2022年02月20日

2月20日礼拝説教「義なる王」詩篇72篇1〜7節(72篇)

2月20日礼拝説教「義なる王」詩篇72篇1〜7節(72篇)
礼拝では詩篇を続けて開いてきましたが、今日開かれています72篇は第二巻の最後となっています。詩篇の中には全部で150の詩が書かれていますが、五つのグループに分かれていて、第一巻、第二巻、そして最後は第五巻となっています。150を全部一気にお話ししようとしますと、3年以上、毎週詩篇からのメッセージとなってしまいますので、区切りの良い、この72篇でいったん止めておきまして、来週からは新約聖書、そして今年の終わりころから、また旧約聖書に戻ってくる予定です。72篇は第二巻の最後の詩篇として、ここまでの結論のような内容ということができます。それは何か。一言で言いますと、「義なる王」というテーマです。
いつものように三つのポイントで。第一に「ダビデからソロモンへ」、第二に「義なる王による祝福」、そして第三に「来るべき義なる王」ということをお話ししてまいりたいと思います。
1.ダビデからソロモンへ
もう一度、一節を見たいと思います。
1 神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。
旧約聖書の詩には日本や欧米の詩とは違う、平行法と呼ばれるスタイルがあって、一つの節の前半と後半でペアになっている場合があります。この1節も、公正は王に授けられ、義は王の子に授けられる、という二つが別々なのではなくて、公正と義は二つでワンセットです。公正と義を、王にも王の子にも授けてください、というふうに理解するのが良いと思います。いきなり、専門的な話から始まってしまいましたが、この節は神様に祈って求めています。王様が、また王様の子であり、次の王となる人が、どちらも神様からの正義が授けられて、義なる王となるように、との祈りです。公正という言葉は公正とか裁きと訳されますが、正義と同じような意味で、義の類義語です。でも、ここで求めているのは、単なる正義ではありません。神様の義です。人間は誰でも自分は正しいと考えたい存在です。でも、気を付けないと自分だけの独りよがりな正しさで、他の人から見たら正しいとは言えない、自分勝手な場合もあります。王様が自分勝手で、しかも自分は正しいと勘違いをしていると、国の人たちは大変です。ですから人間の正しさではなく、神様の正義です。本当に正しいお方は神様だけです。その神様に従うとき、正しい生き方ができるようになるのです。
さて、この神の義を授けて欲しいと祈られている王様とその息子とは誰なのか。普段はあまり読みませんが、表題と呼ばれている、詩の本文の前には、「ソロモンによる」と書かれていて、この詩篇はソロモンの作品だとも考えられています。ソロモンはダビデ王の息子でした。ですから、王と王の子とは、ダビデとソロモンのことなのかもしれません。他にも様々な解釈があると思いますが、ダビデは最も優れた王様でした。失敗もありましたが、神様から言われたらすぐに悔い改めて、また神様に従うようになる。その意味で神様の正義に従った王様でした。その子、ソロモンは、最初は正しい生き方をしましたが、晩年は残念ながら偶像礼拝に走り、正しさから脱線してしまいました。ですからソロモンがもう一度正しい王様になるようにと、ソロモンの家来が祈ったのかもしれません。ソロモンが正しくなったら、それで良いのか。いいえ、ソロモンに続く、次の王、つまり王の子もそうなって欲しい。誰か特定の王様が神様の正しさに生きることを願うだけですと、やがて正しくない王が誕生する。ですから、王と王の子に、と毎回祈ることで、ずっと正しい王様が続くように願っている祈りなのです。
さて、王と王の子は誰かという謎と共に、この詩にはもう一つの謎がありまして、それは一番最後の節、20節。
20 エッサイの子ダビデの祈りは終わった。
ソロモンの作った詩、つまりソロモンの祈りかなと思って読んでいたら、最後は、ダビデの祈りは終わった、とダビデが作った祈りだったのか、と不思議に感じるわけです。実は、最初に言いましたように、この72篇は第二巻の最後で、池の上教会で使っている新改訳聖書で見ると、次の73篇の前には第三巻と書かれています。それぞれの巻の最後には、神様を褒めたたえる言葉があって、18節を見ますと、
18 ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。
19 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。

この、神様を誉め称えて「アーメン」で終わるのが各巻の終わりにあって、この第二巻は、さらに「ダビデの子の祈りは終わった」と付け加えているようです。
これは、どんなことなのか。はっきりとは分かりませんが、おそらくこんなことだった。詩篇は150の詩がいっぺんに集められたのではなくて、段々とまとまっていったのだと私は考えていますが、最初はダビデ王です。歴代誌の中でダビデは神殿建設の準備として、神殿聖歌隊を組織します。その時に、賛美歌集も作って働きの準備をさせた。その時に集められたが、第一巻でほとんどがダビデの作った詩篇と考えられています。その後、ソロモンの時代に立派な神殿が完成して、聖歌隊が本格的に活動を開始すると、もっとたくさんの賛美歌が必要で、第二巻が作られた。そこにはダビデが作った賛美で、第一巻の時は選に落ちたものも集められ、さらに聖歌隊の一員だったコラ族の人が作った賛美歌も含まれています。今日は聖書学院の授業で教えるようなことを話していますが、実際に詩篇には歴史があるのです。そしてソロモン時代以降も、王が新しくなるたびに、この王様が義の王となって欲しい、と祈ったことでしょう。
何代、王が交代しても、大切なことは、王の子が正義を引き継ぐこと、いいえ、神様からの義を授けられることです。やがてダビデ王朝も滅んで時代は変わっていきますが、今も大切なのは、そして祈り求めるのは、神様からの義を授けられ、それを次の世代に受け継ぐことです。神の愛も大切なことですが、正義の無い愛は歪んだ愛となります。神様の義には、正義だけでなく救いも含まれ、神の愛が背後にあります。ですから、私たちはまず神の義を求めるのです。
2.義なる王による祝福
二つ目のポイントに移ります。この神の義による王によって何が起きるのか。3節。
3 山々、丘々は義によって、民に平和をもたらしますように。
4 彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。

山々、丘々、とはイスラエルの国土全体です。正義によって国中に、そして国民に平和をもたらします。この平和とは静かで何もない状態ではありません。元気いっぱいで、ですからトラブルも発生するかもしれない。でも、その時に王様の正義が国を正しく治めて、悩む者、貧しい者が救われるのです。また6節。
6 彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。
豊かに雨が降るのは、乾燥しがちなイスラエルでは豊作をもたらします。さらに続けて読んでいきますと、10節。
10 タルシシュと島々の王たちは贈り物をささげ、シェバとセバの王たちは、みつぎを納めましょう。
11 こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。

周囲の敵国もこの王様によって平定されて、貢を治めるようになる。シェバというとアラビアのほうの国だと考えられていて、ソロモンのところにシェバの女王が訪ねてきたことは有名です。セバはエチオピアのこと。世界中の王たちがこの正義の王に従うなら、外国との戦争も無くなります。これ以上は触れませんが、ここには正義の王に治められる国がどれほど祝福なのかを描いています。
もちろん、正義の王がいたら何も問題が無くなるのではありません。正しく生きていても苦難はやってきます。でも、神様に従い、神の義を願い求めて生きていくなら、苦難の時には神様に祈ることができます。後ろめたいことをしていると、祈るのもためらってしまうかもしれません。神の義に生きるとき、どんな困難でも祈ることができて平安です。神様との関係が正しくされるなら、他のことは、必要なら神様がちゃんと与えてくださる。ですから、「神の国と神の義を第一に求めよ。そうすれば、これらのものは全て添えて与えられる」とイエス様が教えてくださった通りなのです。私たちも自分自身が神の義を求め、神様からの義を授けていただきましょう。
3.来るべき義なる王
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。この詩篇は王様に神の義が授けられることを祈る祈りですが、最初に触れましたように、王だけでなく王の子も、代々の王たちが神の義に生きる王となることを祈り求めています。最後の方の、17節。
17 彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。
王様が長生きしますように、というのも当時の国民の祈りでしたが、その王様の名前、王朝の名前がずっと、とこしえにまで続くように。これは少し大胆な求めでしょうか。義なる王が治める国でしたら、ずっと続いて欲しいのですが、人間には限界があり、実際、イスラエルも良い王様だけでなく、正義ではない、悪い王様も何人もいたのが歴史であり、最後にはダビデ王朝も滅んでしまう。では、この詩人の願った祈りは叶えられなかったのでしょうか。とこしえに続くことを求めるのは、無理だったのでしょうか。
確かに言い過ぎたのかもしれない。しかし、この詩人は、さらに祈り続けたとき、永遠に続く王とは、実は神様ご自身だと気が付かされるのです。ですから18節。
18 ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。
19 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。

神様ご自身こそが、本当の正義の王であり、全世界の王たちの王、栄光の名が永遠に続くお方です。最初は王と王の子、と人間の王様のために祈っていたのが、最後には神様こそ、その王だと告白する。そして、さらに続きます。その詩篇が神殿で賛美され、神殿崩壊後は各地の会堂で賛美され、そして、預言者たちが預言したとおり、本当の王様が来てくださった。それがイエス・キリストです。神の御子であり、王なる神の子として、世界を治めるお方。ですから、詩人の祈りは旧約聖書の歴史では成就しなかったとしても、この詩を聖書に載せてくださった神様は御子イエス様を送ることで、王も王の子も正義の王となられたのです。
今、私たちは、ダビデ時代、またイエス様が地上においでになった新約聖書、紀元1世紀の時代の信仰者たちも、そして今も、私たちはキリストがやがておいでになって、再臨の主が王となられる時を待ち望むのです。地上では神の正義が実現するのに時間がかかり、もしかしたら自分の生きているうちには正義ではないことが起こるかもしれない。祝福とは思えないこともあるでしょう。でも、神様が王である神の国と、神の義を求めるとき、私の祈りもこの詩篇に加わり、新約時代の信仰者がキリストの再臨を切に祈り求めたように、私たちも来るべき王を待ち望む。この祈りはイエス様が再び来られるときに成就するのです。
まとめ.
コロナ禍はもうしばらく続きそうです。コロナに限らず、一人一人の人生には困難がある。でも私たちは去年の標語のように「主を待ち望む」者です。この信仰に立った者たちは新しく力を得て、時代は変わっても、この詩人の祈りに合わせて、またイエス様の教えに学んで、神の国と神の義を求め、王なるイエス様が来られるときまで忍耐して待ち続けるのです。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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