2022年11月13日

11月13日礼拝「偽物の救いから本物へ」イザヤ書4:2〜6(2〜4章)

11月13日礼拝「偽物の救いから本物へ」イザヤ書4:2〜6(2〜4章)
先週からイザヤ書の講解説教が始まりました。イザヤ書は66章あって、1章ずつ進めますと一年半近くかかってしまいます。また内容的には複数の章がつながって一つのメッセージを述べている場合もあります。そこで、今回は2章、3章、4章と、三つの章をまたいでお話をしたいと思います。
さて、2章の、特に2章2節から5節までだけを読みますと、厳しい裁きの言葉ではなく、希望に満ちた救いの言葉に思えます。ところが、その直後、6節を見ますと、神様がイスラエルの民を見捨てた、と言うのです。これは正反対のことを語っているのではなく、2節から5節に描かれている救いが、実は偽物だということを示しているのです。聖書は1節だけとか、短い部分だけを読むと誤解をしてしまうかもしれません。クリスマスのお話で、東の国の博士たちがエルサレムに来たとき、ヘロデ大王は、「私も行って救い主を拝むから」と語ります。これは、まるでヘロデ大王がイエス様を救い主として信じるのか、と思われる言い方ですが、実際はウソをついて博士たちをだまして、イエス様を殺そうとしていることは、前後を読んで行きますと直ぐに分かります。ですから2節から5節も、素晴らしい言葉に見えても、前後を読むと、実は偽物の救いだと気がつかされるのです。
今日は、「偽物の救いから本物へ」と題しまして、イザヤ書の2章から4章を通してメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで。第一に「他者を裁き、他者に頼る」ということ、第二に「頼るべきお方」、そして最後に「罪から救う主」という順序で進めて参ります。
1.他者を裁き、他者に頼る(2章2〜4章1節)
さて先ほどもお話ししましたが、2節からは偽りの救いです。2節。
2:2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
「終わりの日」とは、イスラエルの民は長い間周辺の国々に苦しめられていましたが、世の終わりには神様が悪い国々を滅ぼしてくださる、と考えていました。ここでは滅ぼすだけでなく、人々が悔い改めて、神様を礼拝するためにエルサレムに集まってくる、と語っています。3節。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

世界中の人がエルサレムから語られる神様の言葉を教わりに来る。4節。
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
ここには、神様の言葉を学んだ人々は、もう戦争を起こさない。国と国が戦うことは無くなる。世界平和です。しかし、その時に栄光を受けるのはエルサレムだと言うのです。そして国々は神様によって裁かれる。他の民は悪い奴だから神に裁かれる。自分たちは偉いから、世界中から教えを請いに集まってくる。なんと自分に都合の良い考えでしょうか。5節。
2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。
ヤコブとは、創世記に登場する人で、イスラエル人の先祖です。ヤコブは神様からイスラエルという名前をいただき、彼の12人の息子がイスラエル十二部族となる。ヤコブとはイスラエル全体を現すとともに、北王国を指します。ヤコブの跡継ぎとなったのは長男のルベンではなく、ヤコブはヨセフをかわいがり、父イサクから受け継いだ祝福をヨセフの子エフライムに与えました。このエフライムとは、北王国の中心となったエフライム部族です。「来たれ」と北王国に呼びかけているのは、北王国が、とてもじゃないけれど神様から招かれないような罪人だからです。読みませんが、6節以降はイスラエルの罪が並べられています。占い、贅沢、偶像礼拝。その根本にあるのは高慢の罪です。高慢だから自分だけは正しいと思い上がり、他の国々は劣っていて、神の裁きを受けるべきだ、と他者を裁きます。高慢だから、神様さえも自分の思い通りになると自己中心的に考えて、偶像を拝むのです。11節。
2:11 その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。
神様は高慢なものをこそ裁くお方です。神様は間違ったものを拝み、頼りとする彼らに対して、それを打ち砕くと言われます。金や銀で造った偽りの神々はゴミとなって捨てられる。また、神ではなく人間に頼るのも、自分に都合良く相手を利用することです。ですから頼っていた相手も倒れてしまうときが来る。
3章の1節に跳びます。
3:1 まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。──すべて頼みのパン、すべて頼みの水、
3:2 勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老、

まだ続きますが、エルサレムの人々が頼りとしていたもの。パンと水があれば、敵が来ても籠城することができると考えていた。勇士と戦士はど、敵が攻めてきたとき頼りになります。預言者とは偽予言者です。占いは間違った宗教。長老は社会的に地位のある人や知恵のある人。でも、このような頼りとなると思っていた人たちが、いざ敵が攻めてきたときに倒れてしまい、頼れなくなる。
また少し跳びまして、3章の16節。
3:16 主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」それゆえ、
3:17 主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる。

「シオンの娘たち」とはエルサレムの女性たちですが、女性だけを批判しているのではなく、町全体の代表として上流階級の女性たちが取り上げられています。シオンの娘たちは高ぶり、と彼女たちの高慢を象徴しているのが、贅沢な装いです。それが、神の裁きの日には取り除かれて、見窄らしい姿となる。イザヤは女性の装飾品に詳しかったのか、18節からは様々な飾り物をリストアップしています。足飾りとか、髪の輪飾りとか、気になる人は、どんな装いをしていたのか想像して見ると良いでしょう。でも、全ては奪い去られる日が来ます。彼女たちだけが悪いのではありません。御利益宗教に傾いて、物質的な繁栄を喜んでいたのはウジヤ王時代のことを現しています。でも、そのような偽りの栄光は消え失せるのです。
私は、この箇所を思い巡らしながら、ふと、かつての日本を思い出しました。バブルと呼ばれた時代、日本の経済は世界第二位となり、バラ色の未来を描いていた。21世紀は日本が世界一となると。まさに贅沢を尽くしていた時期です。でも、バブルがはじけて、今は不況の時代。経済に頼り、思い上がり、神様ではなく人間的な繁栄を求めていた。今は、時代が変わったとも言えます。でも、私たちは何に頼っているのでしょうか。他者を裁き、また誰かを頼るのではなく、神様に信頼しているか、それはいつの時代にも問われているのです。
2.頼るべきお方(4章2〜6節)
二つ目のポイントに移ります。4章の2節。
4:2 その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。
終わりの日にはバラ色の未来が来ると考えていた人々に対して、預言者は、その日は神の裁きの下る日だと語り、しかし、その日、神様の救いも明らかにされるのです。それは「主の若枝」です。金銀の偶像や物質的な贅沢ではなく、神様が与えてくださる救いこそが本当の栄光です。若枝とは、これから大きく育っていく未来です。この世の救いは、やがて萎んでいく、廃れていきます。神様からの救いは成長していくもので、その人だけでなく、他の人にもおよび、広がっていきます。この栄光に輝く「主の若枝」とは、やがて来るべき救い主、すなわちイエス・キリストのことです。イザヤの時代は、まだ全ては明らかにされていませんが、預言されたことはイエス様において成就します。
確かに、先にイザヤが語った預言、すなわち偶像礼拝と高慢の罪にまみれていた北イスラエルも南ユダも、最後には滅ぼされてしまいます。でも、それでも神様を信じて生き残る者たちがいる。これがイザヤ書で何度も繰り返されるテーマです。残された者は救い主によって栄光を見ると言うのです。アッスリアやバビロンによって捕囚となったイスラエルの民は、やがて生き残って帰ってくる。そして、やがてイエス様が来られ、栄光を現してくださるのです。
3節。
4:3 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
残されて救いに与った人たちは「聖」と呼ばれるようになる。「聖」という言葉はイザヤ書のキーワードです。イザヤは聖なる神様を語りました。「聖」とは重要な言葉で、様々な意味が含まれています。「聖」とは神様ご自身が聖であり、神のものとされたとき、その人も聖とされるのです。他者の上に立って自分を主とする高慢ではなく、偶像礼拝のように神をも思い通りにするのでもなく、神様が私たちの主であって、私たちは神様のものです。これが聖ということです。
新約聖書では、パウロの手紙の中で、クリスチャンは聖徒と呼ばれ、キリストのものとされた存在です。そしてキリストの救いに与ったものは天にある「いのちの書」に名前が記されている、と聖書に書かれています。栄光ある若枝によって救われ、「あなたがたは私の枝である」と、私たちもキリストのものとされた。ですから、私たちの名前も命の書に記されているのです。
私たちは偽物の救いではなく、私たちを救ってくださり、天国にまで連れて行ってくださるお方を信頼して従ってまいりましょう。自分の願いを求め続けるのではなく、神様がくださる救いの恵みを信じましょう。
3.罪から救う主(4章4〜6節)
さて、私たちは神が遣わされた栄光の若枝を信じたのだから、未来は栄光に満ちていると言うだけでしたら、それはバラ色の未来を夢見るのと変わりません。神様がくださる救いは、どう違うのか。4章4節。
4:4 主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、
ここに再び「シオンの娘たち」が登場します。高慢で贅沢で人間を頼る生き方です。でも、その汚れを神様が洗い清めてくださるのです。しかし、それは水ではなく、神様が遣わす「さばきの霊と焼き尽くす霊」です。これは同じ事を、表現を変えて伝える言い方です。すなわち、神の霊は、さばきであり、焼き尽くす炎です。神様の救いは物質的な繁栄を与えることではなく、また世界中から誉めて貰うという高慢な栄光ではなく、罪からの救いです。自分の中に滅ぼされるべき罪があることを認めたとき、神様はその罪を焼き尽くしてきよめてくださるのです。
どんなに素晴らしい薬も、その薬を必要とする病気の人でなければ飲んでも益となりません。私たちが、自分は罪人であり、キリストによる罪からの救いが必要だと認めるとき、救い主は私を罪から救い出し、キリストのものとしてくださる。それが救いだと聖書は教えています。高慢の罪は、自分が罪人であると認めたくない。不信仰の罪は、救ってくださる神様を信頼しようとしない。やっかいな罪です。だからイザヤは厳しい言葉を用いて、彼らの罪を示した。しかし、もし彼らが神様からの言葉を聞いて、それを受け入れるなら、裁きの炎だと思っていた神の霊が、私たちを救う霊の働きとなってくださる。5節は、出エジプト記で、神様が昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを導き守られたことを思い起こさせます。神の火は、逆らう者が近づくなら滅ぼしてしまいますが、従う者が近づいて礼拝するとき、彼らを救ってくださり、裁きの暑さや嵐から守ってくださる。
私たちが自分の罪を認め、神に裁かれなければならない存在だということを受け入れるなら、十字架は私のものとなるのです。十字架は誰かを救うため、自分とは無関係なのでしょうか。私こそキリストの十字架の救いが必要だと信じるとき、十字架は私を罪から救い、洗い清め、罪から守る隠れ家となってくださるのです。
まとめ.
エルサレムに遣わされたイザヤのメッセージは時に厳しい裁きの言葉です。それほどにエルサレムの人々は高慢となり、他者を裁き、自己中心となって偶像礼拝をし、神様の言葉を受け入れない不信仰でした。でも、私たちも同じなのです。御言葉の前に自分自身を見つめ、キリストの救いを受け入れ、聖なるものとしていただきましょう。

タグ:イザヤ書
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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