2022年07月17日

7月17日礼拝「主にあって共に」第一コリント16:1〜4(16章)

7月17日礼拝「主にあって共に」第一コリント16:1〜4(16章)
今日開かれていますのは、コリント人への手紙第一の16章で、この手紙最後の章です。ただ、この第一の手紙と、続く第二の手紙とは深い結び付きがありますので、来週はこのまま第二の手紙に入りたいと思います。もうしばらくパウロの手紙にお付き合いください。
新約聖書には多くの手紙が載せられています。大半はパウロの書いたものですが、手紙ですから最初には手紙の差出人や受取人、また挨拶などが書かれていて、最後の部分には結びの挨拶があります。挨拶は、個人的なものですから、適当に飛ばしても良いと思われるかも知れませんが、パウロは挨拶の部分にも大切なことを教えていることがありますので、今日は16章全体から学んで参りたいと思います。パウロが教えているというだけではありません。神様は聖書のいかなるページからでも私たちに語りかけておられます。カタカナの名前が多く出てくると退屈しやすいのですが、パウロの挨拶の言葉を通して神様の恵みに目をとめていきたおと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「パウロの働き」、第二に「同労者たちの働き」、そして第三に「教会の働き」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.パウロの働き(1〜9節)
これまでも何度か、この手紙が書かれた背景のようなことをお話させていただきました。コリント教会に今起きている問題があり、それに関してコリントのクリスチャンたちからパウロに質問が寄せられた。パウロはその質問に答える形で語っていきます。その意味では、コリント教会の問題を解決することが手紙の目的だと言うこともできます。時代や国や文化の違いはありますが、コリント教会の問題は私たち自身の問題にもつながってきますので、この手紙から私たちが学ぶべき点は多くあると言えます。しかし、パウロはただ質問に答えるだけでなく、他にも目的をもって手紙を書いているようです。それが1節です。
1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。
1節で「聖徒たち」と言っているのは誰のことか。パウロは手紙の冒頭でコリント教会の人たちのことも聖徒と呼んでいて、キリストを信じて救われ、キリストのものとされた人はみな聖徒です。ただ1節で「聖徒」と言っているのは、特にエルサレム教会の人たちのことをさしています。そして「聖徒たちのための献金」とは、簡単に言うとエルサレム教会への援助のことです。教会で神様にお捧げする献金というよりも、他者を助けるための援助金と言っても間違いではありません。
このことは、パウロの他の手紙や、また使徒の働きの中でも触れていて、大まかなことは分かっています。エルサレム教会は、最初は救われた人たちが自分の財産を教会に捧げて、貧しい人たちを養っていた。それは、当時のエルサレム教会には世界各地からエルサレムに帰ってきていたユダヤ人たちが多くいて、彼らは故郷を離れて来ていたので、貧しい人が多かった。聖書、当時は旧約聖書だけが聖書だった時代ですが、律法には貧しい人を助けるように教えられていますから、エルサレム教会でも愛による援助が行われていたわけです。しかしこれが長期化しますと、財産を売り払って捧げた人たちもやがて貧しくなり、教会全体が経済的に困窮するようになる。そんなおりに、飢饉がやってきて、食べるのも困るようになった。その時、エルサレムから始まった教会は世界のあちこちに広まって行き、各地にできた異邦人教会がエルサレム教会を援助しようと、献金、つまり援助金を募って、それをエルサレムに送る。昔ですから銀行を使って送金するということもできず、個人が運ばなければならない。その働きをパウロもしていたようです。『使徒の働き』を読むと、パウロの伝道旅行の途中でたくさんの同行者が加わってエルサレムに向かう出来事が出てきますが、これは多額の援助金を運ぶために、一人では危険ですから各教会からの代表者たちがパウロを守りながらエルサレムに着いていった。パウロは、この異邦人教会の援助の働きにコリント教会も加わるようにと指導していたのでした。他の地方の教会からの援助金を携えてコリントにも行く。そのときに、慌てて集めるのでは無く、あらかじめ蓄えておくように教えていき、献金を送り届ける一行にコリント教会からも参加するように代表者を決めておくようにと書いています。2節。
2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。
3 私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。
4 しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。

パウロはどうしてこの援助活動に熱心だったのでしょうか。パウロはコリント教会を教えて彼らが御心に適う正しい姿になることだけを考えていたのではありません。パウロは福音宣教に熱心だったのは言うまでもありません。また福音を教えた後は放っておくのではなく、後に訪問し、手紙を書き、仲間を遣わして、教会を教え導く、すなわち牧会にも熱心でした。また神の愛の働きである貧しい者への援助もしていた。それらの働きの全てが、実は一つの目的に向かっているのです。
他の手紙で語られていることですが、この時代、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間には残念ながら隔たりがあった。ユダヤ人は選民意識があって高慢でしたし、異邦人クリスチャンはユダヤ人を嫌っていた。考え方の違いから教会全体が分裂しそうになっていた。パウロは異邦人教会がユダヤ人中心のエルサレム教会を援助することで、ユダヤ人教会と異邦人教会が結びつくように願っていたのです。こうして、違う者がキリストによって一つとされることでキリストのからだである教会が建てあげられていく。パウロは自分の考えを伝えることだけに終始していたのでは決してありません。いつも教会の主であるキリストのためにあらゆることを行っていたのです。
このことは、今の私たちも覚えておきたいことです。教会には宣教の働き、牧会の働き、奉仕や援助の働きなど様々な働きがあり、また携わる人もそれぞれの力や思いによって違う働きに取り組むこともあります。でも、それらの全てはキリストのため、キリストのからだである教会を建て上げるためであることを覚えて、それぞれに託されている働きを忠実に行っていくことが神様の御心なのです。
2.同労者たちの働き(10〜14節)
二つ目に、10節からパウロは二人の人を紹介しています。10節ではテモテ、12節ではアポロです。テモテはパウロの弟子とも言える若い伝道者で、たびたびパウロの手足となって各地の教会を巡っていました。この第一の手紙を運んだのもテモテです。10節。
10 テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。
11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。

テモテが若いからと言って軽んじられたりしないように、そしてコリントでのテモテの働きがしやすいように配慮を頼んでいます。弟子であるテモテのためにも、テモテを迎えるコリント教会にも益になるようにパウロは頼んでいるのです。二人目は、12節。
12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらへ行こうとは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう。
兄弟と呼んでいるのは、彼を軽んじているのではなく、主にあって同じ立場であることを示しています。パウロとアポロは、どちらも聖書に精通していた、また福音を宣べ伝えるのに熱心であった、という共通点もありますが、アポロはバプテスマのヨハネの影響を受けたことなど、違いもあって、それがコリント教会の人たちの中にアポロ派とパウロ派ができる結果にもなった。でも、それはパウロとアポロがいがみ合っていたのではなく、立場や方法は違っても二人とも主に用いられた器でした。パウロもアポロを尊重しています。コリントに行かせないのではなく、行くようにと勧めつつ、でもアポロの考えや計画を認めています。立場の違う者を尊重するという態度があれば、コリント教会の分裂問題も解決へと向かうのです。
池の上教会も、その歴史にあって様々な伝道者たちの働きがありました。創立者である山根先生のお働きは言うまでもありません。山根先生に協力してくださった本田先生や羽鳥先生を初めとする多くの先生がたがおられます。それによって信仰の幅が与えられ、信仰が強められる。パウロもコリント教会を自分だけの教会とするつもりはありません。多くの同労者たちの助けがあることで、新しい視点が与えられ、信仰が強められる。また違いを受け入れ、助け合う愛が、お互いを結びつけます。それが13節。
13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。
14 いっさいのことを愛をもって行いなさい。

3.教会の働き(15〜24節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。15節以降は、あまり知られていない名前がいくつも出てきます。15節の「ステパナの家族」は、ステパノではありません。コリント教会を含むアカヤ地方の初穂として教会の土台となった家族であり、古くからの信徒として新しい人たちを指導する働きをしていた。15節。
15 兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。
16 あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。

服従するというと支配しているように聞こえますが、指導する人に協力することで、全体の働きがスムースになります。なんでも反対すると動きが取れなくなります。また、ステパナだけでなく、ポルトナト、この人の名前はここ以外に出てきませんが、コリント教会から遣わされてきて、手紙を届け、またパウロの助けを手伝ったようです。17節。
17 ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。
18 彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。

この三人はパウロを、またコリントの人たちも安心させた。不安に陥れたり、悩ませたりするのではなく、安心させ、平安をもたらす。イエス様が「平和を作り出す人は幸いである」と教えられたのを思い出します。
19節からは、アジアの教会、おそらくエペソ教会のことですが、こちらの人たちからコリントへの挨拶で、アクラとプリスカという夫婦の名前が登場します。この二人は有名です。パウロが最初にコリント伝道したときに知り合って、パウロの仲間となった信徒で、今はエペソで家を開放して伝道しているようです。19節。
19 アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。
20 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。
ここには名前が挙げられなかった人たちもいたでしょう。多くの無名の聖徒たちが教会を支えているのです。みんなから良く知られている人も、知られていない人も、それぞれが主に仕える、良き僕としてイエス様から誉めていただける。教会はそのような人たちによって支えられています。
20節の「聖なる口づけ」は、当時の教会での習慣です。今の私たちなら、「聖なるお辞儀」でしょうか。お辞儀のどこが聖なのでしょうか。それはキリストの愛に満たされ、お互いに仕え合う謙遜があり、陰に祈りがあり、他にもいろいろとあるでしょう。それが口づけにせよお辞儀にせよ、挨拶の背後にある。この世にある形だけの挨拶、下心のある挨拶とはひと味違う。神様に属する者の挨拶が「聖なる口づけ」です。挨拶という小さな事ですが、愛を持って行われるなら、それがキリストのからだを結びつけていくのです。
まとめ.
終わりの言葉は、口述筆記ではなくパウロ自身が書きました。
22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。
23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
24 私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。

「呪われよ」とはびっくりしますが、これも当時の教会で流行していた言葉で、キリストへの愛を忘れるなら、それは教会の人たちを苦しめることになるということです。主の恵み、すなわちキリストの愛が豊かにあることをパウロは祈っています。またパウロ自身の愛を自己主張するのではなく、キリストにあって、キリストが共にいて彼らを愛していてくださる。主は私たちとも共にいて、私たちにも恵みを注いでいてくださることを覚えてまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教