2022年01月02日

1月2日礼拝説教「ひとりひとりの賜物を」第一コリント12:27(12章)

1月2日礼拝説教「ひとりひとりの賜物を」第一コリント12:27(12章)
昨日の元旦礼拝では、今年の教会の標語として、エペソ書の御言葉から「キリストのからだを立て上げる」ということをお話しさせていただきました。私たちが主に仕え、互いに仕え合う。それが教会です。どのように仕えるか。私には何ができるか、を考えるヒントが、賜物ということです。そこで今日は賜物ということをご一緒に考えてまいりたいと思います。その賜物を生かして、主に仕えていくのですが、ただ、賜物というと才能と混同しやすいかもしれません。才能は、それを用いて社会のためにも用いることができますし、自分のため、自分の利益や名声のために用いることもできます。でも神様からの賜物とは、主に仕え、教会に仕えるために用いられるものです。才能のある人の、その才能を通して主に仕えるなら、それは賜物と考えることもできます。でも、どれほど才能があっても、自分のために生きるなら、それはまだ賜物とは言えない。教会の一員となってから示される賜物もあります。必要に迫られて、賜物が与えられることもあります。今年は、教会を建て上げるということを考え、また実践するなかで、賜物についても学んでいただきたいと思います。
いつものように三つのポイントで。第一に「大切なひとりひとり」ということ。第二に、「いたわり仕える教会」、そして第三に「愛の賜物」という順序で進めてまいります。
1.大切なひとりひとり
今年の標語は「キリストのからだを建て上げる」。それは教会についてです。教会というと、自分には関係ないと思われるでしょうか。教会は一人一人の集まりであり、その一人が大切な存在だ、ということを聖書は教えています。イエス様の有名なたとえ話で、「九十九匹の羊と一匹の羊」があります。たった一匹の羊を探し出すまで、羊飼いは諦めずに探し回ります。神様の目には、誰一人無視される存在はなく、聖霊は一人一人の心を宮としてくださる。それは神様がその人を導くためです。どのように導くかと言いますと、教会は聖霊が下って始められたものですから、聖霊はその人を教会に導き、教会でほかのクリスチャンと出会わせてくださる。そして、聖書も聖霊の霊感によって書かれたので、聖書を分からせてくださり、また信じる決心へと導いてくださる。信じて救われた後も、その人が聖霊に満たされて主の栄光を表すようにと成長させてくださる。どうして、こんなにも丁寧に導かれるか。それは神様がその一人を愛しておられるからです。
たった一人で救われて、成長することはありません。その一人にとっても教会は必要な場所です。そこでその人の持ち味が生かされ、すなわち賜物が用いられる。ちょうど一人の人間が生まれ、育つのに家が必要なように、私たちのためにも神の家である教会があり、そこで信仰がはぐくまれ、やがて神様に仕える働きができるようになっていく。それが奉仕であり、そこに賜物が活躍する。もし、自分のことだけ、自分の利益だけを求めるのなら、賜物は生かされず、信仰の成長もストップします。もし、私たちが「お互いに」という言葉を覚えて、お互いに仕え合い、お互いに支え合うなら、それぞれの賜物が組み合わされ、補い合って、教会の中で花を咲かせ、実が結ばれるのです。教会の一員、キリストのからだと部分部分として、私たちは生かされるのです。
2.いたわり仕える教会
聖書の中で教会について学ぶのに最も素晴らしいのは、一つはエペソ書で、昨日、4章をお話ししました。もう一つが、このコリント人への手紙第一の12章です。どちらも「からだ」、私たちの肉体である体を例えとして教会のことを教えています。この12章の前半でも、賜物ということを話す中で、様々な賜物があることを、体の中にも様々な器官があるという例えで教えています。人間の体のどの部分も必要な役割があり、大事な存在ですから、不必要な人などいないのです。体の器官の中で強いと考えている部分。例えば足や手は強い力を発揮します。でも、剣道で竹刀を握るのに、小指が無いとしっかりと握りしめることが出来ないように、弱いと思っている器官も重要な役目があり、キリストのからだである教会も、小さな存在が無くてはならない存在であって、神様から賜物が与えられていて、その賜物を用いて主のお役に立つことができ、もし力不足なら神様は助けてくれる人を備えてくださり、周りの人たちに助けられながら成長し、今度は自分も誰かを助けるようになっていくのです。
また、26節。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
体の一か所が痛みを覚えるとき、全身が苦しみます。足の小指を箪笥の角にぶつけるという体験をしたことがあるでしょうか。小指一本ですが、全身で身もだえするくらいに痛みがからだを走ります。教会でも、誰かが痛み、苦しむとき、その苦しみは他の兄弟姉妹にも伝わっていき、たくさんの方が心に痛みを感じて、神様にその方の助けを願って祈るのです。またできることがあれば手を差し伸べてくださる方がきっとおられる。そのように支え合うことが教会のあり方です。
昨今は、入院をしますと家族でもお見舞いに行けないことがあります。でも、教会では、シロアムの会の方たちが祈っておられ、ハガキを送ってくださっています。その励ましのハガキが嬉しかったと感謝の報告をいただくことは一度や二度ではありません。
私たちは、誰かのために何かができます。何もできないと考えているかたも、神様に祈ることはできます。小さなことでも仕える思いでするならば、神様がその小さな働きを用いてくださるのです。そして、誰かと一緒に神様のための働きをします。大きな働きでなくても良いのです。奉仕といっても、人前に立つような目立つ奉仕だけでなく、陰にある奉仕に忠実な方々がおられるから、この教会は多くの方々の賜物と奉仕に支えられて、これからも素晴らしい主の御業を共にさせていただくのです。その時、老若男女、様々な人が力を合わせ、できることを通して奉仕している姿を見るとき、新しく来た方も、やがて自分も神様が用いてくださることを想って、この教会に加わりたいと思ってくださり、いつの日か、この教会の一員となってくださるのです。
3.愛の賜物
さて賜物ということについて、もう少しお話ししたいと思います。12章には様々な賜物が列記されています。もちろん、ここにあるだけでなく、聖書全体ではもっと豊かな賜物の種類が掲げられているのですが、この第一コリント12章では、8節で知恵と知識という賜物が記されています。9節には信仰、これも聖霊の賜物で、もちろん、クリスチャンになった人はみなイエス様への信仰があるのですが、特に信仰の賜物とは、他の人なら信仰を諦めてしまうような試練の時でも、しっかりと信じ続け、信仰においても決してあきらめない信仰を持つ様になります。またその後には癒しの賜物、などなど、様々な賜物がその後も続きます。奇跡や預言は特別な働きのように感じます。反対に、ここには挙げられていませんが、もっと身近な賜物もあります。詳しいことまで知りたい方は、賜物セミナーといった学びの機会を捕えて学んでみてくださると良いと思います。
この手紙を書いた使徒パウロは、様々な賜物があるが、それを与えてくださった聖霊はただひとりのお方で、キリストのからだである教会の一体性ということを12章の後半で語っていったあと、31節。
31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
この、もっと優れた賜物、しかも、それは一部の人ではなく、熱心に求める人に与えられる賜物とは、何か。それが13章に書かれている愛です。有名な箇所ですが、13章の1節、2節。
1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

預言を語ったり、山を動かすような奇跡を起こす信仰があっても、愛がないなら、その力を自分のために用い、自分が称賛されることを求めるとき、神様の前には無価値なものとなってしまいます。愛こそが最高の賜物であり、それは誰もが熱心に祈り求めることができる。いいえ、そうしなさいとパウロは勧めているのです。最後には、13節。
13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。
信仰も聖霊が与えてくださる恵みです。希望も、昨年は「主を待ち望む」との標語で、神様に期待することを学びましたが、これも希望です。そして、一番が愛です。
愛とは互いの欠けている部分を補うものです。愛がないと、他者の欠点や失敗を責めて批判します。裁くのです。それではお互いを、そして教会を建て上げることはできません。愛によって相手の欠けを補い、失敗をかばう。その時、できない人の分を誰かが補うなら、また補ってもらったほうも感謝をし、助けられながら成長し、今度は自分が他の誰かを支える。こうしてキリストのからだが成長していくのです。
パウロはこのような愛を熱心に求めよと教えました。愛が無い賜物は腐っていきます。自分ができることをひけらかし、できない人を裁くような人は、周りから疎んじられ、自分の栄光を求めるなら神の栄光を隠してしまいます。しかし、愛は、特に神様から与えられた愛は、犠牲を伴っても、見返りを求めずに愛する愛です。ちょうど母親の愛、もちろん、父親の愛も同じだと思いますが、母親がそのような愛で子供を愛し、支えるから、その子が成長するように、神の愛によって誰かの欠けている部分を補うなら、まだ成長の途中のために十分な働きができない人も、助けられながら奉仕をすることができ、賜物が生かされるのです。これもキリストのからだが建て上げられていくことです。
自分は特別な賜物は無いから、奉仕もできないと考えている方も、どうでしょうか。愛によって誰かを励まし、助け、支える。愛の賜物をぜひ祈り求めて、できることを通して教会の働きに力を貸していただけないでしょうか。また、インターネットなどで礼拝を守っている方は、教会に行くことができないのだから、奉仕もできないのか、と言いますと、違うと思います。離れていても、弱さの中にある人に手紙を書いたり、電話をかけて励ますことができるかもしれません。他にも良いアイデアがあったら、教えてください。それも教会の役に立ちます。文字通り、何もできない体調の方も、心の中で祈り続けてください。信じて祈るとき、人間の力の足らないところに働いてくださるキリストが、100パーセント足らないなら100パーセントをイエス様が力を表してくださる。そう信じて祈っていただきたいと願います。
まとめ.
教会には、今なお、悲しみの中におられる方たちがいます。苦しみ悩む人もいます。誰がその人を愛する人となるのでしょうか。誰が持っているもの、与えられた賜物で、その人を助けるのでしょうか。「良きサマリヤ人の譬え」を語られた後で、イエス様は話をしていた律法学者に、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られました。もうすでに誰かを愛し、祈っておられる方、またこれから誰かのために祈る志を与えられた方、一人一人の愛による祈りが教会を支え、建て上げていきます。一人一人の賜物を神様に用いていただき、お互いを支え合っていきましょう。
タグ:新年
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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