コリント人への手紙からの説教も、今日と次回で終わりです。パウロの手紙はどれも難しいし、コリント人への手紙はややこしい。全部で四回は書かれた手紙のうち、二つが聖書の中に残され、他の二つの手紙は見つからないのですが、それでもパウロのしていたことが伝わってくると、どれだけコリント教会のためにパウロが心を費やしていたか。私は以前、グレース会の方たちにコリント書からお話ししたことがありましたが、その時もパウロの牧会者としての配慮と愛を感じましたが、今回はさらにパウロの思いに触れることができた気がします。いいえ、パウロ以上にキリストがコリント教会を愛し、そして、今、私たちをも愛していてくださることを皆様にも感じていただけたら感謝です。
さて、14節でパウロが
14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。
と語っているように、手紙を受け取ったコリント教会の人たちに会うために、今度はパウロ自身が彼らを訪問するときが来ます。再会できることは喜びですが、心配でもあります。前の手紙を運んだテトスの報告では、コリント教会は最悪の状態を脱して、良くなってきていると聞きましたが、それから数ヶ月が経って、再びパウロへの反対者たちが活発になって、今度会ってみたら、前以上に悪くなってはいないか。そんな心配もあります。
牧師は教会がどうなっていくのかを心配します。でも、何かの問題が解決しても、また違う問題も起きるでしょう。一番大切なのは、中心がぶれないで正しく成長することです。例えるなら、子どもは怪我をしたり病気になります。でも成長して体力がついていけば、やがては元気な身体になっていくでしょう。教会にとって、また教会に連なっている一人一人にとって何が大切なのか。それがパウロの手紙の要なのです。
パウロが次に来るときまでにコリント教会の人たちに対して彼が願っていること。それを三つのポイントに分けてお話ししたいと思います。第一に「弱さが誇り」ということ。第二に「犠牲の愛」、そして第三に「築き上げるため」という順序で進めてまいります。
1.弱さが誇り(1〜10節)
1節から少しずつ読んでまいります。
1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
これは前の章で語られたことの続きでもありますが、パウロがあることを誇っています。前の章では自慢話をするのは愚かであるが、と前置きしつつ、パウロ自身のことを証ししています。それは大切なことを教えている証しですが、それを聞いた人の中には、そんな証しはたいしたことない、と蔑む人もいるでしょう。
教会で証しが語られるとき、それはキリストを証ししないで自分の自慢となるなら問題ですが、その人がキリストによって救われたことを語る時、例え、それがパッとしない話であったとしても、決して価値が低いのではありません。私は牧師家庭で生まれ、ずっと教会で育っていたので、クリスチャンになるのも特に劇的な体験があった訳ではありません。他の人の証しを聞くと、ドラマチックで、自分はそれと比べると地味な証しだと恥ずかしく思っていました。でも、それが私に神様が与えてくださった恵みですから、決して無価値だと思う必要は無いと教えられました。
コリント教会の中には奇跡的な体験をした人がいて、その人は自分の証しこそが最高だと自慢していたのでしょう。そこでパウロは今まで言わなかったけれども、一つの体験を語ります。2節。
2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。
3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──
4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
パウロは、まるで自分以外の誰かであるかのように語っていますが、明らかにこれはパウロの体験です。でも、それを自慢したくはないので、わざと「この人」と言っています。彼は第三の天と呼ばれる、人間には近寄ることが許されていない場所にまで引き上げられて、他の人に伝えてはならない特別な言葉を聞いた。まるで幻のような体験でした。これこそ、コリント教会で自分を誇っている人には適いっこない証しです。でもパウロは、自分を誇りたくはないし、証しを人と比べるつもりでもない。パウロは、この幻のような体験よりも、その後の体験を伝えたいのです。7節。
7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
パウロに神様が与えられた肉体のとげが何であるかは書かれていません。おそらく目の病気のことだったと言われます。それが無ければ、もっと宣教の働きができるのに、とパウロは三度祈った。三回だけ、ではありません。おそらく何日も断食して祈るような真剣な祈りを三度した。でも「とげ」は取り除かれない。代わりに主が語ってくださったのです。9節。
9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
「わが恵み、汝に足れり」、とキリストが語ってくださったのです。そして、パウロの弱さこそ、キリストが力を発揮してくださる機会です。自分の力に頼るなら、それは自分の力以上のことはできない。でも弱いからこそ、主に頼り、主が働いてくださるなら、自分の力以上のことが成される。だからパウロは弱さを誇ると言いました。
この世の基準は、強さを誇ります。弱肉強食の世界では弱さは恥です。でもクリスチャンは自分を誇る高慢の罪から救われ、自分ではなくキリストを誇る。だから弱さでさえ神がくださった恵みであり、誇りなのです。パウロが願ったのは、コリント教会の人たちの持っていた間違った誇り、この世の誇りが変えられて、キリストを誇り、自分の弱ささえも感謝するものとなって欲しいのです。私たちは何を誇りとしているでしょうか。私にとって一番価値があるのは何でしょうか。この世の基準ではなく、神の国と神の義が第一だと証しする者となりましょう。
2.犠牲の愛(11〜18節)
二つ目のことに移ります。13節を読みます。
13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。
パウロは「不正」という言葉を使っていますが、もちろんパウロが不正なことをしたのではありません。パウロはコリント教会には経済的な負担をかけずに伝道しました。他の町で宣教したときは、その町にできた教会がパウロたちの働きをサポートしました。それは彼らが捧げることにおいて信仰が成長するためでした。中には貧しい教会もありましたが、その教会も喜んで自分のできることをしてキリストの働きを支えました。ところがパウロはコリント教会においては、自分のお金を使って生活しながら伝道したのです。これはパウロも特例だと認めています。原則は教会が宣教者を支えるのだとパウロは、例えば第一コリント9章などで教えています。負担をかけなかったのは不公平かもしれない、だから不正を赦して欲しいと語っていますが、それはコリント教会の人に迷惑をかけたのではありません。迷惑をかけなかったと詫びている。なぜでしょうか。
以前もこのことについて話したことがありますので、今日はそれには触れず、15節を読みます。
15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。
パウロはコリント教会のためなら、自分自身を使い尽くすと言いました。それがパウロの愛だからです。いいえ、パウロを愛し、教会を愛してくださったキリストの愛。それは自己犠牲の愛です。イエス様は私たちを救うためにご自分の命さえも差し出してくださった。この愛によって救われた私たちは、イエス様と同じ事はできなくても、少しでもキリストのため、また兄弟姉妹のために犠牲を払うことを厭わないのです。
パウロが願っているのは、自分の愛を知って欲しいからではなく、パウロの姿を通して、もう一度キリストの愛に気がついて欲しいからです。私たちは愛に関しても、この世の愛を基準としてしまいます。この世の愛は、自己中心で、自分の気に入った者、自分にとって益となる者だけを愛します。また、この世の愛は自己満足や高慢で、相手のことを本当に思うのでは無く、自分の思ったことをして満足し、「これだけしてやっているのに」と思い上がります。だから愛しているはずが、反感を受けたり、相手をダメにしてしまいます。私たちの愛がキリストの愛により変えられるとき、神を愛し、隣人を愛することが、あるべき愛による働きとなっていくのです。
でも、何て自分は愛が足らないのだと、思い知らされます。そのとき、こんな自分でさえも愛してくださったキリストの愛が私に注がれている事を知らされ、自分ではなく、聖霊が内側から変えてくださり、キリストの愛に生きるように導いてくださるのです。
3.築き上げるため(19〜21節)
三つ目のポイントに移ります。パウロは何度も手紙を書き、これまで二回、訪問をし、これから三回目です。どれだけのことを彼らに語ってきたでしょう。書いてきたでしょう。それは何のためにしてきたのでしょうか。19節。
19 あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。
パウロは自分を弁護したり推薦しているのではありません。自分のことを書きながら、それを聞いたコリント教会の人たちがキリストによって変えられ、キリストの姿へと近づけられ、教会がキリストのからだとして正しいすがたになっていくこと。それがパウロの願いです。「すべては、あなたがたを築き上げるため」と語っています。
今年の池の上教会の標語は「キリストのからだを建て上げるため」です。教会のことであり、そのキリストのからだの部分部分であるお一人お一人のことです。コリント教会は問題の多い教会だと紹介しました。具体的には多くの罪があった。でも、罪は悔い改めたら赦していただけます。パウロが手紙を書いたのは、彼らが悔い改めるためです。もし悔い改めないままでいるなら、ついには神の裁きを受けることになるということをパウロは心配していました。二つの手紙を通して示されてきた様々な罪。それは私たちには無関係だ、ということはありません。形は違っても、同じ罪が私たちの中にもあるでしょう。でも、十字架によってその罪からきよめられ、そしてキリストの似姿に変えられて行く。これが福音の恵みです。
パウロが言いたいことを他の手紙で一言で語っているのが、有名な御言葉です。
ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
「キリストの形なるまで」とは、山根先生の自叙伝の題名でもあります。池の上教会に連なるお一人お一人も、キリストのかたちがその人の内に形造られ、教会がキリストのからだとしてのあるべき姿となること。そのためにパウロが祈っていたように、山根先生、恵代先生をはじめ、多くの牧師たちが祈り、御言葉を伝えてきました。いいえ、牧師だけが祈るのではなく、犠牲を払うのではなく、それをキリストのからだの一員である私たちみんなが共に担っていくなら、どれほどの祝福があるでしょうか。
まとめ.
パウロは三回目の訪問を前にこの手紙を書き、彼らが信仰の備えをするように願っています。そして、パウロを遣わされたキリストは、再び地上においでになります。それが再臨です。その日まで私たちは何を目指して生きるのか。教会はどこにむかって前進するのか。聖書はそれを私たちに教えています。私たちも「キリストの形なるまで」、共にキリストのからだを建て上げてまいりましょう。
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