2022年11月27日

11月27日礼拝「私のぶどう畑」イザヤ書5:1〜5(5章)

11月27日礼拝「私のぶどう畑」イザヤ書5:1〜5(5章)
教会の暦では今週からアドベント、クリスマスを待ち望む待降節です。クリスマスのシンボルとして光が用いられます。光は闇に輝きます。しかし光が現れる前は真っ暗闇です。今日はクリスマスへ向かう第一歩として、イザヤ書5章からお話ししたい。でも、そこにあるのは罪の世界です。5章は「ぶどう畑の歌」と呼ばれる、一つの詩です。最初は牧歌調の歌ですが、直ぐに暗いテーマとなっていきます。もちろん、これは詩篇に出てくる祈りや賛美とは違い、預言の言葉です。イザヤ書は7章以降、クリスマスに関連する素晴らしい御言葉がいくつも出てきますが、その預言が語られた時代は闇に覆われた時代でした。そして、この世の闇は今も続いているのです。現代も多くの問題があります。その問題から目を背けるのではなくて、しっかりと闇を見たとき、そこに輝く光を知ることができるのです。
いつものように三つに分けてお話ししたいと思います。第一に「裏切られた期待」、第二に「災いと怒りのみ」、そして最後に「暗闇に残された希望」という順番でメッセージを進めてまいります。
1.裏切られた期待(1〜7節)
1節をもう一度読みます。
1 「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
ここで「わが愛する者」と語っている「わたし」が誰なのか。この歌を歌っているのは預言者イザヤ自身でして、預言者が愛しているお方とは神様のことです。でも預言者の気持ちは神様と同じですので、神様が語っておられるとして読んでも良いと思います。「良く肥えた山腹」というのは、土壌も良く、水はけも良い。ぶどう畑を作るのに最適な場所です。2節。
2 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
神様はその土地を耕し、掘り起こして根っこや石を取り除きました。良いぶどうを選んできて植えた。やぐらを建てて敵や獣から守った。さらに酒ぶねを作ったのは、収穫して直ぐ、新鮮なうちに葡萄酒を作れるようにするためです。最上の世話をして、後のことも考えて準備した。至れり尽くせりです。準備万端です。あとは良いぶどうが成るのを待つだけ。ところが、できたのは良いぶどうではなく、酸っぱい、悪いぶどうでした。
ここでぶどう畑に例えて語られているのは、イスラエルのこと、エルサレムのことです。神様は十二分な祝福を注いで彼らが素晴らしい実を結ぶことを期待していたのに、その期待を彼らは裏切ったのです。ぶどう畑に例えて語っていることを、7節では具体的に語っています。
7 まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。
神様がイスラエルに望んでいたのは公正と正義という実を結ぶことです。でも彼らが行ったのは流血と泣き叫び。流血とは殺人の罪です。泣き叫びとは不正によって弱者が苦しめられていることです。この7節は、実は原文のヘブル語では駄洒落というか、言葉遊びという技巧を使って書かれています。「公正を望んだのに流血」というのは、ヘブル語では、ミシュパトを望んだのにミスパハ。ミシュパトとミスパハ、似た発音です。「正義を望んだのに泣き叫び」も、ツェダカを望んだのにツェアカ。預言者は度々このような言葉遊びを使いますが、決して面白いからではなく、聞いた者の記憶に強く残るようにです。神はミシュパトとツェダカを期待したのに、自分たちが行っているのはミスパハとツェアカ、似て異なるものです。
期待を裏切った畑はどうされるでしょうか。与えた条件が悪ければ改善の余地がありますが、最高の条件で育てたのに悪い結果しか無い。もう諦められて、見捨てられる。5節がそれを明らかにしています。
5 さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
6 わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」

厳しい処置でしょうか。いいえ、長い間、忍耐をして、最高のものを与えて、期待に答えることができるようにしてきたのに、自分から神様を裏切るような生き方をしてきたイスラエルに対して、神様が彼らを見捨てたとしても、それは当然のことです。でも、忘れてはならないのは、これは誰のことを語っているのか。当然、イスラエルやエルサレムです。でも、この言葉が聖書の中に書き残されたとき、神の言葉は私たちにも語られているのです。
私たちは良い実を結んでいるでしょうか。ガラテヤ書に「御霊の実」のリストがあります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。自分はどれほど実を結べているでしょうか。神様が人間に期待しているのは、もっと大きなことです。創世記1章、聖書の最初に書かれているのは、人間が「神のかたち」に造られた、神の栄光を現すはずの存在として創造されたのです。でも、造ったお方にとって辱となるような作品に、自分からなってしまった。これでは見捨てられるのが当たり前なのです。イスラエルだけではない。これは私たちの姿なのです。
2.災いと怒りのみ(8〜25節)
二つ目のポイントに移ります。ここまではぶどう畑という例えを用い、言葉遊びの技巧を使って描いてきたので、まだマイルドな言い方でした。ここからは歯に衣着せぬ言い方となります。8節。
8 ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。
「家に家を連ね、畑に畑を寄せる」と言うのは、少しも余地を残さないで自分のために使う、ということです。日本、特に東京は土地が貴重ですから狭い場所でも有効に使います。でも神様がイスラエルに求めたのは少し違います。使わない土地を残すことで、自分の土地を持てない貧しい者や寄留者にも生活する場所を与えるのです。これは土地だけのことではなく、収穫の全部を自分のものとするのではなく、一部は社会的弱者のために使いなさい。神様は必要以上の祝福を与えるから、他の人たちのために用いなさい。これが律法の精神です。でも彼らは自分のことだけ、自己中心の社会だったのです。
この後、イスラエルの罪を様々な面から描いていきます。全部を説明しますと時間がありませんので、20節。
20 ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
ここにも悪いことをしながら自分は正しいと言い張る姿が描かれていますが、それではなく、節の最初の言葉、「ああ」です。この「ああ」は、8節にもありました。11節。18節、そして、この20節、さらに21節、22節と6回も続いています。「大切なことは二回」ですから、6回とはどれほど重大なことか。この、「ああ」とは何か。
この言葉について少し研究したとき、「ああ」ですと何だか気が抜けたみたいで、口語訳聖書を見ますと「災いなるかな」となっていて、このほうが意味を良く表しています。新しい翻訳も「わざわいだ」としています。これは神様が嘆き、怒っているのです。神様が嘆いて見捨てたら、あとは災いが下るだけです。ここに詳しく説明されているイスラエルの罪は、どれもが期待外れどころではなく、完全にアウトです。有罪判決を下すしかない状態です。そして結論が、25節。
25 このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
「このゆえに」とは、理論的な結論です。それは主の怒りです。しかもちょっと怒った、というのではない。神の怒りによって裁きの御手が伸ばされて、山々も震え動き、人々はほとんどが倒れてしまう。さらに「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」。それでもまだ、神の怒りは収まらない。裁きの手は伸ばされ続ける。これが神様が本気に怒られたときの表現です。
私たちは、特に新約聖書だけで育ってきますと、神様の怒りということを余り考えない。考えたくない。でも聖書が告げている神の怒りとは、これほど恐ろしいものです。少しくらいなら忍耐してやり過ごせるかもしれない。でも神の怒りは私たちを滅ぼしても終わらないほどで、だから罪の赦しによる救いがなければならないのです。
3.暗闇に残された希望(26〜30節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。これまで二回、イザヤ書から取り次がせていただきました。1章、そして2〜4章です。どちらも裁きの言葉が鋭く告げられていましたが、最後には恵みによる救いが語られる。ところが、この5章の「ぶどう畑の歌」は違います。最後まで救いが見えないのです。結論は、30節。
30 その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。
「その民」とはイスラエルを滅ぼす敵のことですが、敵が攻めてきた結果、地は闇と苦しみだけとなります。光も暗くなる。これが結論なのです。なぜでしょうか。
イザヤという預言者は、南ユダ王国で活動し、四人の王様の治世にまたがって活躍した。最初の王様はウジヤ王です。経済的、軍事的には国を復興させた王様ですが、国の内側は罪と不正に塗れていた。イザヤは神様からの預言を人々に語りますが、彼らは聞こうせず、国はますます罪に陥っていく。ですから神様の厳しい言葉もエスカレートしていくのです。ついには救いの言葉さえかけられない。少しでも甘い言葉を語ったら、なんだ、まだ危なくない、と軽んじていたからです。ですから、エルサレムへの罰は必ず下ることをイザヤは語らざるを得なかった。
では、もうイザヤ書は終わりなのでしょうか。いいえ、例え「ぶどう畑の歌」は厳しい裁きを教えているとしても、そのように語ってくださるだけでも、神様はまだ見捨てきっていない。わずかながら希望がある。それは、4節の言葉です。
4 わがぶどう畑になすべきことで、
こんなひどい状態の畑なのに、神様は「わがぶどう畑」とおっしゃるのです。わが民と呼んでいるのです。決して手放してはいない。むしろ、ご自分のものだからこそ怒っておられるのです。何も言わずに滅ぼすこともできるのに、預言者を遣わして語り掛けるのです。まだ希望はある。神様が神様だからです。
神様は絶望のような世界に希望をあたえるお方。闇の中に「光あれ」と言われ、また世の光として御子を遣わしてくださるお方です。クリスマスとは、闇の世界に光があたえられるときなのです。
まとめ.
イザヤが預言した時代、ウジヤ王の時代は、王宮や貴族たちはきらびやかな生活でしたが、闇の中で苦しむ人がいた。やがて国全体が滅んで行きます。今はどうでしょうか。一時は繁栄した国も、やがては落ちぶれていくのが歴史です。闇のようになった世界に、時々、光のようなモノが現れて人々が熱中しますが、それもまた闇となる。本当の希望を与える、本物の光はイエス・キリストです。このお方がこの世に来てくださった恵みをしっかりと受け止めるため、自分自身の闇を御言葉によって示され、キリストの光を照らしてくださきましょう。
タグ:イザヤ書
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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