2020年07月19日

礼拝説教「喜びと賛美の理由」詩篇30篇1〜5節(詩篇30篇)

礼拝説教「喜びと賛美の理由」詩篇30篇1〜5節(詩篇30篇)
詩篇の冒頭に小さな字で書かれている部分を表題と呼びますが、この表題にはまだまだ分かっていないことがあります。30篇の表題には「家を捧げる歌」と書かれていますが、この家は普通の家ではなく、おそらく神殿のことと考えられています。ところが、30篇を読んでいきますと、そこには神殿のことは出てこない。むしろ病気から癒やされたということが語られています。さらに不思議なのは、表題には「ダビデの賛歌」と書かれているのですが、ダビデ自身は神殿を建てていない。彼の息子のソロモンの時代に建てあげられ、神殿の奉献式もソロモンが行いました。またダビデが病気になって死にそうになったとか、それが癒やされた、という話はサムエル記の中には出てこない。いったい、この詩篇はダビデが作ったのか、神殿とどのような関係があるのか。こういう難しい話は詩篇を研究する学者たちが頭を悩ませることで、私たちは、分からなくても大丈夫です。むしろ、例えば5節には「御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちになる」など、素晴らしい言葉がちりばめられている詩篇です。今朝は、この詩篇の中に表されている喜びや賛美に目を向けてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に、1節から5節を通して、「感謝が生まれる」ということ、第二に6節から10節より「祈りに導かれる」ということ、そして第三に11節と12節から「喜びに変えられる」という順序で進めてまいります。
1.感謝が生まれる(1〜5節)
この詩篇は賛美の言葉で始まります。1節。
1 主よ。わたしはあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることをしなかったからです。
「崇めます」とは神様を褒め称えることです。この賛美の理由は、神様が私を引き上げてくださったからだと語っています。引き上げるとは、低いところにいたからです。具体的には、苦難の中です。敵がいて、詩人が倒れたら喜んでやろうと見張っていたのです。さらに2節に「あなたは私を、いやされました」とある通り、何かの病気で、「叫び求める」ほどの苦しみがあった。そして、3節は「私のたましいをよみから引き上げ」と言っています。黄泉とは死の世界です。病気のために死にかけていた。もう半分、黄泉の世界に入っていたと感じていたのです。そのような状態から、神様は祈りに答えて引き上げて救ってくださった。それが彼の賛美と感謝の理由です。
重い病いから癒やしていただいた、という経験は誰もがするわけではありませんが、誰もが神様の恵みをいただいている。4節の「聖徒たち」という言葉はヘブル語ではハシードという言葉ですが、古くから「聖徒」と訳されてきました。新共同訳では「主の慈しみに生きる人々」と訳していますが、私はこれが一番良い訳だと思います。ハシードというのはヘセドというヘブル語が元で、ヘセドというのは恵みとか慈しみという意味です。神様がくださった恵みと慈しみに対して応答して生きている人たちがハシードです。
このことを少し珍しい表現で述べているのが、4節後半。「その聖なる御名に感謝せよ」。神様の御名に感謝せよ、とは神様に感謝するということですが、この箇所では普通の「御名」という言葉ではなくて、正確には「彼の聖なる記憶に」と書かれています。記憶とは誰の記憶か、もちろん神様は全てのことを記憶しておられるお方ですが、ここは私たちの記憶で、神様に関する聖なる記憶ということです。私たちはいろいろなことを記憶しています。過去の出来事、体験したこと。素晴らしい体験もあれば、苦しかった出来事もあります。でも、それが素晴らしいとか苦しいというのは私たちの理解であり感情です。神様の目から見るなら、それは単なる体験ではない。ダビデにとっては、バテシェバ事件は大きな罪を犯してしまった、普通なら隠しておきたい出来事です。でも彼は、その罪を赦していただいた。ですから、ダビデはそのことを隠さずに聖書に書き残させ、悔い改めの詩篇も作った。神様の恵みに触れたとき、辛かった記憶が忘れられない感謝に変えられるのです。それが聖なる記憶です。私たちは過去の経験や今実際に体験していることを、自分の理解や自分の基準だけで考えるなら、良いことなら、嬉しかった、運が良かった、自分の努力のおかげだ、となってしまう。また悪いことなら、いやだった、運が悪かった、誰かの所為でこうなった、と恨みや怒りとなってしまいます。でも、神様の恵みがあるということに目が向かされたとき、どんな体験も神様にあって聖なる記憶となる。しかし、神様が共にいてくださったことを忘れて、自分の体験としてしまうとき、神様のお名前を忘れてしまっているのです。
5節の言葉は、このままでも素晴らしい言葉です。
5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
神様はお怒りにならないのではない。でも私たちをお叱りになるとしても、それは短い間であって、いのち、これは一生と訳されることもある言葉です。私たちの一生は恩寵、神様の恵みの中に置かれているのです。ですから、
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
涙の夜があります。悲しみや苦しみの中で暗い時を過ごすことがあります。でも、やがて朝が来る。神様の救いを体験して、明るい、喜びのときが来る。このような体験をした人は、毎日、今、こうして自分があるのは神様の恵みだと記憶して感謝が尽きないのです。
2.祈りに導かれる(6〜10節)
二つ目のポイントに移ります。6節。
6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない」。
揺るがされないというのは良いことですが、この6節には一つの問題が潜んでいる。それは、「私」という言葉が三回繰り返されていて、自分中心の視点なのです。神様が私を助けていてくださるから、という感謝が消えている。神様への感謝を忘れるようになると、信仰がズレていきます。
7節は、「主よ」と始まり、神様に目が向いているようです。神様の恩寵の故に、私の山、これが何を指すかははっきりしませんが、王様なら私の山は自分の権威ということでしょう。それは神様が立ててくださったものです。7節の後半は、新改訳では「あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが」と、最後に「が」を入れています。他の日本語訳を比べてみますと、例えば聖書協会共同訳ではこんな風に訳しています。8節。
<8主よ、あなたは御旨によって、私を強固な山にしてくださいました。しかし、御顔を隠されると、私は怖じけました。>
神様が私の山を強くしてくだっさったのに、突然に神様の御顔が見えなくなって、慌てふためいた。何故か。もし揺るがされないという思いが神様への信頼によるものであるなら、何があっても神様を信頼すればおじ惑うことは無い。でも、この人は、私はこれで大丈夫、という自信を持っていた。ですから神様が見えなくなって始めて慌ててしまっている。
私たちにも同じような事が無いでしょうか。普段、物事が上手くいっていると、私は揺るがされない、と自信を持っている。でもいざ、大変なことがおきると、まるで神様が私を見放した、神様は酷いお方だ、と神様の所為にする。そして、もう私は神様に見捨てられた、と勝手に絶望する。神様から見たら、何を自分勝手なことを言っているのか、と思われてしまうかもしれません。でも、こ詩人は、何をしたか。8節。
8 主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。
おじ惑う、その恐れの中で、神様に祈るのです。9節には「墓」という言葉があるように死の危険が迫っているのかもしれない。9節後半の「ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか」という言い方は旧約聖書に何度も出てくる表現ですが、死んでしまったら何も出来ない、そのような死によって自分の全てが空しくなってしまうという恐怖の中で祈るのです。私が、私が、と自己中心になって、神様に背を向けていたとしても、それでも「神様」と祈る。10節には「主よ」という呼びかけが二回出てきます。この詩篇30篇は、「主よ」という言葉が何度も繰り返されている。どんな状況でも、良いときでも、悪い時でも、「主よ」と祈る。そのとき、離れているように感じていた神様との関係を、神様が修復してくださる。祈りによって神様との良い関係が回復し始めるのです。神様は私たちを見捨てているのではなく、御顔を隠しているのではなく、神様に背を向けて苦しんでいる私たちを祈りへと導いていてくださるのです。
3.喜びに変えられる(11〜12節)
最後に、11節と12節を見て参りたいと思います。
11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
嘆きを、喜びの踊りに変えてくださる。苦しみや悲しみを表す荒布を喜びの着物に変えてくださる。悲しんでいる人を私たちは慰めます。悲しみが少しでも少なくなるように。でも悲しみを喜びに変えることが出来るのは神様だけです。キリスト教のご葬儀では、悲しみと共に天国の希望があります。天国では悲しみは無くなり、永遠の喜びがあります。12節。
12 私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。
ここで「魂」と訳されている言葉は、実は「栄光」という言葉です。私の栄光が神をほめ歌うというのは分かり難いので、ほとんどの翻訳が「魂」としています。9節の後半に「ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか」とありますが、人間は塵から造られ塵に帰ると聖書は教えています。塵のような人間は神様をほめたたえるには相応しくない。でも、神様は塵から人間を造られたと同時に、「神のかたち」に造られたとも創世記は教えています。神のかたちとは、神様との交わりを持つことが許されている存在であり、神様の僕として神様の栄光を指し示すべき存在として造られた。私たちはキリストの十字架によって罪を赦されて救われただけでなく、今は、キリストが私のうちに生きておられる。ぶどうの木であるイエス様から離れるなら実を結ぶことは出来ませんが、イエス様に結びついて生きるとき、私たちはやがてキリストの似姿へと変えられて行く、とパウロは語っています。そのとき、キリストに表された栄光が私たちにも分け与えられ、神様を賛美する存在となるのです。黙っていることがない、言葉に出さなくても、私たちの生き方が神様を褒め称える働きとなっていくのです。そして12節後半。
私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。
この地上でも、そして天国に行くときにも、神様を賛美し、神様に感謝する。そのような生き方が与えられていることを覚えていただきたい。
まとめ.
ダビデのことを少しお話しして終わりたいと思います。ダビデはある日、人口調査を行った。でもそれは神様の御心では無かったため、神の裁きを受けて、結果として国民が苦しみを受けることになった、とサムエル記の最後に書かれています。ダビデは自分の罪のために民が苦しむのを見て神様に憐れみを請い求めました。そのとき神様が示されたのは、一つの場所を買い取って祭壇を築き、そこで神様に悔い改めの捧げ物を捧げることでした。それによって民は癒やされて救われた。後にその場所に神殿が建てられたとき、このダビデの祈りが思い出されたことでしょう。王の罪、いえ民全体の罪により国は病んでいました。その罪という病から癒やされ救われる。それが神殿の役割だと考えたときに、この詩篇は神殿奉献でも詠われたのではないかと思います。
私たちも、自分の中に罪があり、また様々な理由で苦難がある。でも、ダビデが神様の前に祈ったように、私たちも祈りを捧げるときに、神様が喜びと賛美へと造り変えてくださる。いえ、そうなることができるようにと、神様は私たちを、罪の中、苦しみの中で、祈りへと導いてくださるのです。
タグ:詩篇
posted by ちよざき at 12:00| Comment(1) | 説教