2022年02月06日

2月6日礼拝説教「思い出す祈り」詩篇70篇1〜5節

2月6日礼拝説教「思い出す祈り」詩篇70篇1〜5節
一昨年来のコロナ禍も、波が来るたびに大きくなっているようにも感じます。そんなとき、神様を信じて落ち着いて歩みたいものです。ちょうど、この二年ほどの間、旧約聖書からは詩篇を味わってまいりました。詩を作った詩人たち、特にダビデ王と、また、この詩を後の時代の人々が賛美として歌い伝えていった、その人たちの信仰を、詩篇を通して学ぶことができたのは、神様のお計らいであったと感じています。
今日は「思い出す祈り」というタイトルをつけましたが、祈ったら思い出す、ということではありません。年々、忘れっぽくなってきている身としては、そんな便利な祈りがあったら、と思います。思い出した頃に祈るというのも、できればあまり遅くならないうちに祈る方が良いかと思います。でも、私たちは「絶えず祈りなさい」と聖書から教わっていますが、どうしても祈ることを忘れていることが少なくない。それが、大変な状況になり、人間の力ではどうすることもできなくなったとき、誰もが祈らざるを得なくなるのではないでしょうか。今日は詩篇70篇を通して、いつものように三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「危急の時の祈り」、第二に「記念による信仰」、そして第三に「過去から未来へ」ということをお話しさせていただきます。
1.危急の時の祈り
さて、この詩篇の中で繰り返して用いられている言葉の一つに「急いで」という言葉、それが最初の1節と、最後の5節に使われています。1節では、
1 神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。
神様に救いを求め、さらに「急いで」と付け加えている。それほど急いでいる。そして5節は
5 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。
急ぐだけでなく、遅れないで、と付け加えている。こんなにも急いで助けて欲しいのは、遅れたなら大変なことになってしまうからです。2節で
2 私のいのちを求める者どもが、恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き卑しめられますように。
この「いのちを求める者ども」が、実際に詩人を殺そうとしていたのかもしれません。あるいは「わざわいを喜ぶ者ども」という言い方は、触接に手を下さないまでも、災いが襲ってくるのを見て喜んでいるのです。そして3節。
3 「あはは」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のためにうしろに退きますように。
この「あはは」という言葉は、なんだか気が抜けたみたいですが、あざ笑いを意味しています。この敵たちは、詩人が倒れるのを願っていて、彼を嘲り、辱めようとしているのです。この詩を書いた人は、自分が辱めを受けるだけでなく、神様を信じている自分が倒されて恥を受けることで、同じ神様を信じている人たちまで、人々から嘲りを受けることになる。ですから、彼が祈っているのは、嘲り、攻撃をしている敵が反対に神様によって倒されて、彼らの方が恥を受けるように。そうすれば、神様を信頼している人たちは、神様が助けてくださるお方であることを知って、喜ぶでしょう。それが4節。
4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。
私個人が救われ、また危険なところから助けられた、ということだけでなく、そのことを通して他の人たちも神様を崇めるようになる。それが、この人の祈りの動機であったのだと分かります。
今、私たちは、コロナ禍にあって忍耐の時を過ごしております。でも、ただ、その中で我慢をして過ごすというのではありません。私たちは祈ります。自分や家族が守られるように。中には家族や近い方が感染して辛い思いをしている。また不安の中に過ごしている。そのような方たちのためにも祈ります。私たちの祈りは自分のためだけでなく、他の人たちのため。その方たちも祈りによって助けられたことを知って、神様を崇めるようになり、キリストと共に生きる人が起こされていく。それもキリストのからだを建て上げていくことです。特に、「キリストのからだ」である教会のためにお祈りください。
祈った人は、知ることができます。祈りに神様が応えてくださって、助けが与えられて初めて神様のことが分かるのではなく、助けが来る前、祈ったときから神様がすでに働いていてくださった、ということです。「水を汲んだしもべたちは知っていた」という御言葉がありますが、祈ったからこそ、神様が祈る前から備えておられたことに気がつくことができるのです。ある方は祈ったことをノートに記録していく。すると後からノートを見直すと、神様がいくつもの祈りに応えていてくださったことを知るのです。過去の祈りを振り返るなら、神様が確実に導いていてくださることが分かるのです。
2.記念による信仰
この詩篇70篇は、苦しいときの祈りなのですが、もう一つの特色があります。それは、同じ祈りが(開かなくて結構ですが)詩篇40篇にも出てくるということです。小さな違いはありますが、ほとんど同じ言葉が使われていて、無関係とか偶然だとは言えない。過去に祈られた祈りの言葉を、ここでもう一度、同じ言葉で祈るのには意味があるのです。
聖書の中には同じような記述が何度か繰り返されることがあり、一つの理由は大切なことだから繰り返す、という意味です。同じように見えても、違いがある。この二つの詩篇、40篇と70篇は、中身はほぼ同じでも、前後の文脈が異なります。
40篇は、後半で急ぎの祈りが出てくるのですが、その前に、40篇の前半で神様への感謝と賛美の言葉が書かれています。過去に祈ったとき、その祈りに神様が応えてくださり、救ってくださった。その救いに、感謝と賛美を捧げたうえで、今、再び襲ってきている、前よりももっと厳しい危険の中で、しかも急いで救って欲しい。でも、この人は過去に救ってくださった神様を信頼して祈っているのです。ですから、言葉は急ぎのときの祈りですが、決して焦っているのではなく、信頼をもって助けを祈っているのです。
それに対して、今日、開いています詩篇70篇は、その前後の詩を見ていきますと、69篇は苦難の中での叫びのような祈りです。しかし、その苦しみの中で神様に目を向けて、信仰をもって祈っている。その信仰はどこから来たのか。それは過去の祈りです。この人は以前祈った40篇の祈りを思い起こし、過去に、神様が祈りを聞いて救ってくださったじゃないか。その時の信仰を忘れてしまうのではなく、詩として書き残し、後で再び思い起こして救いの神を賛美してきたのです。だから今回の苦難の中でも、昔の祈りを思い出すことができた。この詩篇70篇は、ただ過去の祈りを再利用したというのではなくて、あの時の信仰を思い起こした証しなのです。
昔のことを思い起こすことができたのも神様の恵みです。この池の上教会では、先週、一月の最後の聖日に召天者記念礼拝を毎年行っています。また九月の最初の聖日は、創立者である山根先生を記念する礼拝となっています。信仰の先達にならうことも大切です。でも昔のことを覚えている人も年々減っていくでしょう。しかし、過去の人たちの信仰を思い起こすということは、これから私たちが同じような、あるいはまったく新しい苦難に出会ったとき、昔の人の信仰、また自分も神様を信じてきた、その信仰を思い起こす機会となる。証しもそうです。一人の信徒が過去を振り返って神様の恵みを感じた。それを証しとして分かち合うとき、自分も以前のことを思い起こしたり、また過去の恵みに感謝することを教わるのです。
「数えてみよ、主の恵み」という賛美がありますが、かつての恵みを思い起こして信仰が励まされるように、神様が私たちを導いていてくださるのです。今も大変な状況ですが、これからも、一人一人が危急の時を迎えるかもしれない。でも、かつての祈りの体験、他の人の証しを思い出して、神様を信頼する信仰を取り戻すように、神様がしてくださるのです。
3.過去から未来へ
過去の苦難は、その時には決して嬉しいことではありませんし、できるならば杯を取り除いてください、と祈りたくもなります。でも、祈ることで神様の助けをいただきながら、苦難を乗り越えさせていただいたとき、私たちの信仰は成長します。冬を通って木々が年輪を重ねるように、過去の苦難も神様にあって決して無意味ではなく、私たちが変えられて行く機会としてくださるのです。そのとき、誰かの証しが励ましになり、日々与えられる御言葉が力となります。聖書は過去のことが書かれていますが、昔の信仰者たちの信仰を学び、自分も過去の信仰を振り返って、相変わらず苦しい中に置かれてはいるのですが、そうだ、私も信じよう、と奮い立たせていただき、立ち止まっていた者が、改めて信仰に立って未来に向かって歩みだす。そのことを聖書は私たちに教えているのです。
この詩篇が、過去に祈った祈りをもう一度取り上げているのは、過去の信仰に学ぶことの大切さを知っているからです。そして、過去に目が向いているままではなく、その時に私を守り導いてくださった神様は、これまで以上に、今の大変なときにも守り通してくださると信頼するとき、これからも神様に従って行こう、と未来に向かって進むことができるのです。
先々週は信徒の証し礼拝ということで、お二人の方に証しをしていただき、コロナ禍にあっても神様の助けと導きがあったことを語っていただきました。皆さんも、それぞれが戦いの中にいるでしょう。でも、万事を合い働かせて益としてくださる主が、今の困難をも恵みとしてくださること。それは他の人の体験を通して励まされるだけでなく、自分自身にも神様は同じ恵みを与えようとしておられることを信じて、今の恵み、今の信仰を、どこかで証しをしていただきたい。礼拝の証しだけでなく、月報の『いづみ』に証しを寄せてください。また交わりのときに、誰かに信仰の証しを伝えましょう。コロナ禍が終わったら、その証しをまとめて、コロナ禍の中での恵みを将来の人たちのために書き残す文集を作りたいと願っています。そうして今の信仰を証しして記念とすることで、いつか、また違う艱難、違う波が来たときに、誰かを励ますことができるのです。
まとめ.
今、日本は第六波の中にいるとしても、ここまでの祈りを思い起こしましょう。様々な形で神様は祈りに応えて助けてくださったのです。教会に来ることができないときにも、御言葉を通して励ましてくださっただけでなく、お互いのために祈ることができました。誰かが感染や、いろいろな苦難に陥ったとき、かならず誰かが祈ってくださいました。これからは、もう一歩、厳しい状況になったとしても、なお祈ることを思い出して、信仰を強めていただきましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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