2022年08月07日

8月7日礼拝「私たちの務めは?」第二コリント3:1〜3(3章)

8月7日礼拝「私たちの務めは?」第二コリント3:1〜3(3章)
私たちは何のために生きているのか。そんな哲学的な問いかけを、若い時は考えたことがあっても、私たちは毎日の忙しさの中で忘れているかもしれません。でも、とても大事な問いかけだと思います。牧師は何が務めなのか。こうして皆さんの前で説教をする、聖書を教える、それも大切ですが、ただ語っているだけではいけない。教会の方たちのために祈ることも重要です。でも、それでは毎日、それをしていることで満足してしまってはいけない。何のために御言葉を取り次ぐのか。この問いかけに対して神様が示してくださった聖句が、エペソ書の4章で、その一部が今年の教会の標語となっています。エペソ4章11節。
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

キリストが私を牧師としてお立てになったのは、私が何かできるとか、そんな業績を上げるとか、そういうことではなく、私だけでなく、様々な方たちと共に、キリストのからだを建て上げるため。この大きな目標の一部を私も担わせていただき、教会のお一人お一人と共に主に仕えていきたいと思わされています。
前置きが長くなりましたが、今日は第二コリントの3章から、パウロがクリスチャンの務め、あるべき姿に関してどう語っているかを、ご一緒に考えてまいりたいと思います。いつものように三つのポイントで。第一に「キリストの手紙」、第二に「栄光ある務め」、第三に「御霊の働き」という順序でお話ししてまいります。
1.キリストの手紙</strong>(1〜3)
この手紙をコリント教会に書き送ったパウロの勤めは、異邦人の使徒として福音を宣べ伝えることです。でもパウロが使徒であることに反対する人たちもいました。3章の1節で「私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか」と書かれているのも、パウロは自己推薦をしていると批判する人がいたからです。確かに誰かの推薦や紹介があると、その人を信頼できます。パウロを推薦するのは誰でしょう。十二使徒でしょうか。イエス様ご自身でしょうか。もちろん、イエス様がパウロを使徒として遣わしたのですから、推薦してくださるはずです。でも、ここでパウロは驚くことを言っています。2節。
2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。
コリント教会の人たち自身がパウロを推薦している。確かに、パウロが使徒として宣教をしなかったらコリント教会は始まらなかった。コリント教会が存在すること自体が、パウロの働きが確かだったことを証しし、パウロの推薦状とも言えるのです。でも現実のコリント教会は問題だらけで、推薦ができるような教会ではありません。ところがパウロは,コリント教会が、パウロを推薦するだけではなく、キリストの手紙だと語るのです。3節。
3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。
キリストの手紙とはどういうことでしょう。前回、2章からメッセージを取り次がせていただいたとき、キリストの香水、キリストのかおりということをお話ししました。それは私たちが周りの人たちにキリストのかおりを伝えている。証しであり、伝道のことです。キリストの手紙も、キリストを伝えるためです。私たちの言葉や行い、生き方を通して、私たちが信じているイエス・キリストがどのようなお方かを示している。それが香りであり、手紙なのです。コリント教会が、パウロが使徒であることを推薦しているように、私たちはイエス様を救い主として推薦しているのです。でもイエス様を伝え、推薦する手紙なんて、私たちがなれるでしょうか。
3節で、墨によって書いたとか、石の板と書かれているのは、律法のことを表しています。律法の最初に与えられた十戒は石の板に書かれました。その後、多くの教えや戒めが墨によって書かれたのが律法の巻物です。起源は神様から来ていますが、それを書き伝えていったのは人間の筆です。でもキリストの手紙は、神の御霊によって書かれ、私たちの心に書かれた。聖霊なる神様が私たちの心に来てくださって、神の言葉を分からせてくださり、心に刻み込んでくださるのです。聖霊が私たちの心を新しくしてくださり、イエス様の救いがいかに人を造り変えるかを、他の人も分かるようにしてくださることです。皆さんが教会に通うようになり、イエス様を信じてクリスチャンとなっていくとき、近しい人から、「前とは変わった」と言われることがあるとするなら、それは私たちを通してキリストの救いが示され始めているからです。
クリスチャンは、何をするにしても、ある人は職場で、ある人は家庭や学校で、またご近所や親しい人との関わりの中で、他の人とはひと味違う姿を現すことができます。職業としての務めは、それぞれの人がそれぞれの働きをしています。でも、教会に来たときや、仕事や家庭という働きも含めて、その人の人生全体がキリストを証しする、キリストの手紙として福音を伝えること、これが私たちの一番の務めなのです。
2.栄光ある務め(4〜12)
二つ目に「資格」ということが語られています。職業の中には資格を必要とするものもあります。キリストの手紙としてイエス様を伝える務めのために必要な資格とは何か。5節。
5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。
自分の力で資格を得るのではなく、神様から与えられた資格です。どのような資格をいただいたのかというと、6節。
6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
新しい契約とは、キリストの十字架によって罪から救っていただけるという契約のことです。言い換えるなら福音です。私たちは福音に仕える資格をいただいたということです。福音に仕えるとはどういうことでしょう。福音とは、イエス様が十字架について私たちの身代わりとなってくださり、私たちは罪を赦していただける。十字架によって救っていただいたのは「私」です。私のためにキリストが十字架について贖いとなってくださった。ところが信仰が成長していくと、私のためのキリストから、キリストのための私、すなわち、私たちはキリストのために生きる、キリストに仕える者となっていく。ですからキリストを伝える手紙としての働きは、私がしたいときにするという自分中心ではなく、私たちが福音に仕え、私たちを神様に用いていただくのです。
さて、この6節の後半は説明が必要な言葉です。「文字は殺し、御霊は生かす」とは、文字を否定しているわけではありません。神様は聖書の御言葉を通して私たちに語りかけてくださるからです。ここでパウロが文字と言っているのは、律法に書かれた文面さえ守ってさえいれば、それで救われるんだ、という律法主義的な考えのことです。人間は自分の力で律法、すなわち私たちにとっては聖書を全うできるのではありません。精一杯努力をしても、なお神様の基準には達することができないで、自分の足らなさに気がつくのです。それが、9節で「罪に定める務め」とパウロが書いていることです。しかし、同じ聖書の言葉を、聖霊が私たちの心に語りかけ、その御声に私たちが従うとき、聖霊が私たちの心の内に働いてくださり、罪を赦し、義としてくださる。9節。
9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
この箇所、7節から11節には、何度も栄光という言葉が出てきます。7節。
7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
ここにモーセの栄光ということが語られています。ユダヤ人にとって、モーセは最高の人物で、栄光ある存在でした。そのことを表しているのが、神様と顔と顔を合わせて語ったモーセの顔が光り輝いた、という出エジプト記の出来事です。でも、パウロは言います、モーセの顔の光はやがて消え行くものだった。でも、キリストの栄光は消えることがない、モーセ以上の栄光です。私たちはそのキリストから務めを命じていただいたのです。その務めは、キリストの素晴らしさを伝えるという栄光ある働きなのです。私たちは神様のなしてくださった救いの恵みを宣べ伝えるという栄光ある務めへと招かれているのです。
3.御霊の働き(13〜18)
最後に、「顔の覆い」ということを取り上げたいと思います。顔覆いとは何か、と言いますと、先ほども触れましたが、神様と、顔と顔を合わせて語り合ったモーセの顔は光り輝くようになった。そのモーセの顔を見たとき、イスラエルの人々は怖がったのです。そこでモーセは恐れている民のために顔に覆いをかけた、そう聖書に書かれています。これは、モーセの配慮という面もありますが、神の栄光に目を向けることができないイスラエルの民の不信仰でもあります。彼らは神様の声を聞くのを拒み、モーセがいなければ神様の御声を聞くことができないように自ら目を背けたのでした。そのために、彼らは御言葉の本当の意味がわからず、間違った理解をしていた。それが14節です。
14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

顔覆いは誰の心にもあります。神様を見ないで人を見て、人間の理解力で聖書が分かると思う時、心に覆いがかかって、御言葉が分からなくなるのです。でも、「それはキリストによって取り除かれる」。人ではなくキリストを見て、キリストが私たちに語ってくださる御声に耳を傾ける。どうしたら、そんなことができるのか。16節。
16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

人の心を主に向けさせるのは、聖霊のお働きです。
聖書を読むということは、聖霊の助けなしにはできないのです。人間の力で理解しようとするなら、自分の力でなんとかできると考える。でも、私たちは「敵を愛せよ」と言われてもなかなかできない。でも御霊の助けをいただくとき、自分自身が神の敵であったときに、イエス様が敵である私を救うために十字架についてくださった、神の愛を知るのです。その時、私たちの心が主の愛に満たされ、敵であった人さえも受け入れることができるまでに変えられていく。それは、聖霊が私の心に語り掛けてくださる御言葉に聞き従い、御霊の助けによって神様の力を信じるときに、私たちの心にも御言葉が成就するのです。ですから、聖書を読むときは、神様の助けを求めて祈りつつ読むのです。自分の理解に頼るのではなく、むしろ分からない言葉を教えてくださる聖霊の語り掛けに従う思いで読むのです。自分が中心であるとき、それは聖霊の働きを拒んでしまいます。でも、お従いする従順な心となるとき、聖霊は自由に働いて、私たちを変えてくださるのです。18節。
18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
不信仰という顔覆いが取り除けられるとき、御言葉を通して明らかにされる主の栄光を豊かに示していただいて、私の心も御言葉の光に照らされて変えていただき、主と同じかたち、キリストの似姿に変えられていく。これがクリスチャン人生の目標です。この最終目標に向かうために、罪から救っていただいただけでなく、キリストを証しする栄光ある務めに私たちは招かれ、そのために日々御言葉の恵みを注いでいただく。そのすべてが御霊なる主の働きなのです。
まとめ.
今、教会は、また私たち一人一人も、コロナの時代にあって弱い存在です。教会は思う存分に伝道をすることが難しい。でも、私たちを栄光ある務めに召してくださった神様は、弱さや失敗のある私を用いてくださり、私たちの心を造り変えてキリストを伝える手紙としてくださるのです。聖霊の豊かな交わりが皆様の上に注がれて、用いていただけるように祈りましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教