2021年01月03日

礼拝説教「失望しない希望」(ローマ書5章1〜5節)

礼拝説教「失望しない希望」(ローマ書5章1〜5節)
今年の教会の標語として神様から示されたのは、イザヤ40章31節、特にその前半です。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得る」。この年が厳しい試練の年であったとしても、主を待ち望む者には希望がある。力尽きそうになっても、新しい力が与えられる。この信仰を、今年は一人一人が握りしめていただきたいと思います。
今日は、希望と言うことを新約聖書のローマ書5章、これも有名ですが、3節から5節、特に5節に、「この希望は失望に終わることがありません」。主を待ち望む者に与えられる希望は、決して失望に終わることがない。そのことを、今朝はご一緒に考えたいと思います。
いつものように、三つのポイントに分けてメッセージを進めてまいります。第一に「患難が生み出す希望」、第二に「失望に終わらない希望」、そして第三に「愛と信仰による希望」という順序でお話ししたいと思います。
1.患難が生み出す希望
去年の今頃はコロナという言葉を聞くことはあまりありませんでした。中国で新しい病気が流行っているらしい、くらいでしたが、それがあっという間に世界中に、そして日本にも広まりました。学校が閉鎖され、緊急事態宣言が出され、一年の大半は自粛や我慢する毎日でした。苦難が長く続くと、段々と忍耐が難しくなります。そして希望を持って生活することが出来なくなってくる。人間の希望は、良いことが起きる原因が無いと単なる絵空事になります。しかし聖書は、そのような人間的な希望とは異なる、信仰による希望があることを教えています。
5章の1節から少し読んでまいりますと、まず1節で「信仰によって義と認められた私たち」、これはローマ書の中心的なテーマであることは以前にお話ししました。2節でも「キリストによって、また私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた」と語っています。信仰により、でもそれは人間が一所懸命に信じたから救われるというのではなく、同時に恵みにより、神様の一方的な愛によって救われた。これが希望の前提です。この信仰があるから、患難の中でも希望に至ることが出来るのです。
3節、4節は、もう何度もお話ししたことがあると思います。
3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。

ここには分かりやすいプロセスが示されています。信仰により恵みによって生かされているなら、患難の中でも忍耐が与えられる。それは単なる我慢とは違い、やがて品性にまで影響を与える。「練られた品性」というのは、古い口語訳では「練達」と訳されていました。最近の翻訳では「品格」というのがあります。そして品性が練られて素晴らしい品格の人となっていったとき、希望を持つことができる。それは時間がかかるかも知れませんが、一歩ずつ人間として、また信仰において成長していくなら、苦難が続いていても落ち着くことができ、希望を持てる。
ただ、なかなか、希望を待つまで忍耐するのも大変です。でも、神様を信頼するとき、神様からの希望が与えられると信じる信仰を与えられるのです。二つ目のことに移ります。
2.失望に終わらない希望
去年も、コロナが日本でも増え始めたときに、きっと一、二ヶ月で終わるとか、夏には鎮静化するという希望的観測もありました。でも、やがてオリンピックが延期となり、夏の間もマスクをしなければならない。段々と希望が失われていく。いいえ、来年になったら、再来年なら、と先延ばしをしても、心は簡単に納得できるものではありません。希望が失望へと変わっていってしまうのです。
しかし神様が私たちに与えようとしている希望は、そのようなものではない。失望には終わらない、とパウロは記しています。きっとパウロ自身も、何回も失望しそうになったことがある。でも、希望は無くならない体験をしたのではないでしょうか。いつまでも無くならないものは、信仰と希望と愛である、と他の手紙に書いています。なぜ、そのような希望を持つことができたのでしょう。信仰による希望とは何なのでしょうか。
信仰とは、神様への信頼です。神様は必ず最善をなさるお方だという信頼がある。そのとき、希望が失われそうな状況になっても、神様は私たちの信頼を裏切るようなお方ではない。もしかすると私の願った通りとは違うかもしれませんが、かならず万事を益としてくださる。この信頼があるから神様に希望を持つのです。善なる神様だから、必ず最善を行うと信じるとき、失望からもう一度希望へと立ち戻ることができるのです。
ローマ書には、パウロがまだ行ったことのないローマ教会を訪問したという願いが語られています。それを神様は不思議な方法で実現されました。エルサレムで捕らえられ、殺されるかもしれない状況に陥っても、パウロは希望を失わなかった。釈放はされず、囚人のままでローマへと護送されることになります。でも、乗った船が嵐で沈みそうになり、ついには難破して、泳いで島にたどり着く。そんな危険も通り抜けました。神様が必ずローマのクリスチャンたちに会わせてくださることを、彼は神様の言葉を信頼したのです。
私たちも、今は来ることができない方々も、やがて、みんなで集まって礼拝を捧げ、楽しい交わりを持つ日が来ることを信じています。でも、それは神様がそうしてくださることを信じるからです。
3.愛と信仰による希望
神様への信頼が希望に至る。この信頼は、神の愛が土台です。5節。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
聖霊は私たちに御言葉をわからせてくださるお方です。そして御言葉の意味が理解できるということで終わりではなくて、聖書を用いて神様が私たちにわからせたいのはキリストです。イエス様の十字架により表された神の愛、それが私のような者さえも愛してくださる愛だということを分かるように助けてくださる。いえ、それが分かるようになるまで、神の愛を注ぎ続けてくださるのです。そして神の愛が本当にわかったならば、このお方を信頼する、信仰を持たせてくださるのも聖霊の助けによるものです。
この神の愛を体験し、神様を信頼する信仰が増し加わると、次の患難がやってきても忍耐ができ、さらに品性が練られ、希望が強くなっていく。ですから神の愛を知る、愛である神様にもっと近づかせていただくことが希望の源なのです。今年の教会の標語、「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得る」。主を待ち望むとは、この神様の愛に触れることを待ち望むのです。その時、希望が与えられ、苦難の中でも力が湧き上がるようになるのです。
イザヤ書の言葉については元旦礼拝でお話ししましたが、バビロン捕囚が宣告されて国の滅亡が近づくのを恐れていた人たちや、さらに、とうとう国が滅んでバビロンに連れて行かれてしまった人たちは絶望していた。しかしイザヤが告げた神の約束、預言の言葉を思い出して、神様に期待した人たちの中から、後にエルサレムに帰還する人が起こされていった。主を信じて希望を持ったから恵みにあずかったのです。ローマ書を書いたパウロも主の約束を信じて、ローマへ行き、そして世界中に福音が広まる希望を持てたのです。やがてパウロも殉教します。ローマ教会のクリスチャンたちも迫害される時が来る。でも主を信頼して、主の救いを待ち望む人たちに希望が与えられ、迫害され殉教することになっても、ステパノのように天で待っておられるキリストを見上げることができたのです。
今年はどうなるかは、まだ誰もわかりません。でも私たちは神様の約束の言葉を信じ、希望を持って主の御業を待ち望むのです。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得る」。この御言葉を心に刻みつけて、患難の中でも忍耐、品性、そして希望を生み出していただきましょう。
まとめ.
パウロがコリント書第一の13章で、いつまでも残るものは信仰と希望と愛だと語っています。信仰と愛についてはいつも語っていることですが、今年は希望ということを知る年としていただきましょう。もう一度、教会の標語を読みましょう。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得る。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教
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