序. 証しをすることは多くの人が尻込みをします。人前で話すことが苦手な人もいるでしょう。上手に話せるかを心配するかもしれません。でもクリスチャンにとって証しは大切なことです。それは、元々、クリスチャンとはキリストの弟子であり、キリストの証人、つまり証し人だからです。証しとは何かと言いますと、簡単に言えば、自分の信仰体験を語ることと言っても良いかもしれません。もっと正確に言えば、自分がキリストとどのように出会い、キリストを信じてどのように救われ、そしてキリストによってどう変えられてきたかを証言するのです。今日は、『使徒の働き』22章でパウロが群衆の前で語った証しを見てみたいと思います。特に、パウロがどのようにイエス様を救い主として信じるようになったかは、実はすでに9章で詳しく述べられていますから、22章を読んだ人はどっかで聞いたことがある話だと感じるかもしれません。どうして同じ出来事をもう一度、22章で書いているのか。そこには証しの目的があります。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「自分のためではなく」ということ、第二に「キリストと同じ姿に」、そして第三に「キリストが共におられる」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.自分のためではない
3節からパウロの証しが始まりますが、どのような状況で語られたかは、前の章から繋がっています。パウロに反対する人たちの誤解から暴動が起きてパウロが殺されそうになったとき、ローマ軍の隊長がパウロを助け出し、そして興奮している群衆に語る事を許可してくれました。叫んでいた群衆が静かになってパウロは「私は」と言って話し始めます。その内容はパウロの過去を振り返り、体験したことを話している。ですから、これも立派な証しです。3節から少し読みます。
3 「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。
ここでパウロは、自分は皆さんと同じだと言っています。群衆がパウロを殺そうとしたのは、パウロが律法を破っていると思ったからです。でもパウロは律法を厳格に守る教育を受けたものであって、律法を破っているというのは誤解だと言うのでしょうか。パウロは群衆に殺されたくないから自己弁護をしているのでしょうか。もちろん、そうではないことは直ぐに分かります。パウロはかつては自分もキリスト教、まだキリスト教という言い方はなかったので、「この道」と言ってますが、多くのユダヤ人たちのようにパウロもクリスチャンたちを迫害していたと語っています。ところがダマスコに向かう途中で天からの光に照らされ、パウロはイエス様に語りかけられたのです。パウロは自分のために語っていたのではなく、この自分が出会ったイエス様を証したかったのです。
証の目的はイエス様がキリスト、すなわち自分の救い主であることを伝えることです。そのために、かつてイエス様を信じていなかったときのことも話すでしょう。それが何時イエス様と出会ったのか、どのように信じるようになったのか、信じたらどう変わったのか、いいえ、今でも変わり続けているか。それは単なる自分の体験談なのではなく、自分を救ってくださったイエス・キリストの素晴らしさを伝えるために自分の話をするのです。決して自分のことを知らせること自体が目的ではないのです。
クリスチャンが証をする時に気をつけなければならないことは、自分自身です。どうしても私たちは人から良く思われたい。自分の失敗はなるべく話したくない。自分の成功は大きな声で伝えたいものです。それが証の時にも表れて、自分を良く見せようとしてしまうかもしれない。自分が間違っていたことは隠したい。ですから罪のことは誰でも伏せたいのです。でも、それでは罪から救ってくださったイエス・キリストを伝えることができないのです。
反対に、開き直って、私はこんなにダメなんです、と語ったら良いのでしょうか。確かに神様は私たちをありのままの姿で受け入れてくださった。罪を赦してくださった。でもそこに留まり続けることは神様の御心ではありません。命がけで救ってくださった方のために、主の御心に沿った生き方に変えていただきたい。その新しい生き方を通してキリストの素晴らしさを証する者とならせていただきたいと願うようになるのです。
パウロは、確かに以前はクリスチャンを、また教会を、迫害して来た。でもキリストに出会って変わったのです。今度は自分がキリストに従い、キリストを伝える者となったのです。8節に彼はイエス様の声を伝えています。「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ」。自分ではなくイエス・キリストを証するのです。
2.キリストと同じ姿
二つ目のことに移ります。パウロの証はまだ続いています。17節から読みます。
17 こうして私がエルサレムに帰り、宮で祈っていますと、夢ごこちになり、
18 主を見たのです。
エルサレムからダマスコに行く途中でイエス様と出会い、ダマスコでバプテスマ、つまり洗礼を受けてクリスチャンとなり、またエルサレムに帰って来て、神殿で祈っている時に、夢か幻でイエス様を見て、み声を聞いたのです。18節。
18 主を見たのです。主は言われました。「急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです。」
かつてはパウロが、クリスチャンたちの証を受け入れないで迫害していた。それが、パウロがイエス・キリストを信じた時から、今度はパウロのキリストに関する証を人々が受け入れない。9章には、その人々はパウロを殺そうと狙っていたので、仲間たちがパウロをエルサレムから救い出したと書いてありますが、実はイエス様ご自身がパウロに言われたので彼はエルサレムから出て行った、ということがわかります。
ここで面白いなと私が思いますのは、パウロは昔のこととして9章での出来事を思い出して語っているのですが、でもこれは昔だけではない。実は今もそうです。この22章でもエルサレムの群衆は、パウロの言葉を受け入れないで殺そうとしている。だからパウロは再びエルサレムを離れて、今度はローマに行くことになります。歴史は繰り返すと言いますが、でも、どうしてパウロは何度も拒まれるのでしょうか。それは、元を辿れば、イエス様もそうでした。イエス様が語られた言葉をエルサレムの人たちは拒んだ。そしてイエス様は殺されそうになるどころか、十字架につけられてしまいます。パウロは十字架にこそつけられませんでしたが、イエス様と同じように拒まれたのです。
イエス様を証する人はイエス様のようになって行きます。ステパノは、やはりイエス様を証して町の外で石で撃ち殺されますが、その時の祈りがイエス様と同じで、自分を苦しめる人々のために祈った。そのステパノの姿を見ていたパウロもステパノを通してイエス様を見たのです。自分ではなくてイエス様のことを証するとき、それは言葉でイエス様について話すだけではなく、証している自分自身の姿でキリストを証する。そのために私たちもキリストに似た者とされていくのです。どのように似るかは、その人によって違います。ステパノは祈りがイエス様と同じだった。パウロは拒まれても御言葉を語り続ける点でキリストと同じ働きをした。私も、何らかの点でキリストに似た者とならせていただけるのです。
3.キリストが共におられる
三つ目に、キリストに似た者とされるだけでなく、キリストご自身が共にいてくださる、ということ話させていただきたいと願います。21節を読みます。
21 すると、主は私に、「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす」と言われました。
ここで主ご自身がパウロを異邦人に遣わしています。この「遣わす」という言葉は、外に遣わす、と言う動詞で、その元となった動詞、「遣わす」はギリシヤ語で「アポステロー」ですが、このアポステローからできた言葉がアポストロス、すなわち使徒と言う言葉です。イエスご自身がパウロを遣わした。だからパウロは自分が異邦人の使徒だと言っています。
パウロはコリント人への手紙という書を書いています。いつか礼拝でお話ししたいと思いますが、その中で、パウロの反対者たちは、パウロは自分を使徒だと言っているが、パウロは使徒ではない。使徒たちよりワンランク低い、と言ってパウロを軽んじて彼の言葉を拒むのですが、パウロ自身は、自分はキリストから直接遣わされたのだから使徒なんだと語っています。
そしてパウロや他の者たちを遣わされたお方は、イエス・キリストを証するために遣わされた人と共にいる、と約束してくださった。それは十二使徒だけでなくパウロも同じだし、今でも同じなのです。私たちが遣わされて証しの使命を果たそうとするとき、イエス様も共にいてくださる。マタイの福音書では、弟子たちを世界に遣わして、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます、と語られました。マルコの福音書では、主は彼らとともに働き、と書かれています。ヨハネは、わたしに従いなさい、と命じて、私たちがイエス様と共に歩むように命じておられます。
これらの言葉は十二使徒だけでなく、パウロも、そして全ての弟子、全てのクリスチャンにも語られています。キリストの証人となるように命じられたお方は、共にいるとも約束された。それは、証をしたら、じゃぁ共にいてあげようかな、ということではなく、共にいて共に働き、前を歩んで従うようにしたいから、あなたも証し人となりなさい、と招いておられるのです。言い方を変えますと、証の結果として共にいてくださるのではなく、証を命じる目的は、主が共におられることが成就するからなのです。
共にいるとは、ただ近くにいるだけけ、ではなく、守ってくださる。パウロはこの証の結果、群衆はますます怒り狂ってパウロを殺そうとします。ローマ兵はパウロを助けますが原因を調べるためにパウロを鞭打って自白させようとするのですが、パウロはローマ市民権を持つ上流階級なので鞭打ちを逃れる。それはパウロの機転ですが、その知恵を与えたのは神様ですし、パウロはこのローマ市民権を自分で手に入れたのではなく、生まれつきの市民だと言っている。それはパウロをそのような家に生まれさせてくださったのは神様だということです。神様はあらゆることを用いてパウロを守り、さらにパウロが他の人々にも証をするようにしてくださり、ずっと共にいてくださるのです。
まとめ.
証をするのは大変かもしれません。でも私たちはキリストの証し人として召されたのであり、証するときにもっとと共におられるお方を知ることができるのです。あなたも証人になるように招かれています。パウロが群衆にも、またこの後ではさらに様々な人に証をしていったように、私たちも神様に遣わされて出ていきましょう。
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