2022年12月04日

12月4日礼拝「人生を変える出会い」イザヤ書6:1〜7(6章)

12月4日礼拝「人生を変える出会い」イザヤ書6:1〜7(6章)
12月となり、世の中ではクリスマス商戦で、あちこちクリスマスの飾りです。教会もクリスマスの装いですが、私たちは自分の欲しいモノを手に入れることや、クリスマスを利用して儲けることを目指しているのではありません。私たちを救うためにこの世に生まれてくださった救い主を信じる信仰を新たにする、信仰の備えこそが待降節です。心を備えるには、まず私の心の中を御言葉によって点検していただき、救い主をお迎えする思いとしていただきます。今日も、イザヤ書の御言葉によって心に光を照らしていただきましょう。
今日開かれます、イザヤ書6章では、預言者イザヤが聖なる神様と直接にお目にかかった。この神との出会いが、イザヤの人生、預言者としての働きを大きく変える、転機となった出来事です。彼は、神様の聖さについて、これまでも語ってきた。でも、頭で理解しているのではなく、実際に聖なる神様と出会い、神様の聖さに触れたとき、私たちも聖なる神を知ることで生き方が変わり始めるのです。
いつものように三つのポイントで。第一に「罪に気がつかせる聖なる神」、第二に「罪からきよめる聖なる神」、そして第三に「使命に遣わす聖なる神」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.罪に気がつかせる聖なる神(1〜5節)
1節からもう一度読んで参りましょう。1節。
1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。
ウジヤという名前はイザヤ書1章の最初にも出てきます。預言者イザヤは四人の王様の時代に活動した。その一人目がウジヤ王です。大変に有能な王様で、南ユダ王国を経済的にも政治的にも繁栄させた。ただ、信仰的には失敗をしたことが列王記に記されていますが、それでも歴史的には偉大な王様です。「ウジヤ王が死んだ年」と書かれています。この王様が死んでしまった。これから、この国はどうなってしまうだろうか。将来を憂いながら、イザヤはある日、神殿で祈っていた。神殿の中心は聖所と呼ばれる建物で、祭司だけが入ることを許されています。イザヤは中に入れなくても聖所の入り口の前で祈っていた。その時、彼は見てしまった。何を。神様を、です。そのイザヤが見た神様の様子が1節の後半から述べられています。
1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

天の御座についておられる神様を見たのです。神様の衣の裾が地上の聖所に満ちており、そこにはセラフィムと呼ばれる天使たちがいます。天使と言ったら、人間よりもはるかにきよい存在です。その天使でさえ、神様の前では自分の顔を神様に向けることができない。自分の足、これは歩んできた道を象徴しますが、自分の過去の行いは神様の前に恥ずかしくて見せることができない。そして、口語訳聖書では「聖なるかな」と三回。聖書では大事なことは二回、すごく大事なことなら三回言います。三重の「聖なる」は、神様が天使なんかよりもはるかに聖なるお方であることを意味します。
さて、天使でさえも顔を隠すほどの聖なる神様ですから、人間が神を見てしまったなら、滅びることになると言われます。ちょうど太陽はまぶしい存在ですが、その直ぐ近くに行ったら人間は燃え尽きて無くなってしまう。それくらいに太陽の光と熱は強いのです。神様の聖さも、人間がその前に立つことができないほどです。
しかし、そもそも聖書を読んで行きますと、神様は霊なるお方で、人間のような肉体はない。ですから、まず目で見えるのか。イザヤは本当に神様が見えたのか。諸説あります。イザヤが見たのは幻だという説。神様は特別な人にはご自分を見える姿で登場して見せてくださる場合がある。モーセやアブラハムがそうです。口語訳聖書は神を見るのは恐れ多いと思ったのか、見えたのは神様の衣の裾だったと訳しています。いずれにせよ、イザヤ自身にとっては神様を見たという自覚がある。そして、聖なる神様の前にひれ伏した彼は、もう自分は滅びなければならないはずだと考えたのです。聖い神様を見たことが理由であり、もう一つは、自分が汚れていることが分かったからです。どれほど手を洗っても、顕微鏡で見れば、指紋の隙間にゴミがついている。薄暗い部屋だと白く見えたものが、太陽の光の下では薄汚れて見える。イザヤは神様を見たとき、同時に自分が汚れた存在であることを自覚したのです。
イザヤはこれまで預言者として、ウジヤ王時代の人々の不信仰を指摘し、人々の生活が汚れていると批判してきました。そんな汚れた罪人は神様に裁かれて滅びるぞ、と。もちろん、本心では人々が悔い改めて救われて欲しいのですが、あまりにも罪に塗れている彼らに怒ってもいた。ところが、神様の前に出たときに、イザヤは、他人のことでは無い、自分こそが罪人だと気がついたのです。5節。
5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
汚れた民だと語っていた、その自分の唇が汚れている。だから、「ああ、私は、もうだめだ」。この言い回しは、翻訳によっていろいろです。最近の翻訳では、新改訳2017は、「ああ、私は滅んでしまう」。少し古い口語訳では「私は滅びるばかりだ」としています。原文ではもっと切羽詰まっていて、「私はもう滅んでしまった」と完了形で語っている。まだ生きているけれども、もう滅びることは決まってしまっている。もうどうすることもできない。イザヤはその事実を知ってしまったのです。私たちは長く生きても120年と言われますが、実際にはいつ死ぬかは分かりません。今日かも知れないし、数十年後かもしれない。ただ、必ず死ぬことが決まっていると聖書は告げます。肉体は、必ず死ぬ。それ以上に、神様の前では人間は滅びるべき罪人なのです。それほどに神の聖さの前では私たちの罪は深刻な状態なのですが、私たちはそこから目を背けて、明日も今日と同じように続き、自分は滅びないと楽観している。それが、聖なる神様と出会ったとき、自分の真実に向き合わなければならなくなるのです。
聖書の言葉を通して、私たちは神様の前に進み出て、そこで自分の罪を知るとき、言い逃れはできません。相手が人間ならば言い訳ができる。自分自身もごまかせる。でも聖なるお方には隠せない。それまで、私たちは自分の罪は棚に上げて、他者の罪を批判して、相手を裁きます。でも、御言葉によって自分の心の本当の姿と向き合う時、それが私たちにとっても転機となるのです。そこから私たちは変えられていく。聖なる神様によって聖なる者に変えていただけるのです。
2.罪からきよめる聖なる神(6〜7節)
二つ目のポイントに移ります。6節。
6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

セラフィムというのは神様を賛美するためにお仕えしている天使だと言われます。大切な任務です。でも神様はそれを一時中断させてでも、セラフィムの一人をイザヤのところに遣わされたのです。何のためか。それは自分の罪の恐ろしさに気が付いて絶望しているイザヤを、その罪から救うためです。
聖書学院の元院長である小林和夫先生は、この箇所のことをお話しされるとき、セラフィムは祭壇の上から燃えている炭をもっていった。この炭は、祭壇の上で薪を燃やして動物の捧げものを焼いている。ですから、ただの炭ではなくて、捧げものの動物の血がついていた、と語られました。実際に血が付いていたかではなくて、動物の血が流されることによって、その命が神様に捧げられて、そして捧げた人の罪を神様が赦してくださる。これを贖いと言います。天使はその炭をイザヤの唇に触れさせた。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪を贖われた」。旧約聖書の時代は、動物の血によって罪が贖われ、赦しが与えられた。汚れていた唇がきよめられるのです。新約時代の今は、動物ではなく、神の子羊と呼ばれたイエス様の十字架の血潮によって、私たちの罪も贖われて、赦され、またきよめられるのです、
神様は、この贖い、きよめる炭を、イザヤの唇に触れさせた。なぜ唇か。何年も前に箱根でホーリネス教団の夏季聖会が行われていたといに、私も聖会の御用をさせていただき、その時にイザヤ書6章から語らせていただきました。なぜイザヤの唇に触れたのか。預言者にとって唇は、いわば商売道具であり、プライドです。言葉によって預言者は神に仕え、人々を導いていた。でも、そのプライドが自分の罪を見えなくさせていた。ですからイザヤが謙って、自分のプライドである唇が汚れていると認めたときに、神様は、その一番触れて欲しくない自分の罪の、まさにピンポイントで、そこに触れてくださったのです。
あなたにとって何がプライドとなっているでしょうか。何が一番触れて欲しくないところでしょうか。そこを自分で見つめなおし、神様の前に進み出る。そのとき、聖なる神様が罪を贖い、赦し、きよめてくださるのです。神様は天使よりもはるかに聖い。ですから、神様に背く者は近くに行くと滅ぼされてしまう。でも、謙って自分の罪を認め、頑なな心が砕かれたとき、神様はその人を聖めてくださる。それが聖なる神様なのです。
クリスマスとは何か。それは神様の方から私たちを救うために近づいてきてくださった。旧約時代は、まだイエス様が来られる前ですから、神様は天使を遣わされた。でも、やがて神の御子が来てくださり、私たちと同じ姿となり、私たちの罪に手を伸ばして触れてくださり、ご自身の血潮で洗い清めてくださる。イエス様のご降誕は、私たちを十字架の贖いによって救うためなのです。
3.使命に遣わす聖なる神(8〜13節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。8節。
8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』

神様が誰を遣わそうか、と言われたとき、イザヤは思わず、自分を使ってくださいと叫びます。罪が赦された感謝から出た言葉でしょう。神様はイザヤのためには天使を遣わされた。イスラエルのためには預言者たちを遣わされる。でも預言者の働きは大変な務めです。イザヤが命じられたのは、簡単に言えば、いくら語っても人々は聞こうとも悟ろうともしない。それでも語り続けよ、ということです。頑張っても何も成果が出ない、と言われたら辛いです。イザヤは「分かりました、でもいつまでですか」。いつかはもっとやりがいのある働きになるかと思ったら、神様は国が亡びるまで語り続けよと言われました。確かに国が亡びることを告げ知らせるのは、楽な働きではない。ある人は、困難なメッセージと言います。人を喜ばせるようなメッセージだったら、みんなから感謝されるでしょう。でも罪から人々を救うためには、その罪を指摘しなければならないし、十字架による贖いを語らなければならない。でも、私たちは聖書の告げる、罪と十字架のメッセージから目を背けてはいけない。
イザヤは預言者ですから、特に厳しい使命だったのかもしれません。では、私たちはどうでしょうか。神様の使命は一人一人違います。でも、イザヤと同じように、罪の赦しの恵みをいただいた者は、恵みを受けてお終いではなく、救ってくださったお方によって遣わされて、主に従って歩むのです。特別な人たちだけでなく、誰もが一緒に救い主イエス・キリストにお仕えし、救われた感謝を持って生きる幸いな人生へと招かれているのです。
まとめ.
イザヤは、それまでも預言者として活躍していましたが、聖なる神様を見たときから、どんな困難な働きでも、神様に従う人生となっていった。私たちも御言葉によりキリストと出会ったときから、罪が赦され、きよめられる人生、また、この恵みを人に伝える人生へと変えられていくのです。クリスマスは、神の御子が人のため、あなたのために来てくださったことを教えています。私たちもキリストのために生きる人生に遣わされてまいりましょう。

タグ:イザヤ書
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教