2022年07月10日

7月10日礼拝「勝利の栄光」第一コリント15:51〜58(35〜58節)

7月10日礼拝「勝利の栄光」第一コリント15:51〜58(35〜58節)
今日はコリント人への手紙第一の15章の後半を開いてまいります。前回、15章の前半から復活についてお話ししました。15章後半も復活がテーマとなっています。コリント書には様々なことが書かれていますが、復活については、パウロは一番大切なこととしてじっくりと語っています。それは、キリスト教は復活が無かったなら存在しなかったからです。もし、十字架が無かったなら、キリスト教は単なる道徳で終わっていたでしょう。十字架による贖いこそが私たちを罪から救う、キリスト教の中心です。でも、もし十字架だけで復活が無かったなら、キリスト教は敗北です。多くの人を惹き付けたイエス・キリストも、最後には処刑されて死んでしまった、ということでしたら、歴史からやがて消えていったでしょう。でも、復活があったがゆえに、キリストの教えも、十字架の救いも、世界中に広まっていった。復活こそが勝利であり栄光なのです。
いつものように三つのポイントでメッセージを取り次がせていただきます。第一に「復活の栄光」、第二に「天国の栄光」、そして第三に「従順の栄光」という順序で進めてまいります。
1.復活の栄光(35〜49節)
パウロはすでに15章前半で、復活について論じていて、12節くらいから復活を否定する人に対して、復活が無かったなら私たちの信仰は空しくなると語っています。そして復活の事実を力強く証ししている。これで反対者たちも復活を認めるのかと言うと、否定する人はどこまでも否定します。そこで35節からは、違った側面から復活について論じようとしています。35節。
35 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
埋葬の習慣は文化によって異なりますが、死んだ人間のからだは、朽ち果てていきます。そのからだが、どうしたら元のような肉体になるのか。そんなことは不可能だ。だから復活はあり得ない、という議論は、現代人でも考えるかもしれません。
この疑問に対して、パウロは、彼ら反対者は勘違いをしていると指摘します。そして復活とは、元のような体に戻ることではなく、死んだからだが、新しいからだとなるのだということを、様々な例を用いて教えています。まず、畑に種を蒔く話です。蒔かれた種は死んだもののように、形を失っていき、やがて芽が出て、生長し、ついに実が結ばれる。一粒の麦が死ねば、豊かな実を結ぶ、とイエス様が教えられたとおりです。また、からだにも種類がある。40節。
40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、
天上のからだ、地上のからだ、というのは、古い、口語訳聖書では「天に属するからだ、地に属するからだ」と訳されています。これが何を指すのか。地上のからだは、私たちの、この肉体のことだと考えられますが、天上のからだは、天国でのからだか、天使のからだか。いずれにせよ、今の私たちのからだとは違うからだです。天使も突然に現れたり消えたりします。天国でのからだも、地上のからだのように病気になったり衰えたりするようなからだではなくなります。地上のからだも、お一人お一人が素晴らしい存在であり、神の栄光を表す存在ですが、欠点もあり、不足もありますから、栄光とは言えないようなときもあります。でも、天国では神様のおそばにいて、神様の栄光を反映するすがたとなるのです。そのことが42節。
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

でも、やはり私たちも思うわけです。どうしたら朽ちるものが朽ちないものになることができるのか。その答えこそがキリストの復活なのです。イエス様の地上でのからだは、疲れを覚えることもありました。鞭で打たれて血を流された。私たちと同じからだです。でも、復活後は消えたり現れたりできる不思議なからだとなられた。そして45節。
45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
最後のアダムはイエス様のことです。最初のアダム、すなわち創世記のアダムは、土の塵から形作られたあと、神様の息が吹き込まれたときに生きた者となったと書かれています。人間は、神様に生かされてるから生きることができる。それに対して、最後のアダムである復活のキリストは「生かす御霊」、それも他の翻訳では「命を与える霊」と訳しています。一度死んで塵に戻った人に、命を与えるお方となられた、ということです。でも地の塵に息を吹き込んでも、また同じ地上のからだですから、いつかは朽ちてしまいます。ところがパウロはすごいことを語っている。それが49節。
49 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
天上のかたち、すなわち新しい息を吹き込まれて天上のからだとなるべきものがある。この天上のかたちをも持つ、とは、正確に訳しますと、天的なかたちを着る、という言い方で、それは未来形の動詞です。今は、それは見えない。でも、その時が来たら、私たちはまるで新しい礼服を着るかのように、天に用意された新しいからだを着る、着せていただけるのです。あの放蕩息子は、ボロボロの格好で家に帰ってきました。でも、父はすぐに礼服を持ってこさせて息子に着せる。それまでは家に帰っても息子として受け入れてもられるだろうか、召使いにしてもらえるだろうか、とクヨクヨと考えても、どうなるか全く分からない。でも、家に着いたら、もう彼の着る服は用意されていて、それを着せられた。その新しい服は、キリストのからだのような栄光のからだを神様はもう準備していてくださる。弟子たちのために家を用意しに行くと言われたイエス様が、その家に住むためのからだを忘れているはずがない。しかも最高のからだ、それはイエス様のような、キリストに似た者となるのです。
死んだら、どんなふうになるのだろうか。心配する必要は無い。神様はちゃんと計画していてくださり、その予告として、キリストを死者の中から復活させて、やがてこうなるんだということを示してくださった。だから私たちはキリストの復活を信じていくのです。
2.天国の栄光(50〜54節)
二つ目のことをお話しします。この新しいからだとなるのには、一つは死ぬことです。死んで、いつかは分かりませんが、いつか、天国で新しいからだを着せていただく。もう一つは、再臨です。世の終わりにイエス・キリストが再び地上に来られる日です。そのときには、50節。
50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

神の国、ここでは特に天国を指していますが、血肉のからだ、すなわち地上での肉体のままでは天国を受け継ぐことはできない。地上のからだのままで天国の永遠の世界に行けば、永遠ではなく、朽ちてしまいます。でも新しいからだに変えられる。それをパウロは奥義だと語ります。眠るとは死ぬことを意味します。死んで、眠ったようになり、そのまま消えていくのではなく、終わりのラッパ、それはキリストの再臨を告げ知らせるラッパでしょう。そのラッパが鳴り響き、イエス様が登場するときに、一瞬のうちに変えられ、死ぬものが、死なないからだを着ると表現しています。こうして新しいからだを着せられるときに、54節。
54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
「死は勝利に飲まれた」という聖書の言葉が成就すると言います。引照を見ると、これはイザヤ書の言葉だそうですが、大切なのは、「成就した」ということです。神様の言葉は必ず事実となる。「光あれ」と神が語られると「光がある」ようになった、と創世記は描いています。私たちが新しいからだとなることも、聖書に約束された御言葉で、それは必ずに成就することなのです。
パウロはこの箇所で天国での私たちの姿を論理的に教えていますが、難しい言葉だらけです。それを理論ではなく映像的に描いているのがヨハネの黙示録です。そこでは天国で光り輝くような白い衣を着せられた信仰者たちが出てきます。ただ、幻のように見ているので、それ以上詳しいことは分からない。でも私たちは、神様が御言葉を語って約束してくださったから、それをそのまま信じるのです。天国での栄光に輝く姿は、すでに神様が準備してくださっている。この約束を信頼して、私たちの地上でのからだはどうなるのか心配でしょうが、神様に委ねるなら、栄光が与えられる。そのことを最後にお話したいと思います。
3.従順の栄光(55〜58節)
55節が重要です。
55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
これは旧約聖書のホセア書からの引用ですが、ヘブル語で書かれた旧約聖書とギリシャ語で書かれている新約聖書とでは少し、いいえ、かなり違います。パウロは死に向かって「死よ、おまえのとげ」、このとげは人を苦しめ恐れさせる死の武器です。死に向かって、とげを出してみろ、いいえ、出せないだろう。死は武器を失い、勝利ではなく敗北する。死に対する勝利宣言です。ところが、ホセア書のほうは、新改訳ではパウロと同じ言葉に訳していますが、他の翻訳では、死に対してとげを持ってこさせて、人間を倒させる、裁きの言葉です。このホセア書の言葉の意味については、13年前に千代崎が池の上教会に赴任した最初のイースター礼拝でお話ししたのですが、先日札幌で開かれた北海道ケズィックでも語らせていただいたので、今日はこれ以上は説明しませんが、これもイエス様の復活により意味が変わったということができます。復活こそ、死への勝利であり、死に対して無力であった人間に希望を与えることです。それが57節。
57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
復活による勝利は、私たちが勝ったのではなくて、キリストが勝利され、そのキリストのうちにあるときに、私たちも勝利に与ることができる。ではキリストはどのように勝利されたのでしょう。それは十字架です。このことを見事に語っているのは、パウロが書いたピリピ書の2章6節から9節の有名な言葉です。
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

神の御子であるイエス様は、父なる神の命令に従って、人間となり、十字架の死にまで従い通された。このキリストの従順のゆえに、父なる神は御子を死者の中からよみがえらされたのです。その神様が、キリストに従う私たちを、キリストと共に勝利の栄光に与らせてくださる。だから、パウロは57節で、「神に感謝すべきです」と述べて、58節。
58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
キリストが十字架にまで従順に従われた。それが復活の勝利に結びついた、ように、私たちもキリストに従順に従う。時には十字架のような苦しみがあるかもしれません。でもキリストを信頼してついていくとき、私たちも勝利を与えられる。それを信じるとき、労苦であっても、主のわざに励むことができるのです。
神様に仕え、キリストに従う。それは奉仕であれ伝道であれ、時には犠牲を伴います。また、なかなか目に見える結果が分からないために、こんなことをしても無駄ではないか、と諦めたくなる。でもキリストの十字架が無駄な死ではなく、救いの贖いとなったように、私たちの捧げる犠牲も、決して無駄ではなく勝利に向かっていると信じるのです。
まとめ.
私たちはキリストと共に死に、キリストと共に生きる。それが洗礼式で示されている真理です。それは過去にそうだったというのではなく、今も、キリストに従って生きる生き方に変えられている。その生き方によって日々の働きに励み、教会での奉仕に励むとき、もうダメだと諦めたくなるような敗北があっても、復活により勝利へと導かれるのです。ですから、復活を信じる者は、倒れても負けるのではなく、立ち上がって勝利する者となるのです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教

2022年07月03日

7月3日礼拝「最も大切な福音」第一コリント15:1〜5(1〜34節)

7月3日礼拝「最も大切な福音」第一コリント15:1〜5(1〜34節)
今日はコリント人への第一の手紙15章の前半を開いてまいります。15章は全体を通じて同じテーマ、すなわち復活と言うことを語っているのですが、全部で58節まであって、新改訳聖書第三版ですと3ページ半の長さです。一回でお話しするのは難しそうですので、今週と来週の二回に分けてお話しします。今日は前半の、1節から34節。ここには復活は事実であり、それが福音の中核であること。それをパウロは3節で「私があなたがたに最も大切なこととして伝えた」と書いています。このメッセージ、すなわち福音。福音とは良い知らせ、という意味ですが、この福音は十二使徒から語り伝えられ、異邦人の使徒と呼ばれたパウロにより世界に宣教が広められた。そのメッセージの要ともいえるのが復活の証言なのです。
いつものように三つのポイントで説教を取り次がせていただきます。第一に「伝えられた福音」。第二に「否定される復活」。そして第三に「生活を変える信仰」という順序で進めてまいります。
1.伝えられた福音(1〜11節)
福音、すなわち良い知らせは、イエス・キリストが弟子たちに教え、十二使徒を始めとする弟子たちがエルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤの人々に伝えられ、そしてパウロに伝えられ、世界へと広まっていく。このことは『使徒の働き』に記されています。まるで伝言ゲームのように次から次へと伝えられていく中で、変化した部分もありますが、根本的なこと、それをパウロは「最も大切なこと」と言っているのです。
この「最も大切なこと」が、具体的には3節の後半から述べられています。3節後半。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書のしめすとおりに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケパに現れ、それから十二使徒に現れたことです。
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

これがどこまで続いているか。5節までか、6節まで、7節、あるいは8節まで。意見はいろいろあります。しかし、一言にまとめますと、キリストの十字架と復活です。それは聖書、当時は旧約聖書のことで、預言されていたことであり、十字架の死は私たちの罪のためであること。また葬られたのち、三日目によみがえられたこと。そして弟子たちにご自身を表され、弟子たちは復活の証人となったのです。この内容はさらに深められ、また教会に必要な内容も加えられて、後には使徒信条が出来上がっていきます。でも、根本的な部分は変わっていません。ですから今も、私たちは、この大切な福音の内容を伝え続けているのです。
さて、8節からは、パウロの個人的な証しでもあります。8節。
8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

月足らずで生まれた者という表現が何を意味しているか、小さいということかは分かりませんが、イエス様に出会った点ではパウロは十二使徒と同じですが、イエス様を見た時期が一人だけ遅かった。いえ、時期の問題だけでなく、かつては教会を迫害していたことをパウロは隠さずに証ししているのです。それを、パウロは、10節。
10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
パウロは、自分が救われたのは神の恵みであり、また召されて多くの働きをしてきたことも、自分の力や功績でなく、神の恵みなのだと語っています。これはパウロの救いと献身の証しとも言えますが、パウロにおいては、福音の中心と自分の証しとがちゃんと結びついているのであり、彼は福音のメッセージを自分のこととして受け止めていたのです。
私たちは気を付けませんと、証しが単なる体験談、時には自慢話になってしまいますと、それは自分の栄光になってしまいます。自分が救われたのは、この福音によるのだと、聖書と結びついた証しであり、パウロのように、全ては神の恵みであって、神様に栄光をお返しするのです。11節。
11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
あなたがたは、とコリント教会の人たちに語っています。あなたがたはこのように信じた、と。私たちはどのように信じているでしょうか。一人一人、証しの内容は様々ですが、それが福音による救いであり、神の恵みによって生かされている今の私であることを、私たちも証ししていきましょう。
2.否定される復活 (12〜28節)
さて、十字架と復活が福音の中心であると先ほどもお話ししましたが、特に復活は、イエス様ご自身が弟子たちに「私の復活の証人になりなさい」と命じられたように、最も重要なことです。しかし、同時に、最も受け入れがたいことです。科学の発達した現代人だから、というのではなく、二千年前の人も復活は信じられなかった。復活を否定しようとする人は教会の外はもちろん、中にもいたのです。12節。
12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

いつの時代も、どこの国でも、復活はいつも否定され続けてきました。それでも私たちはキリストの十字架と復活を伝えていくのです。この福音の中心を失ったら、キリスト教は骨抜きになります。私たちの信仰も、クリスチャン人生も、骨抜きの、力のないものになってしまうのです。キリスト教は単なる教えとなり、人を救う力はなくなります。ですからパウロは、この後も続けて復活について語っていくのです。
15節以降は、パウロが復活について論証しているのですが、今日は、そこは読みません。復活が無かったなら空しくなると論じていますが、復活があったということは、実は議論していないのです。議論ではなくて、20節。
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
パウロは、復活を論理的に証明するのではなく、ただ、その事実を語っているのです。キリストと出会ったパウロは、そして、キリストの十字架と復活を旧約聖書全体から示されて、パウロは確信をもって「キリストは生きておられる」と語っているのです。
今、私たちは、直接に肉眼でイエス様を見ることはできないかもしれない。でも、聖霊が私たちに信仰を与えてくださり、信じることが出来るようにされる。これも神様の恵みです。ですから、私たちも「主は生きておられる」と証しすることができるのです。
3.生活を変える信仰(29〜34節)
最後に、復活の結果についてお話ししたいと思います。復活は事実だったと証言したあと、パウロは復活の意味や結果について語ります。20節の「眠った者の初穂」という言葉は、イエス様の復活が最初で、後に続く者がいるということですが、それは再臨の後だと語られています。再臨については、簡単にはお話しできない大きなテーマですし、まだ実現していないこともあって、分からない点も多い。ただ、26節。
26 最後の敵である死も滅ぼされます。
人間にはどうしても勝つことが出来ないのが死です。どんな人でも、最後は死ぬ。でも、イエス様は死んでよみがえられた。死にも勝利された。それは私たちも死に打ち勝つものとされるということだとパウロは考えているのです。もちろん、クリスチャンになっても死ぬときはきます。でも天国の希望を持っている私たちは、ただ死ぬことを恐れるのではなく、希望をもって待つことが出来る。これは、もう死の支配下にいるのではなく、復活のキリストを信じ、このお方が今も生きておられ、私たちのうちにいてくださるがゆえに、私たちも死に対して勝利し始めているのです。
29節に書かれている「死者のゆえのバプテスマ」が何を意味するのかは意見が分かれていて、私もよく分かりません。当時、そのような習慣があったのか、なぞです。とんで、30節。
30 また、なぜ私たちはいつも危険にさらされているのでしょうか。
31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。

これはパウロの宣教が命がけであり、何度も死ぬ危険にあったと他の手紙でも証ししています。でも、パウロは死をも危険をも恐れずに福音を伝えていった。それは、パウロは特別に勇気があったからではなく、彼が変えられたからです。キリストと出会い、キリストの十字架が自分のためであったこと、そして今、生きているのは自分ではなく、キリストが我がうちに生きておられる、と言っているように、パウロは復活の主によって人生が変わったのです。復活を信じる人の生き方も変えられます。復活を信じるからこそ、死ぬのを恐れて不安になる必要がなくなり、今の人生を精一杯に十分に生きる者となる。反対に、復活を否定する人の生き方が32節の後半から述べられています。
もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。
33 思い違いをはしていけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。

「あすは死ぬのだ」というくだりは、パウロの言葉ではなく、当時の人たちの諺のようなことだと思われます。どうせ死ぬのだから飲み食いして享楽的な生き方をしようという、刹那的な生き方になってしまいます。また、33節も、当時の諺なのかもしれません。悪い友達は良い習慣を失わせる。それは、復活を否定する人たちのことを悪い友だちと言っているのかもしれませんが、死を恐怖しながら付き合っていくなら、キリストと共に生きる人の生き方が損なわれてしまう危険性があるのです。
復活は、単なる知識で終わってはいけない。復活のキリストを信じ、今も生きておられる主を信頼するなら、その信仰は、今の生き方に影響を与え、考え方も、行動も、そして習慣さえも変えられていく。気が付いたとき、私たちは生き方も人生も以前とは違ってきている。すっかりと変えられた人の証しを聞くと、自分もそうなれるか心配するかもしれませんが、自分の力ではなく、復活の力、御子イエス様を死者の中からよみがえらされた父なる神の全能の力が、信じる者のうちにも働いて、私たちを新しい人生、新しい生活へと造り変えてくださるのです。
まとめ.
復活と十字架は福音の根幹ですが、私たちがキリストの福音を信じ、やがて復活をも信じるようになるとき、私たちも変わることができます。天国に行くことを信じるなら、今から備えて生きることができます。天国に入る者として相応しくなりたいと願うときに、御心に適う生き方を志すようになる。そのことをパウロは34節で、
34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。
これは努力によって倫理的な生活をするのとは違います。復活を信じる信仰が、私たちの日々の生活にまで及ぶからです。私の人生にも、復活のキリストが共に生きていてくださる。このことを信じましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教