2022年07月24日

7月21日礼拝「慰めの手紙」第二コリント1:21〜24(1章)

7月21日礼拝「慰めの手紙」第二コリント1:21〜24(1章)
今日から『コリント人への手紙第二』に入ります。短く、第二コリントとも呼ばれるこの手紙も第一の手紙同様、パウロがコリント教会に書き送ったものです。すでに第一の手紙からお話ししましたが、コリント教会は問題の多い教会でした。はっきり言えば、大変な罪があった。コリント教会を創立したパウロは、手紙を用いて彼らを導き続けていましたから、彼らの中にある罪を見過ごしにはできない。時には厳しい言葉を用いることもありましたが、断罪するのが目的ではなく、悔い改めて立ち直って欲しかった。でも、薬が効きすぎたというのか、コリント教会の人たちに深い悲しみを与えることになってしまった。そこでパウロはこの第二コリントを書いて、悲しみの中にいる彼らを慰めようとした。
慰めを必要としている人は、今も多くいます。愛する人を天に送った方々、長く痛みや苦しみの中にいる方々。いいえ、時には自分でも気が付いていないけれども、長く続くコロナ禍や経済的な苦境の中で、心の奥底で悩みや傷を負っていて、深い慰めが必要な方もおられるのです。
今日は第二コリントの1章から御言葉を取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで、第一に「慰めの必要な時」、第二に「パウロの計画の変更」、そして第三に「神の計画の配慮」という順序で進めてまいります。
1.慰めの必要な時(1〜11)
先ほどは司会者に21節から読んでいただきましたが、手紙の最初から目を向けてまいります。1節、2節は手紙の挨拶部分で、今日はそこには触れません。3節。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

今、読んだところだけでも、新改訳聖書第三版では4回、「慰め」という言葉があり、その後にも続いています。どれほどパウロが慰めということを念頭に置きながら手紙を書き始めたかが分かります。でも、どうして慰めが必要だったのでしょうか。詳しい話は長くなりますので、簡単に手紙が書かれた状況に触れますと、パウロは少なくとも4回、手紙を書いたようです。最初の手紙は現存していませんが、コリント教会を指導するために書かれた。ところが彼らの中に誤解する人もいて、パウロに質問状を書き送った。それに対する答えとして書かれたのが、第一コリントです。それでも問題は解決しないので、パウロはまた手紙を書いた。悲しみの手紙とか涙の手紙と言われる手紙ですが、これも残っていません。その悲しみ、コリント教会の人たちの悲しみを知ったパウロが第二コリント、この手紙を書いたのです。
でも、いくら言葉を尽くして彼らを指導し、慰めようとしても、また誤解されてしまったら逆効果です。人間の言葉には限界があります。語る側も聞く側も不完全ですから、どうしても行き違いがある。ですから、本当の慰めは神様による慰めでなければならないのです。3節でパウロは「慰めの神」という珍しい言い方で神様を紹介し、4節。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
どんな苦しみや悲しみの中に私たちが陥っても、神様ならば慰めることができる。そして、神の慰めはその人を慰めるだけでとどまらず、神様に慰められた人は他の人をも慰めることができる、と言っています。さらに神様が遣わされたキリストは、地上で多くの苦しみを受け、十字架で死なれた後、三日目に復活された。それは嘆いていた弟子たちにとって大きな慰めだった。5節。
5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

パウロがこのように力強く語っているのは、彼自身が体験したからです。パウロの苦しみに関する証しは他の手紙にも書かれていますが、ここでは8節。
8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

アジアと書かれているのは、おそらくエペソでの出来事と思います。それ以外の時も含めて、パウロは何度も命の危険を通りました。迫害や盗賊や難船。彼自身も病気を抱えていた。そして各地の教会から伝わってくる問題も彼を苦しめたでしょう。パウロは死を覚悟するような状況の中で、キリストを復活させた父なる神に信頼するしかない、という信仰に立っていた。そして、その信仰に神様は答えてくださり、ここまでパウロは助け出されてきました。10節。
10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
ここにも三回、救い出してくださるという言葉が出てきます。これまで何度も救い出された。そしてこれからも救い出してくださるという確信。そして、「なおも救い出してくださるという望み」というのは、二回目の助けの後、また助けてくださるという単純な話ではない。なぜなら、いつかは殉教するときが来るとパウロは知っていました。でも、その死からでさえも助け出されるという天国の希望を語っているのです。
今も、教会には多くの苦難があります。一人一人もそうです。でも、かつて助けられたこと、何よりも罪からの救いを思い出して、今ある苦しみや悲しみから助け出され、慰めをうけるときが来ると、神様を信頼します。そしていつかは死ぬときが来ても、なお天国を望み見ることができる。天国では「もはや涙もなく」と黙示録に書かれているように、完全な慰めが備えられているのです。この信仰に立ったとき、11節。
11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
パウロはコリント教会の人たちも悲しみから助け出され、神による慰めを受けて、今度は祈りをもってパウロに協力し、神様の恵みを感謝するまでになることを信じているのです。私たちも、今、悲しんでいる人たちのために祈り、困難の中で与えられる恵みを感謝する者となりましょう。慰めの神は今も私たちと共にいてくださるからです。
2.パウロの計画の変更(12〜20)
二つ目のポイントに移ります。12節。
12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
パウロは、自分たちの行動が人間の知恵ではなく、神の恵みによることを語っていますが、知恵を用いなかったわけではありません。どんな知恵を用いたか。13節では。
13 私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。
パウロはコリント教会に何度も手紙を書き、また他の教会に書き送った手紙も他の教会にも回覧されていました。パウロの手紙は難しく、コリントの人たちの中には自分の狭い考えで間違った理解をして躓く人もいた。でもしっかりと読むなら彼の伝えたいことが伝わってくる。それは神様がパウロに与えてくださった知恵があるからです。手紙だけではない。15節。
15 この確信をもって、私は次のような計画を立てました。まず初めにあなたがたのところへ行くことによって、あなたがたが恵みを二度受けられるようにしようとしたのです。
16 すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニヤに行き、そしてマケドニヤから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。

この計画と言うのは、パウロが当初考えていたもので、エペソから直接船でエーゲ海を渡ってコリントに生き、コリントから北の方にあるマケドニヤ、そこにはピリピ教会もあります。そして、またコリントに戻って、そこからユダヤのエルサレムに向かう、という計画でした。地図の好きな方は御言葉と照らし合わせても良いでしょう。ところが、このパウロの計画は変更されることになってしまった。その変更を、パウロの反対者たちは非難して、パウロは不誠実だとでもいうのです。その批判にパウロは反論して、自分が語ったのは、「しかり」と言ったのが「否」に変わってしまうようないい加減なことではない。イエスと言ったのにノーとなるのはいい加減です。でもパウロは神ではない。神様に従うのが彼の本文であって、神様がこちらに行けと言われたらそうする。そして神様は語られたことを必ず実現されるお方です。ただ神様のお考えは人間の思いをはるかに超えたものです。パウロは二回コリントに行って、15節の後半に、「あなたがたが恵みを二度受けられるように」と書いているように、コリント教会に恵みと喜びをもたらしたかった。でも、実際はパウロが第二コリントを書くよりも前にコリント訪問したようなのですが、その訪問は失敗に終わり、コリントの人たちも、またパウロ自身も悲しむ結果となってしまった。でも、その後、パウロはもう一度コリントに行って、三か月過ごした。それはじっくりと交わることが出来、慰めと恵みへの感謝があった。パウロは二回の恵みと考えたけれど、実際は、一回の悲しみと、一回の恵みです。でも、その悲しみは本当の慰めを受けるために通らなければならないものであって、それが解決したときに大きな恵みがあったのですから、悲しみも恵みへの一歩だった。ですから確かに旅行計画の変更はありましたが、パウロの目的は達成された。それはパウロの知恵ではなく、パウロに働かれた神様の知恵です。
私たちも、いくら計画を立てても、コロナ感染者がまた増加して計画が変わるように、これからも人間の計画通りとはならないかもしれません。でも、神様の御言葉に信頼するなら、神様がご計画を進め、恵みを備えていてくださるのです。
3.神の計画の配慮(20〜24)
神様の最大の計画は、救いの計画です。天地創造の前から人間を救うために御子を送ってくださる計画を立てておられた。多くの歴史を経て準備が進められ、ついにイエス様において成就し、またキリストのからだである教会によって前進し、キリストが再臨されるときに完成する。それが20節。
20 神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

神様はキリストの十字架と復活によって救いの計画を成就されただけでなく、さらに聖霊を送ってくださり、私たちに確信を与えてくださるのです。「油を注がれた」というのも聖霊のことです。神様は教会に聖霊を送ってくださり、信仰をあたえてくださり救いに導かれ、さらに、私たちの心の中に聖霊を住まわせてくださって、確信をもって生きるようにしてくださる。22節の「保障」という言葉は、下の注釈を見ると、「手付金」という言葉だと説明されています。約束だけでもいいはずなのに、手付金まで与えて、確実に実行することを保証してくださる。実に、至れり尽くせりの神様です。
パウロは最後の23節、24節で、
23 私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。
自分から「思いやり」だというのは日本では少し変に感じますが、でもパウロは常にコリント教会のことを考えて行動しているし、また24節。
24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
パウロは支配者としてコリント教会を力づくで押さえつけるのではない。むしろ教会と協力して彼らが喜びと信仰に立てるようにと願っている。このパウロの姿勢は、神様の姿勢から来ています。神様は天地万物の主として全てを支配する権威を持っておられるのですが、人間に対しては支配者としてではなく、私たちが喜びを得ることが出来るように協力者となってくださり、私たちに助言をし、そっと助けてくださり、私たちの祈りに耳を傾けてくださる。これが神様の思いやりです。
神様は私たちへの配慮をもって計画を立て、助けを与え、聖霊を送ってくださる。このお方を信頼するなら、私たちにも御言葉が実現していくのです。
まとめ.
今、慰めが必要な方、助けを求めている方。どうか、神様が私たちのために建てておられるご計画を信頼して、祈りつつ、御言葉を聞きつつ、歩み続けるなら、神様はその人に必要な慰めを与え、慰められるだけでなく、ついには喜びに達するように導いていてくださるのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教