2022年10月23日

10月23日礼拝「信仰の最終確認」第二コリント13:9〜11(13章)

10月23日礼拝「信仰の最終確認」第二コリント13:9〜11(13章)
私たちは大切なことをするときは、どこかで確認をします。海外旅行に行くときは、パスポートなどをちゃんと持っているか、出かける前に最終確認します。学校では、入るときに入学試験によって、その学校で学ぶ力があるかを確認し、卒業するまでに何回もの試験によって卒業に相応しい学力がついたかを確認します。大きな仕事をする方々は何度も確認をしながら進めるのではないでしょうか。
礼拝ではこれまでコリント人への手紙、これは使徒パウロがコリントの町にあった教会のクリスチャンたちに向けて書き送った手紙ですが、今日でおしまいになります。パウロは手紙を閉じるにあたり、また、この手紙を彼らが受け取った後に、直接に会うためにコリントに行く。その前に確認をしなければならないことがあったのです。私たちも節目節目で信仰を確認していく。その信仰に関して確認すべきことを、手紙の最終確認である第二コリントの13章から考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのことをお話ししてまいります。第一に「自分を吟味する」、第二に「他者のために祈る」、そして最後に「変わらない祝福」と言う順序でメッセージを取りつがせていただきます。
1.自分を吟味する(1〜6節)
1節から少しずつ見てまいります。
1 私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。
パウロがコリント教会を訪問するのは、今度が三回目だと語っています。一回目は『使徒の働き』の18章で、パウロが初めてコリントの町に行って福音を伝えた。その結果、救われる人たちが起こされて誕生した教会がコリント教会です。その土地パウロは、次の町に進み、伝道旅行を続けました。二回目の訪問は『使徒の働き』には記録されておらず、コリント人への第二の手紙の中で短く言及されているだけで、それは失敗に終わったつらい記憶でした。そして、今度は三回目。どうなるでしょう。
この直接の訪問の間に、パウロは全部で四通の手紙を書き送ったことはこれまでも何度かお話ししてきました。その四通のうち、1番目と3番目の手紙は残っておりません。2番目と4番目の手紙が聖書の中に残されている。それがコリント人への手紙第一と第二です。これらの手紙を通して、ついにコリントのある人たちは罪を悔い改めて、教会は立ち直ろうとしていました。でも、全員が悔い改めたわけではない。13章では、その、どうしても悔い改めようとしない人たちのことを念頭に置きながら、最後の勧告をしているのです。もし、間もなくパウロがコリントに到着する、それまでに悔い改めないなら、パウロはその人たちを裁かなければならない。有罪判決を下す前に、パウロは1節の後半で、「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認される」。これは裁判の方法です。一人の証言ですと間違うかもしれないので、必ず二人か三人の証言によって判決を下す。パウロは三回目の訪問だから、今度は必ず判決を下すことになる、と大変に厳しい口調です。2節の最後にも「容赦しない」なんで、少し怖い言い方です。でも、それくらいに言わなければならない状態の人たちだったのです。でもパウロは彼らにも悔い改めて神からの赦しを受け取って欲しくて、厳しく語っているのです。これは一部の人たちだけの問題ではなく、教会全体に対しても、最終確認が必要だと、5節。
5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか
確認すべきは、自分が信仰に立って歩んでいるか、です。キリストを信じ、信頼して従っているなら、失敗があっても立ち直ることができます。信仰の確認は、私たちにも大切なことです。
まずパウロは、自分を吟味しなさい、と勧めています。人から言われたからでは、反発をしたり、自己弁護をしてごまかしたりしてしまいます。でも自分から進んで自分を吟味する。吟味するというのは試験するということです。学校のテストで、最後に確認をします。その時、自分は間違うはずがないと思っていると、間違っていることに気が付かない。自分に甘くしても、テストを提出したら、採点する人の判断で正しいか間違っているかが決定するのですから、自分に甘くしても良い結果になるはずがない。ですから、自分は間違うかもしれないからと、自分に厳しく見直しをする。自分で自分を吟味するとは、自分勝手な判断で自分を良しとするのではなく、御言葉の前に自分をさらして、間違いを受け入れる覚悟で、自分と向き合うのです。
そして、次に、「あなたがたのうちにはキリストがおられることを」と語っています。このキリストについては、4節でこう言っています。
4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。
キリストは、十字架につけられ、私たちの罪の身代わりとなってくださったお方であり、神の力によって復活されたお方です。十字架と復活のキリストを信じているか。そして、今は自分が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる。そのことを認め、キリストと共に生きているか。それが確認すべき大切な信仰なのです。
私たちが毎週、礼拝を捧げるのも、実は十字架と復活のキリストへの信仰を確認し、新しい一週間、キリストに従って歩むことを確認しているのです。また、礼拝だけでなく、様々な集会や、毎日、聖書を読んで祈るのも、信仰を確認しているのです。もし信仰が乱れていたら、神様が吟味しておられる、その御声に耳を傾けるのです。また、人生には時折、試練がやってきます。試練と言う言葉は、試験と言う言葉と同じです。試練の時こそ、私たちは信仰に立って生きることを確認し、神様の力によって立ち上がらせていただくのです。神様が与えてくださる日々の機会、また特別な時を、自分自身を見つめなおし、あらためて神様を信頼していく確認の時とすることができたなら、幸いです。
2.他者のために祈る(7〜10節)
二つ目のことをお話しします。パウロは厳しい口調で確認を迫るだけではありません。牧会者として彼らのために祈っている。もちろん、祈っているのは言うまでもありませんが、コリントの人たちに「祈っているよ」と語っています。それは、彼らにも祈る者となって欲しいからです。何を祈るのでしょうか。7節。
7 私たちは、あなたがたがどんな悪をも行わないように神に祈っています。
パウロは彼らが罪から離れるように、もし罪を犯してしまっているなら、悔い改めで神の赦しの恵みを受けるように、とりなしの祈りをしています。さらに9節。
9 私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。
完全な者になることを祈っている。コリント教会の様子を見ると、完全どころか問題だらけです。でも、パウロは彼らが罪を赦されて救われた、というところで満足するのではなく、さらに信仰が成長し、キリストの似姿を目指すことを願っているのです。そのために、パウロはずっと祈り続けている。それは忍耐の祈りです。彼らの中にはパウロに反発している人もいる。攻撃し、非難する。でも、パウロは彼らのためにも祈るのです。忍耐し、忍耐し、でも彼らが変えられていくと信じている。それはキリストが変えてくださる。パウロも迫害者から宣教者に変えられた。ですからパウロは諦めずに祈り、何度も祈り続けるのです。
クリスチャンの祈りの特徴は、自分のため以上に、他の人のために祈ること。とりなしの祈りです。それは簡単ではありません。特に誰かの救いのために祈るのは、忍耐が必要です。そして救われたら、あとは放っておくのではなく、さらに成長のために祈る。一生、祈り続けるかもしれません。でも、教会の創立者である山根先生のために、奥様の恵代先生が忍耐し祈り続けた。その祈りに神様が答えてくださったことを私たちは知っています。
自分が祈るだけですと、力不足を感じるかもしれません。でも教会は祈りの家です。兄弟姉妹が一緒に祈っていてくださいます。特に祈りの友なら詳しいことを話して祈ってもらえる。また事情は良く分からなくても、誰かが心配して、察して、祈っていてくださる。祈りが弱い私のためにも誰かが祈って支えていてくださる。それがキリストの体なる教会です。祈る教会は成長するとも言われますが、反対に祈らないとその教会は力を失います。祈っているか。それも大切な確認事項です。
3.変わらない祝福(11〜13節)
最後に、手紙の結語でもある祝福の言葉に目を向けたいと思います。11節。
11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
12 聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。
祝福とは、何か良いことがあるとか、良いものが手に入るというような、目に見える、時には物質的な祝福を思い描く人もいるでしょう。確かに旧約聖書の時代には、当時のイスラエルの人が理解できるように、分かりやすい祝福が教えられています。豊作や長生きなどが祝福とされました。でも、新約時代になって、もっと大切な祝福が示されていきます。11節でパウロが願っているのは、まず「喜びなさい」。ピリピ人への手紙が喜びの手紙として有名です。何度も「喜びなさい」と命令しています。でも、命令されたから仕方なく、喜んでいるふりをするのは、本当の喜びではない。喜びなさいとは、主が喜びを与えてくださるから喜ぶということです。そして、神様からの喜びとは、人間が自分では喜べない状況に陥っても、そこで心に与えられる喜び、それが祝福です。物質的な祝福がいくらたくさん与えられても、心からの喜びが無ければ、それは祝福にはなりません。内側からあふれ出る喜びが祝福です。
完全な者とされることも大きな祝福です。悲しんでいる人に慰めが与えられる。バラバラになってしまったコリント教会に一つ心が与えられ、お互いに和解をし、一つとなってキリストに仕える。教会に与えられる祝福です。平和は、旧約聖書ではシャロームと言われます。これも、話すと長くなるので、今日はやめておきます。そして、11節の最後には、「愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます」。神様が共にいてくださる。インマヌエルであるイエス様が心のうちに、また教会にいてくださることこそ、最大の祝福です。
これらの祝福は、必ずしも目には見えないものかもしれません。でも、それが教会にあって具体的に実っていくのです。12節の「聖なる口づけ」については以前にお話ししたことがあります。当時の文化では挨拶として互いに口づけをしていた。日本なら「聖なるお辞儀」かもしれませんが、大切なのは聖なる関係、聖なる交わりです。聖なる交わりの反対は俗的な交わりです。人間の関係は、良い面もありますが、トラブルもあります。それは自分中心だからです。神様から離れているなら、人間関係は罪のために歪んできます。でも、いつも神様を中心として、御心に従っているお互いであるなら、トラブルがあっても神様が平和へと導いてくださいます。挨拶はもちろんのこと、お互いのために祈り、御言葉の恵みを分かち合う。教会ならではの交わりとはどういう交わりかを考えてまいりましょう。
この聖なる関係、これは使徒信条の中では「聖徒の交わり」と呼ばれています。この交わりを支えているのは、神様が共にいてくださる祝福です。ですからパウロは最後に、13節。
13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
お気づきかと思いますが、これは礼拝の最後に牧師が祈ります、祝祷の原型となった祈りです。キリストの恵みが注がれ、神の愛の中に歩み、聖霊が私たちの内にいて交わりを助けてくださる。これが教会の交わりの土台なのです。毎週、牧師の祝祷を何気なく聞いておられる方もいらっしゃったとしても、でもこの祈りはパウロの時代から現代にいたるまでずっと続けられてきた祈りです。だから、牧師は「代々限りなく、永遠に、そして豊かにあるように」と祈るのです。これは神様が私たちに与えてくださる確認です。この恵みの中で生きるなら、必ず信仰は支えられ、成長していくのです。礼拝の最後に、祝祷の祈りに「アーメン」と答えるとき、私たちの信仰が確認されるのです。
まとめ.
コリント人への手紙はいったん終わりますが、これからも通読や家庭集会などで御言葉を味わい、信仰を確認していって欲しいと思います。来月からは旧約聖書に戻りますが、旧新約聖書全体の御言葉によって、様々な面から自分を吟味し、信仰を確認していく。それが私たちの信仰生涯です。それはいつまで続くのでしょうか。一つには人生の終わり、天国に行くまで。もう一つはキリストがもう一度おいでになる再臨の時まで。パウロが三度目にコリント教会を訪問する前に最終確認をしているように、私たちもキリストが来られるまでに、そして、この世における生涯が終わる前に、信仰を確かめ、祝福の内に歩みましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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