2022年01月16日

1月16日礼拝説教「力ある神を賛美しよう」詩篇68:1〜4(68篇)

1月16日礼拝説教「力ある神を賛美しよう」詩篇68:1〜4(68篇)
今、詩篇を順番にお話ししておりますが、礼拝だけでなく、他の集会でも詩篇を開いています。家庭集会の一元会では、私が池の上教会に赴任するより前から毎月一回、詩篇を一つずつ学んできて、あと少しで最後まで行きそうです。祈祷会でも最初のころに詩篇を開いて、こちらは毎週ですから3年ほどで最後まで行きました。そして、水曜日のグレース会では月に一回か二回、聖書講義で詩篇を学んでいるところで、先月、第二巻最後の第72篇を終えたところです。この聖書講義では礼拝ではお話しするのが難しい学問的なことも少し含めながら、その詩篇全体を学んでいます。その時、いくつもの日本語訳を見比べることもあり、古い翻訳と最近の翻訳とで違いがある場合は少なくありません。どちらが正しいということではなく、詩篇は様々な読み方ができるほどに内容が豊かであるということだと思います。今日、取り上げています詩篇68篇は、教会で使っています新改訳第三版では、1節の最初は、「神よ。立ち上がってください」となっていて、神様にお願いしている、すなわち祈りの言葉となっています。ところが、一番新しい聖書協会共同訳では「神は立ち上がり、敵を散らす」と、お願いというよりも、神様がそうしてくださる、という事実を語っている。その事実に基づいて神様への賛美が始まっていく。新改訳2017でも同じような訳です。祈りなのか、賛美なのか。実は、原文のヘブル語は不思議な文法を使っていて、事実とも願いとも、どちらにも訳すことができる。今日は最初から難しい話をしてしまい、すみません。でも、祈りか、賛美か、というのはとても大切なことです。詩篇に含まれている150の詩の多くは祈りです。苦しい時に神様に嘆きつつ、救いを求めて祈る。でも、その祈りは、やがて信仰となり、神様がその祈りに応えてくださって救われたとき、感謝と賛美の歌となっていく。後から最初の祈りを振り返ると、願いの言葉だと思って語ったことは、「立ち上がってください」が、最後には本当に神が立ち上がってくださり、救ってくださったのだとわかるようになる。ですから祈りの言葉であるし、賛美の言葉にもなっていく。とても不思議なことですが、信仰とはそういうことです。
これ以上、このことを話していますと、本論に入れませんので、今日は、4節で「神に向かって歌い、御名をほめ歌え」とあるように、「力ある神を賛美しよう」という題で、いつものように三つのポイントで。第一に「救いの神を賛美しよう」、第二に「礼拝の神を賛美しよう」、そして最後に「世界に賛美を呼びかけよう」という順番で進めてまいります。
1.救いの神を賛美しよう(1〜14節)
さて、68篇は比較的長い詩篇ですので、全部を細かく説明することはしませんが、大きく分けて、1節から14節は、神様がしてくださったことをふまえて賛美の言葉を述べています。先ほども少し触れましたが、1節から2節は願いの言葉であり、事実でもありますが、神様が立ち上がって敵を追い払ってくださることが語られています。神様は救いの神様です。当時の国々は敵によって苦しめられることが度々あり、その敵の力から救ってくださるのが神様の御力です。救いは敵国の軍隊からの救いだけではありません。5節。
5 みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。
6 神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。

神様はみなしごややもめといった社会的な弱者を守ってくださるお方です。孤独な人に暖かい家庭を与え、戦争で負けて捕虜となった人たちを助け出してくださる。読みませんが、7節、8節は出エジプトのことをイメージして語っています。9節、10節はヨシュア記の時代に約束の地が与えられたこと。12節も敵の王たちからの救いです。また雨を降らせ、豊かな収穫を与えることも含まれているかもしれない。神様の救いは一度だけエジプトの奴隷だったところから救い出してくださっただけでなく、イスラエルの歴史において何度も救ってくださった。救いの神様なのです。
例をあげたらきりがないでしょう。むしろ、後は、この詩篇を読んだ私たちが考えるのです。神様は様々なことから私たちを救い、守り、助けてきてくださった。それを、心の内側にしまい込むのではなく、証しし、賛美と感謝をささげることで、他の人たちにも救いの神様を知ってもらうのです。神様は私たちをも、どんな問題があっても、どんな困難に襲われても、神様は私たちを救うことがおできになる。祈って助けを求めたなら、必ず祈りに応えて、嘆きを賛美に変えてくださるのです。このことを、私たちも証ししましょう。祈りは賛美に変えられるからです。
2.礼拝の神を賛美しよう(15〜31節)
二つ目のことをお話ししてまいります。14節と15節には地名が書かれていて、16節。
16 峰々の連なる山々。なぜ、おまえたちは神がその住まいとして望まれたあの山を、ねたみ見るのか。まことに、主はとこしえに住まわれる。
他の山々とは違い、あの山、これはエルサレムのことです。神様はエルサレムに住んでくださる。特に神殿のあるシオンの丘のことです。ソロモン王が神殿を完成させたときに祈ったのは、人々が神殿に向かって神様に祈ったなら、その祈りを聞き入れてください、ということでした。また敵が攻撃してきても、神様に祈って、敵の手から救ってくださる。また捕囚から連れ戻してくださる。そのことが17節から23節くらいまで述べられています。24節。
24 神よ。人々は、あなたの行列を見ました。聖所でわが王わが神の行列を。
25 歌う者が先に立ち、楽人があとになり、その間にタンバリンを鳴らしておとめらが行く。

この行列は、ダビデが敵を打ち破ってエルサレムに凱旋した行列とも考えることはできますが、むしろダビデが十戒の板の入った契約の箱を携えてエルサレムに登った時の行列を思い起こさせます。救いの神様を人々は個人的に好きな場所で祈りと賛美をささげただけでなく、イスラエルの十二部族が一つとなって神様を礼拝したのです。神様がしてくださった恵みの御業の数々も素晴らしいことですが、このお方を、小さな者が礼拝することこそが素晴らしい御業です。救われた者たちが礼拝をささげて神様への賛美の言葉を証しするとき、神の栄光はさらに広がっていくのです。
この詩篇がどのような事件の時に作られたかはわかりませんが、この後の時代の人々は、この詩篇に教えられ、まるでダビデの行列に付き従うかのように、各地から神様を礼拝するためにエルサレムへと向かう。それは神様が連れ出してくださったからであり、神の民が礼拝をささげるのも、神様が召し出されたからです。礼拝は人間のものではなく、神様のもので、私たちも礼拝に招かれている。27節には各部族のリーダーたちが行列に加わり、そして29節。
29 エルサレムにあるあなたの宮のために、王たちは、あなたに贈り物を持って来ましょう。
王たち、さらに31節では外国からも礼拝者が上ってくる。神様こそ、礼拝を受けるに相応しいお方です。私たちも、時代も国も違いますが、神様に召されて礼拝者となって、神の家に向かって日々歩み、兄弟姉妹と共に歩み、賛美をささげるものでありましょう。
3.世界に賛美を呼びかけよう(28〜35節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。29節でエルサレムの宮に向かって王たちが贈り物を携えてくる。それも礼拝のためですが、このことは、祈っても直ちに適えられるものではない。イザヤ書やミカ書でも、世界中の民や王たちがエルサレムに礼拝するために上ってくる日が来ることを預言していますが、それが文字通りに実現するのは世の終わり、終末の日の祝福を語っているのです。今はまだ全世界ではありませんが、私たち自身も世界中の民の一人として礼拝をささげている。では、どうしたら世界中の人々が救いの神を礼拝するようになるか。そのカギとなるのが、イエス様の宣教命令です。マタイの福音書28章19節。
19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
このイエス様の言葉が弟子たちによって実現していくのが、新約聖書の時代です。この命令であり約束でもある宣教命令に従う人達が世界中に、また遠くの人だけでなく近くの人にも証しが伝えられているのです。約束の御言葉とて、使徒の働き1章8節では
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」
このイエス様の命令であり約束のことばの通りに、ペンテコステの日から福音がエルサレムに始まり、ユダヤとサマリヤの全土、そして外国にも伝えられ、今、地の果てに住んでいる私たちも復活の証言を聞いているのです。ですから、今、私たちがこうしてここにいるのも、イエス様が命じられた言葉、神の計画のうちに私たちはいるのです。
このように詩篇から始まり、預言者たち、新約聖書と読み解いていくとき、今、私たちが神様を礼拝しているのは、単なる偶然ではない。人間の力でもない。神様が召し出し、救いの恵みに与らせてくださったからこそ、礼拝が捧げられている。神の計画の中に私たちもいるのです。そして、神様は私たちさえも用いて証しを広げさせ、また各国からの巡礼の行列に加えて礼拝をさせてくださり、今はコロナ禍という宣教の難しい状況にあっても、お一人お一人の証しが身近な人に伝えられ、またインターネットなどの新しい方法でさえも神様を用いることができるお方であって、世界宣教の足取りは決して止まってはいないのです。
この詩篇、68篇は、最初のほうで、敵に苦しめられている敗北者、あるいは社会的な弱者であった人たちが、祈りから感謝に変えられ、この救いの神をほめたたえる賛美者に変えられていく。この詩篇の言葉は今も真実なのです。32節。
32 この世の王国よ。神に向かって歌え。主に、ほめ歌を歌え。
この御言葉は世界中の人たちへの呼びかけです。賛美の呼びかけです。私たちも呼びかけられて、今、ここにいる。だから、これからも、今度は私たちが世界中の人たちに呼び掛けていく役目を与えられているのです。
まとめ.
この原稿を書いている先週末は第六波が始まったという人もいて、予断が許さない状況はまだ続きます。個人個人も、様々な困難や試練はこれからもあるでしょう。だからこそ、私たちは御言葉を信じ、力をいただき、神を見上げていきましょう。35節。
35 神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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