2022年11月06日

11月6日礼拝「救いへのチャレンジ」イザヤ書1:18〜20(1章)

11月6日礼拝「救いへのチャレンジ」イザヤ書1:18〜20(1章)
先月でコリント人への手紙が終わり、今日から、旧約聖書を開いてまいります。詩篇の続きを、とも思っていたのですが、詩篇を続けていますと、あと3年くらいかかりそうで、同じ書物から続けるよりも、一端違う書物に行ったほうが良いかと思いました。詩篇はイスラエルの歴史の中から生まれてきた多くの賛美と祈りを集めたものですが、イザヤはその歴史の中で神様からの御言葉を伝えた人です。イザヤ書を通して、その歴史に触れ、特にイスラエルが滅亡してバビロンに連れて行かれ、ついにバビロンから救い出されるという歴史を預言しているイザヤ書が終わってから、詩篇の後半に出てきます、捕囚前後の時代の祈りに触れたいと思っています。
さてイザヤ書の題名は、預言者イザヤの名前から採られていますが、イザヤという名前の意味は、「主の救い」、あるいは「主は救い」ということです。人間を救ってくださる神様を語っている預言書です。このイザヤ書を通して、もう一度、私たちの救いとは何かを学んで参りたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「罪を悟る」ということ、第二に「赦しを論じる」、そして第三に「救いを委ねる」という順番で進めて参りたいと思います。
1.罪を悟る(2〜15節)
1節は預言者イザヤが活動した時代を告げています。ウジヤ王からヒゼキヤ王まで、四代の王様の時代にまたがって活躍した預言者です。この時代、イスラエルは既に南北に分裂しており、北王国イスラエルはこの時代に滅亡し、南王国ユダは生き延びましたが、やがては滅びるときが来ることをイザヤは預言しています。どうして国が滅びるなんてことになったのか。その原因は人々の罪です。どれくらい罪深かったかというと、自分がしている罪を罪だと気がつかないほどです。イザヤは人々が自分の罪を悟って神様の前に悔い改めることを願って語っています。2節と3節を読ませていただきます。
2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

これはヘブル語の詩で書かれていて、印象に残る言い方を使っていますが、日本語ですとあまり感じません。2節は、育てられた子どもが親である神様に逆らっている。当時の文化では、子どもは両親に従うべきことが、十戒にも記されていて、「あなたの父母を敬え」が常識の世界にあって、イスラエルは育ててくれた神様に逆らっている。これは大きな罪です。さらに3節は動物の例えを用いています。牛は誰が自分の飼い主であり、だれが自分の世話をしてくれるか、誰について行けば美味しい草にありつけるか、知っている。ロバは少し愚かだけども、飼い葉桶を知っていて、どこにいけば食べることができるかくらいは知っている。それを比べると、イスラエルは動物以下だ。誰が自分の主であるかを分かっていないし、どこに行けば恵みに与ることができるか分からない。なんで、こんな侮辱のような言い方なのでしょうか。
人間、愚かだと言われたら反発したくなります。そして、その指摘が間違っているか、言われた言葉をしっかりと聞くことになる。イザヤはこんな厳しい言葉を投げかけながら、人々が聞いてくれることを願っているのです。それは、人々の罪の結果、国中が傷つき痛んでいる。5節。
5 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

神様に反逆すると、人間はあるべき姿、本来の生き方ではなくなり、結局は自分を苦しめ、周りの人を傷つけ、そうして国全体が傷だらけになっている。6節は肉体の怪我になぞらえて罪の状態を描き、7節は具体的に述べています。7節。
7 あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。
イスラエル王国の歴史は他国による侵略です。食い荒らされ、やがて首都であるエルサレム以外は敵の手に渡り、エルサレムだけが孤立し、包囲される。これはヒゼキヤ王の時代に現実となります。そのまま行けば、ついにはソドムやゴモラのように完全に滅亡してしまう。いいえ、まだ神からの裁きが下っていないだけで、滅ぼされる直前のソドム・ゴモラと変わらないほどに罪深い。ですからエルサレムにいる指導者たちに対して10節。
10 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
あなたたちはソドムの民と同じだと言われたら、いいや、私たちはそんなに悪くは無い、と言うでしょう。だって、自分たちは毎年、定められた祭りを行い、儀式を守っている。でも、神様はおっしゃるのです。あなたたちのお祭りや儀式は、信仰を伴わない、形だけで、神様を礼拝していると言いながら、裏では悪事を平気で行っている。そんな見せかけの儀式や集会を、もうこれ以上見たくない。14節。
14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。

祈っても聞き入れられないのは、あなたがたの手が血まみれだからだ。これは殺人の罪を意味する表現です。人を傷つけることを行っているのに、宗教行事を行っているから自分は正しい、と考えていたのです。
ウジヤ王は大変に有能な王様で、国を経済的に繁栄させた。でも、その陰では社会的な腐敗が進んでいて、弱い者たちが苦しめられ、血を流している。それがソドムと同じだと神様は言うのです。そして彼らの信仰は形だけで、罪に塗れた生活をしている。そのままでは国はソドムのように滅ぼされるときが来る。預言者は、その罪を指摘しているのです。
こうお話ししますと、大変に厳しく聞こえます。でもイザヤ書を最後まで続けて読みますと、実は救いの恵みに満ちている。しかし、神様の祝福にもう一度与るようになる前に、まず、自分の罪を悔い改めなければならない。その第一歩として、自分のうちに罪があることを認めなければならないのですが、人間の罪は自分を騙して、罪を罪だと気がつかないように自己弁護をしています。だからイザヤは彼らが自分の罪を悟るように、厳しく語っているのです。このイザヤのメッセージは、私たちには無関係なのでしょうか。
2.赦しを論じる(16〜20節)
二つ目のポイントに進みます。神様がイスラエルに求めておられること、それは律法の中に記されています。それは一言で言えば、悪を離れて正義を行え、ということです。16節。
16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

「神の国と神の義をまず第一に求めよ」とイエス様は教えられましたが、神の国とは神様の支配に従うことであり、それは神の義、神様の御心に適う正しさを伴うはずです。
実際のイスラエルは悪から離れようとせず、正義を踏みにじっていました。そんな彼らは神の裁きによって滅ぼされるのが順当です。神は正義の神様です。17節には正しさを意味する言葉がいくつか使われています。善をなす、公正、正す、正しい裁きなどです。イザヤ書全体でも様々な言葉を用いて神の正義を表現しています。その正義と比べるなら、人間の正義は自分勝手です。白ではなくグレーです。いいえ、罪と血に染まって真っ赤になっている。罪を赤と表現するのは珍しいことです。18節。
18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
緋のように赤いというのは、ある人は衣類を赤く染色するのに例えていると言います。白い服にトマトソースが染みついたら、なかなか取れない、もう真っ白には戻らない。それが人間の理屈です。自分の罪が大したことないと思っているときは、少し頑張ったら白くなると考えます。でも、自分の罪の大きさ、深さ、深刻さに気がつくと、こんな自分は赦されるはずがない、と考えるのです。でも神様は、「論じ合おう」とおっしゃる。あなた方の罪は滅ぼされるのが当然なほどに酷い。でも、その罪、人間にはどうすることもできない罪に染まった心を、神様は白くすることができる。そのことを信じるか。そう神様は私たちにも訴えておられるのです。主の救いとは、人間が自分の力や理屈でどうにかできるというレベルではなく、全能の神様が救ってくださると言われる、そのお言葉に信頼することなのです。
3.救いを委ねる(21〜31節)
イザヤ書は、ただ神様が救ってくださるんだから、何も考えずに、信じろ、というような信仰を教えているのではありません。むしろ神様のお考えをしっかりと受け止めることが大切です。三つ目に神様の救いの計画についてお話ししたいと思います。
21節から26節は、特徴的な詩の形で書かれています。21節。
21 どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。
22 おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。

これはエルサレムのことを語っているのですが、かつては忠心の都、つまり神様に従う町だった。でも、それが遊女に例えられるように、まことの神ではない、偶像を拝むようになってしまっていたのです。公正や正義ではなく、今や人殺しの町になった。金属に例えるなら、純銀ではなくて不純物だらけで価値のない金属、かなかすだ。お酒に例えるなら、良い酒だったのが、水増ししてまずい酒になってしまった。これが今のエルサレムの現実だとイザヤは指摘します。しかし、後になってエルサレムは変えられます。25節。
25 しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。
26 こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。」

神様はかなかすになった金属を溶かし、不純物を取り除いてくださる。偶像を取り除いて、正義の町、忠信な都にしてくださるのです。この逆転現象は、とこで逆転が始まるか。それが24節です。
24 それゆえに、──万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ──「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。
この節の前後で、罪だらけの今の姿が、神の義に添った姿に変わり始める。それは、主の御告げ、すなわち神の言葉が語られたときからです。神様が計画した救いが実現するとき、エルサレムが、神の民が、あるべき姿に変えられ始める。この預言は、神のことばであるお方がこの世に来てくださったことで成就します。「わたしの敵に復讐しよう」と、キリストが十字架で神の怒りを引き受けてくださり、罪に打ち勝ってくださった。キリストこそ、私たちが罪から義へと変えられる逆転の中心なのです。イザヤの時代には実現はしませんでしたが、彼が預言したことが後の時代に実現し、キリストによって完成する。それが主のなしたもう救いなのです。
このキリストによる逆転、罪人が義人に変えられる救いの御業は、私たちの人生にも成就します。キリストに出会い、十字架が私の罪のためだと認め、神の救いの御業に信頼するとき、キリストは私の生涯において逆転の中心となって、私たちの生涯を造り変えてくださるのです。神様は聖書を通して救いのご計画を示してくださった。この御言葉を信じて受け入れ、そして神様が私になそうとしておられる救いの計画に従う。それは、自分の思い通りに救いを達成するのではなく、神様のご計画に従い、神様のお働きに自分をまかせるとき、神様が道を示し、力を与えて、従わせてくださいます。その時、私たちの人生も新しくされ、緋のように赤い罪に染まった心がきよめられて、雪のように白い心としてくださるのです。
まとめ.
預言者たちは、時には厳しく罪を糾弾します。でも、示された罪は、私のことだと認めるなら、神様の救いの道が開かれているのです。イスラエルは愚かな罪人であり、赦されないほどに罪に染まっていた。それでも神様は救おうとしてイザヤに語らせてくださった。この御言葉を私たちも受け止めて信じ、神の赦しの恵み、きよめの信仰を確認させていただきましょう。
タグ:イザヤ書
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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