2022年05月22日

5月22日礼拝説教「神の栄光を表すために」第一コリント10:31〜33

5月22日礼拝説教「神の栄光を表すために」第一コリント10:31〜33(10章)
今日も先週に続けて新約聖書のコリント人への手紙第一より御言葉を取り次がせていただきます。この手紙、第一の次に第二があり、大変に繋がりが強いので、二つの手紙を続けてお話しして、それが終わってから、また旧約聖書に戻る予定です。私たちが持っている聖書は前半の旧約聖書と後半の新約聖書から成り立っていますが、旧約聖書を読むときは新約の福音の光を照らして読む。また新約聖書を読むときには旧約聖書を土台として読む、と教えられてきました。それは新約聖書、特にパウロの書いた手紙もそうですが、旧約聖書の御言葉を引用したり、旧約聖書に出てくる出来事や人物を取り上げて、その解説からキリストのことを教える、ということが良くなされています。ですから、旧約聖書と新約聖書は深く結びついている、と言うことが出来ます。最初は誰でも聖書はチンプンカンプンでしょう。でも通読をしたりして、聖書の全体を何度も読むと、旧約と新約の繋がりが少しずつ見えてきて、そうすると、分からなかった御言葉に光が与えられるようになります。どうぞ、これからも聖書の全体を読んでいただきたいと思います。
前置きが長くなりましたが、今日は第一コリントの10章全体から、三つのことをお話ししてまいりたいと思います。第一に「聖書の警告」ということ、第二に「偶像の真実」、そして第三に「救いの目的」という順序でメッセージを進めてまいります。
1.聖書の警告
1節から少し拾い読みをしたいと思います。1節。
1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
ここで父祖たちとはイスラエルの先祖のことで、海を通ってと言うのは出エジプトのことだと分かります。パウロはここで出エジプト記やそれに続く箇所を思い出させて、その事件の意味を話すことでコリント教会の人たちに大切なことを、「ぜひ」知ってもらいたいと言っているのです。2節。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

みなさんも出エジプト記を思い出していただきたい。もし、まだ読んだことがないという方がおられたら、いつか、ぜひ読んでください。ここで「雲と海とで、モーセにつくバプテスマ」と書かれています。バプテスマ、すなわち洗礼は、水の中を通ります。それが出エジプト記のイスラエルも水の中を通り、雲というのは雨を降らせるのですから水がそこにあるのは昔の人も分っていて、雲の下を歩いたことも、海の中を歩いたことも、それは洗礼と同じようなことだと考えているのです。3節の御霊の食べ物は、神が与えてくださったパン、すなわちマナのこと。また4節では岩からでた水を飲んだ。このことは出エジプト記と民数記の二回、同じような出来事が起きています。場所は違いますが、どちらの場所でも大きな岩を杖で打つと水が出てきた。当時の伝説では、この水を出す岩は、実はイスラエルの荒野の旅路を一緒に移動していたんだ、と思っていたらしいのです。パウロは、その水を出した岩とは、キリストなんだ、と解説します。御霊の岩からの水とは、キリストから与えられる飲み物だと言っているのです。これらは聖餐式を思い出させています。神から与えられたキリストのからだであるパンと、キリストから流れ出る血潮の飲み物。なんでこのようなことを話しているかと言うと、5節。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

イスラエルの民は、バプテスマを受け、パンと盃を受けていたにも関わらず、途中で滅んでしまったじゃないか。だから私たちも同じ失敗をしてはけない、と警告しているのです。旧約の出来事、特にイスラエルの罪と失敗を、自分とは無関係としないで、自分のこととして受け止めて、同じ罪を犯さないように戒めている。この読み方は今も私たちがしている読み方です。
この後は全部解説しますと長くなりますので省略しますが、出エジプト記と民数記のいくつかの出来事を取り上げて、最後に11節。
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

旧約の言葉は今の私たちに対しても戒めと教訓であり、自分は大丈夫だと思っている人ほど倒れやすいから気をつけなさい、と教えています。
13節は、有名な御言葉です。
13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

試練はいつの時代の人でも必ず出会います。救ってくださった神様は、救うと約束された者を放り出すようなお方ではなく、約束に信実なお方ですから、試練があっても必ず助けてくださる。ところがイスラエルは神様を信頼せず、食べ物がないとつぶやき、モーセが見えなくなると金の子牛の偶像を作ってしまう。私たちは試練の時にどのように神様を信じて祈り、どのように助けをいただいているでしょうか。これは時代や国を超え、またどんな人にも当てはまる真実なのです。
長くなりますので二つ目のことに移りたいと思いますが、先ほど取り上げた聖餐式の話と、今お話しした偶像礼拝の件が、つぎのポイントへの伏線となっています。
2.偶像の真実
「偶像の真実」と言いましても、偶像が正しいというのでもありませんし、偶像の中にも少しは良い部分があるということを言いたいのでもありません。偶像とは何でしょうか。木や石で作った神々の像、と考えられますが、偶像とは見える形は何であっても、それは人間の欲望と言う罪が背後にある。本質は人間の罪だということは真理です。16節から、また拾い読みをしてまいります。
16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。

ここに聖餐式のパンが取り上げられています。あのパンをいただくとき、私たちはキリストのからだにあずかる、言い換えると、パンが体の中に入るだけでなく、私たちもパンの一部とされ、このパンは「私たちの裂くパン」と言っているように、本来は一つのパンの塊を割いて、分け与えるのが聖餐式でしたから、私たちは一つのパンから食べることで、キリストのからだという一つの体に属する者となる。これが教会の一体性ということです。ですから、聖餐のパンを食べるという行為は、単なる食事ではなく、私たちのあり方に影響を与えるのです。同じように、旧約時代の人々は、罪を赦してもらうために動物の供え物をささげ、その一部は祭壇で焼き、一部は家族や仲間と一緒に食べる。そのとき、一部を焼いた祭壇、この祭壇は贖い、すなわち神の救いの御業を象徴します。祭壇に捧げ、払い下げられた肉を食べる行為は、その祭壇による救いを受けることなのだと律法に教えられています。
19節。
19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
「私は何を言おうとしているのでしょう」って言われても困りますよね。私たちだってパウロの文章は難しくて分からないのに、「私は何を言おうとしているのでしょう」、パウロも混乱しているのか。もちろん、そうではありません。よく聞いて考えなさい、ということです。「偶像の神にささげた肉」を食べるという行為について語ろうとしているのです。これは7章の冒頭にありました、コリント教会からパウロへの質問状の中にあったことです。偶像のささげた肉には大した意味はない、ただの肉だから食べても悪影響はない、と主張する人もいました。偶像の神に信実な意味があるとパウロは言いたいわけでもない。20節。
20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
これがパウロの答えではないかと思います。例え、偶像には何の意味もなく、偶像に捧げた肉を食べても良いとしても、その偶像の背後には悪霊があって、人間を神様から引き離そうとしている。偶像にささげた肉を食べる人を見て、他の人が、あのクリスチャンは偶像を肯定しているんだと誤解して、そこから信仰を離れるようになるなら、それは悪魔の思う壺でしょう。礼拝は神との交わりです。私たちはこれを大切にしたい。ですから信仰に不純物を持ち込むような余計なモノからは離れる方が健全だと考えているのです。23節。
23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
何かを食べる・食べないは個人の自由です。でも、それが有益かは別の話です。私たちは肉体の健康に気を付けて、何かを食べないことを選択することがあります。でも、信仰の健康のために何を食べるか、何をするかを考え直す必要がある。いいえ、自分の健康のことだけを考えるなら、自己中心です。他者のこと、そして教会全体の徳を高める。教会の交わりで、世間話も楽しいのですが、神様の喜ばれないような話題を避ける、いいえ、本当に大切なこと、神様の恵みを証ししあうなら、それがお互いの信仰の成長に役立つ。私たちは自分の自由や権利を何のために用いたら良いのでしょうか。三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。
3.救いの目的
31節からをもう一度読みます。
31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。
32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
33 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

食べる、飲む、いいえ、何をするにも、神の栄光を表すため。それが私たちの行動の目的なのです。人間を神様が創造されたとき、神のかたちに造られたと書かれていますが、それは人間は神の栄光を表すべき存在として造られた、ということです。また出エジプト記では、エジプトの奴隷から救われたイスラエルが、神の民としていただいたのですが、そのイスラエルがこれから神様とおつきあい、つまり交わりとしての礼拝をおこなうために幕屋を作ります。その幕屋が完成したとき、神の栄光が満ちたと書かれている。イスラエルも自分のためではなく神の栄光を表す、宝の民となるために救いだされたのです。私たちが救われたのも、自分のためではなく、神の栄光のためであることを忘れないようにしましょう。
32節の、躓きを与えないように、というのは、肉を食べる問題ですが、自分がしたいことをして、誰かが躓くなら、それは神様の御心では無い。でも人を躓かせないように気を使って行動するというだけですと、何もできなくなってしまう。むしろ、33節で「私も、人々が救われるため」、多くの人が御救いにあずかり、共に神をあがめるようになるとき、栄光が表されます。自己中心だった者が、自分の利益よりも多くの人の利益を求め、みなの喜びを喜びとして仕えていく。この教会のありかたが、そのようにしてくださった神の栄光となるのです。
まとめ.
今、私たちはコロナ禍という試練の中にいます。でも、神様は耐えられないことはなさらないどころか、試練を通して私たちが神の栄光を表す者となるようにと導いておられるのです。それは私たちが救われたのは、自分のためではなく神様の栄光のためであり、何をするのも自分の自由であるのですが、それを信仰の徳を建て、教会が建て上げるために何事でもする。この年、そのことを考えてまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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