2021年04月25日

礼拝説教「神からの使命」使徒23:6〜11(23章)

礼拝説教「神からの使命」使徒23:6〜11(23章)
「使命」という言葉は、英語では「ミッション」です。あなたのミッションは何でしょうか。それは必ずしも、自分のしたいことではないかも知れません。やりたいことをして生きるのではなく、自分に託された使命、それは神様から信任された使命です。そのために一生をかける価値がある、犠牲を払ってでもするべき大切なこと。それが使命です。そんな大変なことなんてしたくない、もっと楽な、簡単なことだけをしたい、と正直なところ思うかもしれません。でも、使命のない人生、使命を忘れた生活は、本当の喜びや達成感もなくなってしまいます。
神様はキリストを信じて救われた私たち一人一人に使命を与えられます。一生の使命もあれば、一時的な使命で、一つが終わったら次の使命に向かうこともあるでしょう。クリスチャンにとって一番大切な使命は、キリストの栄光を現す者となることです。そして、その一端として、私を救ってくださったイエス・キリストを証しし、宣べ伝えることです。
今日は、「神からの使命」と題して、『使徒の働き』23章から、パウロに与えられた使命、そして私たちの使命について考えてまいりたいと思います。いつものように三つのポイントで、第一に「証しの場」ということ、第二に「神の命令」、そして第三に「はからずも」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.証しの場
イエス様も弟子たちに「私の証人」となるようにと命じられ、彼らは十字架と復活のキリストを証ししていきました。今も、その使命は変わりません。「全世界に出て行って」と言われたように、世界中どこででも証しをするのですが、いつでもどこでも同じことを繰り返して言う、ということではありません。パウロも聞いている人に応じて証しをしています。TPOという言葉がありますが、時と場所と状況に応じた語り方をしませんと、効果的に伝えることができません。証しには証しの場があります。そして神様は私たちを遣わして証しするように命じただけでなく、証しをする場を整え、そこに導いてくださるのです。
私たちの教会では、証しというと、一つは礼拝での証しがあります。年に一、二回ですが、証し礼拝をして、信徒の方に神様から与えられた恵みを分かち合っていただきます。また、受洗や転入会をされる方が、役員会や愛餐会で証しをしていただくことがあります。今はコロナ禍のために愛餐会ができません。でも、その証しが月報の『いづみ』に載せられて教会員の皆様に届けられます。他の教会では、伝道会や祈祷会のような機会に証しをすることもあります。そのような教会での証しは、緊張するかもしれませんが、聞いている人の多くは、同じ教会員であり、証しを聞いてくださり、受け入れてくださる方たちですから、安心して証ししていただけると思います。それに対して、見ず知らずの人や、キリスト教に反対していたり、自分に対して敵対的な人に証しをするのは大変です。言葉を選ばないと誤解をされたり批判をされますし、そうでなくても好意的に聞いてくれる保証はありません。もし、そのような場で証しをすることになったら大変ですが、そのような時には聖霊が助けていてくださいます。
さて、パウロはどうだったか。先週お話ししました22章では、大勢の群衆の前での証しでした。その中には元々パウロの反対者で、パウロを陥れる気で妨害していた人たちもいます。その彼らの煽動で、神殿に来ていたユダヤ人、おそらく信仰熱心なユダヤ人たちが騒いで暴動となり、中には、何だか分からないけど一緒に騒いでいる人もいた。パウロは、彼らが静かになり、興奮状態が無くなってから証しを始めます。全員が証しを受け入れてくれるとは限りません。反対者は徹底的に反対します。でも中には、煽動に載せられたけれど、静まれば、落ち着いてパウロの証しを聞いてくれるかもしれない。一人でもイエス様を受け入れてくれれば、と期待してパウロは証しをしました。
そして、この23章はユダヤ人議会での証しです。ローマ兵に監視がありますから暴動にはなりませんが、ほとんどがイエス様に反対する人たちです。いいや、この議会でイエス様を十字架につけることが決定したのです。パウロは自分がどのようにクリスチャンになったかを語ろうと言葉を発したら、少し話をしただけで、議長であった大祭司はパウロを打ちたたくように部下に命じています。これでは公平な裁判の場とは言えませんし、証しを最後まで聞いてくれるはずがない。そこは証しの場とはなっていませんでした。
でもパウロは諦めずに、きっかけを作ろうとします。議会にはユダヤ教の二大派閥、パリサイ派とサドカイ派の人たちがいました。8節。
8 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
どちらかと言うと、パリサイ派のほうがキリスト教の教えに近い部分があります。パウロはイエス様が救い主だということを証ししたいのですが、そのためにはイエス様の復活を話さなければならない。ですからサドカイ派は最初から聞くはずが無い。でもパリサイ派ならいくらかは耳を貸してくれる。そこで自分の証しは復活に関することだと語った。この議会は最初からパウロを有罪にしたい、公正ではなく、証しを聞く耳が無い。でもパリサイ派だけなら。そんな期待もあったのかも知れません。パウロが復活の事を語ると、議会は真っ二つになり、混乱状態になったので、パウロの身が危険だと判断したローマ兵によって議会から退場となりました。
パウロの作戦が、この議会で有罪判決を受けることを避けるためなら、この混乱によって退場できたのは、作戦成功です。でも、どうにかして証しをしたいとの願いは閉ざされてしまいます。しかし、もし神様がこの場所、ユダヤ人議会で証しすることを計画しておられるなら、いつかはそうなるでしょう。でも、彼らはすでにイエス様を拒み、ステパノを殺しています。議会としてはもう福音を聞くことはできない。それでも救いに導こうと神様が考えている人には、個別に、または違う場を用意して、証しをさせてくださるはずです。
神様が証しの場へと導いてくださるなら、必ず語ることができるように助けてくださる。もし証しの場としてまだ整っていないのなら、無理をして語ろうとしても上手くいきません。神様が導いてくださるときは、勇気を出して従ってまいりましょう。
2.神の命令
二つ目のことに移ります。11節。
11 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。
恐れるな、勇気を出しなさい。これは旧約聖書でも新約聖書でも何度も告げられる神様からのメッセージです。パウロは恐れていたのでしょう。勇気を失いそうになっていたのかも知れません。それは、証しが上手くいかなかったこと。また、このままだと有罪判決で死刑にされる。殉教する覚悟はありました。でも、そうなったら、こうキリストを宣べ伝える使命はこれ以上続けられない。異邦人の使徒として、もっと多くの人に福音を伝えたかったけれど、それが出来ない、という心配があった。でも、イエス様は、勇気を出しなさい、と励ましてくれた。だけでない。彼の新しい使命を確認させてくださったのです。
「エルサレムであかしした」、それは、パウロがなすべきエルサレムでの証しはこれで終わった。他の人がその働きを続けるでしょうが、イエス様はパウロに新しい使命、ローマでのあかしを命じられたのです。パウロ自身は前からローマに行きたいと願っていましたが、ここでイエス様ははっきりとローマでの使命を与えてくださった。そして、それは、ローマに行くことが御心であって、このまま、ここで死刑になるのではない。勇気を出しなさい、とは、勇気を出すだけでなく、その保証としてローマ行きを予告してくださったのです。
私たちは自分のしていることが御心かどうか、すぐには分かりません。でも、神様は様々なことを通してそれを示してくださる時がある。それは御言葉によって示してくださることもあるし、はっきりは分からないこともある。私たちは、どうしても、右か左かを迷ったときに、神様がはっきりと教えてくださることを願いますが、ここに至るまでのパウロは、エルサレム行きは御言葉によって確信していましたし、捕らえられることも覚悟していましたが、ローマまで行けるか、エルサレムで殉教するかは分からない。でも、どちらであっても、パウロは神様の命令に従う決心があったのです。
この節で「あかししなさい」と命じている、この動詞は、「証しをする」という意味と、もう一つ、「殉教する」という意味もあります。エルサレムでもローマでの証しをすることは迫害されて殉教するかもしれません。どちらであってもパウロはこの命令に従うのです。
私たちは自分の願い通りであっても、それとは違っていても、神様に従うことが一番大切です。それは、従ったら上手くいくということではありません。妨害もあります。また従っているつもりで、実は御心だと誤解していて、失敗をするかもしれない。でも、そうなったとしても、そのときにまた神様に従い直す。証しをすることも大切な使命ですが、それは神様に従うことだから大切なのです。
3.図らずも
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。12節から。
12 夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。
13 この陰謀に加わった者は、四十人以上であった。

パウロに反対するユダヤ人たち、四十人以上が待ち伏せしてパウロを殺そうと計画した。正確な人数は書いていませんが、彼らは祭司長たちに働きかけて、パウロを議会に招集させ、その途中で暗殺しようと計画しました。しかし、その計画がパウロの甥の耳に入り、その甥はパウロに知らせ、パウロは百人隊長に知らせ、結局は暗殺計画は失敗します。16節。
16 ところが、パウロの姉妹の子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営に入ってパウロにそれを知らせた。
どうしてこの甥が計画を知ったのかは分かりません。あえて言うなら、たまたま、です。ここにも神様の計画があった。神様は「ローマであかしする」と言われた言葉が実現するように、この甥を用いてくださった。ですから彼がパウロを助けるために敵の様子を調べたのではなく、たまたま、それを耳にした、ということの中にも神様の導きがあったのです。
16節には「たまたま」という言葉はありませんが、恐らくそう言う状況だったと考えられる。でも聖書の中に「たまたま」と思える言葉があります。有名な箇所ですが、旧約聖書のルツ記の中で、ルツが落ち穂拾いに行くとき、たまたまボアズの畑に行った。翻訳によって表現は違いますが、新改訳は「はからずも」という言葉です。図らずも。それは人間の計画ではない、ということです。計算して、こうしたら上手くいくからと考えたのではない、でも、神様がそこに働いてくださり、ルツは最善の場所に行った。パウロも甥が図らずも暗殺計画を耳にしたところから、暗殺からは助けられた。それだけではありません。22節。
22 そこで千人隊長は、「このことを私に知らせたことは、誰にも漏らすな」と命じて、その青年を帰らせた。
23 そしてふたりの百人隊長を呼び、「今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ」と言いつけた。

パウロを護衛するのは合計四百七十人の兵隊です。四十人以上の、十倍です。ローマ軍が保護しているパウロが暗殺されたらローマ帝国の名誉が傷がつく。だからこれだけの兵士を動員した。パウロは、そこまでは予想もしていなかったでしょう。でも、パウロの計画ではなくても、神様の計画、神様の御心が実現していくのです。
「図らずも」、それは自分の願いや計画ではない。かと言って、起きたことは何でも神様の計画だというような乱暴な話ではありません。ルツ記のルツが貧困の中で、将来を諦めていた。でも神様はボアズの畑に導いてルツたちを救ってくださった。パウロは、ローマに行くという神様の計画はすでに信じていた。でも、その方法は分からない。そのときに神様は甥を用い、ローマ軍のプライドを用いて、パウロに与えた使命を達成させてくださる。一人一人に対する神様の計画は異なります。その時によって違う方法を用いることもあります。でも、私たちはただ神様のご命令に従い、キリストを証しし、またキリストの栄光を現す者としていただきたいと願います。
まとめ.
神様からの使命が何かは分からないかも知れません。でも神様に従って生きることを願うなら、その人を通して神様が働いてくださり、それが証となっていきます。私たちも主を証するものとしていただきましょう。
タグ:使徒の働き
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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