2023年01月15日

1月15日礼拝「履き物を脱ぎなさい」イザヤ書20:1〜6

1月15日礼拝「履き物を脱ぎなさい」イザヤ書20:1〜6
今年の御言葉、「神の国とその義をまず第一に求めなさい」ということについては、今年一年を通して、ご一緒に取り組んでまいりたいと思っています。今日は、先週に続いてイザヤ書からの説教ですが、イザヤも、また他の預言者たちも、神様こそが王であるということを語っておりますので、神の国と神の義を求めるメッセージを彼らも語っていたと言えましょう。特に、イザヤ書の13章から23章までは、「諸外国への裁き」と言われていて、神様が全世界の王であることを告げています。世界の国々の運命を語ると言う大きなメッセージを伝えているイザヤに、ある日、神様は不思議な命令をします。それは三年間、裸で過ごしなさい、という命令です。当時の文化でも、裸で生活をすることは普通ではない、異常な姿です。イザヤ書の専門家でもある鍋谷先生という方が書かれた本で、「イザヤ書を味わう」という本があるのですが、その中で「人間の顔が見える読み方」という箇所ですが、イザヤが何歳の時かということを想像しているところがあります。20章の時のイザヤは五十歳くらいではないか、そうすると長男のシュアル・ヤシュブは既に結婚して孫が出来ているかもしれない。その孫が父であるシュアル・ヤシュブに言います。「パパ、おじいちゃんが裸で、はだしで歩いているよ」。何だかユーモラスですが、周囲の人がイザヤを見てどう思ったか、想像できます。どうして神様はこんな命令をされたのか。いいえ、この行動にはどんな意味があり、どんなメッセージがあるのか。そして、私たちに対して神様は何を伝えようとしておられるのか。
今日は「履き物を脱ぎなさい」と題して、いつものように三つのポイントに分けてお話ししたいと思います。第一に「裸になった預言者」、第二に「裁きのしるしは誰に」、そして第三に「頼るべきお方」という順序で進めてまいります。
1.裸になった預言者
三年間、裸で生活したイザヤですが、同じように不思議な命令を受けた預言者がいます。エゼキエルは愛する妻が召されたときに悲しんではいけないと命じられました。ホセアは考えられないような酷い結婚を命じられました。敵国に行くことを命じられたのは預言者ヨナです。預言者は神様から言葉を与って、それを人々に伝えることが仕事ですが、時には言葉を与るのではなく、言葉ではなくて行動で神様のメッセージを伝える、これを行為預言と言います。行為によって預言する、ということです。
神様がイザヤに命じたことを細かく見ますと、2節。
2 そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。
神様の命令は、歩け、腰布を外せ、履き物を脱げ、ということです。特に後の二つは、裸になることと裸足になることです。この行為に何の意味があるのでしょうか。「裸足になる」ということには覚えがあります。池の上教会は入り口で靴を脱いで裸足になり、スリッパに履き替えます。新しい会堂を建設するとき本田弘慈先生が「土足で入る教会にしなさい」と助言してくださったのですが、靴を脱ぐことに拘った。それはモーセやヨシュアが神様から靴を脱げと命じられた。それは、聖なる神様の前に進み出ることであり、神様の僕となる行為です。でも、「裸になれ」とは何でしょうか。
裸というのは恥ずかしい。恥です。聖書の中でも恥を意味するケースがいくつもあります。恥とは名誉を失うことです。それまで偉大な預言者としての地位を得てきたイザヤが、裸で歩き回ることでどんな評判を得たでしょう。でも預言者は自分の名誉の為に生きるのではない。また、日本でも裸一貫という言葉があります。創立者である山根先生は三度、裸一貫となられた。それは全財産を捧げることでした。名誉だけでなく、自分の全部を手放して神様に捧げる。私たちは、教会に来て裸になれとは言われていませんが、自分のからだ、自分の全てを捧げる献身こそ、真の礼拝だとローマ書12章に書かれています。
裸というと、創世記の2章で、最初の人間は裸であったけれど、まだ罪が入る前で、恥ずかしいとは思わなかった。でも、罪を犯してからは恥と感じるようになります。そして聖書の最後、ヨハネの黙示録では、ラオデキヤの教会に対して、神様は「あなたたちは裸だ」と非難しておられる。それは彼らは自分の罪に気がついていない、まるで「裸の王様」です。人間は、自分は正しい、間違っていないと考えたい。だから罪を認めない。でも神様の目には、いくら隠しても、気がついていなくても、人間の罪は丸見えです。だから神様から白い衣を買いなさい。正しい生き方、義なる人をいただくのだと教えています。
ですから、神様は私たちにも命じておられるのです。それは衣服を脱ぐことではなく、神様の前に裸であることを認める。自分を隠そうとしているイチジクの葉を取り除く。そのとき神様が白い衣を着せてくださいます。アダムとエバには枯れてしまう葉っぱではなく、毛皮の服を神様は作ってくださった。裸になるとは、自分の罪、隠しておきたい罪をを認めて悔い改めることです。悔い改めるとき、神様は裸の者を憐れんで救ってくださるからです。
2.裁きのしるしは誰に
二つ目のことをお話しします。3節。
3 そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、
4 アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。

ここで神様がイザヤの行為について解説しておられます。この異常な行動は前兆、すなわち将来のしるしである。しかも、エジプトとクシュに対するしるしだ、と言うのです。クシュとはエチオピアのことです。エジプトは歴史の長い大国ですが、その歴史において何回も王朝が変わりました。時には外国人がエジプトを支配する時期もあった。エチオピアが優勢だったときもある。ですからエジプトとエチオピアはひとまとめで語られますので、代表はエジプトで良いでしょう。
エジプトが強かったときにはイスラエルを初め、今のパレスチナの国々もエジプトの支配下にありました。大きな国に支配されるというのは、貢ぎ物を納め、また命令されたら従わなければならない。国の自治権など無いに等しい。裸の状態です。エジプトは周囲の国々を裸にして、経済的にも政治的にも蹂躙してきた。そのエジプトが、やがてアッシリヤやバビロンに支配される時代が来る。その前兆として、イザヤは裸になった。また、アッシリヤがエジプトを支配し、国民を捕虜として連れていくときには、誰もが裸にされて連れて行かれる。エジプトの敗北を意味します。神様はいつの日にかエジプトの高慢の罪を裁いて、おごり高ぶっていた彼らが辱められる日が来る、と予告しておられるのです。そして、そのアッシリヤもバビロンによって、バビロンはペルシャによって倒される日が来る。
さて、イザヤは未来のエジプトを現すために裸となりましたが、本来、イザヤはイスラエルの人です。預言者はイスラエルの代表として神様の前に立つ者です。ですから、この預言も、エジプトのことを語っているようで、本当はイスラエル自身なのです。エジプトでさえ裸になるときは避けられないのなら、イスラエルも同じです。罪の結果、恥を受ける時が来る。ですからエジプトが敗北するときが来たら、自分自身が悔い改めないなら、次は自分たちが辱めを受けるようになる。
このメッセージは、今の私たちと無関係でしょうか。神様の預言は成就してきました。エジプトが倒れる日が来ます。イスラエルもそうです。そして、私たちもいつか人生の終わりがきます。その時、もし神様の前に悔い改めないままで生きているなら、一生の最後は恥となる。でも悔い改めてキリストを信じる時、イエス様が十字架上で裸になって、神様の罰を受け、人々から辱めを受けてくださった。その十字架によって救っていただいた私たちは、一生が終わったとき、栄光の天国へと進むことが許されているのです。ですから、このイザヤのメッセージを人ごとにしてはいけない。聖書の御言葉は、全て私に対する神様のお言葉として受け止めるのです。
3.頼るべきお方
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。5節。
5 人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。
6 その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」

ここにエジプトやクシュに頼っていた人たちが出てきます。南王国ユダの歴史を見ていきますと、決して一枚板ではなくて、様々な政治的な派閥があった。外交問題に関しては、北王国を配下にしていたアラムに屈服する意見、大国エジプトにすり寄る意見、アッスリアの配下となる意見など、どれもが外国に頼る考え方でした。しかし、イザヤ書で何度も語られているのは、どの国であっても人間に頼るとき、その拠り所となっている国も倒れるときが来る、というメッセージです。
決して人間関係や人間による助けを否定しているのではありません。でも、人間の弱さも忘れてはいけません。何か、あるいは誰かを絶対視するなら、その人が倒れたときに一緒に倒れるのがオチです。そのことを示すため、あの大国エジプトも倒れる日が来るという預言であり、いいえ、そんなことはあり得ない、エジプトは形を変えても決して倒れることはない、と考えている人にショックを与えるために、神様はイザヤに恥ずかしい姿で歩かせ、強烈なメッセージを示されたのです。
人に頼るのではなく、神様にのみ頼る。神様は必要に応じて、時には誰かの手を用いて助けてくださるときもあります。でも、その人への感謝と共に、神様が助けてくださったことを忘れてはいけません。神様に頼るとは、神様の前に謙ることです。高慢な思いがあり、自分の力でどうにかなると考えているから、神様に頼ることが一番最後に回ってしまうのです。苦しいときだけの神頼みとなってしまう。そうではなく、まず最初に神様を信頼して祈る。どうしてか。神様こそが世界の王であり、私の王だからです。その王様が「私を信頼して頼れ。何事でも私に祈れ」と言っておられるからです。
神の国と神の義を求めるとは、最高の水準の命令で、もっともレベルの高いことを求めているのと同時に、最も易しいことです。自分の力でどうにかなると考えているような小さな問題でも、どうすることも出来ずに行き詰まるような大きな問題でも、まず第一に神の国と神の義を求める。神様に信頼することです。
イザヤが預言をした時代は、不信仰な時代で、何を語っても人々は聞こうとしない。だから、神様は過激な言葉や不可思議な行動で人々の耳を惹き付けて語らせているのです。それが、預言者が裸になった意味です。私たちは服を脱ぐのではありませんが、人とは違うことを目指す生き方が、他の人を惹き付けるのです。神の国と神の義を求める生活。それは、この世の名誉や幸福を求めるのではなく、神様の御心に沿った生き方です。その姿を通して、私たちが信頼しているお方をあらわして行きましょう。
まとめ.
イザヤにはイザヤの使命があり、人とは違う人生があったでしょう。でも私たち一人一人も、キリストと出会って変えられた人生、主と共に歩む人生へと召されているのです。その人生は、苦労もありますが、主に信頼する、信仰の歩みです。救ってくださったキリストをかしらとし、このお方の声に聞き従う人生です。今年も、主に従って歩んでまいりましょう。
タグ:イザヤ書
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教