2022年10月09日

10月9日礼拝「愚かな自慢話」第二コリント11:27〜30(11章)

10月9日礼拝「愚かな自慢話」第二コリント11:27〜30(11章)
自慢話というのは、誰でもしてしまうことはありますが、あまり自慢ばかりしてしまいますと、聞いている人からは嫌がられます。それでも自慢したがる人は愚かに思われます。でも人間と言うのは自分を良く見せたがる部分があります。人から良い評価を受けたいものです。ですから自慢話は知らず知らずにしてしまうのです。自分のこと、自分の家族のこと、自分の学校や会社など、自分が所属している集団を自慢する。自分のしてきた成功体験を繰り返して語りたくなる。人がそれをしているとすぐ分かりますが、自分がしているのが自慢だと気が付かずにしていることもあります。
さてクリスチャンは証しをします。そのときに気を付けるのは自慢話にならないことです。自分を良く見せるため、自分の失敗や弱さを隠したくなります。でも、証しとは自分ではなく、自分を救ってくださったお方を証言することです。自分の弱さ、失敗、そして罪。その中からキリストが救い出してくださった。ですから素晴らしいのは自分ではなく、キリストが素晴らしいお方。神様こそ褒めたたえられるべきお方。それがクリスチャンの証しです。
今日、開かれております第二コリント11章は、パウロが自慢話をしています。なんでパウロともあろう人が自慢なんか、と思うかもしれませんが、理由があります。そして、パウロが本当に語りたかったことを読み取りたいと思います。いつものように三つのポイントで。第一に「パウロの心配」、第二に「パウロの誇り」、そして第三に「パウロの救い」ということをお話ししてまいります。
1.パウロの心配(1〜15節)
1節に目を向けます。
1 私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。
そして少し先ですが16節。
16 くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。
17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。

パウロは愚かだと思われるかもしれないと分かっていながら、わざと自慢話をしようとしている。なぜでしょうか。18節。
18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
19 あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。

どうも、先に自慢話をしている人たちがいるようです。そして、そんな自慢話をよく我慢して聞いているな、と半分呆れているみたいです。それでもパウロが自慢をするのは、彼らの自慢話が悪い影響を引き起こしているからです。もどりまして2節。
2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

これは当時の文化ですが、娘を嫁がせる父親になぞらえて、教会を花嫁と呼んでいます。教会をキリストの花嫁や妻に例えるのは、聖書の中に度々出てきます。賛美歌にもあります。これは一人一人が花嫁になるのではなく、教会全体が一つの存在として花嫁と言われる。パウロはコリント教会がキリストの花嫁に相応しい純粋な存在となることを願っているのに、それを汚そうとしているのが悪魔です。具体的には、パウロの反対者たちが自分を自慢して、逆にパウロのことをけなし、その結果、コリント教会のある人たちは、パウロの語ることに耳を傾けなくなり、間違った教えがはびこるようになる。彼らは愚かな自慢話にすっかりと騙されている。だからパウロは自分の敢えて自慢話をして彼らの目を覚まさせようとしているのです。4節で、
4 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。
と語っているのは、「みごとにこらえている」と言っていますが、実際には騙され始めているのです。どんな自慢話に騙されているか。いくつか、ここにほのめかされています。5節。
5 私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。
ここに「大使徒」と語っているのはワザとで、敵対者はパウロをけなすために、十二使徒こそ大使徒であって、パウロは大したことないと言うのです。自分たちは大使徒である、あの十二使徒の一人、おそらくペテロでしょうか、使徒ペテロから洗礼を受けたんだと自慢していたのでしょう。また6節最初には
6 たとい、話は巧みでないにしても、
パウロは少し話下手だったようですが、ある伝道者、恐らくアポロの事でしょうが、大変に言葉巧みだった。私はアポロ先生の説教に感銘を受けてクリスチャンになったんだ。そして7節。
7 それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪だったのでしょうか。
8 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。

パウロはコリント教会からは報酬を受けずに、他の教会からの援助で生活をしながら、時には自分の手で仕事をして生活費を稼いでいた。そのことを非難する人がいたのです。実際、世の中では給料をどれだけ受け取っているかがステータスとなることがあります。そして高給取りであることがその人の能力が高いと評価される。ですからパウロよりもたくさんのお金を要求する人が偉い、パウロは自分にやましいところがあるからお金お受け取らないんだ、と悪口を言うのです。パウロはコリントの町の人がお金に執着しているのを見て、あえて彼らからはお金を受け取らない。それは、救いは無代価で与えられるということを分かって欲しかったからです。
私たちも知らず知らずのうちにこの世の考え方に影響されて、実は御心とは異なる評価、間違った判断をしてしまうことがあります。有名な人、力のある人、自分に利益をもたらす人が価値があると、その人を誇り、その人に関係している自分を誇る。でもパウロは10章17節で
10;17 誇る者は、主を誇りなさい。
本当に誇るべきは主イエス・キリストだけなのです。
2.パウロの誇り(16〜30節)
二つ目のポイントに移ります。パウロはここまで分かっていながら、あえて、自慢をしようとしています。その自慢を見てみましょう。22節。
22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
へブル人とは、簡単に言えば、ヘブル語を話すユダヤ人で、ギリシャ語を話すがヘブル語は話せないユダヤ人を見下していたことが使徒の働きにも出てきますが、パウロも異邦人にはギリシャ語で語っていますが、当然、ヘブル語で話す、そしてヘブル語の旧約聖書に精通していました。また彼らはイスラエル人、栄光ある民族だと誇り、アブラハムの子孫として神様の祝福の約束を受けていることを自慢していた。でも、パウロもイスラエル人であり、アブラハムの子孫です。ただ、それを自慢して異邦人を見下すことをしなかっただけです。そんな見かけ上の血統よりも、もっと大事なのはキリストによって救われたことです。23節。
23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
コリント教会の派閥のなかには「キリスト派」があったと第一コリントの1章に書かれていますが、確かにクリスチャンは本来は誰もがキリストの弟子です。でもそれを自慢して他者を見下す人がいたので、パウロは、それならば自分もキリストのしもべだ。しかし、キリストのしもべとは偉ぶることではなく、キリストが迫害されたように僕も迫害を受ける。それがしもべの証しだというのです。ここからパウロの苦しみ自慢が始まります。犯罪を犯したのではないのに牢獄に入れられ、鞭で打たれた。石打ちの刑に遭ったこともある。船が難破し、盗賊に襲われ、同胞であるユダヤ人からも、また異邦人であるローマ帝国の役人からも苦しめられ、飢えて、寒さに凍えてきた。もし苦労話が大切なら、パウロほど自分の苦労を語ることが出来る人はいないでしょう。28節。
28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

コリント教会だけでなく、各地の教会から知らせが入るたびに、他の人たちのために心を痛め、神様にとりなしの祈りをし、また手紙を書いて彼らを戒め、励まし、導くために、いつも弱い人や躓きそうになっている人のことを考えていた。そこには堂々とした力強い伝道者ではなく、心を痛める弱さが語られている。30節。
30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
この世は、弱肉強食の世界です。自分の弱さを語ると、その弱点を攻撃され、弱い存在を蔑み、批判されます。でもイエス様は、十字架上で弱さをさらけ出して、私たちを罪から、自分を誇る高慢な罪から救ってくださったのです。自分を誇るときはキリストから離れています。自分の弱さを認めるとき、キリストはそばにいてくださり、私たちはキリストの似姿、キリストのかたちに似ていく。ですから、クリスチャンは弱さを誇りとし、キリストをほめたたえるのです。
3.パウロの救い(30〜33節)
三つ目のことを話して終わりたいと思います。11章のまとめとしてパウロは一つのエピソードを語ります。32節。
32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。
33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。

最初、ここを読むとき、何か違和感を覚える人もいるでしょう。どうしてパウロはこんなエピソードを語るのか。苦しみ自慢の続きとして語るには、もっと大変な困難を取り上げたら良いのに、と思います。でも、それも私たちの陥りやすいことかもしれません。こんな大変な経験をしたんだと誇る。それは、その苦難を耐えることが出来た強さを誇りたくなるのです。でも、弱さのある自分だからこそ、神様の助けが必要なのです。「丈夫な人には医者はいらない、いるのは病人である」とイエス様も教えられたとおりです。
パウロが最後に取り上げたのは、小さな体験ですが、彼がクリスチャンとなって最初のころに受けた迫害です。ダマスコ途上でイエス様と出会って、彼は変わった。それまでは迫害者だったのが、宣教者になった。ダマスコの町でさっそくキリストを証ししようとして、捕まえられそうになった。そのとき、仲間たちがパウロをかごに入れえて城壁からつり下ろして逃がしてくれた。かごに入れられてつり下ろされるとき、パウロは何を考えたでしょうか。自分の無力さです。ぶら下げられて何もできない。ただ助けてもらっただけ。自分の力なんてない。でも、それが救いなのだとパウロは痛感したのです。自分の力ではなく、ただ神の恵みによって救われた。この体験がパウロのクリスチャン生涯、伝道者生涯の土台となったのです。
私たちの人生の土台は何でしょうか。自分の力、自分の成功体験でしょうか。それはいつか崩れ去るときが来ます。人生の最後には消えてなくなるものです。でも、神の恵みに生きる人は、死ぬときにも神の恵みの御手に自分を委ねて平安です。天国に入るのは自分の功績によるのではなく、神の恵みです。パウロは自慢話をしたかったのではなく、誇る者は主を誇り、弱さを誇り、恵みによって生きることを伝えたかったのです。
私たちは何を誇り、何によって生きているでしょうか。
まとめ.
イエス様のご生涯をたどるなら、いつも弱い人に目を向けておられたことを思い出します。ですから、もし私たちが自分の弱さに気が付くなら、その時、キリストが私に心を配っていてくださる。自分の力や功績を誇り、誰かの力に頼るとき、それはキリストのしもべのあり方からずれてしまっています。私たちは何を誇り、何を証しするか。ただ主をあがめ、主を誇る者とならせていただきましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教