2022年10月02日

10月2日礼拝「厳しい言葉の理由」第二コリント10:15〜17(10章)

10月2日礼拝「厳しい言葉の理由」第二コリント10:15〜17(10章)
今、礼拝では『コリント人への第二の手紙』という一つの書を一章ずつ解き明かしてメッセージを取り次がせていただいております。このような説教の仕方を、連続講解説教と言います。聖書はどの箇所からお話ししても素晴らしい恵みがそこにあるのですが、連続してお話しすることで、一箇所を読んだだけですと感じることができないこと、その書全体を通して語られている神様からのメッセージに触れることができるという良い点があります。欠点としては、同じ書からのメッセージが続くので、飽きてしまうかもしれない、ということがあります。一つ前の『コリント人への第一の手紙』から続けて、皆様にもご忍耐をいただいて続けてまいりましたが、いよいよ終盤に入ってまいりました。終盤というのは、9章までと少し変わった書き方となってきて、最後の13章までつながっていきます。どう変わったかと言いますと、口調が厳しくなってきている、と感じます。ここまでは、混乱した教会の人たちが苦しんでいた。でも、彼らは自分の罪を悔い改めた。その辛い、悲しい思いにいる人たちへの慰めの言葉が多かったのですが、この10章からは厳しい言葉で彼らの罪を叱っている。でも、厳しい言葉を使っているのには理由があります。決して、感情的になって叱りつけているのではなく、厳しい言葉でなければ伝えられないメッセージがあるのです。
いつものように三つのポイントで。第一に「神の裁きの力」、第二に「御言葉の力」、そして最後に「力の主を誇る」という順序で進めてまいります。
1.神の裁きの力(1〜6節)
さて、口調が変わったと言われている、10章の1節から少し読ませていただきます。
1 さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。
2 しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。

1節でパウロが自分のことを語って、「私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です」と言っています。自分のことをそんな風に言うだろうか。実は、これはパウロと言うより、パウロに反対する批判者たちがパウロの悪口を言っているのを、パウロはちゃんと知っていた。彼らは、パウロという奴は、手紙では強気なことを書いているけど、面と向かって話すときは弱々しい、とパウロをけなしている。同じことが、10節にも出てきます。
10 彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」
手紙は強気な書き方だが、話しぶりはなっていない。当時の説教者の中にはギリシャの学問の一つである弁論術に長けていて、見事な話し方で語る人もいた。それと比べるとパウロの説教は素人の話し方だ、とでも言っているのでしょう。確かにパウロの手紙は時には厳しい言葉と内容ですが、でも時には慰めと愛に満ちた配慮を観ることができる。ですから話すときも、相手を見て、優しく話すこともあれば、相手が厳しい言葉でも受け止めてくれる信仰があると、相手を信頼して厳しいメッセージを語ることもある。批判者は、表面的な語り方だけを見て、悪口を言っているのです。そこでパウロはコリント教会の多くの人、特に自分たちの罪を認めて、涙ながらに悔い改めた人たちには慰めのメッセージを語ったあとで、今度は批判者たちに対しては、彼らは真剣にメッセージを聞こうとしないので、ここでは厳しい口調で語って、彼らにも悔い改めを迫っているのです。
パウロは言います。彼は、批判者たちに対しては勇敢に振る舞うことができる。もっとはっきりと言うなら、5節。
5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

パウロの背後には、パウロを異邦人宣教に遣わされた神様の権威が控えている。ですから、パウロは行って、彼らを罰することもできる。でも、直接に行って彼らを裁くのではなく、その前に、どうにか彼らには自分の罪に気がついてもらい、悔い改めの心となってから会いたい。ここにパウロの、反対者たちに対してさえ持っている愛があるのです。パウロは批判者たちも、救いの恵みに与って欲しいのです。だから、聞く耳を持たない批判者たちには厳しい言い方で語りかけて、神の言葉に耳を傾けて欲しいのです。
神様は私たちを滅ぼそうとしておられるのではなく、救おうと考えておられる。しかし、そのためには、まず罪を悔い改めることが必要です。そのために、厳しく語られることが聖書にはある。厳しい言葉には理由があるのです。ある人がこうおっしゃいました。「あなたは、神様に叱られたことがありますか」。御言葉によって聖霊が叱ってくださるのは、私たちを救いたいからです。小さな子どもには優しく語ることも必要です。まずは愛の言葉をたくさん受けて、神様との信頼関係、つまり信仰を育むことが必要です。でも、大きく成長するにつれて、叱られることもある。それを受け止めるように成長した証拠です。キリスト教の中には厳しい面があります。聖書は、特に旧約聖書は厳しい言葉がある。でも、それは私たちを救いに導こうとしておられる神様が背後におられるのですから、私たちは厳しい言葉を拒んでしまうなら、いつになっても成長が進まない。耳障りの良い話や、自分にとって益となる話ばかりを求めるのではなく、時には神様の前に真剣に進み出て、厳しくもある神の愛を知らせていただきたいと思います。そして、その御言葉に応答して、もし悔い改めるべき事があれば、それを受け止める。神様は私たちに御言葉へと応答を決断するように語っておられるのです。
2.御言葉の力(7〜11節)
パウロの厳しい言葉の背後には、神様の厳しさがあり、またパウロの恵みのメッセージは、神様の愛の現れです。この神様は、語られた言葉が事実となるお方です。「光あれ」と言われると、光が存在するようになった、と書かれている通りです。預言された通りに救い主が来られた。ですから、神様の言葉を伝えるパウロも、手紙で書いたことをその通り実行しようとします。10節と11節。
10 彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」
11 そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。

ここだけを読みますと、パウロは厳しいことを語ったら、厳しい行いをするのか、とパウロのことを怖い人のように感じます。でも、パウロの本心は、8節にあります。
8 あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、
ここでパウロは、自分には神様からの権威が授けられているが、それは、批判者たちを倒すために用いるのではなく、建てるためだ、と言うのです。聖書の中に、愛に満ちた言葉もあれば、罪に気がつかせるために厳しい言葉もあるのは、教会を、私たちを建て上げるためです。キリストのからだと呼ばれる教会が建てあげられるには、優しい言葉ばかりではなく、厳しい言葉も必要です。パウロの権威は、救いに導くためであり、罪に対しては罰を与えることを警告するためにもあります。それは矛盾しているのではなくて、教会がバランスの取れた健全なからだとなるため、また私たちの信仰も正しい姿に成長するためです。
パウロに権威を授けた神様は、私たちにも聖書を通して語り掛け、その御言葉にどのように応答するかは私たちに委ねられています。御言葉を聞いても受け入れず、神様に背を向け続けるなら、やがて御言葉が警告している通りに裁かれる。でも、厳しい御言葉でも、それを語ってくださる神様を信頼して、受け入れるなら、救いに導かれ建て上げられていくのです。自分でそうならなければならない、ということではなく、御言葉に、その力があるのです。
3.力の主を誇る(12〜18節)
三つの目のポイントに移ります。
パウロを批判する人たちのことは、第一の手紙の時にもお話ししましたが、コリント教会には分派分裂という問題がありました。具体的には、パウロ派、ペテロ派、アポロ派といったように、指導者たちの誰につくかで争っていたのです。パウロはコリント教会を開拓した人ですから、パウロ派があるのは不思議ではありませんが、それ以外の人たちはパウロの権威に反対するために、彼を批判し、悪口を言っていた。この10章からは、そのような人たちに対して書かれている面もあります。
反対者たちは、パウロと他の誰かを比較して、パウロの足らない点を攻撃します。アポロは雄弁な説教家でしたので、パウロの説教が洗練されていないと文句を言う人がいた。またペテロは十二使徒のリーダーであり、キリストから直接に権威を授かったので、パウロには権威は無い、と批判があった。そして、そのような悪口に振り回されて、パウロの言葉を聞かなくなる人も出てくる。ですから、パウロは、時には厳しい言葉も使って、彼らの誤解を解き、もう一度、福音の前に立ち返るように語ったのが、この手紙なのです。
パウロ自身は自分を他の誰かと比較して、自分の方が偉い、と言うのではありません。12節。
12 私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。
13 私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。

反対者たちは、パウロが自分の分を超えて、他の人が宣教した教会を自分のものとしようとしている、と言いがかりをつけます。でも、コリントに伝道したのはパウロが先で、その後にアポロが来たのですが、そもそもキリスト教の宣教が始まったのはエルサレムからだから、世界中の教会は十二使徒であるペテロの働きだ、と屁理屈を言う人もいたのでしょう。でも、それはパウロが言うように、知恵のないこと、神様から見るなら愚かであり、パウロは、誰が福音を伝えても、結果として多くの人が救われたら、それで良いじゃないか、という人です。
人間は高慢な部分があって、何かを誇りたい。自分を誇るか、自分に関係する人を誇って、さも自分も偉くなったかのような顔をする。パウロは言います。17節。
17 誇る者は、主を誇りなさい。
誰が福音を伝えようと、誰の働きが大きいとしても、その人を救ってくださったのはキリストです。主が十字架について私たちを救ってくださった。ですから、本当に栄光を受けるべきお方はキリストです。教会は、キリストのからだと呼ばれ、その「かしら」、これは「頭」という字を使いますが、教会のからだにとって頭である「かしら」とはキリストです。教会がキリストの手となり足となって多くの働きを成し遂げても、それはキリストがしてくださったことだと受け止めて、主を誇る。それがキリストに従う者のあり方です。
証しということを時々お話しますが、自分の信仰体験を他の人たちに伝えて、神様からいただいた恵みのお裾分けをするのですが、その時に大切なのは、自慢話にならないように、という事です。自慢は、自分を誇ります。証しは、キリストを誇り、救ってくださったお方に感謝と栄光をお返しすることです。証しに限りません。私たちがする奉仕もキリストのためです。礼拝も、自分のためではなく、キリストの栄光をお返しするのです。私たちの信仰生活が自分のためにならないように気をつけましょう。もちろん、主に礼拝をお捧げした結果、私たちの心に平安が与えられ、力に満たされる。それは神様からの恵みであって、まず私たちは主のために礼拝を捧げるのです。
救い主イエス・キリストこそ、私たちを裁く権威を持っておられる教会のかしらです。また私たちを罪から救い、聖め、天国まで導いてくださるお方です。またキリストこそ、私たちの力を与えてくださるお方です。そして、私も主のものです。この信仰に至るために、自分を誇り、自分のために生きる罪を示されて、悔い改める必要がある。ですから聖書は厳しい言葉も優しい言葉もあって、私たちに語り掛けているのです。
まとめ.
聖書を読んでいて、あるいは説教を聞いていて、厳しい言葉が心に迫ることがあります。それはあまり嬉しくはないかもしれない。自分の罪深さを知って、気落ちするでしょう。でも、自分が弱いからこそ、キリストの恵みが私たちを救うのです。イエス様は、私たちの救い主、私たちの主なのです。このお方を信じて、御声に耳を傾けてまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教