2022年04月10日

4月10日礼拝説教「十字架の心」イザヤ書53:4〜12(53章)

4月10日礼拝説教「十字架の心」イザヤ書53:4〜12(53章)
今日は教会歴では棕櫚の日曜日と呼ばれ、今週は十字架に思いを寄せる受難週です。日曜日にイエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入城し、木曜の夜が最後の晩餐、金曜日に十字架につけられました。そして来週がイースター、復活の日です。この十字架と復活がキリスト教の根本であることから、この時期には十字架と復活について礼拝で語られます。普段の礼拝でお話ししているコリント人への手紙から少し離れて、十字架についてお話ししたいと思います。十字架について聖書はどう語っているか。福音書は十字架の事実を記しています。パウロの書いた手紙は十字架の意味について多くのページを割いています。旧約聖書は救い主に関する預言の中で、救い主が苦しみを受けることを述べている。今朝、開かれていますイザヤ書53章は「受難の僕」と呼ばれる箇所で、イエス様の十字架の苦しみが何を意味していたのかを語っています。今日は、この箇所を通して、十字架が何なのかをお話ししたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてお話を進めます。第一に「十字架の苦しみ」、第二に「十字架の意味」、そして最後に「十字架の目的」という順序でメッセージを進めてまいりたいと思います。
1.十字架の苦しみ
十字架の苦しみについては、旧約聖書のあちこちに触れられています。例えば、創世記の21章ではアブラハムが一人子のイサクを山の上で神に捧げるシーンがありますが、これも人間を救うために御子を十字架で死なせるときの父なる神の思いを感じさせます。しかし、十字架で何が起きるのか、その苦しみを直接的に描いている箇所としては、詩篇22篇とイザヤ書53章が有名です。今日開かれておりますイザヤ書53章では、罪を犯したためではなく、むしろ人々の誤解や裏切りの故に神の僕である正しいお方が痛みつけられ、ついに死に至る様子が、まるで十字架を見たかのように鮮明に描かれています。詩篇の方がもう少し起きた出来事を描写していて、衣服をくじ引きにされた様子が有名です。それに対してイザヤ書は、十字架の苦しみと、その意味が示されているようです。
先ほどは53章の途中から読んでいただきましたが、この箇所は52章の13節から続いていると考えられ、52章13節で
13 見よ。わたしのしもべは栄える。
と始まって、主のしもべについて語られています。この僕こそメシアであり、イエス様において成就した預言だと言えます。最初は「栄える」と書かれている通り、イエス様の教えを聞きに多くの人が集まってきて、人気はうなぎのぼりでした。でも誤解され、捨てられ、苦しめられる。それが53章で述べられていることです。53章の4節から。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

本当は十字架の苦しみは私たちのため、私たちを罪から救うために身代わりとなって罪に対する神の罰を受けてくださったのに、人々は彼が神の罰を受けていると考えた。これはイエス様を十字架につけて殺そうとした人々、十字架の周りでイエス様を嘲った人たちの姿です。6節。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

この口を開かない羊の姿は、イエス様の裁判での姿だと福音書は語っています。8節。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

私たちの罪の身代わりとなって命を絶たれたイエス様は、十字架上では二人の極悪人と並べられ、死んだあとはアリマタヤのヨセフという裕福な人の作った墓に入れられます。このような御言葉を味わい、十字架の苦しみを考えるとき、イエス様が十字架にかかってくださったのが、私のためだということを考えさせられます。
四月に入ってから礼拝で用いられる賛美に十字架の受難について歌っているものをいくつか選ばせていただきました。これらの賛美歌も、歌詞を味わっていただきたいと思います。言い回しは古い言葉ですが、何度も読むと十字架のことが心に迫ってくるように感じます。また、ある方は今、あるいは最近、自分が受けている苦しみを思い起こしたときに、ああ、この痛みや苦しみは、イエス様も十字架の上で私のために痛みや苦しみを受けてくださったんだなあ、と、十字架を身近なものとして受け止める機会となるかもしれません。
誰でも痛みや苦しみを味わったことがあるでしょう。十字架の苦しみは肉体的な苦痛だけでなく、弟子たちに裏切られ、救おうとしている人々に罵られるという心の痛みもあったでしょう。何よりも父なる神から苦しみを受けなければならないという、これをゲツセマネの園では「受けなければならない『さかずき』」とイエス様は言われましたが、それほどにつらい思いがあった。だから私たちは自分の体験した痛みや苦しみを通して、イエス様の十字架について考え、深く知ることができるのだと思います。この一週間、聖書や賛美歌、さまざまなことを用いて十字架に心を向けてみてはいかがでしょうか。カトリックでは、十字架までの約40日間、例えば好きなものを絶つといったことで苦しみを味わうという習慣がありますが、形は違っても、十字架の苦しみを考えることは大切だと思います。
2.十字架の意味
もちろん、ただ苦しみを味わうというだけでは、それが終わって、ああ大変だった、と言うだけです。その苦しみが、いいえ十字架が、どのような意味なのか、を考えることが必要です。
もう一度、5節。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
ここに、十字架が私たちのための苦しみ、私たちの罪への「懲らしめ」と書かれていますが、その苦しみを身代わりとなって受けてくださった。これを「贖い」という言葉で、新約聖書は教えています。十字架は、本当ならば私が受けなければならない、私の罪に対する罰を、イエス様が身代わりとして受けてくださり、私はその苦しみから救われた。これが十字架の贖いであり、この代価が払われなかったら、私たちの救い、罪からの救いはできなかった。私たちの救いの土台は十字架です。でも、十字架の苦しみだけが土台だとするなら、キリスト教の救いは苦しみの上に成り立つ、残酷なものとなってしまいます。
10節。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
ここに、十字架の苦しみは、神様の御心であったと語られています。イエス様も父なる神様の御心に従い、それもイヤイヤで、不平たらたらで従ったのではなく、悩みつつも、でも、父の心を自分の心として受け止めてからは、自ら十字架に向かって進んで行かれた。それは嬉しい楽しいという御心ではなく、心に痛みを感じつつ、でも自分からそれを行うという御心なのです。なぜ、そんなことをされるのでしょう。それは私たちを救うため、私たちへの愛の故です。これを知らないと、罰を受けるという嫌なことをイエス様が代わりに受けてくださり、自分は助かった、という表面的な理解になってしまいます。私たちを愛しているからこそ、父なる神は御子を十字架につけさせ、御子イエス・キリストも私たちへの愛の故に、この御父の計画を忠実に行ってくださった。十字架は愛の故の苦しみであり、神様の御心は私たちを救うことにあります。
この十字架の苦しみが持つ本当の意味が分かったとき、私のためにイエス様は自ら進んで十字架についてくださった、その愛の深さを知るのです。誰でも苦しみは好きではありません。でも、その苦しみを通して愛する人が助かるなら、進んで苦しみを受けるのは、貴い自己犠牲となります。私たちが十字架のような苦難であっても、神様の御心として受け止めるとき、その苦しみは祝福への入り口となることができるのです。
3.十字架の目的
最後に11節。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

ここには、十字架の苦しみの結果、多くの人が救われ、罪を赦していただいて、義と認められる。十字架の目的が明らかにされています。「分捕り物」とは昔の戦争では勝ったものが負けた者の全てを手に入れて、それを仲間と分け合う。12節で、「わたし」と語っているのは神様です。身代わりの苦しみを受けきった僕、彼に対して多くの人を分捕り物として与える。それは多くの人が十字架によって救われて神のもの、キリストのものであるクリスチャンとなることを語っています。
苦しみを味わって知ることは、自分の体験を通して十字架を深く学ぶ機会となるでしょう。また十字架の贖いが、私自身の罪のためだということを受け止めることは、自分の救いにとって重要なことです。でも、自分の救いは、それが神様の目的だとするなら、自分が救われてオシマイです。でも神様の目的は、もっと多くの人が救われることです。もし十字架の苦しみの背後に、神様の、そしてキリストご自身の愛があることを受け止めたなら、その神様の御心、私だけでなく、もっと多くの人を救いたい、という願いをも受け止めることができるのではないでしょうか。
クリスチャンとなるとき、何かの悩みから救われた、という方もおられるでしょう。もしかしたら、同じような悩みの中で苦しんでいる人が近くにいるかもしれない。その人のためにもイエス様は十字架で苦しみを受けてくださった。罪の悩みは全ての人に共通する問題です。すべての人は罪を犯した、と聖書が教えているとおりです。ですから神様はどんな人であっても救いに導きたいと願っておられる。その神様の御心を思い、私たちも、関わることができる人たちに、この救いを伝えること、それが神様の御心ではないでしょうか。
誰かの救いのために祈り、実際にその人が救いに導かれるように働くことには、犠牲を伴います。自分のために仕える時間や労力を、ほかの誰かが救われるために用いるのです。家族の救いのために長い間祈り続ける方も少なくありません。でも、それがキリストの願いであるなら、喜んで犠牲を払う。それが私たちの果たすべき使命です。自己中心、自分のために生きるという古い生き方をしている自分を、十字架につけなさい、とパウロは教えていますが、私たちがそれを進んでするものとなり、まだキリストの救いを知らない人のために犠牲を払ってでもキリストを伝える姿を見るとき、私たちを救うために十字架の苦しみを進んで受けてくださったイエス様も満足しておられるのではないでしょうか。
11節で、
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
というのは、苦しんで満足するというのが少し不思議です。もちろん、十字架という最も重要な救いの働きを立派に成し遂げたが故の満足もあると思いますが、「苦しみのあと」、その結果を見て満足する。一番新しい「聖書協会共同訳」では、「苦しみの後、光を見、それを知って満足する」と、これは原文には無い「光」という言葉を使って意訳しているのですが、面白いと思います。暗闇にいると遠くの光も良く分かります。イエス様ははるかとおく、約二千年後の私たちを見て、私たちが自分のためではなく、他の人のために祈り、多くの人の救いのために喜んで犠牲を払う姿を見て、よくここまでになったな、と満足しておられるのではないでしょうか。そこまでなることが、十字架の目的なのです。
まとめ.
神様は私たちのために、計画されたすべてのことを成し遂げてくださいました。旧約聖書に預言された神様の計画、救い主をこの世に送り、その苦しみを通して人間を罪から救う。この救いの働きを全うするためにイエス様は進んで十字架の苦しみの盃を受けてくださった。このお方の愛と苦しみを知った私たちは、何をしたら良いのでしょうか。自分もイエス様の御心を行う者とならせていただきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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