2022年11月27日

11月27日礼拝「私のぶどう畑」イザヤ書5:1〜5(5章)

11月27日礼拝「私のぶどう畑」イザヤ書5:1〜5(5章)
教会の暦では今週からアドベント、クリスマスを待ち望む待降節です。クリスマスのシンボルとして光が用いられます。光は闇に輝きます。しかし光が現れる前は真っ暗闇です。今日はクリスマスへ向かう第一歩として、イザヤ書5章からお話ししたい。でも、そこにあるのは罪の世界です。5章は「ぶどう畑の歌」と呼ばれる、一つの詩です。最初は牧歌調の歌ですが、直ぐに暗いテーマとなっていきます。もちろん、これは詩篇に出てくる祈りや賛美とは違い、預言の言葉です。イザヤ書は7章以降、クリスマスに関連する素晴らしい御言葉がいくつも出てきますが、その預言が語られた時代は闇に覆われた時代でした。そして、この世の闇は今も続いているのです。現代も多くの問題があります。その問題から目を背けるのではなくて、しっかりと闇を見たとき、そこに輝く光を知ることができるのです。
いつものように三つに分けてお話ししたいと思います。第一に「裏切られた期待」、第二に「災いと怒りのみ」、そして最後に「暗闇に残された希望」という順番でメッセージを進めてまいります。
1.裏切られた期待(1〜7節)
1節をもう一度読みます。
1 「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
ここで「わが愛する者」と語っている「わたし」が誰なのか。この歌を歌っているのは預言者イザヤ自身でして、預言者が愛しているお方とは神様のことです。でも預言者の気持ちは神様と同じですので、神様が語っておられるとして読んでも良いと思います。「良く肥えた山腹」というのは、土壌も良く、水はけも良い。ぶどう畑を作るのに最適な場所です。2節。
2 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
神様はその土地を耕し、掘り起こして根っこや石を取り除きました。良いぶどうを選んできて植えた。やぐらを建てて敵や獣から守った。さらに酒ぶねを作ったのは、収穫して直ぐ、新鮮なうちに葡萄酒を作れるようにするためです。最上の世話をして、後のことも考えて準備した。至れり尽くせりです。準備万端です。あとは良いぶどうが成るのを待つだけ。ところが、できたのは良いぶどうではなく、酸っぱい、悪いぶどうでした。
ここでぶどう畑に例えて語られているのは、イスラエルのこと、エルサレムのことです。神様は十二分な祝福を注いで彼らが素晴らしい実を結ぶことを期待していたのに、その期待を彼らは裏切ったのです。ぶどう畑に例えて語っていることを、7節では具体的に語っています。
7 まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。
神様がイスラエルに望んでいたのは公正と正義という実を結ぶことです。でも彼らが行ったのは流血と泣き叫び。流血とは殺人の罪です。泣き叫びとは不正によって弱者が苦しめられていることです。この7節は、実は原文のヘブル語では駄洒落というか、言葉遊びという技巧を使って書かれています。「公正を望んだのに流血」というのは、ヘブル語では、ミシュパトを望んだのにミスパハ。ミシュパトとミスパハ、似た発音です。「正義を望んだのに泣き叫び」も、ツェダカを望んだのにツェアカ。預言者は度々このような言葉遊びを使いますが、決して面白いからではなく、聞いた者の記憶に強く残るようにです。神はミシュパトとツェダカを期待したのに、自分たちが行っているのはミスパハとツェアカ、似て異なるものです。
期待を裏切った畑はどうされるでしょうか。与えた条件が悪ければ改善の余地がありますが、最高の条件で育てたのに悪い結果しか無い。もう諦められて、見捨てられる。5節がそれを明らかにしています。
5 さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
6 わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」

厳しい処置でしょうか。いいえ、長い間、忍耐をして、最高のものを与えて、期待に答えることができるようにしてきたのに、自分から神様を裏切るような生き方をしてきたイスラエルに対して、神様が彼らを見捨てたとしても、それは当然のことです。でも、忘れてはならないのは、これは誰のことを語っているのか。当然、イスラエルやエルサレムです。でも、この言葉が聖書の中に書き残されたとき、神の言葉は私たちにも語られているのです。
私たちは良い実を結んでいるでしょうか。ガラテヤ書に「御霊の実」のリストがあります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。自分はどれほど実を結べているでしょうか。神様が人間に期待しているのは、もっと大きなことです。創世記1章、聖書の最初に書かれているのは、人間が「神のかたち」に造られた、神の栄光を現すはずの存在として創造されたのです。でも、造ったお方にとって辱となるような作品に、自分からなってしまった。これでは見捨てられるのが当たり前なのです。イスラエルだけではない。これは私たちの姿なのです。
2.災いと怒りのみ(8〜25節)
二つ目のポイントに移ります。ここまではぶどう畑という例えを用い、言葉遊びの技巧を使って描いてきたので、まだマイルドな言い方でした。ここからは歯に衣着せぬ言い方となります。8節。
8 ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。
「家に家を連ね、畑に畑を寄せる」と言うのは、少しも余地を残さないで自分のために使う、ということです。日本、特に東京は土地が貴重ですから狭い場所でも有効に使います。でも神様がイスラエルに求めたのは少し違います。使わない土地を残すことで、自分の土地を持てない貧しい者や寄留者にも生活する場所を与えるのです。これは土地だけのことではなく、収穫の全部を自分のものとするのではなく、一部は社会的弱者のために使いなさい。神様は必要以上の祝福を与えるから、他の人たちのために用いなさい。これが律法の精神です。でも彼らは自分のことだけ、自己中心の社会だったのです。
この後、イスラエルの罪を様々な面から描いていきます。全部を説明しますと時間がありませんので、20節。
20 ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
ここにも悪いことをしながら自分は正しいと言い張る姿が描かれていますが、それではなく、節の最初の言葉、「ああ」です。この「ああ」は、8節にもありました。11節。18節、そして、この20節、さらに21節、22節と6回も続いています。「大切なことは二回」ですから、6回とはどれほど重大なことか。この、「ああ」とは何か。
この言葉について少し研究したとき、「ああ」ですと何だか気が抜けたみたいで、口語訳聖書を見ますと「災いなるかな」となっていて、このほうが意味を良く表しています。新しい翻訳も「わざわいだ」としています。これは神様が嘆き、怒っているのです。神様が嘆いて見捨てたら、あとは災いが下るだけです。ここに詳しく説明されているイスラエルの罪は、どれもが期待外れどころではなく、完全にアウトです。有罪判決を下すしかない状態です。そして結論が、25節。
25 このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
「このゆえに」とは、理論的な結論です。それは主の怒りです。しかもちょっと怒った、というのではない。神の怒りによって裁きの御手が伸ばされて、山々も震え動き、人々はほとんどが倒れてしまう。さらに「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」。それでもまだ、神の怒りは収まらない。裁きの手は伸ばされ続ける。これが神様が本気に怒られたときの表現です。
私たちは、特に新約聖書だけで育ってきますと、神様の怒りということを余り考えない。考えたくない。でも聖書が告げている神の怒りとは、これほど恐ろしいものです。少しくらいなら忍耐してやり過ごせるかもしれない。でも神の怒りは私たちを滅ぼしても終わらないほどで、だから罪の赦しによる救いがなければならないのです。
3.暗闇に残された希望(26〜30節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。これまで二回、イザヤ書から取り次がせていただきました。1章、そして2〜4章です。どちらも裁きの言葉が鋭く告げられていましたが、最後には恵みによる救いが語られる。ところが、この5章の「ぶどう畑の歌」は違います。最後まで救いが見えないのです。結論は、30節。
30 その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。
「その民」とはイスラエルを滅ぼす敵のことですが、敵が攻めてきた結果、地は闇と苦しみだけとなります。光も暗くなる。これが結論なのです。なぜでしょうか。
イザヤという預言者は、南ユダ王国で活動し、四人の王様の治世にまたがって活躍した。最初の王様はウジヤ王です。経済的、軍事的には国を復興させた王様ですが、国の内側は罪と不正に塗れていた。イザヤは神様からの預言を人々に語りますが、彼らは聞こうせず、国はますます罪に陥っていく。ですから神様の厳しい言葉もエスカレートしていくのです。ついには救いの言葉さえかけられない。少しでも甘い言葉を語ったら、なんだ、まだ危なくない、と軽んじていたからです。ですから、エルサレムへの罰は必ず下ることをイザヤは語らざるを得なかった。
では、もうイザヤ書は終わりなのでしょうか。いいえ、例え「ぶどう畑の歌」は厳しい裁きを教えているとしても、そのように語ってくださるだけでも、神様はまだ見捨てきっていない。わずかながら希望がある。それは、4節の言葉です。
4 わがぶどう畑になすべきことで、
こんなひどい状態の畑なのに、神様は「わがぶどう畑」とおっしゃるのです。わが民と呼んでいるのです。決して手放してはいない。むしろ、ご自分のものだからこそ怒っておられるのです。何も言わずに滅ぼすこともできるのに、預言者を遣わして語り掛けるのです。まだ希望はある。神様が神様だからです。
神様は絶望のような世界に希望をあたえるお方。闇の中に「光あれ」と言われ、また世の光として御子を遣わしてくださるお方です。クリスマスとは、闇の世界に光があたえられるときなのです。
まとめ.
イザヤが預言した時代、ウジヤ王の時代は、王宮や貴族たちはきらびやかな生活でしたが、闇の中で苦しむ人がいた。やがて国全体が滅んで行きます。今はどうでしょうか。一時は繁栄した国も、やがては落ちぶれていくのが歴史です。闇のようになった世界に、時々、光のようなモノが現れて人々が熱中しますが、それもまた闇となる。本当の希望を与える、本物の光はイエス・キリストです。このお方がこの世に来てくださった恵みをしっかりと受け止めるため、自分自身の闇を御言葉によって示され、キリストの光を照らしてくださきましょう。
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2022年11月13日

11月13日礼拝「偽物の救いから本物へ」イザヤ書4:2〜6(2〜4章)

11月13日礼拝「偽物の救いから本物へ」イザヤ書4:2〜6(2〜4章)
先週からイザヤ書の講解説教が始まりました。イザヤ書は66章あって、1章ずつ進めますと一年半近くかかってしまいます。また内容的には複数の章がつながって一つのメッセージを述べている場合もあります。そこで、今回は2章、3章、4章と、三つの章をまたいでお話をしたいと思います。
さて、2章の、特に2章2節から5節までだけを読みますと、厳しい裁きの言葉ではなく、希望に満ちた救いの言葉に思えます。ところが、その直後、6節を見ますと、神様がイスラエルの民を見捨てた、と言うのです。これは正反対のことを語っているのではなく、2節から5節に描かれている救いが、実は偽物だということを示しているのです。聖書は1節だけとか、短い部分だけを読むと誤解をしてしまうかもしれません。クリスマスのお話で、東の国の博士たちがエルサレムに来たとき、ヘロデ大王は、「私も行って救い主を拝むから」と語ります。これは、まるでヘロデ大王がイエス様を救い主として信じるのか、と思われる言い方ですが、実際はウソをついて博士たちをだまして、イエス様を殺そうとしていることは、前後を読んで行きますと直ぐに分かります。ですから2節から5節も、素晴らしい言葉に見えても、前後を読むと、実は偽物の救いだと気がつかされるのです。
今日は、「偽物の救いから本物へ」と題しまして、イザヤ書の2章から4章を通してメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで。第一に「他者を裁き、他者に頼る」ということ、第二に「頼るべきお方」、そして最後に「罪から救う主」という順序で進めて参ります。
1.他者を裁き、他者に頼る(2章2〜4章1節)
さて先ほどもお話ししましたが、2節からは偽りの救いです。2節。
2:2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
「終わりの日」とは、イスラエルの民は長い間周辺の国々に苦しめられていましたが、世の終わりには神様が悪い国々を滅ぼしてくださる、と考えていました。ここでは滅ぼすだけでなく、人々が悔い改めて、神様を礼拝するためにエルサレムに集まってくる、と語っています。3節。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

世界中の人がエルサレムから語られる神様の言葉を教わりに来る。4節。
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
ここには、神様の言葉を学んだ人々は、もう戦争を起こさない。国と国が戦うことは無くなる。世界平和です。しかし、その時に栄光を受けるのはエルサレムだと言うのです。そして国々は神様によって裁かれる。他の民は悪い奴だから神に裁かれる。自分たちは偉いから、世界中から教えを請いに集まってくる。なんと自分に都合の良い考えでしょうか。5節。
2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。
ヤコブとは、創世記に登場する人で、イスラエル人の先祖です。ヤコブは神様からイスラエルという名前をいただき、彼の12人の息子がイスラエル十二部族となる。ヤコブとはイスラエル全体を現すとともに、北王国を指します。ヤコブの跡継ぎとなったのは長男のルベンではなく、ヤコブはヨセフをかわいがり、父イサクから受け継いだ祝福をヨセフの子エフライムに与えました。このエフライムとは、北王国の中心となったエフライム部族です。「来たれ」と北王国に呼びかけているのは、北王国が、とてもじゃないけれど神様から招かれないような罪人だからです。読みませんが、6節以降はイスラエルの罪が並べられています。占い、贅沢、偶像礼拝。その根本にあるのは高慢の罪です。高慢だから自分だけは正しいと思い上がり、他の国々は劣っていて、神の裁きを受けるべきだ、と他者を裁きます。高慢だから、神様さえも自分の思い通りになると自己中心的に考えて、偶像を拝むのです。11節。
2:11 その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。
神様は高慢なものをこそ裁くお方です。神様は間違ったものを拝み、頼りとする彼らに対して、それを打ち砕くと言われます。金や銀で造った偽りの神々はゴミとなって捨てられる。また、神ではなく人間に頼るのも、自分に都合良く相手を利用することです。ですから頼っていた相手も倒れてしまうときが来る。
3章の1節に跳びます。
3:1 まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。──すべて頼みのパン、すべて頼みの水、
3:2 勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老、

まだ続きますが、エルサレムの人々が頼りとしていたもの。パンと水があれば、敵が来ても籠城することができると考えていた。勇士と戦士はど、敵が攻めてきたとき頼りになります。預言者とは偽予言者です。占いは間違った宗教。長老は社会的に地位のある人や知恵のある人。でも、このような頼りとなると思っていた人たちが、いざ敵が攻めてきたときに倒れてしまい、頼れなくなる。
また少し跳びまして、3章の16節。
3:16 主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」それゆえ、
3:17 主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる。

「シオンの娘たち」とはエルサレムの女性たちですが、女性だけを批判しているのではなく、町全体の代表として上流階級の女性たちが取り上げられています。シオンの娘たちは高ぶり、と彼女たちの高慢を象徴しているのが、贅沢な装いです。それが、神の裁きの日には取り除かれて、見窄らしい姿となる。イザヤは女性の装飾品に詳しかったのか、18節からは様々な飾り物をリストアップしています。足飾りとか、髪の輪飾りとか、気になる人は、どんな装いをしていたのか想像して見ると良いでしょう。でも、全ては奪い去られる日が来ます。彼女たちだけが悪いのではありません。御利益宗教に傾いて、物質的な繁栄を喜んでいたのはウジヤ王時代のことを現しています。でも、そのような偽りの栄光は消え失せるのです。
私は、この箇所を思い巡らしながら、ふと、かつての日本を思い出しました。バブルと呼ばれた時代、日本の経済は世界第二位となり、バラ色の未来を描いていた。21世紀は日本が世界一となると。まさに贅沢を尽くしていた時期です。でも、バブルがはじけて、今は不況の時代。経済に頼り、思い上がり、神様ではなく人間的な繁栄を求めていた。今は、時代が変わったとも言えます。でも、私たちは何に頼っているのでしょうか。他者を裁き、また誰かを頼るのではなく、神様に信頼しているか、それはいつの時代にも問われているのです。
2.頼るべきお方(4章2〜6節)
二つ目のポイントに移ります。4章の2節。
4:2 その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。
終わりの日にはバラ色の未来が来ると考えていた人々に対して、預言者は、その日は神の裁きの下る日だと語り、しかし、その日、神様の救いも明らかにされるのです。それは「主の若枝」です。金銀の偶像や物質的な贅沢ではなく、神様が与えてくださる救いこそが本当の栄光です。若枝とは、これから大きく育っていく未来です。この世の救いは、やがて萎んでいく、廃れていきます。神様からの救いは成長していくもので、その人だけでなく、他の人にもおよび、広がっていきます。この栄光に輝く「主の若枝」とは、やがて来るべき救い主、すなわちイエス・キリストのことです。イザヤの時代は、まだ全ては明らかにされていませんが、預言されたことはイエス様において成就します。
確かに、先にイザヤが語った預言、すなわち偶像礼拝と高慢の罪にまみれていた北イスラエルも南ユダも、最後には滅ぼされてしまいます。でも、それでも神様を信じて生き残る者たちがいる。これがイザヤ書で何度も繰り返されるテーマです。残された者は救い主によって栄光を見ると言うのです。アッスリアやバビロンによって捕囚となったイスラエルの民は、やがて生き残って帰ってくる。そして、やがてイエス様が来られ、栄光を現してくださるのです。
3節。
4:3 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
残されて救いに与った人たちは「聖」と呼ばれるようになる。「聖」という言葉はイザヤ書のキーワードです。イザヤは聖なる神様を語りました。「聖」とは重要な言葉で、様々な意味が含まれています。「聖」とは神様ご自身が聖であり、神のものとされたとき、その人も聖とされるのです。他者の上に立って自分を主とする高慢ではなく、偶像礼拝のように神をも思い通りにするのでもなく、神様が私たちの主であって、私たちは神様のものです。これが聖ということです。
新約聖書では、パウロの手紙の中で、クリスチャンは聖徒と呼ばれ、キリストのものとされた存在です。そしてキリストの救いに与ったものは天にある「いのちの書」に名前が記されている、と聖書に書かれています。栄光ある若枝によって救われ、「あなたがたは私の枝である」と、私たちもキリストのものとされた。ですから、私たちの名前も命の書に記されているのです。
私たちは偽物の救いではなく、私たちを救ってくださり、天国にまで連れて行ってくださるお方を信頼して従ってまいりましょう。自分の願いを求め続けるのではなく、神様がくださる救いの恵みを信じましょう。
3.罪から救う主(4章4〜6節)
さて、私たちは神が遣わされた栄光の若枝を信じたのだから、未来は栄光に満ちていると言うだけでしたら、それはバラ色の未来を夢見るのと変わりません。神様がくださる救いは、どう違うのか。4章4節。
4:4 主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、
ここに再び「シオンの娘たち」が登場します。高慢で贅沢で人間を頼る生き方です。でも、その汚れを神様が洗い清めてくださるのです。しかし、それは水ではなく、神様が遣わす「さばきの霊と焼き尽くす霊」です。これは同じ事を、表現を変えて伝える言い方です。すなわち、神の霊は、さばきであり、焼き尽くす炎です。神様の救いは物質的な繁栄を与えることではなく、また世界中から誉めて貰うという高慢な栄光ではなく、罪からの救いです。自分の中に滅ぼされるべき罪があることを認めたとき、神様はその罪を焼き尽くしてきよめてくださるのです。
どんなに素晴らしい薬も、その薬を必要とする病気の人でなければ飲んでも益となりません。私たちが、自分は罪人であり、キリストによる罪からの救いが必要だと認めるとき、救い主は私を罪から救い出し、キリストのものとしてくださる。それが救いだと聖書は教えています。高慢の罪は、自分が罪人であると認めたくない。不信仰の罪は、救ってくださる神様を信頼しようとしない。やっかいな罪です。だからイザヤは厳しい言葉を用いて、彼らの罪を示した。しかし、もし彼らが神様からの言葉を聞いて、それを受け入れるなら、裁きの炎だと思っていた神の霊が、私たちを救う霊の働きとなってくださる。5節は、出エジプト記で、神様が昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを導き守られたことを思い起こさせます。神の火は、逆らう者が近づくなら滅ぼしてしまいますが、従う者が近づいて礼拝するとき、彼らを救ってくださり、裁きの暑さや嵐から守ってくださる。
私たちが自分の罪を認め、神に裁かれなければならない存在だということを受け入れるなら、十字架は私のものとなるのです。十字架は誰かを救うため、自分とは無関係なのでしょうか。私こそキリストの十字架の救いが必要だと信じるとき、十字架は私を罪から救い、洗い清め、罪から守る隠れ家となってくださるのです。
まとめ.
エルサレムに遣わされたイザヤのメッセージは時に厳しい裁きの言葉です。それほどにエルサレムの人々は高慢となり、他者を裁き、自己中心となって偶像礼拝をし、神様の言葉を受け入れない不信仰でした。でも、私たちも同じなのです。御言葉の前に自分自身を見つめ、キリストの救いを受け入れ、聖なるものとしていただきましょう。

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2022年11月06日

11月6日礼拝「救いへのチャレンジ」イザヤ書1:18〜20(1章)

11月6日礼拝「救いへのチャレンジ」イザヤ書1:18〜20(1章)
先月でコリント人への手紙が終わり、今日から、旧約聖書を開いてまいります。詩篇の続きを、とも思っていたのですが、詩篇を続けていますと、あと3年くらいかかりそうで、同じ書物から続けるよりも、一端違う書物に行ったほうが良いかと思いました。詩篇はイスラエルの歴史の中から生まれてきた多くの賛美と祈りを集めたものですが、イザヤはその歴史の中で神様からの御言葉を伝えた人です。イザヤ書を通して、その歴史に触れ、特にイスラエルが滅亡してバビロンに連れて行かれ、ついにバビロンから救い出されるという歴史を預言しているイザヤ書が終わってから、詩篇の後半に出てきます、捕囚前後の時代の祈りに触れたいと思っています。
さてイザヤ書の題名は、預言者イザヤの名前から採られていますが、イザヤという名前の意味は、「主の救い」、あるいは「主は救い」ということです。人間を救ってくださる神様を語っている預言書です。このイザヤ書を通して、もう一度、私たちの救いとは何かを学んで参りたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「罪を悟る」ということ、第二に「赦しを論じる」、そして第三に「救いを委ねる」という順番で進めて参りたいと思います。
1.罪を悟る(2〜15節)
1節は預言者イザヤが活動した時代を告げています。ウジヤ王からヒゼキヤ王まで、四代の王様の時代にまたがって活躍した預言者です。この時代、イスラエルは既に南北に分裂しており、北王国イスラエルはこの時代に滅亡し、南王国ユダは生き延びましたが、やがては滅びるときが来ることをイザヤは預言しています。どうして国が滅びるなんてことになったのか。その原因は人々の罪です。どれくらい罪深かったかというと、自分がしている罪を罪だと気がつかないほどです。イザヤは人々が自分の罪を悟って神様の前に悔い改めることを願って語っています。2節と3節を読ませていただきます。
2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

これはヘブル語の詩で書かれていて、印象に残る言い方を使っていますが、日本語ですとあまり感じません。2節は、育てられた子どもが親である神様に逆らっている。当時の文化では、子どもは両親に従うべきことが、十戒にも記されていて、「あなたの父母を敬え」が常識の世界にあって、イスラエルは育ててくれた神様に逆らっている。これは大きな罪です。さらに3節は動物の例えを用いています。牛は誰が自分の飼い主であり、だれが自分の世話をしてくれるか、誰について行けば美味しい草にありつけるか、知っている。ロバは少し愚かだけども、飼い葉桶を知っていて、どこにいけば食べることができるかくらいは知っている。それを比べると、イスラエルは動物以下だ。誰が自分の主であるかを分かっていないし、どこに行けば恵みに与ることができるか分からない。なんで、こんな侮辱のような言い方なのでしょうか。
人間、愚かだと言われたら反発したくなります。そして、その指摘が間違っているか、言われた言葉をしっかりと聞くことになる。イザヤはこんな厳しい言葉を投げかけながら、人々が聞いてくれることを願っているのです。それは、人々の罪の結果、国中が傷つき痛んでいる。5節。
5 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

神様に反逆すると、人間はあるべき姿、本来の生き方ではなくなり、結局は自分を苦しめ、周りの人を傷つけ、そうして国全体が傷だらけになっている。6節は肉体の怪我になぞらえて罪の状態を描き、7節は具体的に述べています。7節。
7 あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。
イスラエル王国の歴史は他国による侵略です。食い荒らされ、やがて首都であるエルサレム以外は敵の手に渡り、エルサレムだけが孤立し、包囲される。これはヒゼキヤ王の時代に現実となります。そのまま行けば、ついにはソドムやゴモラのように完全に滅亡してしまう。いいえ、まだ神からの裁きが下っていないだけで、滅ぼされる直前のソドム・ゴモラと変わらないほどに罪深い。ですからエルサレムにいる指導者たちに対して10節。
10 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
あなたたちはソドムの民と同じだと言われたら、いいや、私たちはそんなに悪くは無い、と言うでしょう。だって、自分たちは毎年、定められた祭りを行い、儀式を守っている。でも、神様はおっしゃるのです。あなたたちのお祭りや儀式は、信仰を伴わない、形だけで、神様を礼拝していると言いながら、裏では悪事を平気で行っている。そんな見せかけの儀式や集会を、もうこれ以上見たくない。14節。
14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。

祈っても聞き入れられないのは、あなたがたの手が血まみれだからだ。これは殺人の罪を意味する表現です。人を傷つけることを行っているのに、宗教行事を行っているから自分は正しい、と考えていたのです。
ウジヤ王は大変に有能な王様で、国を経済的に繁栄させた。でも、その陰では社会的な腐敗が進んでいて、弱い者たちが苦しめられ、血を流している。それがソドムと同じだと神様は言うのです。そして彼らの信仰は形だけで、罪に塗れた生活をしている。そのままでは国はソドムのように滅ぼされるときが来る。預言者は、その罪を指摘しているのです。
こうお話ししますと、大変に厳しく聞こえます。でもイザヤ書を最後まで続けて読みますと、実は救いの恵みに満ちている。しかし、神様の祝福にもう一度与るようになる前に、まず、自分の罪を悔い改めなければならない。その第一歩として、自分のうちに罪があることを認めなければならないのですが、人間の罪は自分を騙して、罪を罪だと気がつかないように自己弁護をしています。だからイザヤは彼らが自分の罪を悟るように、厳しく語っているのです。このイザヤのメッセージは、私たちには無関係なのでしょうか。
2.赦しを論じる(16〜20節)
二つ目のポイントに進みます。神様がイスラエルに求めておられること、それは律法の中に記されています。それは一言で言えば、悪を離れて正義を行え、ということです。16節。
16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

「神の国と神の義をまず第一に求めよ」とイエス様は教えられましたが、神の国とは神様の支配に従うことであり、それは神の義、神様の御心に適う正しさを伴うはずです。
実際のイスラエルは悪から離れようとせず、正義を踏みにじっていました。そんな彼らは神の裁きによって滅ぼされるのが順当です。神は正義の神様です。17節には正しさを意味する言葉がいくつか使われています。善をなす、公正、正す、正しい裁きなどです。イザヤ書全体でも様々な言葉を用いて神の正義を表現しています。その正義と比べるなら、人間の正義は自分勝手です。白ではなくグレーです。いいえ、罪と血に染まって真っ赤になっている。罪を赤と表現するのは珍しいことです。18節。
18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
緋のように赤いというのは、ある人は衣類を赤く染色するのに例えていると言います。白い服にトマトソースが染みついたら、なかなか取れない、もう真っ白には戻らない。それが人間の理屈です。自分の罪が大したことないと思っているときは、少し頑張ったら白くなると考えます。でも、自分の罪の大きさ、深さ、深刻さに気がつくと、こんな自分は赦されるはずがない、と考えるのです。でも神様は、「論じ合おう」とおっしゃる。あなた方の罪は滅ぼされるのが当然なほどに酷い。でも、その罪、人間にはどうすることもできない罪に染まった心を、神様は白くすることができる。そのことを信じるか。そう神様は私たちにも訴えておられるのです。主の救いとは、人間が自分の力や理屈でどうにかできるというレベルではなく、全能の神様が救ってくださると言われる、そのお言葉に信頼することなのです。
3.救いを委ねる(21〜31節)
イザヤ書は、ただ神様が救ってくださるんだから、何も考えずに、信じろ、というような信仰を教えているのではありません。むしろ神様のお考えをしっかりと受け止めることが大切です。三つ目に神様の救いの計画についてお話ししたいと思います。
21節から26節は、特徴的な詩の形で書かれています。21節。
21 どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。
22 おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。

これはエルサレムのことを語っているのですが、かつては忠心の都、つまり神様に従う町だった。でも、それが遊女に例えられるように、まことの神ではない、偶像を拝むようになってしまっていたのです。公正や正義ではなく、今や人殺しの町になった。金属に例えるなら、純銀ではなくて不純物だらけで価値のない金属、かなかすだ。お酒に例えるなら、良い酒だったのが、水増ししてまずい酒になってしまった。これが今のエルサレムの現実だとイザヤは指摘します。しかし、後になってエルサレムは変えられます。25節。
25 しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。
26 こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。」

神様はかなかすになった金属を溶かし、不純物を取り除いてくださる。偶像を取り除いて、正義の町、忠信な都にしてくださるのです。この逆転現象は、とこで逆転が始まるか。それが24節です。
24 それゆえに、──万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ──「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。
この節の前後で、罪だらけの今の姿が、神の義に添った姿に変わり始める。それは、主の御告げ、すなわち神の言葉が語られたときからです。神様が計画した救いが実現するとき、エルサレムが、神の民が、あるべき姿に変えられ始める。この預言は、神のことばであるお方がこの世に来てくださったことで成就します。「わたしの敵に復讐しよう」と、キリストが十字架で神の怒りを引き受けてくださり、罪に打ち勝ってくださった。キリストこそ、私たちが罪から義へと変えられる逆転の中心なのです。イザヤの時代には実現はしませんでしたが、彼が預言したことが後の時代に実現し、キリストによって完成する。それが主のなしたもう救いなのです。
このキリストによる逆転、罪人が義人に変えられる救いの御業は、私たちの人生にも成就します。キリストに出会い、十字架が私の罪のためだと認め、神の救いの御業に信頼するとき、キリストは私の生涯において逆転の中心となって、私たちの生涯を造り変えてくださるのです。神様は聖書を通して救いのご計画を示してくださった。この御言葉を信じて受け入れ、そして神様が私になそうとしておられる救いの計画に従う。それは、自分の思い通りに救いを達成するのではなく、神様のご計画に従い、神様のお働きに自分をまかせるとき、神様が道を示し、力を与えて、従わせてくださいます。その時、私たちの人生も新しくされ、緋のように赤い罪に染まった心がきよめられて、雪のように白い心としてくださるのです。
まとめ.
預言者たちは、時には厳しく罪を糾弾します。でも、示された罪は、私のことだと認めるなら、神様の救いの道が開かれているのです。イスラエルは愚かな罪人であり、赦されないほどに罪に染まっていた。それでも神様は救おうとしてイザヤに語らせてくださった。この御言葉を私たちも受け止めて信じ、神の赦しの恵み、きよめの信仰を確認させていただきましょう。
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posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教