2021年05月02日

礼拝説教「王たちの前で」使徒26:27〜32(24〜26章)

礼拝説教「王たちの前で」使徒26:27〜32(24〜26章)
『使徒の働き』は宣教がテーマです。22章から26章はエルサレムに戻ったパウロが様々な場所で証しをしていますので、説教も証しに関することが多くなります。もう、すでに二回にわたって証しに関するメッセージをしましたので、今日はあとの3章をまとめてお話ししようと思います。ここでパウロは三人の人に語っています。二人はローマ帝国から遣わされた総督で、王にも匹敵する権威を持っています。三人目は文字通りの王であるアグリッパという人物です。かつてイエス様が弟子たちに、「いつか、総督たちや王たちの前に連れて行かれるときがくる」と語られましたが、その時に何を話すかは、聖霊が示してくださるから心配するな、と言われたことがあります(マタイ10:18)。この24章から26章でパウロは三人の総督や王に語っています。でも、それを聞いた三人はどのように受け止めたでしょうか。
今日はパウロの証しを聞いた三人の姿から、私たちが証しを伝え、また神からの言葉を聞くときにどうしたらよいか、考えてみたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを進めてまいります。第一に「知識はあるが」、第二に「巧妙な政治家」、第三に「王ではない王」という順序でお話ししたいと思います。
1.知識はあるが(24章、総督ペリクス)
24章から少し拾い読みをしてまいりたいと思います。この章にはユダヤ地方を監督していたペリクスという総督が登場します。パウロに敵対する大祭司を始めとするユダヤ人たちが、総督に自分たちの主張を通すために弁護士、というとこの時代にすでに弁護士がいたというのが驚きですが、弁論術に長けたテルトロの言葉が2節から始まりますが、最初は挨拶というかおべっかですので飛ばして、5節。
24:5 この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。
パウロの悪口を言っているので、そのまま受け止める必要はないのですが、彼らの評価が分かります。ナザレ人というのはユダヤ人たちがクリスチャンに対して使った呼び方です。パウロのことをペストのような存在、と言っています。ペストと訳されているのは疫病という意味の言葉です。今、私たちは新型コロナの感染拡大という難しい状況におりますので、このような表現を用いると誤解を生むかもしれないと躊躇しますが、パウロに敵対する彼らから見ると、パウロの影響はまるで疫病のように増え広がっていることを苦々しく思っているのだと分かります。
何年も前ですが、アメリカのメガチャーチと呼ばれる数万人が集まっている教会のことを少しお話ししたことがあります。その教会のパンフレットに、「感染力のあるクリスチャン」というタイトルがついていて、たぶん、今はそのような言い方は使わないと思うのですが。でも、その教会が言いたいことは、本当はクリスチャンという存在は、その一人を通して周囲の人に証しがされ、信じる人が次から次に起きていく、そういう存在だ、ということです。残念ながら、日本ではその影響力が弱くなってしまって、あまり増え広がっていないのが現状です。迫害する者たちが思わずそんな例えを使うくらいに、救われる人がぞくぞくとおこされることを、私たちは願っております。
少し脱線してしまいましたが、この悪口を聞いた総督ペリクスはどうしたか。彼は政治家でしたから、片方の言い分だけを聞いて、ユダヤ人にこびへつらうようなことはしない。訴えられているパウロの意見も聞く姿勢を見せたので、10節からパウロが証ししています。その内容は、すでに22章や23章でお話ししていますので、今は省略します。ペリクスがどのようにパウロの証しに反応したか、22節から少し読みたいと思います。
24:22 しかしペリクスは、この道について相当詳しい知識を持っていたので、「千人隊長ルシヤが下って来るとき、あなたがたの事件を解決することにしよう」と言って、裁判を延期した。
解決を先送りするのも、なんとなく政治家らしいと思うのですが、ここで驚くのは、ペリクスはこの道、つまりキリスト教について「相当詳しい知識を持っていた」ということです。ローマから辺境の地ユダヤに派遣されて、見下しているユダヤ人の、古臭い宗教、しかもそのユダヤ人指導者が異端としているようなナザレ人イエスの一派の教え。そんなことを相当詳しく知っていた。もちろん十分な知識ではないでしょう。でもいくらかは調べてみたのでしょう。この知識があったので、パウロの語る証し、そして福音が良く理解できたのか、というと、それは疑問です。
知識を持っていたから信仰を持てるということではないのです。時には不完全な知識を持っているがゆえに、キリスト教はこんなものだろう、と自分勝手な理解をして、真剣に聞こうとしないケースもある。ペリクスは、まさにそうでした。24節。
24:24 数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
これは真摯な思いで学ぼうとしたというよりも、妻が興味を持ったので、妻の好意を得るためか、もっと言うと、26節。
24:26 それとともに、彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。
パウロがエルサレム教会への援助金を各地の教会から集めて持ってきていたのを知っていたのでしょうか。でもローマ総督がお金が欲しいから、というのは残念な態度です。しかし、私たちも自分にとって何らかの益があるから、困っていることの解決を求めて、教会に来ることは珍しくないことです。でもそれがいつまでも続くのではなくて、やがて信仰に目覚めていきます。ペリクスの場合は、二年間、何度もパウロの話を聞いたのに、最後まで利益を求めて、最後には27節に「ユダヤ人に恩を売ろうと」という理由で無実のパウロを牢につないだままにしておいた。彼は知識はあっても、信じようとはしなかったのです。
信仰は知識ではありません。もちろん、信頼するためにいくらかの知識は必要です。でも完全に理解しようとしたら、一生かかってもわからない。ある程度、理解をしたら、あとは信じるかどうか、聖霊が心の中に語り掛けてくださいます。それでも信じられないかもしれません。しかし、聖霊は忍耐強く、待ち続けてくださっているのです。
2.巧妙な政治家(新総督フェスト)
二つ目のこと、それはペリクスの後任としてユダヤ地方の総督となったフェストという人物について、25章から見てまいりたいと思います。
フェストが着任すると、さっそく祭司長とユダヤ人たちはパウロを抹殺するために、総督に申し出るのですが、フェストは政治家としてユダヤ人の言うままにするのではなく、ユダヤ人のほうから出向くように命令し、裁判の場でもパウロの意見を聞く。でも、自分が赴任したユダヤ州の者たちが素直に従ってくれたら仕事がしやすいので、25章9節では「ユダヤ人の関心を買おうと」という理由でパウロにエルサレム行きを勧めたりもしています。優柔不断というか、どちらにも恩を売って利益を得る、実に巧妙な政治家でした。でもパウロはそんな意見には乗らないで、ローマ皇帝に上訴して、ローマ行きを主張します。そこでフェストはパウロをローマに護送することを決めます。
双方の意見を聞き、利害関係を調整し、法律に則って処置する。政治家、行政官としては有能なのかもしれません。でも彼は最後まで自分の意見ではない。この後も、アグリッパ王の意見を求めます。
福音を聞いても、それを自分のこととして真剣に受け止め、自分で判断するのでないと、周囲の意見に左右され、あいまいな結論しか出せなくなってしまいます。福音を、神様の言葉を聞いたとき、最初は良く分からない。だから色々な人の意見を聞くこともあるでしょう。異なる意見を聞いて、公正な判断を心掛けるのも立派です。でも、神様の言葉は、他人事のように、誰かの意見で受け止めるのではありません。自分自身に当てはめ、自分が信仰をもって応答する。決断するのはあくまでも自分です。でも自分自身の心で神様の声に応えるなら、神様も私の声に耳を傾けてくださらないはずはないのです。本当に神様に求めることがあるなら、自分も神様に真剣に向き合う。決して巧妙な政治家のような「のらりくらり」であり続けては、祝福を受けそこなってしまいます。
3.王ではない王(アグリッパ王)
三人目はアグリッパ王です。王と言ってもローマ皇帝から承認をもらって、ユダヤの一部を治めているに過ぎない。そして彼は、悪名高いヘロデ大王の子孫、ということは生粋のイスラエル人ではなく、エドム人の子孫ですので、ユダヤ人の中にも反対者がいる。そんな王です。フェストが総督に就任したので、フェストに敬意を表するために来たと25章に紹介されています。そこでパウロのことを聞き、かねてより噂を聞いて興味を持っていたのでしょう。パウロの話を聞きたいと申し出て、26章2節からパウロの証しが始まります。証しの内容は、パウロが若い時から始まり、キリスト教の迫害者だったパウロが復活のキリストに出会って変えられたこと、そして異邦人に福音を述べ伝えていること。これは、もうすでに22章でパウロが証ししたことと被っていますので、今は読みません。アグリッパ王の反応を、26章の26節から読ませていただきます。
26:26 王はこれらのことを良く知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。
26:27 アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。

アグリッパ王は、ユダヤ人を治めるために必要なことは知っていた、はずです。キリスト教という一派のこともある程度は知っていたかもしれません。パウロは、王様なら知っていて当然だよね、と言っているわけです。そして「預言者」とは、旧約聖書に預言されているメシア、救い主についてはユダヤ人なら必ず信じている。もちろん、アグリッパ王の先祖はエドム人ですが、ユダヤ人の王であるからには預言者が神の言葉を伝えていることを認めなかったら人々から猛反発を受けるでしょう。そして、預言者を信じているなら、預言されたとおりに十字架と復活をされたイエスこそ救い主キリストであると信じるはずではないか。そうパウロは訴えているのです。ですから28節。
26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わすかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。
アグリッパ王は、知識は不完全でしょう。聖書を信じる信仰もどれほどだったか。でも、パウロが自分に語り掛け、イエス・キリストを信じるようにと決断を迫っている。それはパウロではなく聖霊の働きかけですが、聖霊のことはわからずとも、彼は自分がキリストを信じるかどうかを迫られている自覚があったのです。では、それに彼は応答したのでしょうか。いいえ、彼は「わずかなことばで」、新しい2017訳では「わずかな時間」としていますが、パウロの証しを「わずかなことば、わずかな時間」として、それくらいで私をクリスチャンにしようとしても、自分は信じないぞ、と拒んでいるのです。
彼は王でした。王は、たとえ不十分な情報でも決断をしなければならない。敵が攻めてきたときに、相手の人数や戦力を正確に調べてから、なんてしていたら負けてしまいます。時には不安があっても勇敢に敵に立ち向かうのも王様の責務です。いいえ、他の国とは違い、イスラエルの王は神様の声に従うことが一番大切です。でも彼は預言者によって語られた言葉であっても、従おうとしなかったのです。彼が本物の王なら、真剣にパウロの証しに応答しなければならない。でも、やはり彼は見せかけの王だったのです。
私たちは誰もが王となりたい。自分の思い通りにしたいし、自分のために人を動かしたい。でも、それは自己中心ではあっても、本当の王ではない。ですから、勇気を出して神様に従うことがなかなか出来ないときがあるのではないでしょうか。自分は自分の道を自分で決める、と思っているのであれば、神様に従うかどうかも自分です。誰かに言われたとか、ではなくで、自分で神様に従う。真の王であるお方に従う王となるなら、神様はその人をも神の僕として用いてくださるのです。
29節から最後までお読みします。
26:29 パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」
26:30 ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。
26:31 彼らは退場してから、互いに話し合って言った。「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」
26:32 またアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と言った。

パウロはユーモアを交えながら、自分のようなクリスチャン、そしてキリストの証し人となって欲しいと最後の訴えを述べましたが、結局、総督フェストも、アグリッパ王も、信じることはできなかった。パウロが無実であると分かっていながら、彼が語る真実は拒んだままでした。アグリッパは、キリストを信じて神の言葉に従う、本物のイスラエルの王となるチャンスを棒に振ってしまったのでした。
まとめ.
パウロは総督や王という、この世の支配者たちの前で堂々と語りました。その言葉は聖霊が導いて語らせてくださったのでした。でも、本当は、真の王であるキリストが証しされ、キリストの言葉が彼らをさばいているのです。王の王であるお方の声に聞き従うことが大切です。私たちは神様からの証しをどのように聞いているでしょうか。御言葉に真剣に取り組み、応答しようとしているでしょうか。パウロの証し、聖書を通して語り掛けておられる聖霊の呼びかけに応え、御言葉に従って生きる者とならせていただきましょう。
タグ:使徒の働き
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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