2022年01月30日

1月30日召天者記念礼拝説教「苦難から天国へ」詩篇69:13〜18(69篇)

1月30日召天者記念礼拝説教「苦難から天国へ」詩篇69:13〜18(69篇)
今日は召天者記念礼拝ということで、天国についてお話ししたいと思うのですが、天国というのは死んでから行く特別な所、ということも間違ってはいないのですが、聖書が私たちに教えていることは、天国は生きている今、ここに、私たちの内にすでに始まっている、ということも真理です。そのことを、私たちは信じる。それは信仰なのです。今日は、天国そのものではなくて、天国にいたる信仰とはどのような信仰なのか、ということをお話ししたいと思います。
先ほど、司会者に読んでいただきましたのは、詩篇の69篇の一部分です。今、礼拝では詩篇を順番に読み進めていますので、今日は69篇まで来ています。詩篇には全部で150の詩が集められています。様々な詩がありますが、一番多いのは、祈りと、そして賛美の詩です。祈りとは苦しい時に神様に助けを求める祈りです。私たちも、困ったときの神頼みという言葉もあるくらい、苦しい時には祈ります。祈っているうちに、心が落ち着いて、神様に心を向けると、神様だったらきっと助けてくださる、という信仰が生まれてくるのです。そして助けていただいたなら、神様に感謝して、救ってくださる神様を誉め称える。これが賛美です。クリスチャンになっても、誰の人生にも苦難の日があります。しかし信仰があるとき、苦悩の祈りはやがて賛美と感謝に変えられる。これが、聖書の教える天国の人生の秘訣です。
今日は、この詩篇69篇を通して、「苦難から天国へ」というタイトルでメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで。第一に「苦しみの人生」ということ。第二に「信仰による復活」、そして第三に「天国の約束」という順序で進めてまいります。
1.苦しみの人生(とキリスト預言?)
詩篇69篇は少し長めの詩ですので、全部読むと長くなります。先ほどは司会者に13節から朗読していただきましたが、その最初に「しかし」という言葉があります。「しかし」とは、その前に何かがあることを示していて、何があったのかというと、それが先ほどもお話しした苦難です。つまり、この詩篇69篇は、苦難の中での祈りです。14節に「私を泥沼から救い出して」と助けを求めていますが、この泥沼という言葉は、69篇の最初、1節と2節を見ますと、「水がのどまで入ってきた」ということや、「私は深い泥沼に沈み」と書かれています。実際に洪水のような災害に遭遇したのかもしれませんが、むしろ、自分が今体験している苦難を、大水や泥沼に例えて語っている、と考えたほうが良いでしょう。実際、4節まで読み進めますと、「私を憎む者」や「私を滅ぼそうとする者」が登場し、「偽り者」だと語っています。偽りを語って人を陥れるような人がいて、まるで泥沼のように、その悪意の中に入って出ることができない。人間関係が泥沼のようになる体験をしたことがある人もいるでしょう。
私たちの人生が天国とは言えない、まるで泥沼のような苦しみとなるのは、そこに悪意や敵意があり、偽りによってさらにおかしくなっていく。この悪意や偽りといった、罪こそが苦しみの原因だと聖書は教えているのです。
その苦しみを述べている中で、9節。
9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、
誰でも自分の利益、自分の家の利益を考えます。でも、それが強すぎますと、自分さえ儲かればよい、他者を食い尽くすようになるなら、それは相手に苦しみを与えます。これも聖書が教える、自己中心という罪の結果です。さらに21節。
21 彼らは私の食物の代わりに、苦みを与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。
喉が渇いたときに酢を飲んだら、ますます喉が痛くなります。苦しみに苦しみを加える。傷口に塩を塗る、という日本語の言葉を思い出します。これも苦しみです。弱っているときに助けてくれるのではなく苦しみを増し加えるような敵がいるのです。
ところで、今、拾い読みをしてきた、9節や21節の言葉、どこかで聞いたことがある、と思い出された方もおられるでしょう。どちらもイエス様の十字架に関連しています。イエス様を殺そうとした人たちの動機は、自分たちの利益が脅かされると考えて、自分のため、自分の家のために、彼らはイエス様を敵視して、やがて殺そうと考え始めていた。また渇いたときの酢というのは、まさに十字架にかけられたときに成就しました。この詩人も、何も悪いことをしていないのに、敵からあしざまに言われ、苦しめられた。それはイエス様が敵意を受けて、苦しめられながら十字架で死なれたときと重なっているのです。私たちが苦しむとき、イエス様の苦しみは、私よりももっと大変だったろうな。いいえ、その苦しみは私を罪から救うためだった、と。そう思いいたったとき、私たちは苦難の中でキリストに出会い、十字架の意味が分かるようになるのです。キリストと出会ったとき、その人の人生は苦しみから賛美へと変わり始めるのです。
2.信仰による復活(29節)
二つ目のことをお話しします。この苦悩の中で、最初に話しました13節の「しかし」があって、どれだけ苦しみが大きくても、「私はあなたに祈ります」と神様への信頼の言葉。また16節でも、「あなたの恵みはまことに深いのです」と信仰を表明しているのです。苦悩の祈りの中に信仰が始まっている。この信仰の故に、最後には29節の後半。
29 神よ。御救いが私を高くあげてくださるように。
泥沼に陥っていた自分を、神様が泥沼から救い出すだけでなく、高くあげて神の栄光を示してくださる。「大水の底」という言葉も14節で使われています。泥や水が苦しみを象徴しているなら、大水の底とは死の世界です。旧約聖書では地の下に死の世界があると人々は考えていました。その死の世界から神様は救い出してくださり、高く上げてくださるのです。
イエス様は敵によって苦しめられ、ついには十字架につけられてしまった。普通なら、そこでおしまいです。自分を苦しめた者を呪って死ぬかもしれない。でもイエス様はその十字架の上で、まるで父なる神様から見捨てられたかのような苦悩を味わいながら、最後には「父よ、私の魂をあなたに委ねます」と言って息を引き取られた。最後まで信頼の心を失わなかった。だから父なる神様も決して見捨てないで、死の世界から引き上げてくださり、復活させてくださったのです。神様への信頼、それが信仰です。
天国も、信仰によります。イエス様をよみがえらせた父なる神様が、イエス様を信じ従う私たちを見捨てるはずがない。きっと死んだ後も助けてくださる。復活されたイエス様が、その後、天に昇られたように、私たちのことも天に引き上げて、神様が治めておられる国、神の国、それが天国です。その天国に私たちを受け入れてくださる。これは神様を信頼しているからこそ、そう言うことができる。本当にそんなことができるのか。それは、イエス・キリストを死者の中から引き上げる力のある神様だからできるはずだ。イエス様の復活を信じるから天国を信じるのです。
3.天国の約束(36節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。少し専門的な話をしますと、詩篇の書かれた旧約聖書の時代には、正確には、まだ復活ということは分かっていなかった。新約聖書の時代になったころには復活という理解ができるようになったのですが、旧約時代には、死んだあとはよくわからないけれど、死んでも、神様ならどうにかしてくださることができる、と信じていた。ですから、この詩篇の中に描かれていることも、具体的には復活そのものではなく、でも彼らの信仰は復活へと向かうものだった、ということです。では、彼らは何を見ていたのか、と言いますと、それは国の復活です。詩篇は数百年間の間に積み重ねられてきた、信仰者たちの祈りと賛美です。その歴史の中で、一度イスラエルは滅亡します。戦争に負けて人々は捕虜となってバビロン帝国に連れていかれ、このまま民族としても消えていく運命でした。しかしイザヤをはじめとする預言者たちが、イスラエルは罪のために亡びるときが来るけれども、連れていかれた外国から、いつの日か戻ってくる、と預言した。その言葉を彼らは信じて、とうとうエルサレムに帰ることができた。死んだも同然の国が復活したのです。36節。
36 主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。
主のしもべとは、神様に従う信仰者たちです。御名とは神様のことを指していて、神様を愛し、信頼する者たちです。彼らは地を受け継ぎ、そこにいつまでも住むことができる。これは、やがて天国の約束となっていくのです。「地を受け継ぐ」というのは、直接的には約束の地、カナンの地のことですが、同じ言葉が新約聖書にもつながっています。
マタイの福音書の5章に「山上の垂訓」というのは古い言い方で、山上の教えとか山上の説教とも言いますが、マタイ5章3節から。
3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
有名な言葉で、天の御国は天国のことです。さらに5節に
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
地上においては地を受け継ぎ、地上の人生が終わったら、それは天の御国に行くことができる。これが新約聖書で明らかにされたことです。
ここで、心の貧しい者とは何でしょう。簡単に言うと、自分の足らなさを知っている人です。苦難に遭ったとき、自分ではどうすることもできないと知っている。だから、神様に祈るのです。自分でどうにかできると思っているうちはなかなか解決せず、むしろ泥沼に陥っていきます。でも神様に祈るとき、詩篇の祈りのように、祈りはやがて賛美、それは天国の賛美に変えられていくのです。ですから祈る人は天国に一番近いのです。
まとめ.
召天者記念礼拝では、亡くなられた方々の写真をかざり、最近はプロジェクターで映すようになっています。懐かしい方々です。でも、過去の人なのではなく、未来に天国でまた会える。だから私たちも希望を持って生きる。その秘訣は、つらい時、苦しい時、悲しい時でも、神様を信頼して祈りつつ歩むことです。私たちも天国で神様に感謝し、神様を褒めたたえる者となることを信じていきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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