2022年07月31日

7月31日礼拝「涙が香水に変えられる」第二コリント2:4〜8(2章)

7月31日礼拝「涙が香水に変えられる」第二コリント2:4〜8(2章)
新約聖書には多くの手紙が含まれています。今日、開かれている「コリント人への手紙第二」もその一つです。これらの手紙は、パウロを始めとする指導者たちが教会や個人を教えているもので、手紙というよりも説教のような書き方をしています。パウロは、ある時は「私」と自分のことを語り、その次には「私たち」と自分と仲間たちを指して語ることもありますし、聞き手であるコリント教会の人たちと自分を結び付けて「私たち」と語ることもあって、注意深く、パウロの口調を聞き取る必要があります。今日は第二コリントの2章ですが、その前半では「私」という字が多く用いられていて、パウロが自分の体験を語っている。手紙の中でパウロは自分の体験を通して大切なことを伝えようとします。自分がイエス・キリストと出会った時のこと、あるいは苦労しながら伝道しているときのこと、それはパウロの証しとも言える内容です。
今日は7月の第五日曜なので、年間予定では「信徒による証し礼拝」となっていたのですが、コロナの感染者の急増もあって、秋にお証しをしていただこうかと思っています。でも誰が証しをするとしても、その証し、今日はパウロの証しですが、証しを通して神様が私たちにも恵みを注いでくださるのです。
いつものように三つのポイントで。第一に「悲しみから慰めへ」ということ、第二に「赦しによる勝利」、そして第三に「キリストのかおり」という順序で進めてまいります。
1.悲しみから慰めへ(1〜10節)
パウロは一つの出来事を語っています。1節。
1 そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。
ここでパウロが語っている出来事は、語っているパウロと聞いているコリントの人たちは良く覚えていますので、詳しいことは言わなくても分かり合っていますが、私たちはその二千年前の出来事を体験していないので、何の話か、分かりにくい。でもパウロが語っていることを丁寧に読むと、また他の手紙も合わせて考えると、おぼろげなことは分かります。「あなたがたを悲しませるような訪問は二度と繰り返さない」と言っているのは、この手紙を書く前に、一つの訪問がなされた。でも、その訪問は「あなたがた」コリント教会の人たちを大変悲しませる結果となって、パウロも悔やんでいた。ですから、そのようなことになるような訪問は二度としない、と言っているのです。
「使徒の働き」やパウロの手紙全体から推測されているのは、第一の手紙を書き送った後、パウロはコリント教会の問題を解決するために、、おそらく船で直接コリントに行った。でも彼は目的を達成できず、コリントから戻ったのではないかと思われます。さらに4節。
4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
この「涙ながらに書いた」とパウロが語っている手紙は、現在では残されていないと考えられ、「涙の手紙」などと呼ばれています。つまり、第一の手紙の後、「涙の手紙」が書き送られ、その後で、今読んでいる「第二の手紙」が書かれた。専門的な話はさておき、この涙の手紙についてパウロは、「あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたい」と言っています。
今は、コロナ禍にあって、直接会えないことがあります。早く、皆さんと一緒に集まって、共に礼拝をささげ、一つになって交わりをするときが来ることを私たちは祈っています。でも、直接会えるなら、全てが解決するかと言いますと、会って、語り合っているときに、つい言い過ぎてしまったり、言葉足らずで誤解を与えてしまったり、会うことが問題を引き起こす場合もあります。そんなときは、落ち着いて手紙を書き、送る前に何度も読み返して、十分に相手に分かるように書いているかを吟味して書き送る。読む人も、早合点して誤解をすることが無いように、何度も読むのです。若い時に書いたラブレターは、そうです。書く側は何度も言葉を考えて書きます。読む側も、好きな人からの手紙でしたら、嬉しくて何度も読みます。私たちも神様からのラブレターである聖書を、神様の愛のこもった言葉を何度も読み返して、意味をしっかりと受け止めたいものです。脱線しました。
パウロは悲しみの訪問、それは、恐らく、コリント教会で問題を起こしていた人の罪を直接に指摘した。もちろん、それは悔い改めを願ってだったでしょうが、結果は、その人が多くの人から罰を受けることになって、罰を受けた人も、罰をくだした人たちも、悲しみを覚えるようになってしまった。その悲しみの中にいるコリント教会の人たちのために、パウロは愛をこめて、涙ながらの手紙を書いた。その愛とは、6節から。
6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
8 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。

パウロは、コリント教会の人たちに、その罰せられた人へのかつての愛を思い出して確認するように勧めています。その愛とは、相手を赦す愛です。愛による赦しがあるとき、そこに罪の故の悲しみからの慰めがあるからです。
私がコリント書、最初はよく分からなかったのですが、読んでいるうちに、そしてメッセージを語っているうちに気が付かされたのは、牧会者パウロの深い愛が背後にあるということです。苦難の中にいた教会、悲しみに包まれていた教会にパウロの愛、いいえ、それはパウロを愛してくださった神様の愛、キリストによって示された愛があるのです。私たちも、教会の中で悲しんでいる人、苦難の中にいる人のために、神様からの慰めがあるように祈りましょう。もし、わだかまりがあるのなら、自分も悔い改めて、赦し合いましょう。そのとき、聖霊が私たちの中に豊かに働いてくださるのです。
2.赦しによる勝利(7〜14)
二つ目のポイントです。10節から。
10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

パウロがサタンの策略と言っているのは、どういうことでしょう。10節で赦すということが語られています。人間はなかなか人を赦せないことがあります。怒りが強いとそうでしょう。でも許さないことがクリスチャン同士の間に亀裂を生じさせて教会が破壊されるだけでなく、人を赦せない心は神様から遠くなり、キリストの心から離れてしまいます。だから悪魔は私たちに、あんな人は赦せない、という思いを刷り込んで、神様との関係を揺るがせ、キリストのからだである教会をダメにしようとするのです。
みなさんは、主の祈りを覚えておられるでしょう。その中に、「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」というくだりがあります。ここを普通に読みますと、人の罪を赦したら、自分の罪も赦される、と理解できるのですが、日本語に翻訳したときにどうしても語順が変わってしまっていて、原文では、先に「われらの罪を赦してください」、そして「私たちも人の罪を赦します」と続いているのです。何故かというと、神様が私たちの罪を赦してくださるのは、何か良いことをしたら、とか、誰かを赦したら、と言った条件を満たしたら赦してくださるのではなく、無条件の赦しです。私たちが自分の罪を認めて悔い改めるとき、イエス様の十字架によって赦される。無条件で赦されたのだから、私たちも誰かを赦すのです。
私たちが十字架の救いに根ざして生きるとき、私たちは神の愛の中に生かされ、そこに赦しが生まれます。神様の前には自分こそが赦されないような罪人であり、でもそんな自分も赦してくださり、救ってくださった神様の愛に心が満たされるとき、赦せなかった人を赦すことができ、罪のために悲惨な関係になっていた、神様との関係、人との関係が変えられて、神を愛し、兄弟を、また隣人を愛する者となるとき、本当の慰め、神様からの慰めが始まります。
旧約聖書のイザヤ書の中に、40章の最初ですが、「慰めよ、慰めよ」という神様の言葉があります。神に背いたためにイスラエルは滅亡して、バビロンに捕囚として連れていかれた。そのイスラエルを神様は慰めるために、もう一度、約束の地に帰らせてくださる、というイザヤ書のメッセージです。滅んだ者でさえ、赦し、生かしてくださる。この神様の救いの奇跡は、十字架で成就します。罪の中に死んでいたような私でさえ、神様は十字架によって贖い、罪を赦した。だけでなく、復活の命、永遠の命によって新しい人生を与えてくださる、それが神様の慰めです。この救いの御業が自分の内にも実現したとき、私たちを滅ぼそうと、神様との関係、人との関係を破壊しようとしてきたサタンの策略が打ち砕かれて、キリストが勝利してくださる。それが14節です。
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
3.キリストのかおり(14〜17)
最後に、今、読みました、14節の後半に「キリストのかおり」という言葉があります。
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
このかおりとは証しです。私たちの言葉だけでなく、行いも、そして生き方を通して、キリストが証しされ、聞いた人たちはキリストのことを知るようになるのです。それが、キリストのかおりを放つということです。
証しとは、自分のことを知ってもらうのですが、それが目的ではなく、自分を救ってくださった救い主、イエス・キリストを知っていただくことが目的です。そのためには、真心から語るのだとパウロは教えています。17節。
17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
私たちが混ぜ物ではなく、真実に証しするとき、「神によって」とあるように神様が助けてくださり、語らせてくださる。その時、キリストのかおりを神様が放ってくださる。主語は神様です。もう一度、14節。
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
救われた人が聞いても、まだ救いを知らず、罪の中で生きている人にも、キリストのかおりを神様が放ってくださる。自分のかおりではありません。自慢をしたり、自分の利益のために語りますと、悪臭が漂い、聞いている人はいやな気持になる。でも、キリストのかおりは、聞いた人の心にキリストが伝えられます。「かおり」という表現も面白いなと思って、今日の説教題、「涙が香水に変えられる」としました。私たちが眠っているときは、当然、目は閉じていますが、耳と鼻は開いていて、音や匂いで危険を感じる、と聞いたことがあります。いくら言葉を尽くしてキリストを伝えようとしても、なかなか聞いてもらえないときがあります。でも、証しの行い、キリストのような生き方を示して生きるとき、それを見ている周りの人は、キリストのことを認めざるを得なくなるのです。15節。
15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
言葉による証しもキリストのかおりです。私たちの証しは、それを聞く誰かにとって、キリストを伝えるように神様が用いてくださる。ですから、救われた証し、困難の中で助けられた証し、悲しみから慰められた証し、どんな証しでも、キリストのかおりを放つ者としていただきましょう。
まとめ.
パウロも失敗することがありました。居ても立ってもいられずにコリントを訪問して悲しませてしまった。でも、手紙で書き送ったメッセージが彼らを変えた。言葉で伝えても聞いてもらえないときは、態度や行いで示すこともあるでしょう。どんな形の証しであっても、キリストが伝えられ、キリストのかおりが放たれるように、用いていただきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: