2021年12月26日

12月26日礼拝説教「今日も待ち望む」イザヤ64:4

12月26日礼拝説教「今日も待ち望む」イザヤ64:4
序. 今年は厳しい一年でした。昨年は新型コロナの感染拡大が始まり、最初は詳しいことが分からないために、どのように対処するか、悩みながら、教会もかつて無かった形で礼拝を守ってきました。コロナ二年目となった今年は、だんだんと対処の方法が示され、まだ完全ではありませんが、教会の働きも前進してきましたが、忍耐も続きました。しかも、収まったかと思ったら再び押し寄せる波で、立ち向かう気力も弱くなり、安全な中に置かれていても不安や不満が心の中に湧き上がる。その意味では、それでも神様を信頼していけるか、信仰の戦いでもありました。その一年間、神様の御言葉が私たちを支え続けてくださいました。今年の教会の標語である御言葉、「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得る」(イザヤ40:31)の通り、どれほど試練が何度も襲ってきても、神様を信じて、期待して待ち望み、祈り続けることを私たちは学ぶことができた一年でした。私たちは、この御言葉に何度も励まされ、力をいただいてきたことを思うときに、この御言葉は、神様が与えてくださった御言葉なんだ、と思わされます。
 今日は、もう一度、今年の御言葉を心に留めつつ、おなじイザヤ書の64章4節の御言葉を取り上げて、ご一緒に「主を待ち望む」ことを考えてまいりたいと思います。いつものように三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「主の救いを待ち望んだイザヤ」、第二に「待ち望み続けた民」、そして第三に「私たちも待ち望み続ける」という順序で進めてまいります。
1.主の救いを待ち望んだイザヤ
 イザヤという預言者のことを少しお話しさせていただきます。イザヤは紀元前8世紀、イスラエルは南北に分裂し、その南王国ユダで活動した預言者です。国はすでに滅びに向かっていた、その原因は人々の罪です。神様はイザヤにこう語れと命じられた。「あなたたちは聞いても悟ってはならない」。なんでこんなことを伝えるのかというと、彼らは既に不信仰のために神の言葉を聞こうとしなかった。聞いてもそれに逆らって逆のことをする天の邪鬼な彼らに対して、普通に語っても無駄になる。そこで「聞くな、聞いても悟るな」と言うことで、彼らが反発して聞くかもしれない。そんな最終手段のような預言を語るように言われたイザヤは、「主よ、いつまでですか」と問いかける。すると、「国が滅びるまで」と神様は教えられたのです。国の滅亡は確定している。その中でイザヤは神の言葉を伝えなければならない。試練の時代でした。
 預言者たちは国の滅亡を予告しましが、もし、それを聞いて悔い改めるなら救われるのです。しかし、残念ながらイスラエルの民は預言者の言葉を信じないで、滅びに向かって進んで行く。それを見なければならない預言者たちの悲しみは、イザヤ書や、さらに後に時代のエレミヤ書を読むと知ることができます。イザヤは聞き入れてもらえなくても、神の言葉を語り続けますが、そのイザヤを励ましたのも御言葉でした。時には神様は奇跡を行って、神が共におられることを示してくださり、勇気づけてくださいました。その御言葉は、国の滅亡を超えたその先に、神様が救い主を送ってくださるとの預言、裁きの先に救いがあることを、イザヤは語り続けていったのです。
 今年の御言葉であるイザヤ書40章31節、「主を待ち望む者は新しく力を得る」は、そのようなイザヤが体験したことです。長い試練の中で、また将来にはたとえ暗黒が待っていても、それでも主を期待して救いを待ち望む。そして神様は救い主を送ってくださる。そのことが、7章にはインマヌエル預言、9章には「ひとりのみどりごが生まれる」という有名なクリスマス預言、そして53章では十字架の預言と、まるでイザヤはイエス様を見たのではないか、と言われるほどに、彼は神様から救い主の到来を示されたのです。その救い主によって、やがて世の終わりが来て、世界が新しくされる、新天新地を語っているのが、イザヤ書65章です。今日、開かれました御言葉は、主を待ち望む信仰を語っています。
4 神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。
イザヤは預言の成就を全て目撃はできませんでしたが、神様の約束の御言葉を信じた彼に、神様は御言葉の成就を通して神の真実を示してくださった。だからイザヤは、あなた以外にこのような神はいません、と驚きと畏敬の念を告白しているのです。イザヤ以降の人々も、時代は違っても、神様を待ち望む者に神様が示してくださる真実を知って、同じ告白をしていったのではないでしょうか。
 今日はこれ以上お話する時間はありませんが、イザヤ書を読むならば、信仰が励まされ、救い主のことを知ることができる。いいえ、今、私たちは、その救い主が来られたことを、毎年のクリスマスに確認し、私たちも信仰を確かなものとしていただけるのです。
2.待ち望み続けた民
 二つ目のことをお話ししてまいります。イザヤが預言したことは、残念ながら実現して、イスラエルは滅亡します。北王国イスラエルはイザヤの生きている間にアッスリア帝国に滅ぼされ、辛うじて残った南王国ユダはイザヤの死後、バビロン帝国に滅ぼされます。人々はバビロンに捕虜として連れて行かれる。これをバビロン捕囚と言います。国が滅んで初めて、彼らは預言者たちが言ったことが真実であったと悟るのです。イザヤ書を読み返していくと、御言葉の通りにバビロンによって滅ぼされたことが分かります。しかし、もし神様の言葉の通りに国が滅んだというのなら、神様がさらに将来について語られた預言の言葉も成就するはずだ。やがてバビロン捕囚から解放され、ユダヤの地に戻って神殿を再建し、その後、ペルシャ、ギリシア、ローマ帝国と支配者は移っていきます。旧約聖書最後のマラキ書の時代から新約聖書が始まるまでの数百年を中間時代と言いますが、その間も御言葉は成就していく。ですから、人々は、やがて神様が送ってくださると書かれている救い主、ヘブル語ではメシア、ギリシア語ではキリストが来てくださるのを待ち望むようになりました。
 池の上教会の会堂の建物に入って、一階のロビーを進んで行きますと、池のところにロウソクが立っています。四本のロウソクに意味があるのですが、一週ごとに一本ずつ点されて、クリスマスの日に完成する。ただ、25日は集会もありませんでしたので、クリスマス礼拝の日に、四本目に火がともされます。一本ずつロウソクの炎が増えていくのを見て、クリスマスが近づくのを感じるわけです。これはユダヤの民が救い主を待ち望んだことを表しているともいえるのですが、実際の歴史では、彼らは何年経ったら救い主が来られるかは分からない。ですから忍耐しながら待ち続けていったのです。それでも「主を待ち望む者は新しい力を得る」とのイザヤ書の言葉の通り、どんなに迫害があっても、主を待ち望み、主が送ってくださる救い主を待ち望むとき、心に勇気が与えられ、迫害にも耐え忍ぶことができたのでした。
 そのような、救い主を待ち望んだ人々が、新約聖書にも登場します。ルカの福音書の1章と2章に登場する人たち、祭司のザカリヤは天使の言葉で救い主のおいでが近いことを知りました。シメオンという敬虔な信仰者は、イスラエルの慰められること、すなわち預言の通りに救い主が来てくださることを待ち望んでいたのですが、聖霊によって必ずキリストと会えると示され、神殿で幼子のイエス様を見ることができたのです。他にも救い主を待ち望んでいた人たちがいました。
 待ち望む信仰は、イエス様の誕生によって完成したから、それで終わりではなく、新約聖書時代の教会は、こんどは天に昇られたイエス様がもう一度おいでくださる、すなわち再臨を待ち望むようになります。彼らも多くの迫害を受けましたが、主を待ち望んで信仰を守り通したのでした。この再臨の主を待ち望む信仰は、今の私たちにも引き継がれています。信仰告白として使徒信条を唱えますが、復活されたイエス様が天に昇り、父の右の座につかれ、「かしこより来りて」というのが再臨のことです。「生ける者と死にたる者とを審きたまわん」とあるように、最後の審判をくだす王としてきてくださり、全ての争いを終わりにし、悪を滅ぼしてくださる時が来る。その日を待ち望みつつ、私たちも「主を待ち望む」のです。三つ目のことをお話ししたいと思います。
3.私たちも待ち望み続ける
 旧約時代の信仰者は、救い主の来られることと、世の終わりを預言され、その日を待ち望んだ。新約時代になって、キリストが来てくださりましたが、世の終わりの再臨はまだですから、それを待ち望む信仰があります。そして今の私たちも、再臨の前にいることは同じです。個人個人で言いますと、私たちがイエス様を信じて罪を赦され救っていただいたとき、私の心にもイエス様が来てくださった。そして再臨の時には顔と顔を合わせてお目にかかるのですが、もう一つ、再臨の前に地上の人生が終わる日が先に来るかもしれません。ですから私たちは天国を待ち望んでもいる。天国が先か再臨が先かは人間には分かりませんが、主にお会いできることは同じです。ですから私たちも主を待ち望んで生きていくのです。
 それは死ぬときのことだけではありません。試練が続き、気持ちが弱くなることもあります。しかし、詩篇の詩人たちのように、「しかし私は主を信じます」と祈り、主が助けてくださることを確信するとき、まだ現実には困難があっても、必ず救ってくださる神様を褒め称えることができる。これが詩篇を通して学ぶことができる信仰です。この一年間、教会も、また一人一人も様々な試練を通ってきましたが、でも信仰を持って祈り続けた。「しかし、主を待ち望む者は新しい力を得る」との約束を信じて、祈り続けていきたい。この信仰が強められ、成長した一年だったことを感謝します。
まとめ.
 今年の標語は今週で終わり、来週からは新しい一年、新しい御言葉を掲げていくことになります。でも、御言葉は無くなるのではなく、時代を超えて真実です。イザヤの時代にも、その後の歴史でも、また教会の時代になっても今日に至るまで、「主を待ち望む者は新しい力を得る」との約束を信じて、多くの信仰者たちが励まされ、立ち上がり、新しくされてきた。私たちも、これからどんな時代になろうとも、それほど問題が押し寄せてきても、主を信じて、主に期待して、待ち望み、祈り続けていきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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