2021年03月14日

アシュラム福音の時「嵐の中から呼ぶ神」(ヨブ19:25)21/2/11

アシュラム福音の時「嵐の中から呼ぶ神」(ヨブ19:25)21/2/11
昨年来、世界中がコロナ禍のために混乱しています。教会も難しい状況に置かれていますし、お一人お一人も健康的、経済的、あるいは人間関係で以前とは違う状況の中で苦悩されていることと思います。もちろん、これはコロナだから、ということではなく、クリスチャン人生には苦難はつきものです。クリスチャンでは無くても困難はありますが、キリストの御救いに与り、神様を信じていても、なお苦しみがある。そのとき、私たちの心の中には、何故、という思いがわき上がってきます。神様を信じているのに何故、こんな苦しみがあるのか。信じていても無駄じゃ無いのか。そんな風にはっきりと言うのは不信仰に思いますから言いませんが、でも心の奥底で何故、と考えたことは、誰でもあるでしょう。今回のアシュラムの聖句となったヨブ記でも、主人公のヨブは神様を信じながらも大きな苦難を味わいます。その苦難の中でヨブはどのように祈り、どのように神様からの言葉をいただいたのか。それを知ることは、私たちにも大きなヒントとなる、と思うのです。
ただ、ヨブ記は難解な書物だと言われます。私もそう思います。ですから、今日の御言葉を知るためには、ヨブ記全体についても理解が必要ですので、皆様にはあらかじめプリントを配っていただきましたが、参考にしてください。三つのことをお話しして参ります。第一に「ヨブ記のストーリー」ということをお話しします。第二に「ヨブ記の構造」、そして第三に「ヨブ記の福音」、これが今日のメッセージの中心です。
1.ヨブ記のメッセージ
ヨブ記を読んだことの無い方もいらっしゃるかも知れません。読んだことのある方も復習がてら、ヨブ記の大体の話をさせていただきます。
昔、ある所にヨブという人がいました。彼は、神様も認めるくらいに正しい生き方をしている人です。ところが突然の災害でヨブは財産を失い、子供たちを失います。どうしてそうなったのか。読者は裏話を知っています。悪魔と神様の遣り取りがあって、その結果、ヨブが苦しむ。とばっちりです。いったい何故、神様はそんなことを悪魔に許されたのか、分かりません。ただ、ヨブ自身は天上でのことは知らされていません。ですからヨブにとってのこの災いは、何故か理由は分からないけれども苦しむのです。しかし、ヨブはこの苦難の中でも信仰を失いません。有名な台詞ですが、「主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな」。立派な信仰です。でも自分がもしこんな苦しみを受けたときに同じように言えるでしょうか。上辺では言えたとしても、心の底から言えるか。自分でも自信は無いのに、ましてや、人に押しつけてはいけません。愛する家族を失った人、生涯掛けて築いてきた働きを全て失った人に、「主は与え、主は取られるだよ、だから主を褒め称えよう」なんて、決して言ってはいけない。その人を傷つけるだけです。ヨブは確かに偉かった。この苦しみの中で信仰を貫いた。でもまだ続きます。今度は肉体的な苦しみを受け、さらに奥さんから「神を呪って死になさい」なって酷いことを言われる。でもヨブは信仰を貫きます。「主から幸いを受けたのだから、災いをも受けるべきである」。完璧な信仰者です。私たちにも、こういう人になれ、と神様は語っておられるのでしょうか。もしそうなら、ヨブ記はここで終わるはずです。
ヨブはこの後、あまりの苦しさで、嘆きます。ヨブを慰めるために来ていた友人は、最初はヨブと一緒に悲しむ。悲しんでいる人と共に悲しみなさい、です。でもヨブの嘆きの言葉があまりにも厳しかった。自分なんて生まれない方が良かった。その言葉を聞いたとき、友人たちは、ヨブを諫めるのです。お前、そんなことを言うもんじゃないよ。そこからヨブと三人の論争が始まり、長い長い議論が続きます。最後には神様までが登場して、ヨブと論争し、ヨブは神様の前に謙ります。神様はヨブに、三人の友人、売り言葉に買い言葉で、ヨブに対してずいぶん酷いことを言った。この三人を許して、彼らのために祈りなさい。ヨブが祈ると、神様はヨブを再び祝福し、ヨブの財産は以前の倍に増えた。これでヨブは前のように幸せになってハッピーエンド、でしょうか。
これがヨブ記を通して神様が私たちに言いたいことなのでしょうか。いわく、例え苦しみに遭っても、神様を信じ続けるなら、最後は以前の二倍の祝福を受けるのだから我慢しなさい、ということでしょうか。確かに天国では地上の祝福の何倍もの祝福がある。だから苦しみを受けても耐え忍べ、ということでしょうか。そんなことで今の苦難を忍耐するのが信仰者の生き方なのでしょうか。
あるいは、ヨブが言ったように。「主は与え、主は取りたもう」と優等生のような信仰の言葉を言うことが私たちの目指すところでしょうか。まるで悟ったかのような言葉です。でも、それでは納得は出来ない。本音では、神様、なぜこんな苦しみを受けなければならないのですか。私たちは神様の前に自分の苦しみを良い子ぶって我慢して、口先だけ信仰的な台詞を言うのでしょうか。それとも苦しみや悩みを正直に神様の前に述べることが真実な姿勢ではないのでしょうか。
アシュラムでニーズを持ってくる、最初はなかなか意味が分からなかったのですが、I兄から教えていただいて、少し分かってきたように感じます。一人一人ニードは違うでしょう。でも、心の奥底にある苦しみを隠していても神様は喜ばれない。いつかは、神様の前に出て、ヨブのように叫ぶのです。「どうして苦しまなければならないのですか」と。
2.ヨブ記の構造
次にヨブ記全体が何を語ろうとしているのか、そのために全体構造をかいつまんでお話しさせていただきます。少し授業のようになってしまうのですが、お許しください。
先ほど、ヨブ記のストーリーとして流れをお話ししましたが、教会学校で子供たちに話すときは、議論の部分は難しいので省略します。ヨブが苦しみ、でも信仰を貫き、最後は祝福される。でも、それは表面だけです。プリントの構造というところをご覧いただきますと、1〜2章の「序曲」と呼ばれる部分と、42章の後半7節から17節が「終曲」の部分で、ここだけでお話しが終わってしまいますと、真ん中のほとんどが抜けてしまいます。私は授業では譬えとして薄皮あんパンの話をします。真ん中の餡子を取り除いて、周りの薄皮のパンだけを食べても、美味しいですが、あんパンではなくなってしまう。あんこが大事です。
3章はヨブの嘆きで、それを聞いて三人の友人がヨブを責めて、ヨブが答える。これが論争です。最初がエリファズがヨブに語り、ヨブが答えます。次に二番手のビルダデが語り、ヨブが答える。三番手のツォファルが語り、ヨブが答える。3対1です。一回戦が終わり、二回戦も3対1。同じような議論が続くので退屈するかも知れません。三人の友人が言うことは実は一つで、同じ事を、言い方を変えている。それは、「ヨブ、お前が苦しむのは、罪を犯したからだ。神様は正しい方だから罪人を罰するからだ。だからお前は罪を認めて神様に悔い改めよ」。これは旧約聖書の人にとっては正統派神学と言われることで、ヨブも、「自分もそれは知っている。でも自分が言いたいのはそこじゃない」。ヨブは例えば息子たちが罪を犯したかもしれないから、そのために燔祭を捧げて神様に赦しを求めるような人です。もし罪を犯してもすぐに神様にお詫びして、いつも神様の前に隠し事はしない。ヨブが言いたいのは、「自分は、これほど大きな苦しみを受けるような罪は犯していない。だから、正しい人が苦しむのは何故なのか、それを知りたい」。でも友人たちは同じ言葉を繰り返す。「お前は罪人だ、悔い改めろ」。論争と言ってもかみ合っていない。
こんなすれ違いのような議論では問題は解決するはずがない。議論では人は救われないし、罪を責めるだけでは救いは無い。ですからヨブの悩み、ヨブの疑問は無くならないのです。
三回戦は、二人が攻撃し、ヨブはそれ以上に長く答えて、ついに三人目は降参、ヨブの不戦勝です。ヨブは議論に打ち勝った。でも本当に知りたい答えは見つからないのです。ヨブは29章から自分の正しさ、知恵の素晴らしさを語りますが、まだヨブ記は終わりません。
32章から突然にエリフという人が登場して、ヨブに問いかけます。エリフも三人の友人と同じようなことを言うのですが、少しだけ違うことを話す。それは「神は教師である」ということです。神様は苦難を通して教えてくださる。これはヨブにとっては初めての考え方です。苦しみを通して学ぶことがある。その通りだ。神様はただ単に苦しみを与えるのではない。罰を与えることもあるかもしれないが、試練を通して学ぶべきこともある。そう思ったときに、ヨブは黙りました。三人の友人との論争と違い、ヨブは反論をしないで聞き続けた。これが大切です。反論して自分の意見を押し通そうとするとき、自分の考えに留まり続け、発展はありません。異なる意見に耳を傾ける。特に神様に対して聞く姿勢が大切です。イエス様が「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃったのも、そうです。ヨブに聞く備えが出来たとき、何が起きたか。それは神様ご自身がヨブに語りかけてくださったのです。
38章から42章は神様からの言葉とヨブの答えです。神様は何を語られたでしょうか。それは、世界が創造されたときのことを知っているか、海の底から星々の世界のことまで、知っているか。人が見たことのないような怪物のことを知っているか。どれもが「知りません」としか言えないようなことを立て続けに問われるのです。ヨブはこれまで人から何を問われても答えることが出来た。何でも分かるつもりになっていた。少し高慢だったかも知れません。神様はヨブが無知であることを指摘された。人間には分からないこともあるのです。分からないのに自分は理解出来ると考えて、自分の苦しみの原因は何か、と問いただす。神様にさえもくってかかる。そんな人間の高ぶりに対して、神様はご自身こそが天地万物を造られ、全てのことを知っておられる、全地全能の神であることを宣言されるのです。
しかし、神様は決してヨブの無知や高慢を責めて罰しようとしているのではありません。もし神様が本気でヨブの前に現れたなら、それは太陽の近くに行った人は燃やされてしまうように、聖なる神様の前に出たなら人間は滅んでしまう存在です。イザヤ書の中で預言者イザヤが神様を見てしまったとき、「ああ、私はもう滅びる」と言った。でも神様はヨブを滅ぼすのではなくて生かしてくださる。
神様が共におられるというのは、素晴らしいことであると同時に恐れ多いことです。もし神様が私に怒られるならすぐに滅ぼされてしまう。でも共にいてくださる神様が私を生かしてくださるお方なのです。私の味方となってくださる。どんなに苦難があっても、理解出来ないようなことが起きても、神様が味方として共にいてくださるなら、何があっても大丈夫だ。この、「神我らと共にいます」という信仰です。
ヨブにとって必要だったのは、苦難の理由を知ること以上に、この神様と出会うことだったのです。神様はヨブの疑問に対する解答は何もおっしゃいませんでした。でも神様と出会い、神様の言葉を聞いたとき、もうヨブの中には疑問は無くなった。疑問が疑問では無くなったのです。もっと大切なことを知ったからです。神様は遠くにおられ私を無視しているお方ではなく、私が祈る時に聞いてくださり、私に御言葉をもって語りかけてくださるお方。この神様との出会いこそ、ヨブの魂が求めていたことなのです。この後、友人たちのために祈り、ヨブの財産は回復して行きますが、そんなことはオマケです。イエス様が教えられました。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それらのものは添えて与えられる」。
3.ヨブ記の福音
三番目のことをお話しして終わりたいと思います。今日はヨブ記の授業ではありません。アシュラムの福音の時です。ヨブ記が私たちに語りかけている福音の言葉に目を向けたいと思います。それは今回のアシュラムのテーマです。ヨブ記19章25節、「私を贖う方は生きておられる」。ヨブが語った言葉です。これはヨブと三人の友人との論争で、友人たちから責められて、ヨブが反論している時です。三人はヨブに言います、「お前が罪を犯したから罰を受けているんだ」。でもヨブは必死で答えます、「いいや、私はこんな苦しみを受けるような罪は犯していない」。どこまでも平行線の議論です。この論争は無駄だったのでしょうか。そうではない、と私は思います。
ヨブは罪を責められたと感じたときに、「私を贖う方」と言います。贖いとは、罪の赦しであり、罪からの救いです。旧約聖書的な表現ですが、ヨブは心の中で救いを求めていた。この苦しみから救われたい。もし本当に自分に罪があるなら、その罪を贖って救ってくださる方がいて欲しい。最終的な神様からの答えは、「神が共にいてくださる」ことです。でも神様に共にいていただくためには、神様の前に出て行けるように、罪を赦し、私たちをきよめてくださるお方がいなければ、私たちは神様の前には出て行けない。
別の箇所でもヨブは、そのようなお方を求めています。開きませんのでお帰りになってからお読みいただければ良いと思いますが、9章では「私たちふたりの上に手を置く仲裁者」、神様と私の間に立って取りなしてくれるお方がいて欲しいと語っています。16章では「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます」。保証、言い換えれば弁護してくださるお方です。ヨブは論争をしている最中ですが、神様との間を取り持ち、かつ自分を弁護してくれるお方、そして私に罪があるなら贖ってくださるお方、そのようなお方がいて欲しい、いいや、きっといるはずだ。そう信じて、言うのです。「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」。このときヨブはチリの中に座していました。苦しみの中にいた。その場所に贖い主なるお方が立ってくださる日が来る。このお方は今、生きておられ、天におられる。そう彼は信じたのです。
ヨブは旧約聖書の時代でもかなり古い時代の人です。まだメシヤ預言を知りません。来たるべき救い主のことは分からない。でも彼は苦しみの中で神様を信じ、神様の救いを求め、そして必ず神様から仲裁人であり保証人であり贖う者が与えられると信じたのです。でも彼はそのお方を見ることはありませんでした。今、私たちは新約聖書の時代に生きています。そして、このお方、私を贖う者がどなたかを知っています。このお方は私たちを罪から救うために、天から来られ、地上に立ってくださったイエス・キリストです。インマヌエルと呼ばれ、神様が私たちと共にいてくださることを保証するためにクリスマスに生まれてくださった。そして私の罪、神様との間を隔てている罪を許すために、贖い、すなわち身代わりとなって十字架についてくださり、三日目によみがえられて、天に昇り、今も父なる神の右の座について私たちのために弁護人となってくださる。また今も私たちの心に聖書の御言葉を通して語りかけるために、キリストの霊、イエスの御霊と呼ばれる聖霊として私たちの内に住んでくださる。内住のキリストです。
イエス様が十字架で成し遂げてくださったことは、私たちの罪を背負って贖いをしてくださり、神からの罰を身代わりとして受けてくださった。ですから、イエス様を信じる私たちは罪のための罰を受けるのではないのです。苦難があっても、それは神からの罰では、もう無い。イエス様が私を贖ってくださったからです。私を贖う方は生きておられる、今も生きておられ、私たちと共におられるのです。このお方と出会い、このお方のことが分かっていくときに、私たちは苦しみで悩む必要は無くなるのです。問題が問題では無くなり、全能者である神様が味方となってくださる恵みを知るのです。
まとめ.
神様がヨブに突然に語りかけられる場面を良く読んでみますと、こう書かれています。「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた」。このメッセージの説教題です。実際に嵐があったことは、その直前のエリフの言葉にも濃い雲とか稲妻という言葉が何度も出てくるのは、エリフがそのような情景を見ながら語ったのだと思われます。財産を失い、健康を失い、友情も壊れてしまった。そのヨブを嵐が襲う。しかし、その嵐こそ神様が登場する前触れなのです。旧約聖書では、例えば出エジプト記でシナイ山に行ったイスラエルの民が神様と会うときは、山が黒雲で覆われて雷が鳴った。神様は嵐の中で登場されるのです。
私たちの人生にも嵐があります。でもその嵐こそ神様と出会うときでもあるのです。コロナ禍で大変でしょう。仕事や人間関係で悩むことがあるでしょう。でもその嵐の中で出会うために神様は私たちに近づき、語りかけてくださるのです。今日も聖書の御言葉を通して神様がお一人お一人に語ってくださった。それは必ずしも問題への解答や、求めていたことが直接に与えられるのではないかも知れません。でも神様が共にいて下さり、キリストが私のうちに生きておられることを知るなら、苦難は恵みへと変えられるのです。
posted by ちよざき at 14:00| Comment(0) | 説教
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