2022年01月09日

1月9日礼拝説教「祝福の目的」詩篇67篇1〜7節(67篇)

1月9日礼拝説教「祝福の目的」詩篇67篇1〜7節(67篇)
先週の主日礼拝は、元旦礼拝に続けて今年の標語である「キリストのからだを建て上げる」ということをお話しさせていただきました。今日からは再び詩篇から御言葉を取り次がせていただきます。詩篇は全部で150の詩がありますので、一つ一つを順番に取り上げていきますと、三年くらいかかってしまいます。そこで、詩篇は五つに分けることができて、それぞれ、第一巻、第二巻となっていき、最後が第五巻となっているのですが、昨年は第二巻、数字で言いますと、詩篇42篇から始まります。それよりも前は第一巻で、1篇から41篇までは一昨年に開かせていただきました。第二巻は72篇までですので、今年の最初は、72篇まで、あと一ヶ月半ほど、詩篇をご一緒に味わってまいりたいと思います。
今日は詩篇67篇から祝福ということをお話しします。今年の標語は「キリストのからだを建て上げる」ということですが、私たちはイエス様の十字架によって救われたときから、キリストのものとされ、キリストの体の一部分としていただき、イエス様が共にいてくださる。それが祝福のもといです。教会が健全に成長し充実するなら、そこに集っている私たちの礼拝が祝され、信仰生活も充実し、祝福されます。キリストのからだを建て上げることが祝福につながるのは、ちょうど、私たちの肉体が鍛え上げられ、健康になるなら、生活も充実し、仕事にも頑張れるのと同じです。でも、自分の祝福だけを求めて、キリストのからだをおろそかにするなら、祝福も崩れてしまいます。そこで、改めて祝福ということをご一緒に考えてまいります。
いつものように三つのポイントで、第一に「神を知るため」、第二に「神を讃えるため」、そして第三に「神を畏れるため」という順序で進めてまいります。
1.神を知るため(1〜2節)
もう一度、1節から読みます。
1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。
この節は前半と後半に分かれていて、「どうか」という言葉から前半は神様に祝福をもとめていることが分かります。単なる祝福ではない。神様の憐れみによる祝福です。本当なら私たちは神様に祝福を要求などできません。そのことを弁えているからこそ、この詩人は憐れみを求めている。憐れみというと「かわいそう」というイメージがありますが、神様の祝福の前では、私たちは祝福なしでは倒れてしまう存在だと認める謙遜な姿勢だから、神様も憐れみの思いで祝福してくださるのです。ちょうど、山上の教えの冒頭で「貧しい者は幸い」と言っているのは、貧しいからこそ神の助けと祝福を求めるしかない。だから神様はその人を幸いにしてくださるのです。
後半は「御顔を私たちの上に照り輝かして」と語っていて、祝福を違う言葉で表現しています。神様の顔は、時には神の怒りを表し、時には神の好意ある視線を示します。もちろん、ここでは神の好意、すなわち祝福に結びつく意味で、神の御顔の光が私たちの上に輝くように祈っているのです。この祝福の求め方は、民数記にも使われています。祝祷と言いますと、礼拝の最後、頌栄で神様を崇めたあと、牧師が神様に祝福を求める祈りが祝祷で、多くの牧師が三位一体の神による祝福を祈ります。これは(開かなくて結構ですが)コリント人への手紙第二の一番最後でパウロが用いている祝福の祈りです。でも、これだけが祝祷ではなく、民数記6章の終わりには、祭司アロンがイスラエルの民の祝福を求めた祈りが登場します。このアロンの祝祷の中で、神の御顔の光を求める言葉が使われている。それくらい、旧約時代の人々にも知られていた祝福の言葉なのです。ちょうど光が太陽から届いて寒い季節には暖かくしてくれる。これも、祝福が神様からやってくることを表しています。
私たちは神様に祝福を求めて祈るのですが、でも、何のために祝福を求めるのでしょうか。その目的が大切です。例え良いものであっても悪い目的で求めるなら、神様は与えてくださらない。ではこの詩篇では何が目的か。目的の第一が2節に記されています。
2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。
日本語の語順ではどうしても最後になってしまいますが、原文では最初に目的を述べて、1節の祝福を求める祈りの目的を明らかにしています。それが「知られるため」です。誰が何を知るのか。「地の上に」と書かれていますが、これは地面のことを言っているのではなく、地に住む人々で、原文では「この地」と書かれているは、おそらく神の民イスラエルのことを指している。でもイスラエルだけではない。後半では「すべての国々」となって、全世界の国々までも含んでいます。この67篇は、比較的短い詩篇ですが、全世界の救いを願うなどスケールの大きな祈りです。世界中の国々の人が神様を知るため。知識として知っているということではなく、神が憐れみに富んだお方であって、異邦人にも祝福を注いでくださるお方だと知って欲しい。自分が体験して知っている神様を、全世界の国々にも知って欲しい。それが作者の願いであり、また、この言葉を聖書に書き残させた神様の御心なのです。
また、神様を知るとは、2節に「あなたの道」、すなわち神様が示してくださる生き方であり、それは「あなたの御救い」、救いの道です。世界中の人が救いの道を知るため。それが祝福の目的なのです。創世記でアブラハムが祝福されたときも、アブラハムを通して世界中の人が祝福されるためという目的がありました。こう考えると、神様からの祝福というのは、祝福されたら財産が増えるとか、良いことがあると言った、自分の満足や貪欲のだけなのではないことが分かります。自分だけでなく世界に祝福が及び、この神様のことが知られるためです。
今年の教会の標語も、キリストのからだ、すなわち教会を建て上げる、ということです。自分だけの救いではなく、他の人のためであり、それは教会を通してなされていきます。また、この池の上教会だけの祝福ではなく、そこに関わるお一人お一人を通して、世界中に福音が広められるため。そのために、私たちは神様に祝福を求めていくのです。
2.神を讃えるため(3〜6節)
二つ目の祈りが、3節です。
3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。
同じ言葉が5節にも繰り返されています。二回繰り返されてるのは、それが大事なことだからです。神様を知った諸国の民が、この神様を褒めたたえて賛美するため。また、4節には「喜び」という言葉も二度出てきます。喜んで賛美する。これが祝福の目的でもあるのです。
賛美とは何か。コロナ禍にあって、教会で賛美歌を歌うのにも制限をしなければならない状況が続きました。喜びをもって賛美をすることが、どれほど素晴らしい恵みだったのか、あらためて感じました。しかし、心には賛美の思いがあり、聖歌の歌詞を味わうことで、ただ一つの歌を歌うということ以上に、神様への信仰の告白や、感謝の思いなど、賛美を味わうことも学びました。さらに、賛美は私たちの信仰の、また生活の姿勢です。神様を神様として崇めること。この姿勢を抜きに歌っても、それは神様を賛美しているのではなく、自分のために歌う。自分の楽しみや満足が目的なら、それは賛美ではない。同じ姿勢が、私たちの生活にも求められています。自分のための生き方ではなく、私たちの人生を通して神様の御名があがめられるため、です。
4節の「喜び」も、そこには神様が公正、すなわち正義をもって世界の民をさばき、導く。神様が世界を正しく治めてくださる喜びであり、自分の思い通りになる喜びではない。これも自己中心ではなく神様をあがめる生き方です。3節と同じ賛美の言葉が5節に繰り返されたあと、6節では
6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。
地の産物は、農業における作物も、また牧畜における羊やヤギが増えることも含んでいるでしょう。この収穫の豊かさは、誰もが求める祝福の分かりやすい表れですが、それも賛美へのプロセスです。農業を行う人々は、時には日照りがあって、神様に助けを求めて祈ります。その祈りが聞き届けられて、雨が降って、収穫が与えられたとき、その人たちは感謝をもって神様を賛美する。やがて、その信仰が成長して、まだ収穫の時は来ていなくても、必ず豊かな実りが与えられる。それは神様が私たちを愛し、御顔の光を照らし、祝福していてくださる、と信じているからです。
私たちも日照りの時がある。雨が降らなくて悩む日々があります。賛美歌を思う存分歌えないことも、楽しい交わりが持てないときにも、でも私たちは神様が私たちを祝福していてくださることを信頼して、賛美と感謝の思いを忘れない。そして、神様から豊かな恵みの雨を注いでいただける日が来ることを信じて、神様に期待をして待ち望みつつ、祈る。いいえ、そのように信仰をもって祈るようになったことも、大きな感謝です。神様を心から賛美する。それが祝福の目的です。
3.神を畏れるため(7節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。三つ目の、祝福の目的は、7節。
7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。
ここにも「地の果て果て」、すなわち世界中の人が、みな神様を恐れるように。全世界が神を畏れることが三つ目の目的です。
神様を恐れるとは、怖がることではありません。神様に背を向けて、神様の御心に背く罪を犯していると、神様が御顔をこちらに向けるときに怖くなります。でも、その罪が赦された、救いをいただいた者には、恐怖ではなく、その神様をあがめて賛美をし、神様の御心に従って正しく生きることを願う。それが神を畏れることです。畏れ敬うのです。
神様を畏れ敬うという、神様とのあるべき関係が、自分だけでなく、周囲の人にも及ぶようになり、世界中に広められていく。これが祝福の目的です。
世界中の人々が神を畏れ、罪から離れて正しい道を歩む。それは素晴らしい世界です。でも、世界が神様を知って畏れる前に、自分自身は神を畏れ敬っているでしょうか。神様はすでに私たちを祝福して、御救いに与らせてくださいました。その救いへの感謝と賛美が心にあふれているでしょうか。また神様の道を教えるために御言葉を通して語り掛けてくださる。最初に祝福の祈り、祝祷のことを話しましたが、御子の恵みと、父なる神の愛、そして聖霊の交わり。この聖霊の交わりとは、聖霊が私たちの心に来てくださり、御言葉を語り掛けてくださる交わりです。この交わりが与えられているこそ、御言葉を通して神様の御心を教えていただけること。これって、何よりも素晴らしい祝福ではないでしょうか。たとえ全世界の富を手に入れても、御心が分からないために滅びに向かってしまうなら、それは神様の祝福ではありません。どれほど困難があっても、御言葉を通して神様の御旨を知るなら、不安ではありません。この神様の祝福をもう既にいただいている。何よりも御子を与えてくださり、救ってくださった。この神様を私たち自身が心から畏れ敬おうではありませんか。
まとめ.
祝福に満ちた生活を聖書は教えています。またこの詩篇のように、祝福を求めて祈ります。その聖書の御言葉を教わり、また一人ではなく二人または三人、それ以上の兄弟姉妹と心を合わせて祈ることができる。それが教会ではないでしょうか。そして毎週、まず神様を畏れ敬い、感謝と賛美をささげるために、私たちは礼拝から一週間をスタートします。この年、毎週の礼拝を大切にし、キリストの体である教会を建て上げていく、祝福に満ちた歩みをしていきましょう。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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