2023年01月22日

1月22日礼拝「神の救いの方法」イザヤ22:20〜25(21〜23章)

1月22日礼拝「神の救いの方法」イザヤ22:20〜25(21〜23章)
旧約聖書の言葉は厳しいと感じる方もおられるでしょう。確かに、罪に対しては厳しい罰が下される。特に預言者たちは国が罪によって傾いて滅びようとしている時代ですから、なおさら真剣に、厳しく、神の裁きについて語っています。しかし、裁きの言葉を預言者たちに語らせている神様の思いを考えるとき、もし神様が本当に滅ぼそうとしておられるなら、予告も無しに滅ぼすことができるお方です。しかし、裁きの言葉をあらかじめ告げることで、罪人が悔い改めて、救われて欲しい。それが神様の目的なのです。今日は、イザヤ書の21章から23章。ここには、13章から始まった、諸外国への裁きの宣告の最後の部分、結論ともいえる部分です。この箇所から、裁きの言葉の背後にある、神様の救いの方法について、ご一緒に考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「誰に対する言葉か」ということを21章から、第二に「何に信頼しているか」ということを22章から、そして最後に「救いの道はどこか」ということを23章からお話ししたいと思います。
1.誰に対する言葉か(21章)
21章の1節を読みたいと思います。
21:1 海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。
これまでは、どこどこの国への宣告、例えば、エジプトへの宣告のように、具体的に国の名前が挙げられてきました。ところが、終盤に差し掛かり、ある意味クライマックスとも言える部分で、国や民族の名前を隠して、「海の荒野」、また次の22章では「幻の谷」に対する宣告となっています。この「海の荒野」とは何を意味しているのでしょうか。疑問を抱えながら読み進めていきます。聖書には難しくて意味が分からないことがあります。その時は、分からなくても読み進めると、後からヒントが出てくる。21章では2節に、この国を亡ぼす存在として、エラムとメディアが挙げられています。これらは、後にバビロン帝国を滅ぼす国々ですから、これはバビロンへの宣告ではないかと予想できます。そして9節の後半。
21:9後半彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた』と。」
倒される国はバビロンだった、と分かるのです。実は、13章でもバビロンの名前が出てきているのですが、13章のバビロンは、どこか一つの国を指しているのではなく、神様に逆らう全ての国の代表としてバビロンを語っていて、この21章のバビロンは、実際にユダ王国を滅ぼし、後にペルシャとメディアに倒されるバビロンのことです。
後で触れますが、22勝の「幻の谷」も、何だろうかと問いを持ちつつ読み進めて行くと、明らかにユダ王国のことだと分かります。しかし、どうして、はっきりと国や民族の名前をあげないで、不思議な言い方をしているのでしょうか。それは、考えて欲しいからです。13章から20章まで、淡々と国々の名前が挙げられて行きますと、そのうち慣れてくる。そして、ああ、今度はあの国か、と、どこか人ごとになってしまうのです。しかし、どこか分からない国、いったい、誰が滅ぼされるのか、と疑問に思い、もしかしたら、今度は自分の番ではないか、と考えるとき、真剣に読まなければならない。ですから、神様は敢えて名前を伏せて宣告をしているのです。
聖書の言葉は、その書物や手紙が書かれた時には、具体的な誰かへの言葉であったとしても、聖書としてそれを読んでいる私たちは、その言葉を神様から私への言葉として受け止めることが大切です。厳しい裁きの宣告ですが、これは私に対して下されるべき宣告だった。この裁きから私たちは救われたんだ、ということをしっかりと受け止めることが大切です。確かに、新旧約聖書は数千年前にイスラエルや初代教会に向けて書かれた言葉ですが、聖霊は今も私たちの心に聖書を通して語っておられる。ですから、聖書を読むとき、それが毎日の聖書通読やディボーションであっても、礼拝や様々な集会であっても、この御言葉は私に対して、神様は何を語ろうとしておられるか、そう問いかけつつ読むとき、時代を超えて神様の恵みが私たちにも注がれるのです。
2.何に信頼しているか(22章)
22章に移ります。22章1節は、先ほども触れましたが、「幻の谷」に対する宣告となっていて、どこの国だろうか、と考える。そして読み進めていくと、9節から、ユダ、ダビデの町、エルサレム、と具体的な地名が挙げられて、これが南王国ユダであることが明らかとなります。さらに読み進めていきますと、15節。
22:15 万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。
国ではなく個人名が挙げられています。ただ、シェブナと言う人は、それほど有名ではありません。さらに読んでいくと、司会者に読んでいただきましたが、20節にはエルヤキムの名前が出てきます。この二人は、イザヤ書のもっと先の方、36章からの部分に登場する人物です。今日は開きませんが、興味のある方は後でお読みください。この二人は、ヒゼキヤ王の時代に王様に仕えた、重臣とも言える人たちです。どれくらい重要な人物かということが22節。
22:22 わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。
これはダビデ王家を開くも閉じるも、この人たちにかかっている。一番偉いのは王様ですが、王様さえも動かすほどに重要な立場であった。そのことを、違う例えで語っているのが、23節からです。
22:23 わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。
22:24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。
22:25 その日、──万軍の主の御告げ──確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。

ここに「くぎ」という言葉が二回繰り返されていますが、この言葉は、「くい」と訳すこともできる言葉です。「くい」と言うのは、テントを建てるときに地面にさして、テントをしっかりと張ることが出来る、重要な役割です。釘は少し小さいですが、23節の釘は、柱などのしっかりとしたところに打ち付けられ、このくぎに様々なものをかけてぶら下げる。それが24節の最後で
22:24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。
家の中、柱のくぎに、器やつぼがかけられている。それと同じように、この二人の人物に、子孫や栄光がかかっている。でも、神様は、やがてこの釘を抜き去る。それが25節です。もし釘が抜かれるなら、そこにかけられていたものは落ちてしまう。もし、これが釘ではなくくいであるなら、テントのくいが抜かれたらテントはぺしゃんこになってしまう
この喩えは何を教えているのでしょうか。それは、どれほど重要な人物であっても、人間に信頼するなら、その人が倒れるときがきたなら、頼っていた人たちは大変なことになってしまう。それでは、何に信頼したら良いのか。答えは明らかです。神様にのみ信頼すべきです。信じるということも行為も信頼によります。信仰による救い、と言うことに関して、近年では、人間の信仰ではない。確かに人間の信仰によって救われるのですが、それは一つの面であって、キリストの真実が土台であって、イエス様が真実であることに信頼するなら、キリストの真実によって救われる。ここでも、どれほど重要な人物であっても、人間は倒れるときがくる。しかし、倒れることはない、語られた言葉は必ずなる、信実な言葉です。このお方を信頼するとき、嵐が来ても、釘がぬけても、恐れることはないのです。
3.救いの道はどこか(23章)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。諸外国への宣告の、一番最後は23章のツロです。ツロはシドンと並んで、地中海沿岸にある貿易都市です。商業で有名な都市国家ですが、決して大国ではない。どうしてツロが最後なのでしょうか。23章の15節。
23:15 その日になると、ツロは、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。
23:16 「立琴を取り、町を巡れ、忘れられた遊女よ。うまくひけ、もっと歌え、思い出してもらうために。」
その日とは主の裁きが下される日です。遊女の歌のようになる、ツロを遊女になぞらえている。それはお金のためならどこの国とも仲良くするという姿が、誰でも相手にする遊女のようだ、という蔑みです。ツロは貿易で儲けて華やかな町でしたが、裁きが下されて滅ぼされたら、誰も覚えていないほどに荒れ果ててしまう。誰からも顧みられない、救いから一番遠い存在。それがツロです。
このツロが七十年間、忘れられる。しかし、七十年が過ぎたら、もう一度ツロが顧みられて、再び商売が盛んになる。それが17節です。
23:17 七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。
さて、この七十年後という数字に意味があります。それは、イザヤ書ではなく、エレミヤ書ですが、いよいよユダ王国が倒れる日、エルサレムが破壊される日が来たとき、神様は、ユダの人々が捕囚から帰ってくる日が来る、それは七十年後だ、とエレミヤを通して預言されるのです。どうしてツロが最後に登場するか。実は、イスラエル自身のことを語っているのです。イスラエルも神様に背き、偶像と姦淫をするなら、価値の無い存在となり、滅ぼされ、忘れ去られる日が来る。しかし、その無価値な存在を、神様は救ってくださるお方です。時が来たなら、滅ぼされた存在を主が顧みてくださる。
私たちも同じです。神様に背を向けて自分勝手に生きているなら、捨て去られるべき存在です。でも、神様は私たちを顧みて、御子イエス様を地上に送って、私たちを背きの罪から救ってくださった。
さて、最後にツロが登場するのは、その七十年後に救われるツロがどのような存在になるか。もう一度17節から。
23:17 七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。
23:18 その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。

どの国からもお金を儲けるという点では、かつてと変わらない遊女に例えられています。しかし、その儲けが主に捧げられる。ここにツロが変えられた姿があります。自分のために生きる生き方から、神様のために生きる姿となっているのです。
私たちは神様の恵みによって救っていただいた。救われた者は、再び自分のために生きるのではなく、私たちのために十字架にかかってくださったキリストのために生きる、キリストに自らを捧げて生きる存在。それが新しくされた者の生き方です。私たちは何のために生きるのでしょうか。もし自分のものは自分のためだ、という生き方を続けるなら、それは無価値な存在となっていく。でも神様のために生きるとき、決して忘れ去られる存在に戻ることはないのです。
まとめ.
今年の標語は「神の国と神の義を第一に求めよ」です。それは自分が一番ではない。神様を一番とする、神の国の国民の生き方です。私の人生は、私が王ではない。主ではない。神様が、イエス様が私の主であり、王であり、一番なのです。このお方にもう一度自分自身を生きた聖なる供え物として捧げましょう。その時、私たちは滅ぼされるべき存在ではなく、忘れ去られることのない者としていただけるのです。
タグ:イザヤ書
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教