2022年09月11日

9/11礼拝「喜びにいたる慰め」第二コリント7:4〜10(7章)

9/11礼拝「喜びにいたる慰め」第二コリント7:4〜10(7章)
今日、開かれておりますコリント人への手紙第二は、その名前の通り、手紙です。使徒パウロがコリント教会の人たちに書いた手紙が聖書の一つの書となっています。聖書は読みやすいように1章、2章と区切られていますが、本来の手紙は、皆さんも手紙を書いたことがおありでしょうが、1章、2章というように区切ることはないでしょう。ですから、7章はもともと6章からつながっていて、1節と2節は6章と結びついていて、3節で話題を転換して、4節から新しい話題が書かれている。それは「慰め」ということで、先ほど司会者に読んでいただいた4節から10節までに5回ほど「慰め」という言葉があり、その反対の「悲しみ」という言葉も何度か出てきます。悲しみが慰められる。誰でも、苦しいとき、辛いとき、悲しいときがある。でも私たちが信じている神様は慰めの神です。6節にこう書かれています。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は
気落ちしたときに慰めてくださる。素晴らしい恵みだと思います。でも、どのように慰めてくださるのか。それは喜びに至るまで慰め続けてくださるのです。
いつものように三つのポイントに分けて御言葉を取り次がせていただきます。第一に「慰めの神の働き」ということ、第二に「御心に沿った悲しみ」、そして最後に「誇りと信頼による喜び」という順序で勧めてまいりたいと思います。
1.慰めの神の働き(1〜7節)
昨日も教会員の方のご葬儀が行われました。八月は二人の教会員が天に召されました。それぞれのご家族によって違いがありますが、寂しさを感じる方は決して少ないはずはない。大きな損失をしたり、失敗をするのも悲しいかもしれませんが、愛する家族が突然に亡くなることは、人間誰もが悲しみを感じることです。自分や自分の家族友人に関する苦しみだけでなく、教会の兄弟姉妹が辛いとき、教会全体が弱っているときに、心から平安でいることはできない。大きな悲しみや苦しみの場合は、誰かが慰めようとしても、表面的には言葉をかけることができても、心の奥に届くような慰めの言葉は、なかなか出てきません。しかし、人間には誰も慰めることができないようなときに、神様はその人を慰めようとして働いてくださるのです。気落ちして、心がうなだれているときに神様の御言葉に慰められた体験をした方もおられるでしょう。何かの出来事が、小さなことであっても、それが心に響いて、神様からの慰めとなることもあります。
さて、手紙を書いたパウロ自身が神様からいただいた慰めについて少しお話ししたいと思います。5節から読みます。
5 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。

これはパウロの第三回伝道旅行のときです。エペソでの伝道を終えて、パウロは主に陸路でエーゲ海の周りを左周りで進んでいき、マケドニアに着きました。マケドニア地方にはピリピやテサロニケといった町があります。そのころ、パウロの心は「気落ちしていた」と書かれている。どうしてか。パウロはコリント教会の問題を聞いて心を痛め、どうにかしようとしていました。手紙を書いた。それがコリント人への手紙第一です。手紙を送っても解決しない。そこで使徒の働きには書かれていませんが、パウロはおそらくエーゲ海を渡って直接にコリントに行って、彼らと会った。でも上手くいかない。パウロはエペソにもどって、もう一度手紙を書いた。それが今は残っていない手紙で、悲しみの手紙とか涙の手紙と呼ばれています。手紙を書き送ってから、その結果、コリントの人たちが手紙をどう受け止めたのか、パウロは心配でした。これまで手紙を書いても直接に会っても上手くいかなかった。今度の手紙で、また誤解を与えたり、反感を生んだら、ますますコリント教会との関係はこじれて行ってしまうかもしれない。そう思うと、パウロは自分のしてきたことが無駄だったのだろうか。先走りして行ってきたのが間違っていたのだろうか。そう思うと心が沈んでいったのです。コリント教会の問題だけではありません。伝道旅行では、盗賊に会ったり嵐に会ったりすることもあり、町について伝道すると迫害を受けます。そのようなことが度重なって、パウロの心は気落ちしていたのです。
私たちも似たような経験をすることがあります。人間関係が悪化して、話をしても手紙を書いても、何をしてもますます悪化していく。誰かからいわれのない批判を受ける。相手のためにと思ってしたことが誤解されてしまう。最初は頑張ってどうにかしようと思っていたのが、失敗が度重なると、もうダメかと諦めそうになる。パウロはそんな心持ちだったでしょう。そのどん底だったときに、神様は慰めとなることをしてくださったのです。それは「テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました」とあります。
エペソから手紙、これは涙の手紙とよばれているものですが、その手紙をパウロは弟子のテトスに託して、テトスはエペソから直接にエーゲ海を渡ってコリント教会に行きました。手紙を届けてから、テトスは今度は陸路で海の周りを右回り、パウロたちと反対向きでマケドニア地方に進んでいった。反対向きに回っていますから、どこかで落ち合うでしょう。それがちょうどマケドニアのどこかだったのです。テトスと落ち合うのは打ち合わせ通りですから、不思議なことではありません。でも、それがパウロの一番気落ちしているとき、ちょうどその時にテトスと会えた。信頼する弟子であり、また彼だけが単独で別行動をしていたのですから、この時代の旅は決して安全ではない。テトスのことも心配していたのが、無事に落ち合うことが出来た。それが小さな慰めでした。そしてさらに、7節。
7 ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
テトスと会えただけでなく、テトスがもたらした知らせです。あの手紙を読んでコリント教会の人たちが変えられた。テトスはテトスで不安な心で手紙を運びました。これを読んだらコリント教会の人はどう受け止めるだろうか。テトスは弟子としてパウロのことをよく見ていましたから、パウロの心配が良く分かっていた。でも、実際にコリント教会にいって手紙を渡したら、手紙を読んだ人たちは涙を流した。これが「涙の手紙」と呼ばれる所以です。涙を流して悲しんだのは、自分たちが間違っていたと気が付いたからです。そしてパウロがコリント教会の人たちをどれほど愛しているかが分かって、彼らもパウロへの尊敬と愛を確認した。その様子を見て、まずテトスが慰められた。そしてテトスはそのことをパウロに知らせたとき、パウロも慰めを受けたのです。
悲しみの中で打ちひしがれている人を神様は憐れんでいてくださり、神様の時が来たら慰めを与える、そのためにすでに働いておられるのです。コリント教会の人たちが手紙を読むころには、彼らの心を少しずつとかしてくださり、素直な思いで手紙を読むことができた。頑なな心のままですと、こちらが何をしても受け入れることが出来ません。でも神様が何かをして、彼らの心を変え始めておられた。そこから悲しんでいた人たち、パウロもテトスも、そしてコリント教会の人たち自身も悲しんでいたのが慰められた。イエス様が山上の教えで語られたとおりです。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」。慰めの神様が必ず慰めてくださり、神様からの慰めはついには喜びにまでいたる慰めです。だから悲しむ者は幸いだと言われた、その通りです。
2.御心に沿った悲しみ(8〜13節)
二つ目のポイントに移ります。8節から読みます。
8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

あの手紙というのは涙の手紙か、それともコリント人への手紙第一のほうかははっきりしませんが、パウロは自分のしたことで彼らが悲しんだのを知って、パウロも悲しかった。でも、この悲しみは、やがて慰めにかわる。なぜか。それは「あなたがたは神の御心に添って悲しんだ」と書いています。神のみこころに添った悲しみとは何でしょう。その反対は世の悲しみと書いてあります。世の悲しみとは神様抜きの悲しみ、神様から離れた悲しみです。悲しみのあまり、すっかり神様から心が離れていると、問題を解決できるはずがなく、ますます悲しみが深まっていく。でも神の御心に添った悲しみは、悲しみつつも神様に近づくのです。
旧約聖書の詩篇には信仰者たちの祈りがたくさん残されていて、中には悲しみや苦しみの中の祈りがあります。「神様、なぜですか」と神様に食って掛かっているような祈りもあります。それでも神様に心を向けている。やがて祈りは変えられて行き、最後には神様に感謝し、賛美するようになる。
コリント教会の人たちの悲しみも、神の御心に添っていた。ですから、彼らは神様に祈り、聖書の言葉を読み、聖霊の呼びかけに耳を澄ませた。その時、パウロが悪いとか、あの罪を犯した人が悪いとか、誰かのせいにしていたのが、聖霊が自分自身の罪に気が付かせてくださり、彼らは人ではなく、まず自分が悔い改めた。神様の言葉によって悔い改めに導かれらとき、そこには必ず救いの御業が起こります。他者ではなく自分が変えられるとき、問題は解決に向かうのです。
3.誇りと信頼による喜び(13〜16節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。13節。
13 こういうわけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。
テトスの報告を聞いて、コリント教会の問題が解決に向かっていることを聞いて、パウロは慰められた。でもテトスは、コリント教会の人たちが悔い改めて変えられたのを見てきたので、喜びがあった。その喜びがパウロにも伝染してパウロも喜ぶようになった。悲しみから慰め、そして喜びに変えられていったのです。この喜びはどこから来るのか。14節。
14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったからです。
「私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇った」と書いていますが、なんと言って誇ったのかは書いていません。きっと、コリント教会の人たちの良いところを誉めたのでしょう。実際は、コリント教会は問題だらけの教会で、誇れるような教会ではない。でもパウロは彼らの良い点を見ていた。
私たちは他者の悪いところばかり見て裁いてしまうことがあります。でも、その人の良い部分に目を留めるとき、希望が与えられます。きっとコリント教会の人たちはいつか分かってくれるはずだ。そうテトスに語って手紙を運んでもらった。その誇ったとおりになって、コリント教会が変えられた。パウロが彼らを信頼していた、その信頼のとおりになったのです。そして、この信頼は喜びに至ります。16節。
16 私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。
信頼がさらなる信頼を生み、ついに全幅の信頼を寄せるまでになったとパウロは喜んでいます。この信頼関係がどれほど大切でしょうか。信頼が薄いと、ちょっとしたことで相手に失望して、裏切られたと思ってしまう。でも信頼があるなら、ちょっとやそっとのことでは揺るがない関係となります。そのような関係を、人に対しても、それ以上に神様に対しても信頼することが出来るなら、どんな問題があって、悲しみや苦しみがあっても、必ず慰めが与えられ、喜びにまで至るのです。
最初に戻って、4節。
4 私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。
パウロがコリント教会のことを諦めなかったのは、最初から彼らを信頼していた、誇りとしていたからです。このような関係を私たちも築き上げていきたい。キリストのからだを建て上げるとは、そういうことです。お互いのことを誇り合い、信頼し合う教会は、嵐が来ても揺るがされません。揺らいでも立ち直ることが出来ます。そして嵐を乗り切ったとき、そこに大きな喜びがあるのです。
まとめ.
悲しみの中にいる人たちがおられます。その人たちに天からの慰めがあるように、私たちは祈ります。でも、祈っている自分自身にも慰めが必要なのではないでしょうか。コロナ禍にあって、心も体も疲れ切っている。経済的な問題、もつれた人間関係、いろいろな問題が積み重なるなかで、心が気落ちしているのに気が付かないほどに疲れ果てている。そんな私たちにも神様からの慰めが必要です。いいえ、神様はすでに働いておられ、見えないところで手を伸ばしていてくださる。私たちが慰めの神様に立ち帰って御声に聞き従うなら、神様が喜びに至らせてくださるのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教