2022年05月01日

5月1日礼拝説教「真実なパンのために」1コリント5:6〜8(5〜6章)

5月1日礼拝説教「真実なパンのために」1コリント5:6〜8(5〜6章)
今日は久しぶりでコリント書に戻ります。先ほど司会者に読んでいただいた中で、8節の後半に「純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか」と書かれていますので、今日の説教題として「純粋で真実なパンの祭り」とつけようかと最初は思いついたのですが、もっと有名なパン祭りもありますので、「真実なパンのために」というタイトルにしました。もちろん、実際のパンの話ではありません。純粋なパンをどのように作るかは、専門家の方々がおられます。でも聖書の中でパンは大切な意味をもって語られることがありますので、このコリント書を通して、私たちのなすべきパンの祭りということを考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けて進めて参ります。第一に「罪を取り除く」ということ、第二に「裁くべきこと」、そして最後に「神の栄光のため」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.罪を取り除く
さて、コリント書のことを少しお話しします。使徒パウロがコリントの町にできた教会のクリスチャンたちに書き送った手紙ですが、このコリント教会は問題に満ちた教会でした。問題の第一に挙げられていたのは、分派・分裂です。パウロ派、アポロ派といった派閥に分かれて争いあっている。キリストのからだである教会が内部分裂し争い合っている状態はあるべき姿ではありません。そして二つ目に大きな問題としてあげられているのが、性的な罪ということで、5章から始まって6章の終わりの方にも同じ問題が取り上げられていますので、今日は5章と6章からお話しさせていただきたいと思います。
性的な罪と言いましたが、姦淫や不品行と聖書に書かれている罪です。コリントの町は交通の要所で、商業が発達し、大変に豊かな町でしたが、同時に性的には大変に乱れた町でした。「コリント人のようだ」とは不品行な人を指す言い方だったそうです。そんな町の雰囲気に影響を受けたのか、もともとコリントで生活していた人たちだったから、クリスチャンになってからも多少は性的な罪に陥りやすかったのか。いいえ、パウロは、クリスチャンでは無いコリントの人たちが見ても、眉をひそめるような。「異邦人の中にもないほどの不品行」だと告げています。しかも、その罪を隠そうとするのではなく、自分はこんなこともできるんだと誇っている。周りの人も、それを肯定して、やめさせようともしない。神様のお名前が汚されるような状態だったのです。パウロは、そのような罪は教会から取り除かなければならない、と厳しく語っています。
真実で純粋なパンとは、罪を取り除いた状態を意味します。元々は、旧約聖書の律法で、過越の祭のときは「種入れぬパン」と言いますが、パン種、酵母のようなものでしょうか、それを入れないパンを使うことになっていた。発酵させてふっくらとさせる時間もないほどに急いでエジプトから出なければならないことを表すためです。この祭りの時期は家中を探して古いパン種を取り除くのです。このパン種を、人間の罪を象徴するものとして教えることがありました。(もちろん、パン種が悪いのではなく、時には律法でパン種を入れたパンを使う儀式もありましたので、あくまで象徴としての話です。)パン種を小麦粉の塊に混ぜてこねると、やがて発酵して膨らむように、人間の罪を放っておくと、やがて大きくなっていく。だから不品行の罪を誇るようになり、それは教会全体にも広まって、他のクリスチャンもおぞましい罪を平気でするようになってしまう。そうなったら、キリストのからだを汚すことになって、神様に滅ぼされてもおかしくないのです。
純粋なパンとは、私たちの心から罪を取り除くことから始まります。誰でも罪はある。でもそれを認めずに隠して、思い上がるのでは無く、へりくだって悔い改めることです。そうして、過越の祭のように、キリストの救いを感謝して礼拝を捧げるのです。礼拝前のひとときは、一週間の忙しさや悩み、日常の心乱すことから解放されて、心を静めるときですが、そのとき、一週間の生活を振り返り、自分の心の中を顧みて、見つけた罪を悔い改めて、純真な思いで神様の前に進み出るなら、豊かな祝福を味わうことができるのではないでしょうか。
2.裁くべきこと
二つ目のことに移ります。パン種を取り除く、自分の内側にある罪を悔い改めて取り除くことも簡単なことではありません。しかしコリント教会の状態は、さらに悪かったのです。その罪を犯している人たちが悔い改めるどころか、悪い影響を与え始め、このままだと教会全体が裁かれるような姿になってしまう。そのとき、パウロは、その人を取り除くように命じています。13節。
5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。
これは、一歩間違えると、教会にとって都合の悪い人を排除する、阻害することになります。教会は愛によって結びついていますから、誰かを排除することは心情的にもできない。しかし、それが教会全体が神に背くようになることを止めるためには、悔い改めない者を排除せよ、とパウロは言うのです。特に、5章の終わりから6章にかけて、パウロは何度も「さばく」という言葉を使っています。12節。
5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
言い方は複雑ですが、単純に言うなら、内部の人をさばきなさい、と語っているのです。私たちは「裁き会ってはいけない」と教えられています。自分を正しいと考え、他の人を非難して攻撃することは、教会にあってはいけないことです。しかし、さばかなければならない場合もあるのです。
神の愛ということを誤解して、神様は愛だから何をしてもゆるしてくれる。この「ゆるす」という言葉も日本語の漢字では二通りあって、聖書が教えているのは恩赦の赦の字で、「罪を赦す」ということですが、もう一つは許可の許の字で、「罪を許す」、つまり罪を犯すことを許可する。これは聖書の教えではありません。神様の愛が罪を許可する愛なら人間はますます悪くなっていき、それは御心のはずがない。神様は十字架の贖いによって罪を赦してくださいますが、私たちが罪から離れることを願っておられます。神は愛だからこそ、罪を犯し続け悔い改めようとしない者を放っておいて悪化させるのではなく、その人を裁くことで間違いに気がつかせ、悔い改めの機会を与える。この意味において、神様は教会にさばく権威を与えているのです。
コリント教会は、排除の前には何度もこの人を戒めたり、忍耐して諭したり、できる限りは立ち直られようとしたでしょう。でも、ますます高慢になっていくのです。だからパウロは最後通告をしているのです。このコリント人への手紙第一を丁寧に読んで行きますと、不思議な言葉に気がつきます。明確なのは、5章の9節です。
5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
パウロは「前の手紙」と言っています。実は第一の手紙よりも前に、違う手紙を書き送っていたのです。その時点でも彼の罪が伝えられていて、パウロがこうしなさいと前の手紙で書いたときに、それを誤解した人もいたので、この「第一の手紙」という二番目の手紙を書いているのです。当時の手紙は往復するのに数ヶ月もかかったでしょう。その間、コリントのクリスチャンたちは彼をどうにか説得しようとして、どうすることもできず、パウロに相談した。そこでパウロも最終手段として、彼を教会から追い出すように指示したのです。
これは現代でも、教会には「教会戒規」と呼ばれる規則があります。罪を犯し続け、誰の忠告も受けず、ついには教会全体にも悪影響を及ぼすようになったとき、最終手段として、その人を罰するという規則があります。とうぜん、愛し合う教会にとっては痛みです。でもそれを痛みを避けて罰を与えず罪を許可しているなら、教会が純粋なパンではいられなくなって、キリストの栄光を汚してしまいます。ですから愛を持って罰しなければならないこともあるのです。
裁き会うことは確かにあるべき姿では無い。でも罪に対して曖昧であることは神の教会を破壊することにもなります。もちろん、パウロは見捨てたのではなく、5節では
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
これはちょっと難しい内容ですが、この人が終わりの日に救われることを願っているのです。また、次の6章では、裁きについての教えが続いた後で、6章11節。
6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
こうして罪が洗われ、聖なる者とされる道を示している。教会のなすべき裁きとは裁き会うことではなく、その人が救われるために避けられない痛みであり、これも愛の現れなのです。
3.神の栄光のため
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。6章12節。
6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。
罪を赦されて救われたということは、何をしても良いということではない。何が教会にとって益となるか。13節後半。
からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
救われた私たちのからだは、罪を犯すためにあるのではなく、キリストのために存在するのです。このことを明らかに語っている有名な御言葉が6章19節と20節です。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

私たちが救われたのも、聖霊が心の内に宿っていてくださるのも、それは自分のからだで神の栄光をあらわすためです。一人一人のからだもそうですし、教会全体もキリストのからだとして、それは神の栄光を表すためのからだなのです。
純粋なパンのためには、罪を取り除く必要があるでしょう。時には犠牲を払い、時には痛みを感じることもありますが、でも私たちを救うためにキリストが受けてくださった痛み、父なる神の心の痛みも、私たちへの愛です。でも罪を除くことばかりを考えているなら、律法主義と言われるように、他者を裁くようになってしまいます。罪を取り除くにしても、でもその人のために祈り、その人が悔い改めにいたって、神様に感謝を献げるようになるにしても、全ては神の栄光が表されるためです。
まとめ.
教会の目的は神の栄光です。自分の満足や自分の栄光では無い。罪を赦された私たちが自分自身を主におささげし、御心に喜んで従うとき、神様が栄光を、教会を通し、私たち一人一人を通して、証しさせてくださるのです。今は教会は厳しい時を通っています。困難の中におられる方々も少なくない。でも、それら全てを通して、ついには神様の御業がなされて栄光を拝する時が来る。そのことを信じて、御声に従ってまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: