1月29日礼拝「神と共に生きる」イザヤ26:15〜21(24〜27章)
今日は召天者記念礼拝ということで、礼拝堂の両側に写真が並んでいます。また、礼拝の前には前方にも映し出していただきました。年々、写真の数が増えて行きますのと、古い時代の方に直接に会ったことがある方も少なくなっていきます。さらに何十年か経ちましたら、亡くなられた方のことを覚えている人も減っていくことでしょう。でも、教会では昔の人たちのことも大切にしていきます。それは、この方々は天国で再会するからです。
今日は、人生には終わりがあることと、その先にあることを、聖書を通してご一緒に考えてまいります。今、礼拝では旧約聖書のイザヤ書を続けて開いておりますので、今日も26章を読んでいただきました。この個所から、「神と共に生きる」と題してメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントに分けていきます。一つ目に「全てに終わりがある」ということ、第二に「神に祈る時」、そして第三に「神による逆転」という順序で進めてまいります。
1.全てに終わりがある(24〜27章、イザヤの黙示)
さて、今日、初めてイザヤ書を読む人もおりますので、少し、背景のようなことをお話ししたいと思います。旧約聖書の時代、イスラエルは神様に救われました。エジプトで奴隷とされて苦しんでいたのですが、神様がモーセを遣わして、救ってくださり、神様と契約を結んで、神の民としていただき、住む土地を与えていただいた。どれだけ感謝したでしょうか。ところが、彼らは神様を裏切って、自分たちの好き勝手なことをした。神様から与えられた法律である律法を捨てて、神様がお嫌いなさる悪いことを積み重ねていった。このままでは神様に見捨てられても当然です。そこで神様は何度も神のしもべ、預言者たちを遣わして、イスラエルが悔い改めて神様に従うようにと告げてきたのです。その一人が預言者イザヤでした。彼はエルサレムの人々に神様の言葉を伝えます。このままでは国は滅び、エルサレムも破壊される時が来る。でも人々は、自分たちは滅びることはない。それに他の国だって悪いことをしているのに、どうして自分たちだけが滅びなければならないのか。私たちも、自分は正しいとか、ほかの人もしているじゃないか、と言って、言い訳をすることがあります。神様は、他の国々も神の裁きを受けると告げて、だからイスラエルも決して裁きを逃れることはできないと語られた。ここまでが前回までにお話ししたことです。イザヤ書の13章から23章まで、色々な国の名前を挙げながら、それぞれの罪と、その罪に対する神の裁きが下される。そして、今日、お話しします24章から27章には、どの国、あの国、ということを超えて、全世界が神に裁かれるということが描かれています。
24から27章を全部お話しすることはしません。長いだけでなく、髪の裁きによって世界が滅びるという、恐ろしい話ですから、読んでいくと気が重たくなっていきます。でも少しだけ拾い読みをしたいと思います。まず、24章の1節から5節を読みます。前方にも映されますので、そちらをご覧ください。
24:1 見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。
24:2 民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。
24:3 地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。
24:4 地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。
ここには全地が荒廃すること、また人々は散り散りバラバラになり、身分など関係なくなる。4節には世界がしおれる、天もちもしおれる、と天地の滅びについて語られていきます。さらに読んでいきますと、天体までもが光を失うと書かれています。こんな調子ですから、途中は飛ばして、27章の1節。
27:1 その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。
これは当時の人が恐れていた海の怪物のことです。蛇のような竜のような怪物です。本当にいるのかと考えられるかもしれませんが、人間にはどうすることもできない恐ろしい存在でさえも、神様に滅ぼされる。
さて、この個所は、世界の滅亡と、天地万物が滅びること、また人間が恐れる蛇のような存在も滅ぼされる。このようなすさまじい情景は、聖書の他の箇所にも似たような描写が出てきます。その中で有名なのは、聖書の最後にあります、ヨハネの黙示録で、この世の最後に世界が滅びると書かれていて、大きな蛇というのは悪魔のことを指していて、その蛇も倒される。天体も光を失う。とてもよく似ていますので、24章〜27章は「イザヤの黙示」と呼ばれています。
私たちは、世の終わりに神の裁きがあるということが聖書に書かれていることを知っています。でも、それが今すぐに起きるとは思っていない。いや、それが本当だとしてもはるか先の話で、自分には関係ない、と考えるのが普通だと思います。それに世界が滅びるなんて大げさではないか。確かに、ある国が亡びるということは歴史でも教わった。また現代でも、50年前と比べるなら、名前が変わった国もあれば、国境が変わっている地域もある。一つの国が滅亡しても、またほかの国が起こり、国の名前は変わっても、人類は変わらず続いていく。ある意味、その通りです。
でも、世界の歴史ではそうだとしても、私たち自身の生涯ではどうでしょうか。誰かの人生が終わるときがくる。でも、他の所で新しい人が生まれる。でも、親しかった人が戻ってくるのではない。人生はいつか終わる者です。そして、私にも終わりが来る。これは厳粛な真実であり、また、つらく寂しいことです。
2.神に祈る時(26:7〜21)
二つ目のことをお話ししたいと思います。それは神様に祈るということです。26章の8節を読みます。
26:8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。
「あなたのさばき」とは、神様が全てを裁く、その厳しい事実の中で、「主よ」と神様に語り掛けている。これが祈りです。この「主よ」という言葉が、この章に何度か出てきます。私たちはつらい時、苦しい時、神様に祈ることがあります。自分の力ではどうすることもできないときに、神様に助けを求めます。真剣に祈らざるを得ない、そんなときが人生に何度かあるのではないでしょうか。しかし、同時に、「どうせ祈ったって、ダメじゃないか」と諦める思いを持つこともありますが、でも心のどこかで神様に思いを向ける。そんな部分が誰にでもあります。
クリスチャンは、特別な時だけでなく、普段から神様に祈る習慣があります。でも、祈ったらすぐに物事が好転するとは限らないし、祈っても困難はやってきます。それでも、祈り続けなさい、と聖書は教えています。でもいつまで祈るのでしょうか。問題が解決するまででしょうか。いいえ、解決できない問題もあります。でも、祈るときに、いつか、神様が答えてくださるときが来るのです。それは聖書の言葉を通して、あるいは誰かの言葉を通してかもしれません。神様が自分の心に語り掛けてくださる。その語り掛けは、問題の解決では無いとしても、問題に関係する疑問への答えかもない。あるいは、まったく違う方向から、思ってもいなかったことを語ってくださる場合もあります。
旧約聖書にヨブという人物が登場します、このヨブは、あるとき大変な苦難に遭う。周囲の人は、お前が何か神様を怒らせるような悪いことをしたんじゃないのかと心無いことを言います。でもヨブは真剣に神様を信じ、神様が嫌う悪を離れて、正しく生きてきた。でもヨブの心には、神様、なぜ自分はこんな苦しみを受けるのですか、という疑問がありました。ある日、神様がヨブに語り掛けてくださった。でも疑問への答えではありません。しかし、ヨブは神様が自分に語ってくださった。自分を忘れたり無視していたのではない。そう気が付いたとき、彼の心は満足し、平安になったのでした。
親しい人が天に召されて悲しみを感じている人もいるでしょう。自分自身や、愛する人のことで悩んでいるかもしれません。どうぞ神様に祈り続けてください。時が来たら、神様はあなたにも語ってくださるからです。
3.神による逆転(26:19〜20)
預言者イザヤは、遣わされたエルサレムの人々に、将来の滅亡を予告し、でも、本当は滅んで欲しくはない。だから悩みつつ、神様からの言葉を伝えていた。そして、彼は同時に神様に祈った。預言書の中には、そのような祈りもたくさん出てきます。イザヤの祈りにも神様は答えてくださり、ヒントを与えてくださっています、14節。
26:14 死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。
ここには、死んだ人は生き返らない。そして、その人たちの記憶も消えていくときが来る。写真に飾られている人たちのことを、覚えている人もいる。でも、古い人のことを知っている人は減っていく、何百年か経ったら、覚えている人はわずかになるでしょう。何千年経ったら、記憶からは消えていく。これは厳しいですが、真理です。ところが、19節。
26:19 あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。
ついさっき、死んだ人は生き返らない、と言った舌の根が渇かないうちに、死んだ人は生き返ると語る。これは矛盾のように思います。でも、良く読むと、「あなたの死人」、すなわち、ただ死んだというのではなく、主にあって死んだ人です。神様との関わりの中で人生の終わりを迎えた、ということでしょう。写真が飾られている方たちは、池の上教会の信徒だった人、あるいは教会との関わりがあった、教会員との繋がりがあった、あるいは、イエス・キリストを信じていた。一人一人、その関わり方は違います。親しかった人以外は、知らないかもしれません。でも、神様はその人のことを知っていてくださった。そのような人は、いつか蘇って、喜び賛美するときがくる、と告げているのです。
人間は有限な存在です。長く生きても120年と言われる。いつかは自分も終わりが来る。でも、神様は永遠の存在です。ですから、神様のものとされるなら、神様は決してその人を忘れるようなことはない。その人の見も心も全て知っておられ、終わりの時に、もう一度生きた存在としてくださることが、神様にはできるのです。そのことを信じている私たちにとっては、死は終わりではない。世界は滅亡して消えてしまうのではなく、死を通った人は、天国、永遠の神様の国へと入れていただける。このことを私たちは心に覚えていきましょう。
まとめ.
私は、牧師になる前は高校の教師でした。あるとき、新入生のクラスの担任になることになった。でも私は昔から覚えるのが苦手で、特に人間の顔と名前を一致させるのに苦労していました。でも担任する生徒を知らないでは困る。そこで、入学願書に貼ってある写真をクラスの人数分、写真の顔と名前を毎日見て、必死で覚えたのを思い出します。会堂の左右にある写真の中には、私が池の上教会に赴任するより前に召された方もおられますから、直接はあったことがない。昔の人は忘れていくかもしれない。でも、この方たちは昔の人ではありません。未来に、天国で再会する方たちです。ですから、毎年、召天者記念礼拝をするのは、この写真を見て、会ったときに、「ああ、あなたでしたか」と挨拶できるように、毎年確認をしているのです。神様を信じて、教会とつながっていくなら、神様は必ず天国でひきあわせてくださる。この希望をしっかりと握りしめていきましょう。
2023年01月29日
1月29日礼拝「神と共に生きる」イザヤ26:15〜21(24〜27章)
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| 説教
2023年01月22日
1月22日礼拝「神の救いの方法」イザヤ22:20〜25(21〜23章)
1月22日礼拝「神の救いの方法」イザヤ22:20〜25(21〜23章)
旧約聖書の言葉は厳しいと感じる方もおられるでしょう。確かに、罪に対しては厳しい罰が下される。特に預言者たちは国が罪によって傾いて滅びようとしている時代ですから、なおさら真剣に、厳しく、神の裁きについて語っています。しかし、裁きの言葉を預言者たちに語らせている神様の思いを考えるとき、もし神様が本当に滅ぼそうとしておられるなら、予告も無しに滅ぼすことができるお方です。しかし、裁きの言葉をあらかじめ告げることで、罪人が悔い改めて、救われて欲しい。それが神様の目的なのです。今日は、イザヤ書の21章から23章。ここには、13章から始まった、諸外国への裁きの宣告の最後の部分、結論ともいえる部分です。この箇所から、裁きの言葉の背後にある、神様の救いの方法について、ご一緒に考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「誰に対する言葉か」ということを21章から、第二に「何に信頼しているか」ということを22章から、そして最後に「救いの道はどこか」ということを23章からお話ししたいと思います。
1.誰に対する言葉か(21章)
21章の1節を読みたいと思います。
21:1 海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。
これまでは、どこどこの国への宣告、例えば、エジプトへの宣告のように、具体的に国の名前が挙げられてきました。ところが、終盤に差し掛かり、ある意味クライマックスとも言える部分で、国や民族の名前を隠して、「海の荒野」、また次の22章では「幻の谷」に対する宣告となっています。この「海の荒野」とは何を意味しているのでしょうか。疑問を抱えながら読み進めていきます。聖書には難しくて意味が分からないことがあります。その時は、分からなくても読み進めると、後からヒントが出てくる。21章では2節に、この国を亡ぼす存在として、エラムとメディアが挙げられています。これらは、後にバビロン帝国を滅ぼす国々ですから、これはバビロンへの宣告ではないかと予想できます。そして9節の後半。
21:9後半彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた』と。」
倒される国はバビロンだった、と分かるのです。実は、13章でもバビロンの名前が出てきているのですが、13章のバビロンは、どこか一つの国を指しているのではなく、神様に逆らう全ての国の代表としてバビロンを語っていて、この21章のバビロンは、実際にユダ王国を滅ぼし、後にペルシャとメディアに倒されるバビロンのことです。
後で触れますが、22勝の「幻の谷」も、何だろうかと問いを持ちつつ読み進めて行くと、明らかにユダ王国のことだと分かります。しかし、どうして、はっきりと国や民族の名前をあげないで、不思議な言い方をしているのでしょうか。それは、考えて欲しいからです。13章から20章まで、淡々と国々の名前が挙げられて行きますと、そのうち慣れてくる。そして、ああ、今度はあの国か、と、どこか人ごとになってしまうのです。しかし、どこか分からない国、いったい、誰が滅ぼされるのか、と疑問に思い、もしかしたら、今度は自分の番ではないか、と考えるとき、真剣に読まなければならない。ですから、神様は敢えて名前を伏せて宣告をしているのです。
聖書の言葉は、その書物や手紙が書かれた時には、具体的な誰かへの言葉であったとしても、聖書としてそれを読んでいる私たちは、その言葉を神様から私への言葉として受け止めることが大切です。厳しい裁きの宣告ですが、これは私に対して下されるべき宣告だった。この裁きから私たちは救われたんだ、ということをしっかりと受け止めることが大切です。確かに、新旧約聖書は数千年前にイスラエルや初代教会に向けて書かれた言葉ですが、聖霊は今も私たちの心に聖書を通して語っておられる。ですから、聖書を読むとき、それが毎日の聖書通読やディボーションであっても、礼拝や様々な集会であっても、この御言葉は私に対して、神様は何を語ろうとしておられるか、そう問いかけつつ読むとき、時代を超えて神様の恵みが私たちにも注がれるのです。
2.何に信頼しているか(22章)
22章に移ります。22章1節は、先ほども触れましたが、「幻の谷」に対する宣告となっていて、どこの国だろうか、と考える。そして読み進めていくと、9節から、ユダ、ダビデの町、エルサレム、と具体的な地名が挙げられて、これが南王国ユダであることが明らかとなります。さらに読み進めていきますと、15節。
22:15 万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。
国ではなく個人名が挙げられています。ただ、シェブナと言う人は、それほど有名ではありません。さらに読んでいくと、司会者に読んでいただきましたが、20節にはエルヤキムの名前が出てきます。この二人は、イザヤ書のもっと先の方、36章からの部分に登場する人物です。今日は開きませんが、興味のある方は後でお読みください。この二人は、ヒゼキヤ王の時代に王様に仕えた、重臣とも言える人たちです。どれくらい重要な人物かということが22節。
22:22 わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。
これはダビデ王家を開くも閉じるも、この人たちにかかっている。一番偉いのは王様ですが、王様さえも動かすほどに重要な立場であった。そのことを、違う例えで語っているのが、23節からです。
22:23 わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。
22:24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。
22:25 その日、──万軍の主の御告げ──確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。
ここに「くぎ」という言葉が二回繰り返されていますが、この言葉は、「くい」と訳すこともできる言葉です。「くい」と言うのは、テントを建てるときに地面にさして、テントをしっかりと張ることが出来る、重要な役割です。釘は少し小さいですが、23節の釘は、柱などのしっかりとしたところに打ち付けられ、このくぎに様々なものをかけてぶら下げる。それが24節の最後で
22:24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。
家の中、柱のくぎに、器やつぼがかけられている。それと同じように、この二人の人物に、子孫や栄光がかかっている。でも、神様は、やがてこの釘を抜き去る。それが25節です。もし釘が抜かれるなら、そこにかけられていたものは落ちてしまう。もし、これが釘ではなくくいであるなら、テントのくいが抜かれたらテントはぺしゃんこになってしまう
この喩えは何を教えているのでしょうか。それは、どれほど重要な人物であっても、人間に信頼するなら、その人が倒れるときがきたなら、頼っていた人たちは大変なことになってしまう。それでは、何に信頼したら良いのか。答えは明らかです。神様にのみ信頼すべきです。信じるということも行為も信頼によります。信仰による救い、と言うことに関して、近年では、人間の信仰ではない。確かに人間の信仰によって救われるのですが、それは一つの面であって、キリストの真実が土台であって、イエス様が真実であることに信頼するなら、キリストの真実によって救われる。ここでも、どれほど重要な人物であっても、人間は倒れるときがくる。しかし、倒れることはない、語られた言葉は必ずなる、信実な言葉です。このお方を信頼するとき、嵐が来ても、釘がぬけても、恐れることはないのです。
3.救いの道はどこか(23章)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。諸外国への宣告の、一番最後は23章のツロです。ツロはシドンと並んで、地中海沿岸にある貿易都市です。商業で有名な都市国家ですが、決して大国ではない。どうしてツロが最後なのでしょうか。23章の15節。
23:15 その日になると、ツロは、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。
23:16 「立琴を取り、町を巡れ、忘れられた遊女よ。うまくひけ、もっと歌え、思い出してもらうために。」
その日とは主の裁きが下される日です。遊女の歌のようになる、ツロを遊女になぞらえている。それはお金のためならどこの国とも仲良くするという姿が、誰でも相手にする遊女のようだ、という蔑みです。ツロは貿易で儲けて華やかな町でしたが、裁きが下されて滅ぼされたら、誰も覚えていないほどに荒れ果ててしまう。誰からも顧みられない、救いから一番遠い存在。それがツロです。
このツロが七十年間、忘れられる。しかし、七十年が過ぎたら、もう一度ツロが顧みられて、再び商売が盛んになる。それが17節です。
23:17 七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。
さて、この七十年後という数字に意味があります。それは、イザヤ書ではなく、エレミヤ書ですが、いよいよユダ王国が倒れる日、エルサレムが破壊される日が来たとき、神様は、ユダの人々が捕囚から帰ってくる日が来る、それは七十年後だ、とエレミヤを通して預言されるのです。どうしてツロが最後に登場するか。実は、イスラエル自身のことを語っているのです。イスラエルも神様に背き、偶像と姦淫をするなら、価値の無い存在となり、滅ぼされ、忘れ去られる日が来る。しかし、その無価値な存在を、神様は救ってくださるお方です。時が来たなら、滅ぼされた存在を主が顧みてくださる。
私たちも同じです。神様に背を向けて自分勝手に生きているなら、捨て去られるべき存在です。でも、神様は私たちを顧みて、御子イエス様を地上に送って、私たちを背きの罪から救ってくださった。
さて、最後にツロが登場するのは、その七十年後に救われるツロがどのような存在になるか。もう一度17節から。
23:17 七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。
23:18 その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。
どの国からもお金を儲けるという点では、かつてと変わらない遊女に例えられています。しかし、その儲けが主に捧げられる。ここにツロが変えられた姿があります。自分のために生きる生き方から、神様のために生きる姿となっているのです。
私たちは神様の恵みによって救っていただいた。救われた者は、再び自分のために生きるのではなく、私たちのために十字架にかかってくださったキリストのために生きる、キリストに自らを捧げて生きる存在。それが新しくされた者の生き方です。私たちは何のために生きるのでしょうか。もし自分のものは自分のためだ、という生き方を続けるなら、それは無価値な存在となっていく。でも神様のために生きるとき、決して忘れ去られる存在に戻ることはないのです。
まとめ.
今年の標語は「神の国と神の義を第一に求めよ」です。それは自分が一番ではない。神様を一番とする、神の国の国民の生き方です。私の人生は、私が王ではない。主ではない。神様が、イエス様が私の主であり、王であり、一番なのです。このお方にもう一度自分自身を生きた聖なる供え物として捧げましょう。その時、私たちは滅ぼされるべき存在ではなく、忘れ去られることのない者としていただけるのです。
旧約聖書の言葉は厳しいと感じる方もおられるでしょう。確かに、罪に対しては厳しい罰が下される。特に預言者たちは国が罪によって傾いて滅びようとしている時代ですから、なおさら真剣に、厳しく、神の裁きについて語っています。しかし、裁きの言葉を預言者たちに語らせている神様の思いを考えるとき、もし神様が本当に滅ぼそうとしておられるなら、予告も無しに滅ぼすことができるお方です。しかし、裁きの言葉をあらかじめ告げることで、罪人が悔い改めて、救われて欲しい。それが神様の目的なのです。今日は、イザヤ書の21章から23章。ここには、13章から始まった、諸外国への裁きの宣告の最後の部分、結論ともいえる部分です。この箇所から、裁きの言葉の背後にある、神様の救いの方法について、ご一緒に考えてまいりたいと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「誰に対する言葉か」ということを21章から、第二に「何に信頼しているか」ということを22章から、そして最後に「救いの道はどこか」ということを23章からお話ししたいと思います。
1.誰に対する言葉か(21章)
21章の1節を読みたいと思います。
21:1 海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。
これまでは、どこどこの国への宣告、例えば、エジプトへの宣告のように、具体的に国の名前が挙げられてきました。ところが、終盤に差し掛かり、ある意味クライマックスとも言える部分で、国や民族の名前を隠して、「海の荒野」、また次の22章では「幻の谷」に対する宣告となっています。この「海の荒野」とは何を意味しているのでしょうか。疑問を抱えながら読み進めていきます。聖書には難しくて意味が分からないことがあります。その時は、分からなくても読み進めると、後からヒントが出てくる。21章では2節に、この国を亡ぼす存在として、エラムとメディアが挙げられています。これらは、後にバビロン帝国を滅ぼす国々ですから、これはバビロンへの宣告ではないかと予想できます。そして9節の後半。
21:9後半彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた』と。」
倒される国はバビロンだった、と分かるのです。実は、13章でもバビロンの名前が出てきているのですが、13章のバビロンは、どこか一つの国を指しているのではなく、神様に逆らう全ての国の代表としてバビロンを語っていて、この21章のバビロンは、実際にユダ王国を滅ぼし、後にペルシャとメディアに倒されるバビロンのことです。
後で触れますが、22勝の「幻の谷」も、何だろうかと問いを持ちつつ読み進めて行くと、明らかにユダ王国のことだと分かります。しかし、どうして、はっきりと国や民族の名前をあげないで、不思議な言い方をしているのでしょうか。それは、考えて欲しいからです。13章から20章まで、淡々と国々の名前が挙げられて行きますと、そのうち慣れてくる。そして、ああ、今度はあの国か、と、どこか人ごとになってしまうのです。しかし、どこか分からない国、いったい、誰が滅ぼされるのか、と疑問に思い、もしかしたら、今度は自分の番ではないか、と考えるとき、真剣に読まなければならない。ですから、神様は敢えて名前を伏せて宣告をしているのです。
聖書の言葉は、その書物や手紙が書かれた時には、具体的な誰かへの言葉であったとしても、聖書としてそれを読んでいる私たちは、その言葉を神様から私への言葉として受け止めることが大切です。厳しい裁きの宣告ですが、これは私に対して下されるべき宣告だった。この裁きから私たちは救われたんだ、ということをしっかりと受け止めることが大切です。確かに、新旧約聖書は数千年前にイスラエルや初代教会に向けて書かれた言葉ですが、聖霊は今も私たちの心に聖書を通して語っておられる。ですから、聖書を読むとき、それが毎日の聖書通読やディボーションであっても、礼拝や様々な集会であっても、この御言葉は私に対して、神様は何を語ろうとしておられるか、そう問いかけつつ読むとき、時代を超えて神様の恵みが私たちにも注がれるのです。
2.何に信頼しているか(22章)
22章に移ります。22章1節は、先ほども触れましたが、「幻の谷」に対する宣告となっていて、どこの国だろうか、と考える。そして読み進めていくと、9節から、ユダ、ダビデの町、エルサレム、と具体的な地名が挙げられて、これが南王国ユダであることが明らかとなります。さらに読み進めていきますと、15節。
22:15 万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。
国ではなく個人名が挙げられています。ただ、シェブナと言う人は、それほど有名ではありません。さらに読んでいくと、司会者に読んでいただきましたが、20節にはエルヤキムの名前が出てきます。この二人は、イザヤ書のもっと先の方、36章からの部分に登場する人物です。今日は開きませんが、興味のある方は後でお読みください。この二人は、ヒゼキヤ王の時代に王様に仕えた、重臣とも言える人たちです。どれくらい重要な人物かということが22節。
22:22 わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。
これはダビデ王家を開くも閉じるも、この人たちにかかっている。一番偉いのは王様ですが、王様さえも動かすほどに重要な立場であった。そのことを、違う例えで語っているのが、23節からです。
22:23 わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。
22:24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。
22:25 その日、──万軍の主の御告げ──確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。
ここに「くぎ」という言葉が二回繰り返されていますが、この言葉は、「くい」と訳すこともできる言葉です。「くい」と言うのは、テントを建てるときに地面にさして、テントをしっかりと張ることが出来る、重要な役割です。釘は少し小さいですが、23節の釘は、柱などのしっかりとしたところに打ち付けられ、このくぎに様々なものをかけてぶら下げる。それが24節の最後で
22:24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。
家の中、柱のくぎに、器やつぼがかけられている。それと同じように、この二人の人物に、子孫や栄光がかかっている。でも、神様は、やがてこの釘を抜き去る。それが25節です。もし釘が抜かれるなら、そこにかけられていたものは落ちてしまう。もし、これが釘ではなくくいであるなら、テントのくいが抜かれたらテントはぺしゃんこになってしまう
この喩えは何を教えているのでしょうか。それは、どれほど重要な人物であっても、人間に信頼するなら、その人が倒れるときがきたなら、頼っていた人たちは大変なことになってしまう。それでは、何に信頼したら良いのか。答えは明らかです。神様にのみ信頼すべきです。信じるということも行為も信頼によります。信仰による救い、と言うことに関して、近年では、人間の信仰ではない。確かに人間の信仰によって救われるのですが、それは一つの面であって、キリストの真実が土台であって、イエス様が真実であることに信頼するなら、キリストの真実によって救われる。ここでも、どれほど重要な人物であっても、人間は倒れるときがくる。しかし、倒れることはない、語られた言葉は必ずなる、信実な言葉です。このお方を信頼するとき、嵐が来ても、釘がぬけても、恐れることはないのです。
3.救いの道はどこか(23章)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。諸外国への宣告の、一番最後は23章のツロです。ツロはシドンと並んで、地中海沿岸にある貿易都市です。商業で有名な都市国家ですが、決して大国ではない。どうしてツロが最後なのでしょうか。23章の15節。
23:15 その日になると、ツロは、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。
23:16 「立琴を取り、町を巡れ、忘れられた遊女よ。うまくひけ、もっと歌え、思い出してもらうために。」
その日とは主の裁きが下される日です。遊女の歌のようになる、ツロを遊女になぞらえている。それはお金のためならどこの国とも仲良くするという姿が、誰でも相手にする遊女のようだ、という蔑みです。ツロは貿易で儲けて華やかな町でしたが、裁きが下されて滅ぼされたら、誰も覚えていないほどに荒れ果ててしまう。誰からも顧みられない、救いから一番遠い存在。それがツロです。
このツロが七十年間、忘れられる。しかし、七十年が過ぎたら、もう一度ツロが顧みられて、再び商売が盛んになる。それが17節です。
23:17 七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。
さて、この七十年後という数字に意味があります。それは、イザヤ書ではなく、エレミヤ書ですが、いよいよユダ王国が倒れる日、エルサレムが破壊される日が来たとき、神様は、ユダの人々が捕囚から帰ってくる日が来る、それは七十年後だ、とエレミヤを通して預言されるのです。どうしてツロが最後に登場するか。実は、イスラエル自身のことを語っているのです。イスラエルも神様に背き、偶像と姦淫をするなら、価値の無い存在となり、滅ぼされ、忘れ去られる日が来る。しかし、その無価値な存在を、神様は救ってくださるお方です。時が来たなら、滅ぼされた存在を主が顧みてくださる。
私たちも同じです。神様に背を向けて自分勝手に生きているなら、捨て去られるべき存在です。でも、神様は私たちを顧みて、御子イエス様を地上に送って、私たちを背きの罪から救ってくださった。
さて、最後にツロが登場するのは、その七十年後に救われるツロがどのような存在になるか。もう一度17節から。
23:17 七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。
23:18 その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。
どの国からもお金を儲けるという点では、かつてと変わらない遊女に例えられています。しかし、その儲けが主に捧げられる。ここにツロが変えられた姿があります。自分のために生きる生き方から、神様のために生きる姿となっているのです。
私たちは神様の恵みによって救っていただいた。救われた者は、再び自分のために生きるのではなく、私たちのために十字架にかかってくださったキリストのために生きる、キリストに自らを捧げて生きる存在。それが新しくされた者の生き方です。私たちは何のために生きるのでしょうか。もし自分のものは自分のためだ、という生き方を続けるなら、それは無価値な存在となっていく。でも神様のために生きるとき、決して忘れ去られる存在に戻ることはないのです。
まとめ.
今年の標語は「神の国と神の義を第一に求めよ」です。それは自分が一番ではない。神様を一番とする、神の国の国民の生き方です。私の人生は、私が王ではない。主ではない。神様が、イエス様が私の主であり、王であり、一番なのです。このお方にもう一度自分自身を生きた聖なる供え物として捧げましょう。その時、私たちは滅ぼされるべき存在ではなく、忘れ去られることのない者としていただけるのです。
タグ:イザヤ書
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| 説教
2023年01月15日
1月15日礼拝「履き物を脱ぎなさい」イザヤ書20:1〜6
1月15日礼拝「履き物を脱ぎなさい」イザヤ書20:1〜6
今年の御言葉、「神の国とその義をまず第一に求めなさい」ということについては、今年一年を通して、ご一緒に取り組んでまいりたいと思っています。今日は、先週に続いてイザヤ書からの説教ですが、イザヤも、また他の預言者たちも、神様こそが王であるということを語っておりますので、神の国と神の義を求めるメッセージを彼らも語っていたと言えましょう。特に、イザヤ書の13章から23章までは、「諸外国への裁き」と言われていて、神様が全世界の王であることを告げています。世界の国々の運命を語ると言う大きなメッセージを伝えているイザヤに、ある日、神様は不思議な命令をします。それは三年間、裸で過ごしなさい、という命令です。当時の文化でも、裸で生活をすることは普通ではない、異常な姿です。イザヤ書の専門家でもある鍋谷先生という方が書かれた本で、「イザヤ書を味わう」という本があるのですが、その中で「人間の顔が見える読み方」という箇所ですが、イザヤが何歳の時かということを想像しているところがあります。20章の時のイザヤは五十歳くらいではないか、そうすると長男のシュアル・ヤシュブは既に結婚して孫が出来ているかもしれない。その孫が父であるシュアル・ヤシュブに言います。「パパ、おじいちゃんが裸で、はだしで歩いているよ」。何だかユーモラスですが、周囲の人がイザヤを見てどう思ったか、想像できます。どうして神様はこんな命令をされたのか。いいえ、この行動にはどんな意味があり、どんなメッセージがあるのか。そして、私たちに対して神様は何を伝えようとしておられるのか。
今日は「履き物を脱ぎなさい」と題して、いつものように三つのポイントに分けてお話ししたいと思います。第一に「裸になった預言者」、第二に「裁きのしるしは誰に」、そして第三に「頼るべきお方」という順序で進めてまいります。
1.裸になった預言者
三年間、裸で生活したイザヤですが、同じように不思議な命令を受けた預言者がいます。エゼキエルは愛する妻が召されたときに悲しんではいけないと命じられました。ホセアは考えられないような酷い結婚を命じられました。敵国に行くことを命じられたのは預言者ヨナです。預言者は神様から言葉を与って、それを人々に伝えることが仕事ですが、時には言葉を与るのではなく、言葉ではなくて行動で神様のメッセージを伝える、これを行為預言と言います。行為によって預言する、ということです。
神様がイザヤに命じたことを細かく見ますと、2節。
2 そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。
神様の命令は、歩け、腰布を外せ、履き物を脱げ、ということです。特に後の二つは、裸になることと裸足になることです。この行為に何の意味があるのでしょうか。「裸足になる」ということには覚えがあります。池の上教会は入り口で靴を脱いで裸足になり、スリッパに履き替えます。新しい会堂を建設するとき本田弘慈先生が「土足で入る教会にしなさい」と助言してくださったのですが、靴を脱ぐことに拘った。それはモーセやヨシュアが神様から靴を脱げと命じられた。それは、聖なる神様の前に進み出ることであり、神様の僕となる行為です。でも、「裸になれ」とは何でしょうか。
裸というのは恥ずかしい。恥です。聖書の中でも恥を意味するケースがいくつもあります。恥とは名誉を失うことです。それまで偉大な預言者としての地位を得てきたイザヤが、裸で歩き回ることでどんな評判を得たでしょう。でも預言者は自分の名誉の為に生きるのではない。また、日本でも裸一貫という言葉があります。創立者である山根先生は三度、裸一貫となられた。それは全財産を捧げることでした。名誉だけでなく、自分の全部を手放して神様に捧げる。私たちは、教会に来て裸になれとは言われていませんが、自分のからだ、自分の全てを捧げる献身こそ、真の礼拝だとローマ書12章に書かれています。
裸というと、創世記の2章で、最初の人間は裸であったけれど、まだ罪が入る前で、恥ずかしいとは思わなかった。でも、罪を犯してからは恥と感じるようになります。そして聖書の最後、ヨハネの黙示録では、ラオデキヤの教会に対して、神様は「あなたたちは裸だ」と非難しておられる。それは彼らは自分の罪に気がついていない、まるで「裸の王様」です。人間は、自分は正しい、間違っていないと考えたい。だから罪を認めない。でも神様の目には、いくら隠しても、気がついていなくても、人間の罪は丸見えです。だから神様から白い衣を買いなさい。正しい生き方、義なる人をいただくのだと教えています。
ですから、神様は私たちにも命じておられるのです。それは衣服を脱ぐことではなく、神様の前に裸であることを認める。自分を隠そうとしているイチジクの葉を取り除く。そのとき神様が白い衣を着せてくださいます。アダムとエバには枯れてしまう葉っぱではなく、毛皮の服を神様は作ってくださった。裸になるとは、自分の罪、隠しておきたい罪をを認めて悔い改めることです。悔い改めるとき、神様は裸の者を憐れんで救ってくださるからです。
2.裁きのしるしは誰に
二つ目のことをお話しします。3節。
3 そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、
4 アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。
ここで神様がイザヤの行為について解説しておられます。この異常な行動は前兆、すなわち将来のしるしである。しかも、エジプトとクシュに対するしるしだ、と言うのです。クシュとはエチオピアのことです。エジプトは歴史の長い大国ですが、その歴史において何回も王朝が変わりました。時には外国人がエジプトを支配する時期もあった。エチオピアが優勢だったときもある。ですからエジプトとエチオピアはひとまとめで語られますので、代表はエジプトで良いでしょう。
エジプトが強かったときにはイスラエルを初め、今のパレスチナの国々もエジプトの支配下にありました。大きな国に支配されるというのは、貢ぎ物を納め、また命令されたら従わなければならない。国の自治権など無いに等しい。裸の状態です。エジプトは周囲の国々を裸にして、経済的にも政治的にも蹂躙してきた。そのエジプトが、やがてアッシリヤやバビロンに支配される時代が来る。その前兆として、イザヤは裸になった。また、アッシリヤがエジプトを支配し、国民を捕虜として連れていくときには、誰もが裸にされて連れて行かれる。エジプトの敗北を意味します。神様はいつの日にかエジプトの高慢の罪を裁いて、おごり高ぶっていた彼らが辱められる日が来る、と予告しておられるのです。そして、そのアッシリヤもバビロンによって、バビロンはペルシャによって倒される日が来る。
さて、イザヤは未来のエジプトを現すために裸となりましたが、本来、イザヤはイスラエルの人です。預言者はイスラエルの代表として神様の前に立つ者です。ですから、この預言も、エジプトのことを語っているようで、本当はイスラエル自身なのです。エジプトでさえ裸になるときは避けられないのなら、イスラエルも同じです。罪の結果、恥を受ける時が来る。ですからエジプトが敗北するときが来たら、自分自身が悔い改めないなら、次は自分たちが辱めを受けるようになる。
このメッセージは、今の私たちと無関係でしょうか。神様の預言は成就してきました。エジプトが倒れる日が来ます。イスラエルもそうです。そして、私たちもいつか人生の終わりがきます。その時、もし神様の前に悔い改めないままで生きているなら、一生の最後は恥となる。でも悔い改めてキリストを信じる時、イエス様が十字架上で裸になって、神様の罰を受け、人々から辱めを受けてくださった。その十字架によって救っていただいた私たちは、一生が終わったとき、栄光の天国へと進むことが許されているのです。ですから、このイザヤのメッセージを人ごとにしてはいけない。聖書の御言葉は、全て私に対する神様のお言葉として受け止めるのです。
3.頼るべきお方
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。5節。
5 人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。
6 その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」
ここにエジプトやクシュに頼っていた人たちが出てきます。南王国ユダの歴史を見ていきますと、決して一枚板ではなくて、様々な政治的な派閥があった。外交問題に関しては、北王国を配下にしていたアラムに屈服する意見、大国エジプトにすり寄る意見、アッスリアの配下となる意見など、どれもが外国に頼る考え方でした。しかし、イザヤ書で何度も語られているのは、どの国であっても人間に頼るとき、その拠り所となっている国も倒れるときが来る、というメッセージです。
決して人間関係や人間による助けを否定しているのではありません。でも、人間の弱さも忘れてはいけません。何か、あるいは誰かを絶対視するなら、その人が倒れたときに一緒に倒れるのがオチです。そのことを示すため、あの大国エジプトも倒れる日が来るという預言であり、いいえ、そんなことはあり得ない、エジプトは形を変えても決して倒れることはない、と考えている人にショックを与えるために、神様はイザヤに恥ずかしい姿で歩かせ、強烈なメッセージを示されたのです。
人に頼るのではなく、神様にのみ頼る。神様は必要に応じて、時には誰かの手を用いて助けてくださるときもあります。でも、その人への感謝と共に、神様が助けてくださったことを忘れてはいけません。神様に頼るとは、神様の前に謙ることです。高慢な思いがあり、自分の力でどうにかなると考えているから、神様に頼ることが一番最後に回ってしまうのです。苦しいときだけの神頼みとなってしまう。そうではなく、まず最初に神様を信頼して祈る。どうしてか。神様こそが世界の王であり、私の王だからです。その王様が「私を信頼して頼れ。何事でも私に祈れ」と言っておられるからです。
神の国と神の義を求めるとは、最高の水準の命令で、もっともレベルの高いことを求めているのと同時に、最も易しいことです。自分の力でどうにかなると考えているような小さな問題でも、どうすることも出来ずに行き詰まるような大きな問題でも、まず第一に神の国と神の義を求める。神様に信頼することです。
イザヤが預言をした時代は、不信仰な時代で、何を語っても人々は聞こうとしない。だから、神様は過激な言葉や不可思議な行動で人々の耳を惹き付けて語らせているのです。それが、預言者が裸になった意味です。私たちは服を脱ぐのではありませんが、人とは違うことを目指す生き方が、他の人を惹き付けるのです。神の国と神の義を求める生活。それは、この世の名誉や幸福を求めるのではなく、神様の御心に沿った生き方です。その姿を通して、私たちが信頼しているお方をあらわして行きましょう。
まとめ.
イザヤにはイザヤの使命があり、人とは違う人生があったでしょう。でも私たち一人一人も、キリストと出会って変えられた人生、主と共に歩む人生へと召されているのです。その人生は、苦労もありますが、主に信頼する、信仰の歩みです。救ってくださったキリストをかしらとし、このお方の声に聞き従う人生です。今年も、主に従って歩んでまいりましょう。
今年の御言葉、「神の国とその義をまず第一に求めなさい」ということについては、今年一年を通して、ご一緒に取り組んでまいりたいと思っています。今日は、先週に続いてイザヤ書からの説教ですが、イザヤも、また他の預言者たちも、神様こそが王であるということを語っておりますので、神の国と神の義を求めるメッセージを彼らも語っていたと言えましょう。特に、イザヤ書の13章から23章までは、「諸外国への裁き」と言われていて、神様が全世界の王であることを告げています。世界の国々の運命を語ると言う大きなメッセージを伝えているイザヤに、ある日、神様は不思議な命令をします。それは三年間、裸で過ごしなさい、という命令です。当時の文化でも、裸で生活をすることは普通ではない、異常な姿です。イザヤ書の専門家でもある鍋谷先生という方が書かれた本で、「イザヤ書を味わう」という本があるのですが、その中で「人間の顔が見える読み方」という箇所ですが、イザヤが何歳の時かということを想像しているところがあります。20章の時のイザヤは五十歳くらいではないか、そうすると長男のシュアル・ヤシュブは既に結婚して孫が出来ているかもしれない。その孫が父であるシュアル・ヤシュブに言います。「パパ、おじいちゃんが裸で、はだしで歩いているよ」。何だかユーモラスですが、周囲の人がイザヤを見てどう思ったか、想像できます。どうして神様はこんな命令をされたのか。いいえ、この行動にはどんな意味があり、どんなメッセージがあるのか。そして、私たちに対して神様は何を伝えようとしておられるのか。
今日は「履き物を脱ぎなさい」と題して、いつものように三つのポイントに分けてお話ししたいと思います。第一に「裸になった預言者」、第二に「裁きのしるしは誰に」、そして第三に「頼るべきお方」という順序で進めてまいります。
1.裸になった預言者
三年間、裸で生活したイザヤですが、同じように不思議な命令を受けた預言者がいます。エゼキエルは愛する妻が召されたときに悲しんではいけないと命じられました。ホセアは考えられないような酷い結婚を命じられました。敵国に行くことを命じられたのは預言者ヨナです。預言者は神様から言葉を与って、それを人々に伝えることが仕事ですが、時には言葉を与るのではなく、言葉ではなくて行動で神様のメッセージを伝える、これを行為預言と言います。行為によって預言する、ということです。
神様がイザヤに命じたことを細かく見ますと、2節。
2 そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。
神様の命令は、歩け、腰布を外せ、履き物を脱げ、ということです。特に後の二つは、裸になることと裸足になることです。この行為に何の意味があるのでしょうか。「裸足になる」ということには覚えがあります。池の上教会は入り口で靴を脱いで裸足になり、スリッパに履き替えます。新しい会堂を建設するとき本田弘慈先生が「土足で入る教会にしなさい」と助言してくださったのですが、靴を脱ぐことに拘った。それはモーセやヨシュアが神様から靴を脱げと命じられた。それは、聖なる神様の前に進み出ることであり、神様の僕となる行為です。でも、「裸になれ」とは何でしょうか。
裸というのは恥ずかしい。恥です。聖書の中でも恥を意味するケースがいくつもあります。恥とは名誉を失うことです。それまで偉大な預言者としての地位を得てきたイザヤが、裸で歩き回ることでどんな評判を得たでしょう。でも預言者は自分の名誉の為に生きるのではない。また、日本でも裸一貫という言葉があります。創立者である山根先生は三度、裸一貫となられた。それは全財産を捧げることでした。名誉だけでなく、自分の全部を手放して神様に捧げる。私たちは、教会に来て裸になれとは言われていませんが、自分のからだ、自分の全てを捧げる献身こそ、真の礼拝だとローマ書12章に書かれています。
裸というと、創世記の2章で、最初の人間は裸であったけれど、まだ罪が入る前で、恥ずかしいとは思わなかった。でも、罪を犯してからは恥と感じるようになります。そして聖書の最後、ヨハネの黙示録では、ラオデキヤの教会に対して、神様は「あなたたちは裸だ」と非難しておられる。それは彼らは自分の罪に気がついていない、まるで「裸の王様」です。人間は、自分は正しい、間違っていないと考えたい。だから罪を認めない。でも神様の目には、いくら隠しても、気がついていなくても、人間の罪は丸見えです。だから神様から白い衣を買いなさい。正しい生き方、義なる人をいただくのだと教えています。
ですから、神様は私たちにも命じておられるのです。それは衣服を脱ぐことではなく、神様の前に裸であることを認める。自分を隠そうとしているイチジクの葉を取り除く。そのとき神様が白い衣を着せてくださいます。アダムとエバには枯れてしまう葉っぱではなく、毛皮の服を神様は作ってくださった。裸になるとは、自分の罪、隠しておきたい罪をを認めて悔い改めることです。悔い改めるとき、神様は裸の者を憐れんで救ってくださるからです。
2.裁きのしるしは誰に
二つ目のことをお話しします。3節。
3 そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、
4 アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。
ここで神様がイザヤの行為について解説しておられます。この異常な行動は前兆、すなわち将来のしるしである。しかも、エジプトとクシュに対するしるしだ、と言うのです。クシュとはエチオピアのことです。エジプトは歴史の長い大国ですが、その歴史において何回も王朝が変わりました。時には外国人がエジプトを支配する時期もあった。エチオピアが優勢だったときもある。ですからエジプトとエチオピアはひとまとめで語られますので、代表はエジプトで良いでしょう。
エジプトが強かったときにはイスラエルを初め、今のパレスチナの国々もエジプトの支配下にありました。大きな国に支配されるというのは、貢ぎ物を納め、また命令されたら従わなければならない。国の自治権など無いに等しい。裸の状態です。エジプトは周囲の国々を裸にして、経済的にも政治的にも蹂躙してきた。そのエジプトが、やがてアッシリヤやバビロンに支配される時代が来る。その前兆として、イザヤは裸になった。また、アッシリヤがエジプトを支配し、国民を捕虜として連れていくときには、誰もが裸にされて連れて行かれる。エジプトの敗北を意味します。神様はいつの日にかエジプトの高慢の罪を裁いて、おごり高ぶっていた彼らが辱められる日が来る、と予告しておられるのです。そして、そのアッシリヤもバビロンによって、バビロンはペルシャによって倒される日が来る。
さて、イザヤは未来のエジプトを現すために裸となりましたが、本来、イザヤはイスラエルの人です。預言者はイスラエルの代表として神様の前に立つ者です。ですから、この預言も、エジプトのことを語っているようで、本当はイスラエル自身なのです。エジプトでさえ裸になるときは避けられないのなら、イスラエルも同じです。罪の結果、恥を受ける時が来る。ですからエジプトが敗北するときが来たら、自分自身が悔い改めないなら、次は自分たちが辱めを受けるようになる。
このメッセージは、今の私たちと無関係でしょうか。神様の預言は成就してきました。エジプトが倒れる日が来ます。イスラエルもそうです。そして、私たちもいつか人生の終わりがきます。その時、もし神様の前に悔い改めないままで生きているなら、一生の最後は恥となる。でも悔い改めてキリストを信じる時、イエス様が十字架上で裸になって、神様の罰を受け、人々から辱めを受けてくださった。その十字架によって救っていただいた私たちは、一生が終わったとき、栄光の天国へと進むことが許されているのです。ですから、このイザヤのメッセージを人ごとにしてはいけない。聖書の御言葉は、全て私に対する神様のお言葉として受け止めるのです。
3.頼るべきお方
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。5節。
5 人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。
6 その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」
ここにエジプトやクシュに頼っていた人たちが出てきます。南王国ユダの歴史を見ていきますと、決して一枚板ではなくて、様々な政治的な派閥があった。外交問題に関しては、北王国を配下にしていたアラムに屈服する意見、大国エジプトにすり寄る意見、アッスリアの配下となる意見など、どれもが外国に頼る考え方でした。しかし、イザヤ書で何度も語られているのは、どの国であっても人間に頼るとき、その拠り所となっている国も倒れるときが来る、というメッセージです。
決して人間関係や人間による助けを否定しているのではありません。でも、人間の弱さも忘れてはいけません。何か、あるいは誰かを絶対視するなら、その人が倒れたときに一緒に倒れるのがオチです。そのことを示すため、あの大国エジプトも倒れる日が来るという預言であり、いいえ、そんなことはあり得ない、エジプトは形を変えても決して倒れることはない、と考えている人にショックを与えるために、神様はイザヤに恥ずかしい姿で歩かせ、強烈なメッセージを示されたのです。
人に頼るのではなく、神様にのみ頼る。神様は必要に応じて、時には誰かの手を用いて助けてくださるときもあります。でも、その人への感謝と共に、神様が助けてくださったことを忘れてはいけません。神様に頼るとは、神様の前に謙ることです。高慢な思いがあり、自分の力でどうにかなると考えているから、神様に頼ることが一番最後に回ってしまうのです。苦しいときだけの神頼みとなってしまう。そうではなく、まず最初に神様を信頼して祈る。どうしてか。神様こそが世界の王であり、私の王だからです。その王様が「私を信頼して頼れ。何事でも私に祈れ」と言っておられるからです。
神の国と神の義を求めるとは、最高の水準の命令で、もっともレベルの高いことを求めているのと同時に、最も易しいことです。自分の力でどうにかなると考えているような小さな問題でも、どうすることも出来ずに行き詰まるような大きな問題でも、まず第一に神の国と神の義を求める。神様に信頼することです。
イザヤが預言をした時代は、不信仰な時代で、何を語っても人々は聞こうとしない。だから、神様は過激な言葉や不可思議な行動で人々の耳を惹き付けて語らせているのです。それが、預言者が裸になった意味です。私たちは服を脱ぐのではありませんが、人とは違うことを目指す生き方が、他の人を惹き付けるのです。神の国と神の義を求める生活。それは、この世の名誉や幸福を求めるのではなく、神様の御心に沿った生き方です。その姿を通して、私たちが信頼しているお方をあらわして行きましょう。
まとめ.
イザヤにはイザヤの使命があり、人とは違う人生があったでしょう。でも私たち一人一人も、キリストと出会って変えられた人生、主と共に歩む人生へと召されているのです。その人生は、苦労もありますが、主に信頼する、信仰の歩みです。救ってくださったキリストをかしらとし、このお方の声に聞き従う人生です。今年も、主に従って歩んでまいりましょう。
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