2022年09月25日

9月25日礼拝「祝福に満ちた収穫」第二コリント9:6〜8(9章)

9月25日礼拝「祝福に満ちた収穫」第二コリント9:6〜8(9章)
これまで皆様とご一緒に「コリント人への手紙」を読んでまいりましたが、この手紙には、コリント教会の抱えていた問題、それは実は私たちにも無関係ではない本質的な課題でもありますが、その問題に対して使徒パウロが、クリスチャンの、またキリストのからだである教会のあるべき姿を教えています。この大きなテーマと共に、小さなテーマ、それは「聖徒たちへの献金」と呼ばれていますが、正確には困窮していたエルサレム教会への援助金という話題がありました。今日、開かれております、第二コリント9章は、その援助金問題について取り扱っている最後の箇所です。すでに2、3回、この援助金のことをお話ししてまいりましたが、もう一度、御言葉に耳を傾けたいと思います。なぜぜならば、この問題は、私たちにとっても祝福となることだからです。
「祝福に満ちた収穫」と題しまして、いつものように三つのポイントで、第一に「祝福に満ちた贈り物」、第二に「神に喜ばれる贈り物」、そして最後に「感謝の溢れる贈り物」という順序でメッセージを進めてまいりたいと思います。
1.祝福に満ちた贈り物(1〜5節)
1節から読み進めてまいります。1節。
1 聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。
2 私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。
3 私が兄弟たちを送ることにしたのは、この場合、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。
4 そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。

1節で「聖徒たちへの奉仕」と書かれているのが、先ほども申し上げましたが、エルサレム教会の聖徒たち、クリスチャンたちへの援助のことで、「いまさら書き送る必要はない」と言いながら書き送っているのですが、それは彼らの中には忘れかけている人がいるので確認のために書いているわけです。パウロが手紙を書いている場所はマケドニア地方にある教会、恐らくピリピかテサロニケだと思いますが、マケドニアの諸教会にパウロは、アカヤ地方、すなわちコリント教会では昨年から準備が進んでいると自慢した。そのことでマケドニアの人たちは、よし自分たちもコリントに負けないぞ、と奮起した。それなのに先に始めていたコリント教会が実はまだ準備できていませんでした、ではみっともない、と語っているのです。
パウロは、ここで、この援助金を強制しているのではなく、むしろコリント教会の人たちが自主的に進んで始めたことを思い出して欲しいと言っているのです。このことをまとめているのが5節。
5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
特に5節最後の「献金を、惜しみながらするのではなく、行為に満ちた贈り物として用意しておいてください」。何度か申し上げてきましたが、ここで「献金」と言っているのは、正確には援助金のことですから、私たちも時には援助をします。9月の最初の日曜にはラブローフ献金と言って、ワールドビジョンを通しての援助金を捧げています。援助と言うのは、惜しみながらすることではなく、好意に満ちた贈り物だと言っている。援助は自由な気持ちに基づくものであって、強制的なことではありません。そして、それは献金についても同じことが言えるのでして、教会の献金はあくまで自発的な行為です。
最近、問題となっている、ある種の宗教と言うかカルトでは、献金をしないと悪いことになると脅すようなやり方とか、救われるためには献金が必要だという詐欺めいたやりかたです。聖書は、救いは神様からの一方的な贈り物であって、私たちがお金で買い取るようなことでは決してない。献金は神様への感謝であり、感謝を超えて、自分を捧げる思い、すなわち献身だと教えられています、
さて、コリント人への手紙の中で、この献金、正確には援助金ですが、何か所か「献金」という言葉に日本語に訳されているのは、パウロはギリシャ語でいくつかの言い方を使っているのですが、今日はそれを全てお話しすることはしませんが、この5節では「贈り物」と二度書いていますが、これは「祝福」という言葉を使っていると、欄外の注釈を見ると直訳では「祝福」だと書いています。私たちは祝福とは神様が私たちにくださるものだと考えています。ところが聖書は、私たちが他の人に、特に困っている人、弱い人に贈る援助も「祝福」なんだと教えているのです。それは、神様の祝福は、時には神様から直接来る場合もありますが、時には、誰か人間を通して祝福を送られる。神様が私たちに注いでくださる祝福は、私のためであると同時に、私を通して誰かを祝福するためでもあるのです。祝福を独り占めすることは神様の御心ではない。豊かに与えられた祝福は他の誰かのための分も含めて与えられたのです。
しかし、それですと、豊かに与えられた人しか援助をすることはできない、と考えてしまいます。確かにコリント教会は裕福な教会でした。しかし、それに対してマケドニア地方の教会は貧しい地域です。しかし、貧しい人たちが精一杯に援助をしようとしている。無理をしているのでしょうか。そうではなく、喜んで助けようとする人を、神様も喜んで助けてくださる。それが祝福です。力の無いと思っていた自分も誰かのために手を差し伸べることが出来るんだ。そうなれたこと自体が神様の祝福なのです。惜しみながら、という言葉も下の注釈を見ますと「貪欲」という言葉を使っていることが分かります。貪欲な生き方ではなく、祝福に満ちた生き方、自分が他の人にとっても祝福の存在となれるということを覚えたいと思います。
2.神に喜ばれる贈り物(6〜9節)
二つ目のことをお話ししたいと思います。6節。
6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る。これは分かりやすい真実です。種を蒔かないのに収穫を期待するのは間違っている。それは神様の定めた原則です。それをパウロはこの援助金にも当てはめて、他の人を助ける行為も、豊かにすることで自分にも豊かな収穫が与えられると教えているのです。「神は喜んで与える人を愛してくださいます」。これは、他の人を助けることが出来ない人は愛してくださらない、という話ではありません。神様の愛は、私たちが何かをする前、いいえ、神様に敵対していたときから既に愛してくださった。神様は人が喜んで誰かを助けることを見て、喜んでおられるのです。
小さな子供が一所懸命に大人を手伝う姿を見るとほほえましく感じますし、それだけ成長してきたことを大人は喜びます。強いられてする働きではなく、自分で決めて、それを実行するように成長してきていることが神様の喜びなのです。なぜでしょうか。8節。
8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
神様は私たちに、必要なものを与えてくださるだけでなく、さらに満ちたらせ、あふれるばかりにして、それを他の人にも及ぼすようにしてくださる、そういうお方だと言っている。それだけ神様を信頼しているのです。神様が私たちを用いて他の人にも祝福を注ぐようにしてくださる。だから私たちが神様に感謝するだけでなく、他の人を助けることを神様も喜んでおられる。喜んで行い、また神様がそのことを喜んで、もっとその働きができるように祝福を増し加えてくださる。だからパウロはコリント教会の人たちに何度も援助について話しているのです。神様は私たちにもこの神様のお働きに加わるようにと招いていてくださるのです。
3.感謝の溢れる贈り物(10〜15節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。11節、12節。
11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

あなたがたはあらゆる点で豊かになって、と言っています。コリント教会は経済的には豊かだった。でもその豊かさを神様からの祝福だと気が付いて、祝福を他の人に及ぼす働きには、まだ乏しかった。惜しみなく与えるという神様の働きに参加することにも豊かになることを進めている。それが、感謝を生み出す。援助を受けたエルサレム教会も神に感謝するでしょう。そして、この働きに参加できた諸教会も神様に感謝する。さらに12節には、「この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ち溢れるようになるからです」。感謝が満ち溢れていくのです。
パウロがこの援助金に熱心に取り組んでいた理由は、エルサレム教会、すなわちユダヤ人クリスチャンと、そしてコリントを始めとする異邦人クリスチャンたちの間にあった溝というか、時には敵対心にまでなっていた。でも、どちらも同じキリストによって救いの恵みに与ったのですから、和解して欲しい、一つとなって欲しい、それが神様のご計画だとパウロは考えていた。そのためにこの援助が用いられるように願っていたのです。援助を受けたエルサレム教会が異邦人クリスチャンに感謝し、それまでは異邦人を見下していたユダヤ人ですが、クリスチャンとなった異邦人の愛の働きを見て、異邦人が神によって変えられたと知って神様をあがめ、そして両者の関係が敵対関係ではなく、愛し合うものとなっていく。14節で、「彼ら」というのはユダヤ人クリスチャン、「あなたがた」というのはコリント教会を始めとする異邦人クリスチャンたちです。14節。
14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。
15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

ユダヤ人が異邦人を嫌っていたのが、どうにか和解するというだけにとどまらず、慕うようになる。これこそが、パウロにとって「言葉に表せないほどの神様からの賜物なのです。パウロも神に感謝して、9章を、そしてこの問題に関する話を閉じています。感謝がますます広まっていく。なんと素晴らしい神様のご計画でしょうか。
エルサレム教会が、援助が必要なほどになった理由はいくつかありましが、一番はその地方を襲った飢饉です。中近東世界では、飢饉は度々やってきます。そのために貧しくなるものもいる。でも旧約聖書は、そのように困窮した人たちを助けることを律法で教えています。このときは、この飢饉が、ユダヤ人教会と異邦人教会を愛によって結びつけるきっかけとなっている。もちろん、全ての災害がそうだということではないでしょう。でも、多くの人が災害に遭った人たちを助けようと手を差し伸べるのを見ますと、そこにも神様の導きがあるのだろうかと私たちは考えます。
まとめ。
多くの問題があり、苦難の中にいる人たちがいます。私たちもこの二年半、コロナのために悩んできた。でも、困ったな、どうしてこんなことが、と嘆くだけでなく、神様に祈ること、信頼することをも学んできたのですが、さらに、この問題を通して、私たちは他の人、困っている人のことを考えるようになることも神様が教えておられるのです。教会に来ることができない人たちのために、何ができるかを考えましょう。できることを、強いられてではなく、自ら喜んでできることをする。そして、助けることが出来たことを神に感謝し、助けられたことを通して、相手に感謝し、神様に感謝する。感謝が満ち溢れるようになる。そのために、私たちも用いていただきたいと願います。神様は私たちを用いるためにもっと祝福を注ごうと準備しておられるのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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