2022年08月14日

8月14日礼拝「キリストの光が輝く」第二コリント4:16〜18(4章)

8月14日礼拝「キリストの光が輝く」第二コリント4:16〜18(4章)
高校野球もそうですが、スポーツ選手が懸命に競技しているのを見ると輝いて見えます。スポーツにかぎらず、一所懸命に働いている姿は、感動を与えます。私たちは、輝くような生き方を送っているでしょうか。自分を見ると、足らないところだらけで、人様に見せられるような人生ではないなと思うのですが、でも、クリスチャンにとって大切なことは、自分が輝くこと以上に、こんな私を救ってくださったお方が私を通して光を放ってくださることです。
今日は「キリストの光が輝く」との説教題で、コリント人への手紙第二の4章からメッセージを取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで、第一に「輝く福音」、第二に「土の器」、そして第三に「永遠に新しく」という順序で進めてまいります。
1.輝く福音(1〜6節)
4章の1節から拾い読みをしていきます。1節。
1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

「私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられている」と言っています。パウロ一人ではなく、パウロの仲間もそうですが、コリント教会の人たちもそうであり、私たちも「この務めに任じられている」のです。その務めとは、神のことばを曲げずに真理を明らかにすることであり、さらに5節。
5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
と言っているように、キリストを宣べ伝える務めです。神の御言葉を伝え、キリストを宣べ伝える。すなわち福音を伝えることです。キリストの十字架によって救っていただいた私たちには、このお方を伝える責任があり、また、イエス様ご自身が、「福音を宣べ伝えよ」と弟子たちに命じられたのは、私たちにも同じ事を命じておられるのです。
このイエス様の命令に従って、二千年近くの間、教会は全世界で福音を伝えていきました。欧米からアジアやアフリカと世界に福音は広まり、日本は百数十年の間、宣教がなされてきた。ただ、日本という国はなかなか福音が広まらないとも言われます。もちろん日本だけに問題があるのではないと思いますが、福音を伝えることはいつの時代でも困難が伴いました。初代教会の時代は大変な迫害が続きました。それ以外にも様々な原因があって、福音宣教を妨げています。なぜ伝わらないのか。パウロは、一つの根本的な理由を挙げています。3節。
3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。
4 その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

「覆いがかかっている」という言い方は、3章の後半でも「顔覆い」ということが語られていましたが、それは4節の、「この世の神が不信者の思いをくらませて」、それが福音の光を輝かせないようにしている、というのです。「この世の神」とは、何か。天地を造られた神様以外に、何か神のような存在があると聖書は告げているのでしょうか。そうではないと思います。ここでパウロは偶像とか、いろいろな宗教の神々という言い方をせず、「この世の神」と言うときに、「世」という言い方をしています。これは「時代」と訳すこともできる言葉です。その時代時代ごとに、また国や文化によって、違いはありますが、中心にあるのは「この世」、「この時代」なのです。
現代は、民主主義の時代であり、自由の時代です。過去は違っていた時代もあります。民主主義も自由も大切なことでしょう。でも、それがいつのまにか、人間の思い通りにしようという考えがあり、自分の自由のために他者を、弱い人や弱い国を虐げる。そこに人間の罪があるからです。この自分が中心である考えがあるとき、イエス様が他者を救うために十字架についてくださった生き方は受け入れがたくなる。少し前は、お金が一番という価値観がありました。思想や一つの宗教やカルトのようなものが一番である人もいます。しかし、その価値観が第一であるとき、キリストの価値を拒んでしまうのです。そして、御言葉が伝える福音の輝きが覆われて、輝かなくなっている。イエス・キリストのことを聞いて、そこに崇高なものを感じていた人が、この世の価値から離れられず、キリストの光から目を背けてしまう。すると聖書を読んでも目が鈍ってしまうのです。だから、現代は、また日本は、福音を伝えるのが難しい。いいえ、違います。
6節。
6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
闇と光という例えが用いられていますが、どれほど闇が深くても、神様は天地創造のときに「光あれ」とおっしゃったお方です。私の心の中にも光を照らすことがおできになる。聖霊は、どれほど不信仰な人にも語りかけることができる。そのとき、福音を伝えるのは無理だと考えられていた時代にも、キリストの光が輝くことができる。そう私たちは信じるのです。
2.土の器(7〜15節)
二つ目のことをお話しします。7節。
7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
キリストの光がどれほど素晴らしくても、私はそれを伝えることができない、と誰もが躊躇します。それはパウロも分かっています。コリント教会の人たちも、いいえ、パウロ自身も自分は罪人の頭だと自覚している。ここでも「土の器」と言っているのは、金や銀ではない、価値の低い存在だということです。汚れたものであり、弱く、また欠けだらけの存在です。でも、その土の器であるはずの私を通してキリストの光が持ち運ばれるとき、器自身の栄光ではなく、神の栄光が鮮明に輝くのです。8節。
8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

苦しめられ、時には途方に暮れ、迫害され、倒れるときもある。それが私たちです。でも、行き詰まったり、滅んだりすることはない。村上宣道先生が語られた言葉ですが、「クリスチャンは、ボクシングに例えるなら、ダウンすることはあっても、ノックダウンされることはない」。もし一回も倒れることが無いなら、その人の素晴らしさです。でも、倒れるような弱い存在が、人生の中で失敗をしたり、挫折をしたり、また病気やけがで苦しむこともあれば、愛する人を失う悲しみもある。でも、それで終わりなのではなく、また立ち上がることができるとすれば、それは、もう自分の力ではないことを、誰もが認めざるを得ない。11節。
11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
イエスのいのち、それは死から蘇らせた神の力です。欠けだらけの弱い器である私にも、神の力が働いて、立ち上がるとき、それは感謝と恵みに満ちた人生となるのです。15節。
15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。
3.永遠に新しく(16〜18節)
最後のポイントに移ります。もう一度、16節から読ませていただきます。
16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

「外なる人」とは私たちの肉体と考えて良いでしょう。確かに肉体は衰えていきます。と言っても、若い人は年老いるなんてことを考えたこともないでしょう。でも、心が弱ることを感じたことがある人は少なくないでしょう。何歳であっても、体や心が衰えても、内なる人、キリストと結びついた生き方です。内なる人は日々新たにされていく。これでおしまい、ということは無い。いつも新しい恵みが与えられ、天国を目指して、前に進み続けることができます。
決して楽観主義的な生き方とは違います。今の時代には患難があるとパウロは分かっていますが、その患難でさえも、栄光に変えられる。他の箇所でも、「患難が忍耐を、忍耐は品性を、品性は希望を生み出す」との有名が御言葉もあります。17節では、「軽い患難」と言っています、決して患難は軽いものではないのですが、これは、「軽い患難は、私たちのうちに働いて、計り知れない、重い永遠の栄光」と言っている、「重い」という言葉と「栄光」という言葉は、ヘブル語ですと同じ言葉からできています。栄光に輝く栄光と言ったら良いでしょうか。それと比較するなら、患難は大きなことではなくなる。だから栄光の反対、重いの反対で「軽い」と言っているのです。確かに、今、私たちが体験している苦難は決して小さなものではありません。でも、それを遙かに超える祝福が私たちを待っている。それを知ったとき、患難の中でも希望を知ることができるのです。
もちろん、長い間、苦しみの中におられる方々がいらっしゃいます。でも、「永遠の栄光」と書かれているように、私たちの人生が今、ここで終わるのではなく、やがて神様から与えられた寿命が尽きるときがきても、その後に永遠の世界が待っているという天国の希望を私たちは信じるのです。この永遠ということを考慮に入れた視点を持って物事を見る。その反対は短期的な視点でしょうか。今さえ良ければというような刹那的な生き方や、目の前の利益だけを求める行動が、最後には残念な結果となることは誰もが知っていることです。5年、10年先を考えることができる人もいるでしょう。でも私たちは永遠を考える。それは目には見えないことです。18節。
18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
見えないものに目をとめる、というと何だか怪しい気がしますが、そういうことではなく、このことを違う表現で教えているのが、ヘブル書の有名な言葉です。
ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
目に見えないものを確信させる、それを信仰と呼んでいます。目に見えないものを信じるとは、迷信のような怪しいことを盲信するのとは違う、信仰による行為です。そして信仰とは神様への信頼です。自分には分からない、見えないことであっても、目には見えない神様を信頼するとき、その神様が約束してくださったことを確信して歩むことができるのです。イエス様の弟子たちがガリラヤ湖を船で渡っているときに嵐が来て沈みそうになった。そこにイエス様が歩いて近づいた。それを見たペテロは、私も水の上を歩かせてください。イエス様が命じると、ペテロは水の上を歩いてイエス様に近寄った。でも足下の水を見て、波が怖くなり、イエス様のお言葉の約束を信頼しなくなったとき、沈みそうになった。有名な奇蹟ですが、神様が大丈夫といっしゃるなら、見えるところは分からなくても、このお言葉を信じて一歩ずつ進むこと、それが信仰です。今日も明日も、日々、神様が語ってくださるお言葉を信頼して、歩んでいくとき、不思議なように、日々新たとされるという体験が生まれ、それは永遠の天国にまで続く道なのです。
まとめ.
私が輝いているか、自信はない。でも、神様の御言葉は私の心の内に輝き、時には感謝と喜びを、時には慰めと癒やし、時には希望となってくださる。私に輝いてくださる主を信頼して行く。その生き方が、他の人にも証しとなり、希望を与え、キリストの光が輝くようになるのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教