2022年12月25日

12月25日礼拝「今日から始まる救い」イザヤ書11:1〜5(11〜12章)

12月25日礼拝「今日から始まる救い」イザヤ書11:1〜5(11〜12章)
みなさん、クリスマスおめでとうございます。私たちはまだ、厳しい時代の只中におります。コロナ禍、戦争、経済危機、世界的にも、また個人的にも大変なところを通っておられる方もおられます。しかし、私たちのために救い主が生まれてくださった、このクリスマスの良き日をご一緒に祝うことができることを心から感謝したいと思います。
さて、礼拝ではイザヤ書を続けて読んでおります。特にイザヤ書の最初の方にはクリスマスの預言とされることがいくつも出てきます。インマヌエル、一人のみどり児、そして、今日お話しします「エッサイの根」。今日もクリスマスの意味をご一緒に考え、その恵みを味わいたいと思います。
クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日です。そして誕生とは、これから一人の人の生涯が始まる。ですから救い主による救いの恵みが始まる日でもあります。「今日から始まる救い」と題しまして、いつものように三つのことをお話しします。第一に「根株から新しい芽」、二つ目に「世界中に救いが」、そして最後に「主に感謝しよう」という順序でメッセージを取り次がせていただきます。
1.根株から新しい芽(11:1〜10)
「エッサイの根」、新改訳では根株と訳されています。先日、教会まで歩いていると建設工事が始まっていて、何本もの木を根こそぎ取り除いている。大きな木になると根っこも広く張り巡らされていますので、根株を取り除くのは大変な作業です。機械もなかった時代、農業をする方々は大変な苦労をしたことです。根株を見ると、大変に苦労したという嫌なイメージが付きまとう。また、エッサイの根とは、イエス様がダビデ王の子孫として生まれることを意味しますが、どうしてダビデの根とは言わないのか。確かにダビデのことをエッサイの子と呼びことがあります。旧約聖書の時代、苗字とかファミリーネームというものは無かった。それで父親の名を用いるのが正式な呼び方で、私でしたら秀雄の子、備道、です。ではなぜ、エッサイの子ダビデと言わないで、エッサイだけなのか。それは、あいつはエッサイの子の、ええとなんて言ったかな、名前も覚えていないくらいに大したことはない奴だ、という侮蔑の意味が込められています。エッサイ自身も田舎の小さな村ベツレヘムの人で、首都であるエルサレムから見たら価値のない人物です。しかし、そのエッサイの子孫からイスラエルを救う救い主が誕生する。それがこの預言の意味です。開拓して畑を作るには邪魔でしかない根株から新しい芽が出て成長する。希望がそこにあるのです。
この根から生え出た若枝について、2節、
11:2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
このお方はやがて正義によって国を治める働きをするのですが、なぜ、そんなすごいことが出来るかと言うと、彼の上には主の霊がとどまっている。ダビデ王の前に王となったサウルもそうでしたが、大切な働きをする人には神様からの霊が注がれて、神様の力が彼を通して働く。イエス様が成長して、これから救い主としての働きを始めるというときに、聖霊が鳩のようなすがたでイエス様の上に下られた、と福音書に記されています。ナザレのイエスと呼ばれ、エルサレムの指導者たちから蔑まれていたお方が、どうして救い主なのか、それは神の霊が彼の上にとどまっているからだ、と新約聖書は語っているのです。
この救い主は正義をもって国を治める王様となり、彼によって平和な時代が訪れる。そのことを6節から不思議な光景を描いています。6節。
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
オオカミと子羊が一緒にいたら、子羊は食い殺されてしまう。でも正義の王による支配は動物たちにまで及び、彼らは争い合うことがない、弱肉強食で弱い者が苦しめられることがない、そんな平和な状態を描いている、大変に不思議な情景です。どうしてこんなことが可能か。9節。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
みんなが主を知っている。それは単なる知識ではなく、このお方を畏れ敬い、この王様に聞き従う。ですから獰猛な猛獣も主のお許しがなければ他者を害することはしない。今は戦争が続いていますから、早く平和になって欲しいと願います。でも、人の心の中に罪がある限り、またどこかで戦争が起きる。しかし、全ての人が主を知り、このお方を信じ従うようになるなら、もう争い合う必要は無くなる。エッサイの根株から生まれる若枝、すなわちダビデの子孫であるイエス様と共におられる聖霊が私たちの心に住んでくださり、働いてくださるとき、私たちの心の中から平和が始まり、また2節で「それは知恵と悟りの霊」と書かれていますが、聖霊によって神様からの知恵が与えられるなら、困難な状況を打開するのに暴力や不正を用いるのではなく、問題を解決できる知恵が与えられるのです。この素晴らしい働きは、イエス様の誕生から始まり、今は世界中にこのお方が宣べ伝えられているのです。
確かに今は苦難の時代です。でも、クリスマスに誕生してくださったお方を世界中の人が、いいえ、まず私がこのお方を知り、このお方に従い、イエス様が教えられた神の国、神様の支配に従うとき、私を通して平和が始まり、救われる方が続々と起こされていくのです。だから、どんなに苦しい時代であっても、そこからクリスマスの恵みが始まるのです。
2.世界中に救いが(11:11〜16)
二つ目のポイントに移ります。メシア、すなわち救い主として誕生されたお方によってどのような働きがなされるかが11節から記されています。10節から読みます。
11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
11:11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。

カタカナで書かれている地名は世界の国々です。アッスリアとバビロンによって滅ぼされたイスラエルの民は世界中に散らされていましたが、神様は神の民を世界中から救い出してくださり、イスラエルが救われる日が来る、という預言です。将来イスラエルが救われるということを述べるのに、過去の救いの出来事になぞらえて語っているのが15節。
11:15 主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの水無し川とし、くつばきのままで歩けるようにする。
エジプトの海の入り江を干上がらせるとは、紅海が分かれて渇いた地面をイスラエルが渡った事件を思い出させています。一番、印象的な出来事でしたので、紅海渡渉を代表として記していますが、その全体を語るなら、まず過ぎ越しから始まる。過ぎ越しとは新約聖書では十字架の予告とされます。過ぎ越しを記念する食事、それが聖餐式の原型であり、また紅海やヨルダン川を渡ったのは、洗礼式のことだと言われます。イザヤの時代の人たちには、昔の出エジプトのようにイスラエルが救われるということが分かりやすかったでしょうが、神様のご計画はイスラエルの期待をはるかに超えて、世界中の民が救われる。主を知ることが地に満ちる、その時には、猛獣のイメージで語られましたが、それまでは神を知らずに欲望のままに生きていたとユダヤ人は見下した異邦人たちも神様を知るようになり、平和が訪れる。戦争のもととなった人間の心の内にある罪から救われる。この救いの知らせ、クリスマスの恵みは今も多くの国へ広められています。そして、さらにクリスマスの喜びが満ち溢れる。三つ目のことをお話ししたいと思います。
3.主に感謝しよう(12:1〜6)
12章の1節を読みます。
12:1 その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
神の怒りが去った。このことも過ぎ越しを思い出させます。神の怒りがエジプト全土を行き廻ったとき、子羊の血を鴨居に塗ったイスラエルの民のところは神の怒り、滅びの霊が通り過ぎてくださった。これが過ぎ越しです。すべてを滅ぼすほどに激しい神の怒りが救い主の十字架の働きによって、神の怒りが去った。そのとき、3節。
12:3 あなたがたは喜びながら救いの泉から水mを汲む。
12:4 その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。
12:5 主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。
12:6 シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」

ここには、喜びが満ち溢れています。神様への感謝と賛美が世界中にあふれ出しています。そして、あなたの中におられる、インマヌエルである救い主は、私たちの心の中にも来てくださり、喜びと感謝で満たしてくださるのです。
イザヤは困難な時代、不信仰の世界にあって、救い主による喜びを預言しました。この預言は数百年後、ベツレヘムでお生まれになったイエス様によって成就し、さらに現代の私たちにまで伝えられ続けています。時代は変わり、でも人間の心の罪は変わらずに人々を苦しめています。今も、この救い主による光が必要です。教会はキリストの救いを宣べ伝える存在として、福音の光を輝かせるのです。私たち一人一人が暗闇の中に光り輝く救い主、イエス・キリストによって罪が赦された恵みと喜びを証ししてまいりましょう。
まとめ.
私たちの心の中は、まるで邪魔な根株のような罪がはびこっているかもしれません。でも、その根株である罪から私たちを救うために来てくださったキリストが、私の罪に触れてくださり、それを赦しきよめ、苦悩を喜びに変え、感謝の人生を歩ませてくださる。この救いが始まったクリスマスを心から喜び、また伝え続ける。今年もご一緒にクリスマスを祝いましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2022年12月18日

12月18日礼拝「逆転のクリスマス」イザヤ書9:1〜7(9〜10章)

12月18日礼拝「逆転のクリスマス」イザヤ書9:1〜7(9〜10章)
先ほど司会者に読んでいただきました中で、6節と7節はクリスマスによく読まれる御言葉です。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」と、イエス様の誕生の預言ですが、その前に、こう書かれています。1節。
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
ガリラヤというのはガリラヤ湖という湖で有名ですが、その近辺の地域です。このイスラエル北部の地域は、昔から外国の攻撃を受けやすく、アラムやアッシリアによって占領され、ああ、あそこは異邦人が住む場所だと言われるようになった。それが「異邦人のガリラヤ」です。ゼブルンやナフタリと言った地域も同じです。敵に奪われ、辱めを受けた。そんな場所が、神の栄光を受けるようになる。どうしてでしょうか。やがて、救い主がお生まれになり、イエス様はガリラヤ地方にあるナザレの町で育ちました。メシアとしての働きを初めてからは、多くの奇蹟をガリラヤ地方で行いました。見捨てられ、恥だとされた地域が、キリストの栄光を受けるようになった。蔑まれていた土地が栄光の場所に変えられたのです。それはクリスマスから始まった。ナザレの町でマリヤとヨセフに神様からの御告げがあったときから逆転が始まったのです。
今日は、イザヤ書の9章と、それとつながっている10章とから、「逆転のクリスマス」と題して、いつものように三つのことをお話しします。第一に、「闇夜に生まれる子ども」、第二に「拒む者への怒り」、そして第三に「残された信仰」という順序で進めてまいります。
1.闇夜に生まれる子ども(9:1〜7)
今年は12月25日が日曜日で、ちょうどその日にクリスマス礼拝が行われます。ただ、皆様も聞いたことがあると思いますが、実際にイエス様が誕生されたのは12月ではなく、正確には分かっていない。今の日付は、救い主の御降誕を祝うのにふさわしい時期だと言うことで選ばれました。何月何日かが分からないくらいですから、何時何分にお生まれになったか、誰も知る由もありません。ルカの福音書から分かるのは、夜中であったということだけです。そして、12月24日と25日、日付が切り替わる真夜中がそうだということにされています。今でしたら、病院で生まれたら何月何時何時何分と記録が残りますが、当時のことですから誰も気にしないでしょう。
でも正確な日付や時刻よりも大事なのは、どのような時に救い主がおいでになったのか。それがイザヤ書が預言しているところです。2節。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
それは暗闇の時代、死の影に覆われた時代です。イザヤという預言者は、北王国がアッシリア帝国によって滅亡した時代に、南王国ユダがバビロンによって滅ぼされることを予告し、さらにバビロンから解放されて救われることを預言しました。さらに、やがて救い主がお生まれになる。でも、この救い主の預言が成就するまでには、さらに時間がかかります。バビロンからは解放されたユダの民は、ペルシャ、ギリシアの支配下で迫害され、何度も戦争の被害を受けてきました。ローマ帝国の時代になっても、彼らは虐げられ、暗黒の時代が続きます。そのような時にイエス様が生まれたのです。時代的には真夜中に救い主は生まれたのです。
この赤ん坊がどうなるか、イザヤの預言は続きます。6節。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

この子はみどりご、すなわち赤ん坊であるにも関わらず、主権、すなわち王としての権威を持っておられ、王様らしい名前が与えられる。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」。これはイエスのような呼び名ではなく、王としての権威を現す名前です。
先日、イギリスのエリザベス女王が亡くなり、今はチャールズ三世が英国の王ですが、チャールズというのは呼び名であり、王としては、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国とその海外領土の立憲君主たる元首」、だそうです。どれだけ偉い王様なのか、分かる気がします。イエス様は世界を治めるお方ですが、ここでは、どのような力を持っているかが名前に示されています。その働きがどんなに不思議に満ちたものであるか、一つ一つを説明しますと長くなりますのでひとつだけ。最後の「平和の君」とは、世界に平和をもたらすお方であり、そのために必要な、神様と人間との間に平和をもたらしてくださるお方です。暗闇の世界においでくださった救い主は、世界の王として戦争を止めさせ、本当の平和を実現する。最初は小さなみどりごです。でも、成長し、人々に平和の道を教え、ご自身が十字架について贖いを成し遂げて、神と人との平和を造ってくださった。そして、今、このお方を信じる私たちの心の中から平和を初めてくださるのです。
平和というと、実際に戦争が起きている時代です。平和が実現するのがどれほど難しいか、考えさせられますが、一つの戦争が終わっても、火種がくすぶっており、また次の戦争がいつか起きる。神様は、戦争の大本である、人間の心の中にある問題、すなわち神様に逆らう罪に原因がある。この罪から人間を救うお方こそメシアだと、イザヤ書は預言しています。世界も大変です。日本の国もコロナ禍にあり、経済的にも厳しい。でも、自分自身の心はどうでしょうか。感謝と愛に満ちあふれ、平安に満たされているか。そうです。私の心こそ暗闇なのです。普段は明るいところにだけ目を向けたい。でも、人には言えない悩みがあり、自分でも見たくない、醜い部分がある。でも、それほど私たちの心が暗闇であったとしても、その暗闇を照らすために世の光となってくださった。それが「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」と書かれている。私たちのために生まれてくださった救い主なのです。天の父なる神様は、御子を与えるほどに私たちを愛してくださったのです。
2.拒む者への怒り(9:8〜10:19)
素晴らしい救い主が嬰児として与えられる。でも、それをイスラエルは拒んでしまいます。8節。
9:8 主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。
9:9 この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。
9:10 「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」
9:11 そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。
9:12 東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。

イザヤは南ユダ王国に遣わされた預言者ですが、北王国イスラエルにも何人もの預言者が遣わされ、神様のことばが伝えられましたが、サマリヤ、これは北王国の首都です。彼らはそれを聞いても、おごり高ぶり、敵に攻撃されて被害が出ても、自分の力で立て直せる、と高をくくり、神様の警告を拒んだ。そのため、周りの国によって領土が徐々に奪われ、最後はアッシリアによって滅亡する。13節。
9:13 しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。
悔い改めようとしないイスラエルに対し、さらに神様の罰が下ることが、この後、ずっと続きますので、読むのは控えておきます。ただ、12節の終わりの言葉、「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」。この言葉は、どこかで聞いたことがあります。開かなくて結構ですが、5章です。神に背き、預言者の言葉を拒んだ人々に対して、神様の怒りがくだされる、という預言が5章ですが、神様の怒りはあまりに大きくて、一つの裁きが下っても、なおも神の怒りの手が伸ばされ続ける。5章で預言されたことが、実際になっていく。この、「それでも御怒りは去らず」という言葉は、この後、9章から10章にかけて全部で4回繰り返され、さらに神の怒りや憤りという表現が何度も出てくるのです。どれほど神の怒りは激しいのでしょうか。敵国の侵略だけでない。不正な裁きを行っていた裁判官や政治家が罰せられます。仲間であるはずの同国人が争い合って、国力が落ちていきます。そして、そこに神の怒りの道具としてアッシリアが来て、北王国を破壊するのですが、アッシリアは自分が偉いからイスラエルを倒せたと思い上がり、神様はアッシリアにも怒りを下される。この裁きの手は、南王国のユダにも伸ばされる、と預言者は語るのです。最後にはどうなるか。10章の19節。
10:19 その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。
ここには国の滅亡を、果樹園に例えて、ぶどう畑にはわずかな木が残されるだけになる。「子どもでもそれらを書き留められる」。ほんの数本が残されるだけだということです。
大変に厳しい裁きの言葉を読むときに、私たちの心には、神様、少し厳しすぎはしませんか、という思いがあるかもしれません。そんなに怒らないでください、と、まるで怒っておられる神様のほうが間違っているかのようです。人間は、自分が間違っているときでさえ、神様に責任転嫁をし、反対に神様に対して怒ることさえするのです。創世記3章で「善悪を知る木の実」を食べたアダムは、神様に、「あなたが造った女が悪い」と、まるで神様が間違ったと言うのです。預言者ヨナは、遣わされたニネベの町が救われたのに、自分の名誉が傷つけられたので神様に怒る。イスラエルも、預言者たちが神様からの警告を語ると、神の裁きを拒む。この人々の怒りを神様はもっともだと受け止めて、謝られるでしょうか。いいえ、悪いのは人間です。神様が正しい裁きをくだされたのに、それでも反逆するなら、神様は直ちに人間を滅ぼしてもおかしくない。それなのに、神様は人間を救おうとされるのです。
3.残された信仰(10:20〜34)
10章の20節を読みます。
10:20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。
裁きが下されて、イスラエルが倒される日、そこに残された人に神様の救いがあります。この「残された者」というのもイザヤ書のテーマの一つです。神様を信頼して、最後まで信じ続けて、生き残った彼らは、聖なる神様に立ち返る。そして「イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって頼る」。ここで「まことをもって」とはどういうことでしょうか。「真実」という言葉が使われていて、その反対は不真実です。形だけ、表面だけの信仰ではなくて、心からの信仰と、力の限り真実をもって神様に立ち返る。そうしたい。でも、出来るのでしょうか。人間の真実はいい加減なことがあります。自分勝手です。ですから、この真実は人間の真実だけでは不十分です。
新約聖書の中で、「イエス・キリストを信じる信仰によって救われる」、いわゆる信仰による救いということが言われています。もちろんそれは正しいのですが、そのとき、まるで自分の信仰が偉かったから救われたんだ、と考えると、それは高慢になってしまう。そこで最近の聖書の理解では、この信仰は人間の信仰であると共に、「イエス・キリストの真実によって救われる」という側面があると考えられています。しかしイエス様の真実、すなわち神様の真実とは何でしょう。神様が偽るようなお方では無いのは当然ですから、神様の真実とは、ただ正しいということだけではない。旧約聖書では神の義という言葉が使われる。この神の義とは、神様の正義が示されることです。それまでは悪いことをしても、直ぐには滅ぼされない。神様は悔い改めを待っておられるからです。でも、それをいいことに、人間は罪を犯し続ける。ついに神様が正義を発揮されるとき、罪人は裁かれて滅ぼされます。それが22節です。
10:22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。
「壊滅は定められており、義があふれようとしている」。神の義が全地に満ちるとき、それは世界が裁かれて滅びるときです。ところが神様は救いの道を示してくださるお方です。ノアの時代には、箱船に入るなら救われる。モーセの時代なら、家の入り口に子羊の血を塗るなら救われる。周りはみんな滅びなければならないとき、神様の救いの道を信じて、それに従うなら救われる。神様の正義が示されると同時に、神様を信じる者には救いが与えられる。旧約聖書では「義」という言葉は「救い」という意味もあるのです。
21節で「残りの者は立ち返る」と言われているのですが、これはヘブル語では「シュアル・ヤシュブ」という言葉が使われています。皆さん、覚えておられるでしょうか。7章で、不信仰なアハズ王にイザヤが遣わされたとき、預言者は息子を連れて行った。その子が「シュアル・ヤシュブ」という名前です。アハズは神様からの言葉を聞いても、信じようとしなかった。でも神様は、残った者は帰ってくる、と最初から知っておられた。だから息子を連れて王の所に行け、と命じたのです。この神様を信じるか、それが神様のメッセージです。
神様が私たちの罪を指摘し、厳しいことを語られる。それは嬉しいことではない。拒みたくなります。でも自分勝手な自己弁護である自分の義に固執せず、神様が正しいと神様の裁きを受け入れるとき、神の義が私たちにもおよび、裁きが救いに変えられる。この預言の言葉が私たちにも語られているのです。
まとめ.
クリスマスとは、神の御子がこの世に遣わされた。それは神の義を現すためで、この世が裁かれることになる。でも平和の君として生まれられたみどりごは、ご自分が裁きを受けて私たちを救ってくださる。裁きを救いへと変える神様の御業は、クリスマスから始まっているのです。ただ、それを私たちが信じるか。このお方を、私を救うために来てくださった救い主だと信じるなら、私も救っていただけるのです。このお方を心にお迎えしましょう。
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2022年12月11日

12月11日礼拝「神が共におられるなら」イザヤ書7:10〜14(7〜8章)

12月11日礼拝「神が共におられるなら」イザヤ書7:10〜14(7〜8章)
先ほど、司会者に読んでいただいた14節の言葉、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名付ける」。どこかで聞いたことがあると思います。マタイの福音書1章で、ヨセフに天使の御告げがあった後、これは預言の成就だと説明があり、マタイ1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる」という意味である。)
これまでも何回かクリスマスのお話として、「インマヌエル」ということをお聞きになったと思います。「神、我らとともにおられる」、それは素晴らしいメッセージです。でも、このメッセージの本当の意味を考えるため、今日はイザヤ書の7章とそれに続く8章から説教を取り次がせていただきたいと思います。
いつものように三つのポイントで、第一に「揺れ動く人々」、第二に「不信仰な応答」、そして第三に「暗闇を乗り越える信仰」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.揺れ動く人々(7章1〜9節)
さて、この御言葉を理解するために、少し当時の状況に触れたいと思います。1節。
7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。
時代は、アハズ王の時、北イスラエル王国がさらに北にあるアラムと結託して南のユダ王国を侵略しようとした。この1節の読み方ですと、二つの国は攻撃して来たけれども、ユダに勝つことが出来なかった、と書かれていますので、戦争は終わったかのように感じますが、最近の翻訳である新改訳2017では、
2017訳7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時代、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、戦いのためにエルサレムに上ってきたが、これを攻めきれなかった時のことである。
と書かれていて、この紛争の最初の時、すなわち攻撃が来るより前のこととして2節からを読むのが分かりやすいと思います。2節。
7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。
「とどまった」というのは、現代的に言うと軍事同盟を結んだ、ということで、一国でもやっかいな敵なのに、二国が手を結んだ。それがユダを攻めるためであるのは明白です。軍事同盟の情報がダビデ王家に伝えられ、聞いた人たちは、「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」。いつ戦争が起きてもおかしくない時代。人々が動揺するのは当然です。しかし神様はイザヤをアハズ王へと遣わします。4節。
7:4 そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。
「気をつけて、静かにして」とは、心を落ち着かせることです。そして「恐れてはなりません」。「恐れるな」という神様からのメッセージが聖書の中にたくさん出てきます。それくらい、私たちは不安を感じたり、恐れたりすることがあります。死の話をすると、嫌がったり、「縁起でもない」と言って拒むのは、結局、死を恐れているからです。健康食品などがよく売れるのは、健康に不安があるからです。私たちは恐れや不安によって心が揺れ動きます。だから、私たちにも「恐れるな」という神からの御言葉が必要なのではないでしょうか。
神様は、ただ「恐れるな」と言うだけではありません。それだけですと、やっぱり恐れてしまいます。そこで恐れなくても良い理由が、5節。
7:5 アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。
7:6 『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう』と。
7:7 神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。

アラムと、エフライム、これはイスラエルのことですが、軍事同盟を結んだだけでなく、実は陰謀を企てている。攻撃して征服した後、アハズ王を倒して、タベアルの子が誰かは分かりませんが、適当な人物を王として、傀儡政権とする。そんな相談があるんだ、もうスパイが入り込んで準備が密かに進められている。こんなことを聞いたら、逆にびっくりしそうですが、これは、敵がしていることは神様にはお見通しだ、ということです。
私たちが不安を感じる理由は、先がどうなるか分からないからです。分かっても自分の手ではどうすることも出来ない。でも、神様は私たちが気がついていないことも全てご存じのお方ですし、対処の仕方も知っておられる。この神様がついておられると信頼するなら、不安や恐れを感じる必要はない。でも、もし神様を信頼しないなら、不安のままであり、やがては、しっかりと立ち続けることができなくなる。それが9節後半。
7:9もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」
先ほどの新改訳2017では「堅く立つことはできない」と訳しています。この「信じる」という動詞と、「堅く立つ」という動詞は、実は同じ動詞から変化したものです。その動詞、ヘブル語で「アーマン」という言葉は、「アーメン」の元となった言葉です。神様がおっしゃる言葉に、「アーメン」、その通りです、と言って信頼する。ですから信じるということは神様によって堅く立つということです。私たちは、例え揺れ動くことがあっても、全知全能の神様を信頼するなら、倒れることはない。倒れても必ず立ち上がらせてくださる。信仰によって堅く立つことができるのです。
2.不信仰な応答(7:10〜8:10)
二つ目のポイントに移ります。神様からの励ましの言葉をいただいたアハズ王は、アーメンと言って、神様を信頼したでしょうか。いいえ、黙っていたのです。アーメンではないのです。そこで神様からさらにお言葉がある。10節。
7:10 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
7:11 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
7:12 するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」

信じる決断の出来ないアハズに神様は大サービスです。「しるし」とは奇蹟のことです。どんな奇蹟でも願って良い。それを実現しよう。そうしたら神様が共にいてくださることが分かって、神様が必ず救ってくださると信頼できる。皆さんなら、何を願うでしょうか。ところが、アハズは「私は求めません」。理由は「主を試みません」と言っています。神様に「これが出来ますか」とチャレンジするのは、神様を試すことで、神様への侮辱です。でも、これは言い訳です。アハズは分かっていた。もし奇蹟を願って、神様が実現されたなら、神様を信じなければならない。信じる決断をしないで、不信仰のままでいることができなくなる。アハズの信仰は偽物でした。
せっかく「どんなしるしでも良いよ」と言ってくださったのに、それに応えないで誤魔化す。そこでイザヤは、あなたのしていることは私を煩わすことだと言って、アハズに神の言葉を突きつけます。13節。
7:13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

アハズが不信仰のために求めないから、神様の方から与えるしるし、それがインマヌエルなのです。
このインマヌエルとは、やがて生まれる男の子の名前です。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名付ける」。この「処女」という言葉は、正確には結婚していない女性という意味よりも、若い女性、という言葉なので、結婚していても使うことが出来る言葉ですが、とにかく、男の子が生まれる、と言っている。では、この「男の子」とは誰か。これは昔から議論されてきました。アハズの子のヒゼキヤのことではないか、他の人ではないか、預言者とか、様々な説があり、最後の最後にはイエス様の事であると分かるのですが。でもイエス様が生まれるまでは、男の子が生まれるたびに、「この子がインマヌエルかも知れない。だったら神様は私たちと一緒にいてくださるんだ」と信じる機会となる。でも、信じないなら、いつになっても神様の救いに信頼できない。それでも信じようとしないままでいたらどうなるか。
全部お話ししますと長くなりますので、少し飛ばしながらお話しします。イザヤは、信じようとしないアハズ王に、やがてシリアでもイスラエルでもなく、もっと強いアッシリヤ帝国が攻撃してくる、と預言したあと、8章3節。
8:3 そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。
8:4 それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

ここで、せっかく男の子が生まれたのですが、まだアハズ王も人々も不信仰のままのため、その名前はインマヌエルとならず、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」、変な名前ですが、意味はもっと変です。「分捕り物は素早く、獲物はさっと持ち去られる」、つまりアッシリヤ軍によって国中が奪われていく、という裁きの意味です。なぜか、彼らが信じようとしないからです。そして8章8節。
8:8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」
このインマヌエルは救いではありません。アッシリヤという神の裁きの御手が国中に広がる、という意味なのです。
インマヌエル、「神我らと共におられる」とは、もし私たちが神様を信頼するなら救いのメッセージです。しかしアハズ王のように救いを拒んで、信じようとしないなら、裁きのインマヌエルとなってしまう。ですから、皆さん、クリスマスにイエス様が生まれてくださり、インマヌエルとなってくださった。素晴らしいニュースですが、それを信じないなら裁きとなる。しかし信じるなら救いとなる。私たちは、この救い主を送ってくださった神様を信頼しようではありませんか。
3.暗闇を乗り越える信仰(8:11〜8:22)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。8章12節。
8:12 「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。
これはイザヤに神様が語られた言葉ですが、アハズの不信仰を戒めるイザヤを疎ましく思ったのでしょう。アハズに賛同する者たちがイザヤに、そして神様に対して謀反を起こして、預言者を倒そうとしている。でも、神様はイザヤに「恐れるな」とおっしゃいます。悪い人々を恐れるのではなく、ただ聖なる神様だけを畏れ敬い、信頼しなさい。そして、16節。
8:16 このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」
誰もイザヤのメッセージを聞いて悔い改めないなら、その言葉を、弟子たちに託しなさい。このときからイザヤは語ったメッセージを巻物に記録して、弟子たちがそれを守った。それは、今は不信仰の時代でも、将来、預言通りにアッシリヤが攻撃してきたときに、人々がイザヤの預言が本当であったと気がつくように、未来の人々に伝えさせたのです。だから、今、イザヤ書という預言の書が聖書に載せられているのす。
イザヤはこれからどうなるか、未来に目を向けます。8章22節。
8:22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。
これはアッシリヤ、そしてバビロンと言った帝国によってイスラエルもユダも滅亡して、暗黒の時代が来る。しかし、9章では、暗闇の地に栄光の光がやってくる。これは来週、お話ししたいと思います。
まとめ.
イザヤのメッセージはまだ続きます。イスラエルの将来の滅亡と回復、さらに神様が送ってくださる救い主のこと。でも、私たちは知っています。イザヤが「インマヌエル」と語った預言はイエス・キリストによって成就した。それがクリスマスです。そしてクリスマスは、私たちにも神様のしるしとして生まれてくださったお方を信じるか、と訴えています。今年のクリスマスも、イエス様を信じる決意をもってお迎えしましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教