、キリストのからだとしての教会、キリストをかしらとし、キリストの霊に満たされ、一人一人がキリストのからだとして結び合い、支え合う教会です。
教会を建て上げると言いますと、もう一つ、よく言われますのは教会成長という言葉です。数字や組織と言った、目に言える面での成長に人間の関心は向きやすいのですが、同時に、内面的な成長、数よりも質における成長という側面も大切です。キリストの体である教会が、神の国として相応しい姿となっていく、それは質的な成長でもあり、質的に整えられていくなら、外面的にも前進していくことができます。
今年は、神の国と神の義を第一に求める、ということを、一年間考え、また御言葉から示されたことに従って歩んでまいりたいと思います。
前置きが長くなりましたが、三つのポイントに分けてメッセージを取り次いでまいります。第一に「神の国と神の義」ということ、第二に「第一とする」ということ、そして最後に「求めるなら」ということをお話ししてまいります。
1.神の国と神の義
イエス・キリストは、神の国の福音を教えられました。マタイの福音書では「神の国」、ルカの福音書では「天国」という言い方が使われますが、本質的には同じことです。天国と言うと、死んでから行くところ、というイメージを持ちやすいですが、神の国という表現には、地上においても神の国に入ることができる。ここで使われている「国」という言葉は、正確に訳すと「王国」という意味です。王国の王様は誰でしょうか。当然、神様です。神様を王と仰ぎ、このお方に従う。それが神の国の国民です。地上の国でも国民は法律に従って、正しく生きることが求められますが、神の国では神様の御心にかなう正しい生き方が求められます。神様は正義のお方です。ですから神の国に生きるのは、正義の生き方、しかも人間の自分勝手な正義ではなく、神様の義に従う正義です。そう考えますと、神の国の中に当然のこととして神の義が含まれているはずです。
でしたら、「神の国とその義を求めよ」ではなくて、「神の国を求めよ」だけでも十分なのか。でも御言葉は、神の国と神の義を求めよ。では神の義とは何でしょうか。正義であることは当然ですが、それだけのことではありません。神の義ということを考えるには、その元となっている、旧約聖書における義ということを知らなければなりません。神の義は、律法の中では正義として示されています。ところが、神の民であるはずのイスラエルは律法に何度も違反し、義とは言えない姿でした。そこで預言者たちは、人々に律法の義に立ち帰ることを伝えるだけでなく、自分の力では義を全うできない人間を、神様が造り変えて義としてくださる。それは救いです。義という言葉には救いと言う意味が含まれているのです。ですから神の義を求めるということは、自分で達成できないのなら、義の大本である神様の救いをいただいて、神様によって義としていただく。でも、人間は神様抜きで自分の力でできると思いたい、それは高慢です。義に生きるとは、自分でも正しい生き方を求め、努力もしますが、それだけではなく、救ってくださる神様への信頼による服従なのです。信仰による義。それが、パウロが繰り返して語っていることです。
私たちは今年、神の国と神の義、すなわち王なる神に従う人生を進んでまいりましょう。また、神様が示してくださる御心に添った正しさを求めましょう。そして、何よりも、罪を赦し、義人としてくださる神様からの救いに根差した生活を目指していきましょう。
2.第一とする
二つ目のことをお話ししたいと思います。もう一度、33節前半。
33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
「まず第一に」と、新改訳第三版は訳しています。他の翻訳も、「まず」とか「第一に」としているものが多いです。「第一」とは、確かに順番において一番ですが、では一番目が「神の国と神の義」で、二番目は何か。ここには二番目や三番目は書かれていません。また、一番目はとにかく「神の国と神の義」を求めておきさえすれば、あとは何を求めてもかなえられる。そういう風に考えますと、何でも自分の願いをかなえるために、最初におまじないとして「神の国と神の義を求めます」と言っておけば良いのでしょうか。そんな欲望をかなえるための手段では決してありません。ここでいう「第一」とは、他の何よりも、ということです。
33節の文脈がそれを明らかにしています。31節。
31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
何を食べるか。それは確かに大切なことです。今の日本は豊かな国ですから、多くの人は食べ物が無くて大変だ、ということはないかもしれません。でも、日本にも貧困な家庭があり、世界では多くの人が飢えに苦しんでいる。ですから食べ物を求めることは大切です。私たちも「主の祈り」を祈るとき、「日々の糧を今日も与えたまえ」と祈るのは、形だけの祈りではなく、神様が必要を与えてくださることを信頼して求めるのです。イエス様の時代には貧しい人もたくさんいました。明日の食べ物が無くて心配している人もいる。食べ物だけでなく、生きるために大切なものは他にもあるでしょう。でも、それらを第一とするのではなく、他のもの以上に「神の国と神の義」を大切なものとして求め、それが何よりも大切だとしているでしょうか。例え他のものが満たされていても、「神の国と神の義」が無かったなら、本当の幸いな人生ではない。
さて、私たちの生活において、神様は何番目でしょうか。他のことが上手くいって、余裕が出来たら神様に目を向ける、のでは一番とはいえません。他のことは後にしても、神様のことを大切にする。今日、こうして元旦礼拝をしているのは、今年、一番大切なのは、まず神様を王として仰ぎ、神様の義によって生きること。毎週の主日礼拝も、週の初めの日に神様を礼拝して、それから一週間の歩みが始まるという信仰を示しているのです。
もちろん、神様の前に進め出ても、ふと、あのことはどうなっているだろう、と心配になることもあります。でも、まず、一番大切なこととして、神様に心を向けていきましょう。
3.求めるなら
最後に、求めよ、との命令は、それに続いて、神様の約束があります。33節。
33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
「そうすれば、それに加えて」と書かれています。求めるなら、それ、すなわち神の国と神の義が与えられ、そしてそれに加えて、これらのもの、食べ物や着るもの、私たちに必要なものは全て与えられると神様は約束しておられるのです。他の箇所では、「求めよ、さらば与えられん」ともイエス様は教えておられます。このように約束しておられる神様は信実なお方ですから、このお方の言葉を信頼して、そして「求めなさい」と教えているのです。
ところで、「求める」という行為は何なのか。何かが必要だと考え、あるいは、何かが欲しいと思う、だから求めます。求めるとは自分の心の中から出てくることです。しかし、心の中にある求めを、口に出すよりも前から、神様は私たちに何が必要かをご存じだと、32節に書かれています。別に求めなくても、ちゃんと神様は必要なものを与えてくださる。ならば、求める必要は無いのでしょうか。
ここで「求めよ」と命じているのは、ただ欲しがるということではなく、神様に対して求める。それは祈りです。祈りとは、自分の願っていることを口に出して独り言を言うのではありません。神様に対して語り掛け、願い求めるのです。どうして神様は「祈りなさい」と命じておられるのか。それは私たちに神様との交わり、現代的な言い方ですと、コミュニケーションを願っておられるのです。
一昔前、地方から東京の大学に進学して、実家から仕送りをしてもらって生活をしている苦学生がいました。お金が無くなってきて、生活に困ると、実家に連絡をして送金してもらう。今でしたらメールがあり、ATMがありますが、昔は電話だって長距離電話は料金が高い。その人はわずかにとっておいた何枚かの十円玉で、公衆電話から電話をする。何秒で切れるか分からない。それで繋がったら、「かね、かね、かね」と叫ぶ。その電話を受けた家族が、ああ、今お金が無くて困っているんだな、と気が付いて、送金をしてくれる。私の好きな歌手、さだまさしの話です。そうやって、どうにか生活をしていた。確かに、お金さえ送ってもらったら生活はできる。でも、実家の両親としては、できたらもっと声を聞かせて欲しい。時には実家に帰ってきて、顔を見せて欲しい。
祈りも同じです。人間は、自分の求めることを一方的に伝えたら、それで良いと思っているかもしれません。でも神様は、求めることを通して、もっと神様との交わりをもって欲しい。だから「求めよ」と命じ、「祈りなさい」と教えているのです。
今年も、聖書を読み、毎日祈る。神様との日々の交わりを大切にしてください。どうしてそれが重要か。それは、神様との交わりによってこそ、私たちは神様に似ていくことができる。「朱に交われば赤くなる」という諺があります。どのような友人か、その友人と長く関わっていくと、その交わりによって感化される。私たちが義なる生き方をするようになるには、義なる神様との交わりによって変えられていくのです。それをご存じだから、神様は、「求めなさい」とおっしゃるのです。
まとめ.
この年、私たちは、神の国とは何か、神の義とは何かを考え、学んでいくだけでなく、神の国に生きる者、神様との関係を第一とする生き方を目指していきましょう。それが神様の願っておられること、イエス様が教えてくださった道だからです。そして池の上教会が、神の国の交わりと、神の義による救いとを、さらに実現していくように祈りましょう。

33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
タグ:新年 マタイ
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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