2022年06月05日

6月5日礼拝「教会は何のため?」第一コリント11:22〜28(11章)

6月5日礼拝「教会は何のため?」第一コリント11:22〜28(11章)
(今日はペンテコステです。聖霊が弟子たちの群れに下られて、教会が誕生した記念日です。この日は教会について、聖霊についてお話しすることが多いのですが、ペンテコステの日に何がおきたかは、昨年、『使徒の働き』からお話したときに触れました。今年は『コリント人への手紙第一』を通して、教会と聖霊について何度も話してまいりましたので、今日も続けてコリント書を開いてまいります。)
人間は、生きている限りはいろいろな問題が行きます。そして悩んだり困ったり苦しんだりし、その問題を解決するように努力をし、時には挫折します。生けるものは全て問題がないことはない。そして、キリストのからだと呼ばれている教会も生きていて、様々な問題があります。今は特にコロナ禍という特殊な状況がありますから、普通以上に問題や課題があります。でも、神様に感謝するのは、そのような問題に対処するときに、キリストも教会を導いておられ、また私たちが祈り、奉仕し、用いられていくのです。コロナ禍で集まることができない人たちがおられる。そのとき、ある方は手紙や電話で連絡を取ってつながり続けておられます。ある人は教会に人が安全に集まることが可能となるように様々な手を尽くします。そして多くの方が祈り合って教会を陰で支えておられる。問題があるからこそ、多くの信徒がさらにキリストに仕え、また神様との交わりを大切に考えるようになったのです。ただ、私たちは問題にばかり目を向けるのではなく、もっと本質的なことを聖書を通して示され、そして信仰が建て上げられていくのです。
前置きが長くなりましたが、今日もコリント人への手紙第一の11章を通して、問題の多かったコリント教会の人々にパウロが教えていることを、ご一緒に考えてまいります。いつものように三つのポイントで、第一に「混乱する教会」ということ、第二に「中心はキリスト」、そして第三に「主が裁かれるため」という順序で進めてまいります。
1.混乱する教会
今日は11章を開いてまいりますが、この手紙は最初の第1章からコリント教会に巻き起こっていた問題が示されています。それは分派分裂と言う問題で、教会が様々な考え方によりバラバラになっていた。その後を読んでいくと、肉を食べても良いかという日常の問題から、結婚問題や、教会での女性の位置について。これは今日、私も説教の中で取り上げます。そして教会における食事の問題。これは私たちにも関係があることです。
11章の前半は司会者に読んでいただかなかったので、後で読んでくださっても結構ですが、私たちにはとても奇妙な問題に感じるかもしれません。それは女性の被り物についてです。当時の教会では礼拝に集まるときに、女性は被り物、ベールのようなものか、帽子か何か、詳しくは分かりませんが、女性は頭に被り物をかぶっていた。ところがコリント教会ではそれをかぶらない女性たちがいて、どうしたらよいか困っていたというのです。パウロは明確に、女性は被り物をかぶるべきだと教えているのですが、では私たちはどうするべきでしょうか。日本の多くの教会ではこの習慣はありませんが、一部の教会ではこの習慣を今でも守っている。それは、聖書にそう教えられているからです。
旧約聖書の律法に出てくるルールですと、喩えばイスラエルの民は豚肉を食べてはいけない。今も多くのユダヤ教徒は、それを守っています。でもイエス様が何でも食べてよい、と教えてくださったので、今、私たちは旧約の食物ルールは守らなくても良いんだ、と考えます。動物の犠牲を献げることもしません。旧約時代の契約だからです。でも、この「かぶり物」は新約聖書での命令であり、使徒パウロが教会に命じたことですから、私たちに関係はない、とは言いにくい。ですから、この「被り物に関する命令」をどう理解するか、大変に難しい問題なのです。他にも、この箇所でパウロが旧約聖書の言葉を用いて語っているのですが、その解釈の仕方も難しくて、簡単に結論をくだせない箇所です。
ただ、どうしてパウロがこの問題を取り上げたか。背後にはコリント教会の誰かからの質問があったからで、それは一部の女性たちが自分の考えを主張して、教会が混乱していた。パウロはその混乱を正そうとして語っていることは伝わってきます。
11章の後半、17節からでは、違う問題を取り上げています。それは教会に集まるのは何のためか。17節。
17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。

パウロは、すでに1章において分派分裂を戒めていますから、ここでの言葉も、分派を認めたのではありません。現実のこととして考え方の違いから意見が分かれることはある。しかし、その考え方の違いから教会が混乱に陥っていた。それが20節から取り上げられている、教会での食事の問題です。
当時の教会では、教会で食べるということには二つのことがあったそうです。一つは聖餐式、十字架を示す食事で、キリストご自身の命令によるもので、今でも教会で守られている式です。もう一つは愛餐会で、特別な意味はなく、楽しい交わりの時です。今、私たちはコロナの感染予防のために食事は制限をしています。この二種類の食事がコリント教会ではゴチャゴチャになっていたのです。礼拝を行い、その中で聖餐式を守る、というのではなく、教会に集まるときに、先に来た人たちが食事を初めて、お酒を飲んで酔っ払っている。遅く来た人は、食事もする時間がなく教会に来て、空腹なままで過ごしている。この混乱の原因と考えられるのは貧富や身分の違いです。裕福な人や身分の高い人は自分の自由に動けて、教会でも好きなことをしていた。でも身分が低く、貧しい人は自由な時間も限られていて、礼拝にもギリギリの時間に来るし、食事も用意できない。22節。
22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
いつの時代の教会でも、人によって事情が違いますから、全員が同じように集まり、同じことができるのではありません。例えば、礼拝の後、残ってゆっくりと交わりをしましょう、というときに、ある人はまだクリスチャンではないご家族のためには急いで帰って、家族のことも配慮することが将来の伝道のために必要だということもあるでしょう。でも教会はその違いを解決する愛と知恵を神様からいただくことができる。コリント教会も、富んでいる人が貧しい人を配慮して、自分たちが持ってきた食事の一部を彼らに分けてあげたら、貧しい人たちも助かったと思うのです。結局、この混乱は自分の楽しみだけを考える自己中心が背後にある。被り物の問題も、自分がしたいようにするという自己主張があるから混乱が生まれたのです。
聖書は、その当時の人に対して書かれたので、その背後にある状況を考えて読む必要はありますが、時代や国が違い、文化の違いがあっても、その人たちにも何かを語り掛けている。その中心的なメッセージをつかみ取るなら、今の私たちに対しても、何が教えられているかを考えることができます。そのように聖書を読んでいくなら、問題が混乱を生み出してしまうのではなくて、解決へと向かう道を示していただけるのです。
2.中心はキリスト
二つ目のポイントに移ります。この食事に関する混乱を戒めている中で、では教会では何が重要なのかを語っているのが、23節から。
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

どこかで聞いたことがある、と思ったら、これは聖餐式の時に読まれる箇所です。イエス・キリストが最後の晩餐で弟子たちに語ったことが教会に語り伝えられていた、大切なことです。聖餐とは、キリストのからだであるパンと、罪を赦すキリストの血潮を意味する葡萄酒の盃をいただく。それは満腹になるための食事ではなく、26節最後に「主が来られるときまで、主の死」、これは十字架のことです、「主の死を告げ知らせる」。聖餐は十字架の意味を教え、その十字架の救いを宣べ伝えるためです。自分のためではなく、キリストに従うためです。
聖餐式だけではありません。教会で行う、洗礼式も、礼拝も、奉仕も祈りも、そして交わりも、教会の全てはキリストを中心として行い、キリストが私たちの主であり、教会のかしらなのです。ですから、イエス様が弱い人たちを大切にされたことを覚えるなら、身分の低い人たちを阻害するのは、教会の主であるイエス様の心を踏みにじることです。
パウロはここでコリント教会の一部の人たちを断罪して、彼らを追い出しなさいとは言っていない。そうではなくて、彼らも聖餐式の本当に意味を知って、イエス様のおからだをいただいたものとして、イエス様の心を自分の心として、キリストに相応しい生き方へと信仰が成長することを願って語っているのです。それぞれの教会で、また様々な問題があるでしょう。それを聖書の御言葉を通して教えていただき、問題をきっかけとして信仰の成長、教会が建て上げられるようにと導いていただきましょう。
3.主が裁かれるため
最後に、27節からを見たいと思います。
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

聖餐の持つ大切な意味を考えるとき、自分はイエス様のおからだをいただくのに、自分がそれにふさわしい人間なのか。28節で「自分を吟味し」と語られているように、自分自身を顧みる機会でもあります。同じようなことを、31節では「自分をさばく」と語っています。この「さばく」とは自分の罪を断罪して、自分はダメだというのではなく、その罪を十字架の贖いによって赦していただくためです。それを教会で、特に聖餐式をはじめとする、様々な教会での出来事、それはキリストが中心だと先ほどもお話ししましたが、教会でキリストの前にあって自分を吟味し、主の御心によって自分を正しく裁く。それによって、もし間違っていることがあるなら、神様がそれを正してくださり、キリストに相応しい者へと成長していくことができるようにしてくださるのです。
コリント教会では教会に集まったとき、自己主張や自己中心のために集まりが混乱して、弱い人を躓かせ、礼拝も秩序を失って、神様への礼拝がおかしくなってきていた。「あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっている」と言われてしまっています。でも、教会で自分を吟味して、自分の中にある自己主張や自己中心をキリストの十字架の前に悔い改め、赦しの恵みをいただくなら、人を裁いたり、愛のない行いをするのではなく、教会でお互いに仕えるものとなるのです。
教会は自分のためにあるのではなく、私たちがキリストに仕え、お互いを愛し仕え合い、また自分を吟味して正しくしていただき、自分も、また教会全体も信仰が成長していく。それが主のからだを建て上げていくことなのです。
まとめ.
私たちはもうしばらくはコロナ禍体制で、交わりや集会が制限付きで行われています。いつか、制限が無くなって、また楽しく食事をして交わりを楽しむときが来ることを祈っていますが、今、何のための交わりなのか、何のための食事なのかを考える機会です。せっかく様々な行事が再開されるときが来ても、混乱して教会のかしらであるイエス様を悲しませるような姿にならないために、まず私たちの信仰を御言葉によって吟味していただき、主が望んでおられる教会となっていきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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