2022年08月21日

8月21日礼拝「新しい生き方」第二コリント5:14〜15(5章)

8月21日礼拝「新しい生き方」第二コリント5:14〜15(5章)
私事ですが、先日、また一つ歳を取りまして、人間誰でも一年に一つ、年を取り、特に大人になりますと年老いていくことを実感するようになります。だんだんと無理が出来なくなり、力も衰えていく。でも、それを認めるのがイヤで、いろいろな努力をなさっている方もおられると思います。しかし、確かに人間は衰えていく存在です。そんな私たちに勇気を与えてくれる御言葉が、先週、お話しした第二コリントの4章の16節です。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
クリスチャンであるということは、神様によって毎日、新しくされる。それが新しい生き方であり、永遠の命です。この生き方を、今朝は第二コリントの5章を通して、ご一緒に考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に、「地上の幕屋」ということ。第二に、「新しく造られる」。そして最後に、「和解の使節」という順序で進めてまいります。
1.地上の幕屋(1〜10節)
1節から読ませていただきます。
1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

幕屋とは、当時の貧しい人が住むテントのような住居です。「地上の幕屋」とパウロが語っているのは、もちろん、実際のテントではなくて、肉体のことを指しているのは分かりやすい例えだと思います。地上の幕屋である肉体はこわれていく。でも、神がくださる建物、「天にある永遠の家」とは、天国で与えられる新しい体。それは衰えたり壊れたりすくことがない、永遠のからだです。それが与えられるまで、すなわち天国に行く希望を持ちつつ、地上の肉体の中で苦難を味わっている、とパウロは現実の私たちの姿を描いているのです。
地上で生きながら、天国の体になれるなら、もう老化も病気も無くなって、どんなに良いだろうかと思いますが、今は、神様が御言葉によって保証していてくださる天国の約束を信じて、希望をもって生きるのが地上での人生です。このことを私たちに保証するために神様が与えてくださったのが、5節。
5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

聖霊が私たちの内にいてくださることが天国の保証だとパウロは言います。だから、「いつも心強い」。肉体的には弱さを覚えることもあるでしょう。私も昔っから忘れっぽいところがあったのですが、還暦を過ぎてますます忘れることが増えてくる。しかし、何歳になっても聖霊は私たちの内にいて助けてくださるお方です。ですから、天国の保証は無くならないのです。もちろん、地上の肉体の中にいる限りは、「主から離れている」ときもある。四六時中、神様のことを考えることはできません。でも、自分が出来なくても、神様は眠ることも微睡むこともないと詩篇に書かれていますが、私の意識が仕事や勉強や、違うことに向かっている時でも、聖霊がいてくださることに信頼する。それが信仰です。7節で「見るところ」とは私たちが自分で分かることです。「見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」。神様を信頼するから、「心強い」ともう一度言っている。この信仰も神様の賜物であり、保証なのです。8節。
8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
肉体を離れて主のみもとにいる方が良いというのはパウロの本音です。それは、もう地上で生きるのはイヤだから止めたいということではなく、キリストとずっと一緒にいることの素晴らしさを何よりも貴いと思っているからです。このことを違う言葉で語っているのが、ピリピ人への手紙1章(23節後半)です。
ピリピ1:23後半 私の願いは、この世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかに勝っています。
24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

パウロは、自分のためではなく、コリント教会やピリピ教会、また、まだキリストの福音を知らない人たちに御言葉を伝えるために生きるのです。(第二コリント5章)9節。
9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
自分のための生き方ではなく、主に喜んでいただく生き方です。自分のための生き方は地上だけで、いつか終わりが来ます。でも主に喜んでいただくことを願う生き方は地上だけでなく天国にまで続く。これが永遠の命の生き方なのです。でも、どうしたら主に喜んでいただけるでしょうか。それは自分で決めるのではなく、神様が私たちに求めておられることを知らなければなりません。
2.新しく造られる(11〜17節)
11節からの段落でも大切なことがたくさんあるのですが、全部をお話しすることはできませんので、少し飛ばしまして、14節。
14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。
キリストの愛が私たちを取り囲んでいる、と新改訳第三版は訳しています。ここは翻訳によっていろいろと工夫されていますので、比べてみると面白いところです。キリストの愛が私たちを捕えている、と、もう捕まっている。支配しているとも訳すこともできます。私が好きなのは、「キリストの愛が私に強く迫っている」という口語訳です。「キリストの愛」というと、なんだか甘っちょろいと感じる方もおられるでしょう。日本語の愛という言葉の与える印象が原因です。旧約聖書では「ねたみの愛」という表現もあるくらい、神の愛は圧倒的な力のある愛です。キリストの愛は十字架です。命がけの愛であり、私たちの身代わりとして神の怒りを受け止める覚悟のある愛です。父なる神が三位一体としてわが身である一人子を手放すほどの痛みを伴った愛です。人間の文化による愛ではなく、聖書が告げる神の愛を知るとき、それは私たちに迫ってきます。まるで、強力な軍隊のごとく、私たちに迫り、取り囲み、ついには捕えて、私たちはキリストのものとされる。15節。
15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
自分のために生きる、古い生き方から、キリストのために生きる新しい生き方を選ぶとき、何が起きるか。17節。
17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
イエス様がニコデモという人に、「人は新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われましたが、古いままの生き方では結局自己中心、自分のためですから、神に喜ばれることが出来ない。キリストのものとされ、キリストのうちに生きるとき、神様が新しく造り変えてくださる。それが、神様が喜んでくださる生き方です。なぜなら、これが、神様が計画された道だからだと、18節の最初で、「これらのことはすべて、神から出ているのです」と語られていることなのです。
3.和解の使節(18〜21節)
18節は話題の転換点となっています。
18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

ここに「和解」という言葉が繰り返されています。まず、神様との和解です。罪を悔い改め、神様に背を向けて歩んでいた生き方から、神様に顔を向け、キリストに従う生き方となる。そのとき、背いていた罪を赦していただいて、神様との和解を与えていただける。迫ってきたキリストの愛に全面降伏して、全部を神様に委ねるとき、神様の平和が与えられる。
そして、他者との和解です。自分が他者と和解するだけでなく、他の人も神様との平和に入ることが出来るように、神様からの和解の言葉を伝える。それが「和解の務め」であり、20節では「キリストの使節」と言っています。20節。
20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
今回、メッセージの準備をしながら、繰り返してこの御言葉を読んでいて、ハッとさせられたのは、「懇願しておられる」という言葉です。神様は、キリストの愛によって私たちを包囲し、迫ってきている。勝利は神様のものです。ところが、その神様が懇願しているのだというのです。和解をしなさい、いいえ、和解を受け入れて欲しい、と。パウロも、「キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」。
神様は私たちを見ていて、心を痛めておられるのです。私たちが自分勝手な生き方から離れずに、まだ神に背を向けている。その自己中心がどれほど周囲の人を苦しめ、また自分自身の魂を傷つけているか。神様との関係にひびが入り、神様が与えようとしておられる祝福を受け止めそこなっているか。そんな私たちの姿を見るのが忍びなくて、早く、降伏して、神様を信頼して、受け入れて欲しい。それが神様の最大の、そして緊急の願いであり、これ無しにどれほど努力をしても、神様は喜べない。
みなさん。人間はいつか人生の終わりが来る。これは年齢とは関係なく、若い人でも同じです。それがいつ来るか、ご存じなのは神様だけです。その神様が私たちに迫ってきて、和解を受け入れろ、いいえ、受け入れて欲しいと懇願しておられる。そして、キリストから遣わされたパウロがコリント教会の人たちに願っているのです。
まず、自分が神様と和解をする。そして、次に和解の使者として、和解の言葉を私たちも委ねられています。私たちは、今日、またここから遣わされて、それぞれの生活や仕事に帰っていく。それは和解の使者としてなのです。これが新しい生き方なのです。
まとめ.
キリストの愛が私に迫っている。でも、神様は私たちを力づくで従わせようとはなさらない。キリストが戸の外に立って戸を叩いている、と黙示録に書かれています。私たちが心の戸を開き、キリストをお迎えし、和解のことばを受け入れとき、神様の新しい創造の働きが私のうちにも始まる。一回だけではありません。私たちはすぐに古い生き方、自己中心な生活に戻ってしまいがちです。ですから聖霊は何度も何度も、忍耐をもって語り掛けてくださる。そのたびに閉じかけていた戸を開いて、主を私の王として心に迎え入れる。それが日々、新しくされることです。今日も、また明日も、キリストと共に、そしてキリストのために生きる生き方を一歩ずつ歩んでまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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