2022年07月03日

7月3日礼拝「最も大切な福音」第一コリント15:1〜5(1〜34節)

7月3日礼拝「最も大切な福音」第一コリント15:1〜5(1〜34節)
今日はコリント人への第一の手紙15章の前半を開いてまいります。15章は全体を通じて同じテーマ、すなわち復活と言うことを語っているのですが、全部で58節まであって、新改訳聖書第三版ですと3ページ半の長さです。一回でお話しするのは難しそうですので、今週と来週の二回に分けてお話しします。今日は前半の、1節から34節。ここには復活は事実であり、それが福音の中核であること。それをパウロは3節で「私があなたがたに最も大切なこととして伝えた」と書いています。このメッセージ、すなわち福音。福音とは良い知らせ、という意味ですが、この福音は十二使徒から語り伝えられ、異邦人の使徒と呼ばれたパウロにより世界に宣教が広められた。そのメッセージの要ともいえるのが復活の証言なのです。
いつものように三つのポイントで説教を取り次がせていただきます。第一に「伝えられた福音」。第二に「否定される復活」。そして第三に「生活を変える信仰」という順序で進めてまいります。
1.伝えられた福音(1〜11節)
福音、すなわち良い知らせは、イエス・キリストが弟子たちに教え、十二使徒を始めとする弟子たちがエルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤの人々に伝えられ、そしてパウロに伝えられ、世界へと広まっていく。このことは『使徒の働き』に記されています。まるで伝言ゲームのように次から次へと伝えられていく中で、変化した部分もありますが、根本的なこと、それをパウロは「最も大切なこと」と言っているのです。
この「最も大切なこと」が、具体的には3節の後半から述べられています。3節後半。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書のしめすとおりに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケパに現れ、それから十二使徒に現れたことです。
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

これがどこまで続いているか。5節までか、6節まで、7節、あるいは8節まで。意見はいろいろあります。しかし、一言にまとめますと、キリストの十字架と復活です。それは聖書、当時は旧約聖書のことで、預言されていたことであり、十字架の死は私たちの罪のためであること。また葬られたのち、三日目によみがえられたこと。そして弟子たちにご自身を表され、弟子たちは復活の証人となったのです。この内容はさらに深められ、また教会に必要な内容も加えられて、後には使徒信条が出来上がっていきます。でも、根本的な部分は変わっていません。ですから今も、私たちは、この大切な福音の内容を伝え続けているのです。
さて、8節からは、パウロの個人的な証しでもあります。8節。
8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

月足らずで生まれた者という表現が何を意味しているか、小さいということかは分かりませんが、イエス様に出会った点ではパウロは十二使徒と同じですが、イエス様を見た時期が一人だけ遅かった。いえ、時期の問題だけでなく、かつては教会を迫害していたことをパウロは隠さずに証ししているのです。それを、パウロは、10節。
10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
パウロは、自分が救われたのは神の恵みであり、また召されて多くの働きをしてきたことも、自分の力や功績でなく、神の恵みなのだと語っています。これはパウロの救いと献身の証しとも言えますが、パウロにおいては、福音の中心と自分の証しとがちゃんと結びついているのであり、彼は福音のメッセージを自分のこととして受け止めていたのです。
私たちは気を付けませんと、証しが単なる体験談、時には自慢話になってしまいますと、それは自分の栄光になってしまいます。自分が救われたのは、この福音によるのだと、聖書と結びついた証しであり、パウロのように、全ては神の恵みであって、神様に栄光をお返しするのです。11節。
11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
あなたがたは、とコリント教会の人たちに語っています。あなたがたはこのように信じた、と。私たちはどのように信じているでしょうか。一人一人、証しの内容は様々ですが、それが福音による救いであり、神の恵みによって生かされている今の私であることを、私たちも証ししていきましょう。
2.否定される復活 (12〜28節)
さて、十字架と復活が福音の中心であると先ほどもお話ししましたが、特に復活は、イエス様ご自身が弟子たちに「私の復活の証人になりなさい」と命じられたように、最も重要なことです。しかし、同時に、最も受け入れがたいことです。科学の発達した現代人だから、というのではなく、二千年前の人も復活は信じられなかった。復活を否定しようとする人は教会の外はもちろん、中にもいたのです。12節。
12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

いつの時代も、どこの国でも、復活はいつも否定され続けてきました。それでも私たちはキリストの十字架と復活を伝えていくのです。この福音の中心を失ったら、キリスト教は骨抜きになります。私たちの信仰も、クリスチャン人生も、骨抜きの、力のないものになってしまうのです。キリスト教は単なる教えとなり、人を救う力はなくなります。ですからパウロは、この後も続けて復活について語っていくのです。
15節以降は、パウロが復活について論証しているのですが、今日は、そこは読みません。復活が無かったなら空しくなると論じていますが、復活があったということは、実は議論していないのです。議論ではなくて、20節。
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
パウロは、復活を論理的に証明するのではなく、ただ、その事実を語っているのです。キリストと出会ったパウロは、そして、キリストの十字架と復活を旧約聖書全体から示されて、パウロは確信をもって「キリストは生きておられる」と語っているのです。
今、私たちは、直接に肉眼でイエス様を見ることはできないかもしれない。でも、聖霊が私たちに信仰を与えてくださり、信じることが出来るようにされる。これも神様の恵みです。ですから、私たちも「主は生きておられる」と証しすることができるのです。
3.生活を変える信仰(29〜34節)
最後に、復活の結果についてお話ししたいと思います。復活は事実だったと証言したあと、パウロは復活の意味や結果について語ります。20節の「眠った者の初穂」という言葉は、イエス様の復活が最初で、後に続く者がいるということですが、それは再臨の後だと語られています。再臨については、簡単にはお話しできない大きなテーマですし、まだ実現していないこともあって、分からない点も多い。ただ、26節。
26 最後の敵である死も滅ぼされます。
人間にはどうしても勝つことが出来ないのが死です。どんな人でも、最後は死ぬ。でも、イエス様は死んでよみがえられた。死にも勝利された。それは私たちも死に打ち勝つものとされるということだとパウロは考えているのです。もちろん、クリスチャンになっても死ぬときはきます。でも天国の希望を持っている私たちは、ただ死ぬことを恐れるのではなく、希望をもって待つことが出来る。これは、もう死の支配下にいるのではなく、復活のキリストを信じ、このお方が今も生きておられ、私たちのうちにいてくださるがゆえに、私たちも死に対して勝利し始めているのです。
29節に書かれている「死者のゆえのバプテスマ」が何を意味するのかは意見が分かれていて、私もよく分かりません。当時、そのような習慣があったのか、なぞです。とんで、30節。
30 また、なぜ私たちはいつも危険にさらされているのでしょうか。
31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。

これはパウロの宣教が命がけであり、何度も死ぬ危険にあったと他の手紙でも証ししています。でも、パウロは死をも危険をも恐れずに福音を伝えていった。それは、パウロは特別に勇気があったからではなく、彼が変えられたからです。キリストと出会い、キリストの十字架が自分のためであったこと、そして今、生きているのは自分ではなく、キリストが我がうちに生きておられる、と言っているように、パウロは復活の主によって人生が変わったのです。復活を信じる人の生き方も変えられます。復活を信じるからこそ、死ぬのを恐れて不安になる必要がなくなり、今の人生を精一杯に十分に生きる者となる。反対に、復活を否定する人の生き方が32節の後半から述べられています。
もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。
33 思い違いをはしていけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。

「あすは死ぬのだ」というくだりは、パウロの言葉ではなく、当時の人たちの諺のようなことだと思われます。どうせ死ぬのだから飲み食いして享楽的な生き方をしようという、刹那的な生き方になってしまいます。また、33節も、当時の諺なのかもしれません。悪い友達は良い習慣を失わせる。それは、復活を否定する人たちのことを悪い友だちと言っているのかもしれませんが、死を恐怖しながら付き合っていくなら、キリストと共に生きる人の生き方が損なわれてしまう危険性があるのです。
復活は、単なる知識で終わってはいけない。復活のキリストを信じ、今も生きておられる主を信頼するなら、その信仰は、今の生き方に影響を与え、考え方も、行動も、そして習慣さえも変えられていく。気が付いたとき、私たちは生き方も人生も以前とは違ってきている。すっかりと変えられた人の証しを聞くと、自分もそうなれるか心配するかもしれませんが、自分の力ではなく、復活の力、御子イエス様を死者の中からよみがえらされた父なる神の全能の力が、信じる者のうちにも働いて、私たちを新しい人生、新しい生活へと造り変えてくださるのです。
まとめ.
復活と十字架は福音の根幹ですが、私たちがキリストの福音を信じ、やがて復活をも信じるようになるとき、私たちも変わることができます。天国に行くことを信じるなら、今から備えて生きることができます。天国に入る者として相応しくなりたいと願うときに、御心に適う生き方を志すようになる。そのことをパウロは34節で、
34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。
これは努力によって倫理的な生活をするのとは違います。復活を信じる信仰が、私たちの日々の生活にまで及ぶからです。私の人生にも、復活のキリストが共に生きていてくださる。このことを信じましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教