2022年02月13日

2月13日礼拝説教「若い時から老いるまで」詩篇71篇16〜21節(71篇)

2月13日礼拝説教「若い時から老いるまで」詩篇71篇16〜21節(71篇)
詩篇に登場する詩には誰がいつ作ったか、あまり詳しくは述べていないものがあります。それは、賛美を作った自分を見るのではなく、賛美や祈りを受けている神様に目を向けて欲しいからではないか、と思います。でも、その詩を深く味わう時、その詩を作った人に寄り添うように感じ、きっとこの人はこんな人だったのだろう、どんな時に詩を作ったのかな、などと想像するのも良いことです。今日、開かれています詩篇71篇は、おそらく晩年になってから人生を振り返ったときの詩篇だろうと思われます。具体的には、先ほど読んでいただいた、17節に
17 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
私の若いころ、という言い方は若い時には使いません。幼稚園の年長さんの子供が、年少さんの子供を見て、最近の若い子は、なんて言ったら、笑い話です。晩年まで行かなくても、かなり高齢に近づいてこの詩を語っている。この人の人生は、苦難のある人生でした。いいえ、誰でも苦難の時があります。特に年齢を重ねるほど、そのような体験は誰にでもある。その苦難の中で叫ぶようにして祈った。その祈りが賛美に変えられていった。祈りが賛美に変えられる、というのは、これまでも何度もお話ししました、詩篇のテーマの一つです。今日は、この詩篇、詩篇71篇を通して、「若い時から老いるまで」の、一生にわたる信仰ということを考えてまいります。いつものように、三つのポイントで。第一に「苦難の叫びから信頼へ」、第二に「絶望から賛美の宣言へ」、そして第三に「苦難の人生が生む賛美」という順序で進めてまいります。
1.苦難の叫びから信頼へ
この詩篇が悩みの中での祈りだということは、詩の最初の部分、1節から4節を見ますと、何度も、救ってください、助け出してください、という意味の言葉が続いていることから分かります。ここまでの多くの詩篇でも、このような救いを求める祈りを、私たちはいくつも見てきました。なぜ、このような必死に救いを求める祈りとなるのか。それは、それだけ苦しみが長かったからです。この71篇は、詩の本文が始まる前、71という数字の下に小さな文字で書かれる表題と言われる箇所が、71篇にはありませんので、誰の作った詩かはヒントがありません。誰が作ったのかは分からなくても言えることは、これまで多く登場してきた、ダビデ詩篇と呼ばれる詩篇でも、同じように救いを求める祈りがたくさんあった、ということです。ダビデの一生も波乱に富んだ人生でした。若い時は羊飼いとして苦労し、青年時代は戦争で戦い続け、やがてサウル王に嫉妬されて逃亡生活が始まります。王となってからも、戦いがあり、また自らの罪が原因ですが、家庭内の問題からまた逃亡生活となるなど、苦難に次ぐ苦難でした。だから彼は何度も神様に祈ったのです。この71篇の作者も同じです。
しかし、ダビデをはじめとする信仰者たちは、苦難が永遠に続くのではないか、という絶望の叫びをしつつも、同時に、自分の信仰を奮い立たせる言葉も語ったのです。3節には、
3 私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです。
神様は岩のようにどっしりとして、信頼できるお方だ、という言葉も、ダビデ以来、多くの人がダビデの祈りや賛美を通して学び、自分たちも「主は我が岩、わがとりで」と語って、神様への信頼を言い表して、自分を奮い立たせたのです。その信頼が、やがて確かな信仰に成長し、ついには賛美の言葉となっていきます。5節。
5 神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。
6 私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。
7 私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。
8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。

若い時から神様を信頼するようになり、奇跡とも思われるほどに、苦難から救われる人生を送り、ついには一日中、神様を賛美するようになったのです。この人の人生は、苦難の祈りが信仰による賛美に変えられていった証しの人生でした。私たちも、この詩篇の祈りから学び、自分自身も苦難の中で祈るとき、神様が御言葉を通して私の心にも信仰を与えてくださる。その恵みを、自分も証しする者とならせていただきましょう。
2.絶望から賛美の宣言へ
二つ目のポイントに移ります。9節。
9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
10 私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。
11 彼らはこう言っています。「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕らえよ。救い出す者はいないから。」
12 神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください。

この人は、年老いて弱さを覚えるようになり、神様から見放されたかのように感じた。敵も増えて、「神は彼を見捨てた」と言って、この人の信仰をくじけさせようとするのです。
新型コロナ・ウイルスのことがニュースに上るようになってもう、二年がたとうとしています。今は第六波と言われるのは、これまでも第一波、第二波と、何度も少なくなっては、また増えてくることを繰り返してきたからです。今度こそ終わりになると、自分でも早く安心したくて、そう思うのですが、また波が押し寄せると、もうダメではないのか、と絶望しそうになる。コロナ禍に限りません。人生の苦しみにも、何度も押し寄せることがあります。
そんなとき、もし神様から見捨てられたらどうしよう、と恐怖を感じるとき、それでも詩人は信仰によって立ち上がります。14節。
14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。
しかし、という言葉は詩篇を理解するカギです。どれほど苦しみがやってきても、「しかし」。「しかし、私はあなたを信じます」「しかし、主は私を救ってくださるはずです」と信仰に立つ。その時、神様への賛美に導かれるのです。
それでも、また苦しみがやってくる。18節。
18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
また見捨てられたのか、と考えてしまう。でも、18節後半。
私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。
すぐに、また、信仰によって、神様の力を次の世代の人たちに伝えると宣言しています。何度、倒れそうになっても、また立ち上がって信じる。それが、この人がその人生で学んできたことです。この詩篇は、若い時からの信仰の証しと賛美の体験を思い起こして、何度も立ち上がってきた。そして、ここでまた新たな賛美が生まれるのです。19節。
19 神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。
絶望しそうになっても、そのどん底で神様に出会い、祈りが賛美へと変わり始める。この体験へと私たちは招かれているのです。
3.苦難の人生が生む賛美
最後のポイントです。この詩篇は、「若い時」という言葉と、「年老いて」という言葉を、少し言い回しは違いますが、二回ずつ使っています。若い時から白髪になるまで。この人の一生は多くの苦悩で満ちていたかもしれない。でも、苦難の人生があったからこそ、賛美も生まれたのです。「見捨てないでください」と祈った祈りが答えられたからこそ、この詩篇が書き残された。神様は決して見捨てない。例え、死の世界と言われる地の底に落ちても、そこから救ってくださる。20節。
20 あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。
「私を再び生き返らせ」と新改訳第三版は訳していますが、旧約時代は復活ということはあまり分かっていなかった。ですから「生き返らせ」は言い過ぎかもしれない。しかし、神様は本当に生き返らせる力のあるお方だということを、イエス様の復活を通して明らかにしてくださったのです。ですから私たちは御子をよみがえらせた復活の神を信じる。
コロナ禍だけではありません。病気もケガもあります。私たちの人生はいつか終わりが来ることは確かです。でも、たとえ、死ぬことになっても、なお、神様は私を見捨てず、最後には天国に受け入れてくださる。「ゆりかごから墓場まで」という言葉があります。若い時から白髪になるまで、いいえ、それさえも超えて、天国にいくまでです。ですから、私たちはこの神様を信じて、このお方をほめたたえるのです。22節。
22 私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを。イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。
23 私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。

六弦の琴や、竪琴など、様々な楽器を用い、また唇は言葉を用いて賛美をささげます。この詩篇も、また多くの詩篇が、言葉を尽くして神様を、特に救いの神様を褒めたたえています。私たちは何を用いて賛美をささげましょうか。私たちのできること、すべて、です。
詩篇の詩人たちの、賛美の言葉の豊かさは、彼らの体験に基づき、また、その体験を信仰によって深く理解したからこそ、様々な賛美が生まれてきたのです。私たちが多くの苦難を体験し、その苦難から救われ、その体験が証しとなるとき、賛美は豊かなものになります。今は大きな声で賛美歌を歌うことは控えています。でも声の大きさ以上に、賛美の意味をよく理解して、心の底から賛美するとき、賛美は深められ、豊かにされるのです。23節。
23 私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。
24 私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表しましょう。

23節の後半で、「あなたが贖い出された私のたましい」と語っています。神様が私の魂を贖ってくださった。贖うという言葉は、「買い取る」という意味の言葉で、そこから転じて人を救う意味となっています。神様は私たちを十字架の血潮によって贖ってくださった。私たちは買い取られて、神様のものとされているのです。救いとは、代価を払って買い取られたのだ、と分かったとき、私たちは自分ために生きるのではなく、命を懸けて買い取ってくださったお方のために生きるものとされる。これが最高の賛美です。
まとめ.
24節は「一日中、あなたの義を言い表しましょう」。神の義とは、神様の正しさであると同時に、神による救いをも意味します。私たちを救ってくださったお方が義なるお方で、このお方が私を罪から贖い出してくださった。だから私たちは正しい者とされた。神様が正しいと言ってくださるのですから、私の悪口を言うものは恥を見る。だから、敵が、特に悪魔が私たちを攻撃してきても、この神様の救いを信じるとき。敵に打ち勝つのです。
コロナ禍はもうしばらく続くのかもしれません。人生の苦しみはこれからも何度も押し寄せてきます。でも、私たちはこの神様を知り、このお方に贖っていただいた。この恵みを忘れないで、何度でも苦悩の祈りから立ち上がり、賛美をささげる者としていただきましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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