2022年07月31日

7月31日礼拝「涙が香水に変えられる」第二コリント2:4〜8(2章)

7月31日礼拝「涙が香水に変えられる」第二コリント2:4〜8(2章)
新約聖書には多くの手紙が含まれています。今日、開かれている「コリント人への手紙第二」もその一つです。これらの手紙は、パウロを始めとする指導者たちが教会や個人を教えているもので、手紙というよりも説教のような書き方をしています。パウロは、ある時は「私」と自分のことを語り、その次には「私たち」と自分と仲間たちを指して語ることもありますし、聞き手であるコリント教会の人たちと自分を結び付けて「私たち」と語ることもあって、注意深く、パウロの口調を聞き取る必要があります。今日は第二コリントの2章ですが、その前半では「私」という字が多く用いられていて、パウロが自分の体験を語っている。手紙の中でパウロは自分の体験を通して大切なことを伝えようとします。自分がイエス・キリストと出会った時のこと、あるいは苦労しながら伝道しているときのこと、それはパウロの証しとも言える内容です。
今日は7月の第五日曜なので、年間予定では「信徒による証し礼拝」となっていたのですが、コロナの感染者の急増もあって、秋にお証しをしていただこうかと思っています。でも誰が証しをするとしても、その証し、今日はパウロの証しですが、証しを通して神様が私たちにも恵みを注いでくださるのです。
いつものように三つのポイントで。第一に「悲しみから慰めへ」ということ、第二に「赦しによる勝利」、そして第三に「キリストのかおり」という順序で進めてまいります。
1.悲しみから慰めへ(1〜10節)
パウロは一つの出来事を語っています。1節。
1 そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。
ここでパウロが語っている出来事は、語っているパウロと聞いているコリントの人たちは良く覚えていますので、詳しいことは言わなくても分かり合っていますが、私たちはその二千年前の出来事を体験していないので、何の話か、分かりにくい。でもパウロが語っていることを丁寧に読むと、また他の手紙も合わせて考えると、おぼろげなことは分かります。「あなたがたを悲しませるような訪問は二度と繰り返さない」と言っているのは、この手紙を書く前に、一つの訪問がなされた。でも、その訪問は「あなたがた」コリント教会の人たちを大変悲しませる結果となって、パウロも悔やんでいた。ですから、そのようなことになるような訪問は二度としない、と言っているのです。
「使徒の働き」やパウロの手紙全体から推測されているのは、第一の手紙を書き送った後、パウロはコリント教会の問題を解決するために、、おそらく船で直接コリントに行った。でも彼は目的を達成できず、コリントから戻ったのではないかと思われます。さらに4節。
4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
この「涙ながらに書いた」とパウロが語っている手紙は、現在では残されていないと考えられ、「涙の手紙」などと呼ばれています。つまり、第一の手紙の後、「涙の手紙」が書き送られ、その後で、今読んでいる「第二の手紙」が書かれた。専門的な話はさておき、この涙の手紙についてパウロは、「あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたい」と言っています。
今は、コロナ禍にあって、直接会えないことがあります。早く、皆さんと一緒に集まって、共に礼拝をささげ、一つになって交わりをするときが来ることを私たちは祈っています。でも、直接会えるなら、全てが解決するかと言いますと、会って、語り合っているときに、つい言い過ぎてしまったり、言葉足らずで誤解を与えてしまったり、会うことが問題を引き起こす場合もあります。そんなときは、落ち着いて手紙を書き、送る前に何度も読み返して、十分に相手に分かるように書いているかを吟味して書き送る。読む人も、早合点して誤解をすることが無いように、何度も読むのです。若い時に書いたラブレターは、そうです。書く側は何度も言葉を考えて書きます。読む側も、好きな人からの手紙でしたら、嬉しくて何度も読みます。私たちも神様からのラブレターである聖書を、神様の愛のこもった言葉を何度も読み返して、意味をしっかりと受け止めたいものです。脱線しました。
パウロは悲しみの訪問、それは、恐らく、コリント教会で問題を起こしていた人の罪を直接に指摘した。もちろん、それは悔い改めを願ってだったでしょうが、結果は、その人が多くの人から罰を受けることになって、罰を受けた人も、罰をくだした人たちも、悲しみを覚えるようになってしまった。その悲しみの中にいるコリント教会の人たちのために、パウロは愛をこめて、涙ながらの手紙を書いた。その愛とは、6節から。
6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
8 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。

パウロは、コリント教会の人たちに、その罰せられた人へのかつての愛を思い出して確認するように勧めています。その愛とは、相手を赦す愛です。愛による赦しがあるとき、そこに罪の故の悲しみからの慰めがあるからです。
私がコリント書、最初はよく分からなかったのですが、読んでいるうちに、そしてメッセージを語っているうちに気が付かされたのは、牧会者パウロの深い愛が背後にあるということです。苦難の中にいた教会、悲しみに包まれていた教会にパウロの愛、いいえ、それはパウロを愛してくださった神様の愛、キリストによって示された愛があるのです。私たちも、教会の中で悲しんでいる人、苦難の中にいる人のために、神様からの慰めがあるように祈りましょう。もし、わだかまりがあるのなら、自分も悔い改めて、赦し合いましょう。そのとき、聖霊が私たちの中に豊かに働いてくださるのです。
2.赦しによる勝利(7〜14)
二つ目のポイントです。10節から。
10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

パウロがサタンの策略と言っているのは、どういうことでしょう。10節で赦すということが語られています。人間はなかなか人を赦せないことがあります。怒りが強いとそうでしょう。でも許さないことがクリスチャン同士の間に亀裂を生じさせて教会が破壊されるだけでなく、人を赦せない心は神様から遠くなり、キリストの心から離れてしまいます。だから悪魔は私たちに、あんな人は赦せない、という思いを刷り込んで、神様との関係を揺るがせ、キリストのからだである教会をダメにしようとするのです。
みなさんは、主の祈りを覚えておられるでしょう。その中に、「我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」というくだりがあります。ここを普通に読みますと、人の罪を赦したら、自分の罪も赦される、と理解できるのですが、日本語に翻訳したときにどうしても語順が変わってしまっていて、原文では、先に「われらの罪を赦してください」、そして「私たちも人の罪を赦します」と続いているのです。何故かというと、神様が私たちの罪を赦してくださるのは、何か良いことをしたら、とか、誰かを赦したら、と言った条件を満たしたら赦してくださるのではなく、無条件の赦しです。私たちが自分の罪を認めて悔い改めるとき、イエス様の十字架によって赦される。無条件で赦されたのだから、私たちも誰かを赦すのです。
私たちが十字架の救いに根ざして生きるとき、私たちは神の愛の中に生かされ、そこに赦しが生まれます。神様の前には自分こそが赦されないような罪人であり、でもそんな自分も赦してくださり、救ってくださった神様の愛に心が満たされるとき、赦せなかった人を赦すことができ、罪のために悲惨な関係になっていた、神様との関係、人との関係が変えられて、神を愛し、兄弟を、また隣人を愛する者となるとき、本当の慰め、神様からの慰めが始まります。
旧約聖書のイザヤ書の中に、40章の最初ですが、「慰めよ、慰めよ」という神様の言葉があります。神に背いたためにイスラエルは滅亡して、バビロンに捕囚として連れていかれた。そのイスラエルを神様は慰めるために、もう一度、約束の地に帰らせてくださる、というイザヤ書のメッセージです。滅んだ者でさえ、赦し、生かしてくださる。この神様の救いの奇跡は、十字架で成就します。罪の中に死んでいたような私でさえ、神様は十字架によって贖い、罪を赦した。だけでなく、復活の命、永遠の命によって新しい人生を与えてくださる、それが神様の慰めです。この救いの御業が自分の内にも実現したとき、私たちを滅ぼそうと、神様との関係、人との関係を破壊しようとしてきたサタンの策略が打ち砕かれて、キリストが勝利してくださる。それが14節です。
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
3.キリストのかおり(14〜17)
最後に、今、読みました、14節の後半に「キリストのかおり」という言葉があります。
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
このかおりとは証しです。私たちの言葉だけでなく、行いも、そして生き方を通して、キリストが証しされ、聞いた人たちはキリストのことを知るようになるのです。それが、キリストのかおりを放つということです。
証しとは、自分のことを知ってもらうのですが、それが目的ではなく、自分を救ってくださった救い主、イエス・キリストを知っていただくことが目的です。そのためには、真心から語るのだとパウロは教えています。17節。
17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
私たちが混ぜ物ではなく、真実に証しするとき、「神によって」とあるように神様が助けてくださり、語らせてくださる。その時、キリストのかおりを神様が放ってくださる。主語は神様です。もう一度、14節。
14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
救われた人が聞いても、まだ救いを知らず、罪の中で生きている人にも、キリストのかおりを神様が放ってくださる。自分のかおりではありません。自慢をしたり、自分の利益のために語りますと、悪臭が漂い、聞いている人はいやな気持になる。でも、キリストのかおりは、聞いた人の心にキリストが伝えられます。「かおり」という表現も面白いなと思って、今日の説教題、「涙が香水に変えられる」としました。私たちが眠っているときは、当然、目は閉じていますが、耳と鼻は開いていて、音や匂いで危険を感じる、と聞いたことがあります。いくら言葉を尽くしてキリストを伝えようとしても、なかなか聞いてもらえないときがあります。でも、証しの行い、キリストのような生き方を示して生きるとき、それを見ている周りの人は、キリストのことを認めざるを得なくなるのです。15節。
15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
言葉による証しもキリストのかおりです。私たちの証しは、それを聞く誰かにとって、キリストを伝えるように神様が用いてくださる。ですから、救われた証し、困難の中で助けられた証し、悲しみから慰められた証し、どんな証しでも、キリストのかおりを放つ者としていただきましょう。
まとめ.
パウロも失敗することがありました。居ても立ってもいられずにコリントを訪問して悲しませてしまった。でも、手紙で書き送ったメッセージが彼らを変えた。言葉で伝えても聞いてもらえないときは、態度や行いで示すこともあるでしょう。どんな形の証しであっても、キリストが伝えられ、キリストのかおりが放たれるように、用いていただきましょう。
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2022年07月24日

7月21日礼拝「慰めの手紙」第二コリント1:21〜24(1章)

7月21日礼拝「慰めの手紙」第二コリント1:21〜24(1章)
今日から『コリント人への手紙第二』に入ります。短く、第二コリントとも呼ばれるこの手紙も第一の手紙同様、パウロがコリント教会に書き送ったものです。すでに第一の手紙からお話ししましたが、コリント教会は問題の多い教会でした。はっきり言えば、大変な罪があった。コリント教会を創立したパウロは、手紙を用いて彼らを導き続けていましたから、彼らの中にある罪を見過ごしにはできない。時には厳しい言葉を用いることもありましたが、断罪するのが目的ではなく、悔い改めて立ち直って欲しかった。でも、薬が効きすぎたというのか、コリント教会の人たちに深い悲しみを与えることになってしまった。そこでパウロはこの第二コリントを書いて、悲しみの中にいる彼らを慰めようとした。
慰めを必要としている人は、今も多くいます。愛する人を天に送った方々、長く痛みや苦しみの中にいる方々。いいえ、時には自分でも気が付いていないけれども、長く続くコロナ禍や経済的な苦境の中で、心の奥底で悩みや傷を負っていて、深い慰めが必要な方もおられるのです。
今日は第二コリントの1章から御言葉を取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで、第一に「慰めの必要な時」、第二に「パウロの計画の変更」、そして第三に「神の計画の配慮」という順序で進めてまいります。
1.慰めの必要な時(1〜11)
先ほどは司会者に21節から読んでいただきましたが、手紙の最初から目を向けてまいります。1節、2節は手紙の挨拶部分で、今日はそこには触れません。3節。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

今、読んだところだけでも、新改訳聖書第三版では4回、「慰め」という言葉があり、その後にも続いています。どれほどパウロが慰めということを念頭に置きながら手紙を書き始めたかが分かります。でも、どうして慰めが必要だったのでしょうか。詳しい話は長くなりますので、簡単に手紙が書かれた状況に触れますと、パウロは少なくとも4回、手紙を書いたようです。最初の手紙は現存していませんが、コリント教会を指導するために書かれた。ところが彼らの中に誤解する人もいて、パウロに質問状を書き送った。それに対する答えとして書かれたのが、第一コリントです。それでも問題は解決しないので、パウロはまた手紙を書いた。悲しみの手紙とか涙の手紙と言われる手紙ですが、これも残っていません。その悲しみ、コリント教会の人たちの悲しみを知ったパウロが第二コリント、この手紙を書いたのです。
でも、いくら言葉を尽くして彼らを指導し、慰めようとしても、また誤解されてしまったら逆効果です。人間の言葉には限界があります。語る側も聞く側も不完全ですから、どうしても行き違いがある。ですから、本当の慰めは神様による慰めでなければならないのです。3節でパウロは「慰めの神」という珍しい言い方で神様を紹介し、4節。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
どんな苦しみや悲しみの中に私たちが陥っても、神様ならば慰めることができる。そして、神の慰めはその人を慰めるだけでとどまらず、神様に慰められた人は他の人をも慰めることができる、と言っています。さらに神様が遣わされたキリストは、地上で多くの苦しみを受け、十字架で死なれた後、三日目に復活された。それは嘆いていた弟子たちにとって大きな慰めだった。5節。
5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

パウロがこのように力強く語っているのは、彼自身が体験したからです。パウロの苦しみに関する証しは他の手紙にも書かれていますが、ここでは8節。
8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

アジアと書かれているのは、おそらくエペソでの出来事と思います。それ以外の時も含めて、パウロは何度も命の危険を通りました。迫害や盗賊や難船。彼自身も病気を抱えていた。そして各地の教会から伝わってくる問題も彼を苦しめたでしょう。パウロは死を覚悟するような状況の中で、キリストを復活させた父なる神に信頼するしかない、という信仰に立っていた。そして、その信仰に神様は答えてくださり、ここまでパウロは助け出されてきました。10節。
10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
ここにも三回、救い出してくださるという言葉が出てきます。これまで何度も救い出された。そしてこれからも救い出してくださるという確信。そして、「なおも救い出してくださるという望み」というのは、二回目の助けの後、また助けてくださるという単純な話ではない。なぜなら、いつかは殉教するときが来るとパウロは知っていました。でも、その死からでさえも助け出されるという天国の希望を語っているのです。
今も、教会には多くの苦難があります。一人一人もそうです。でも、かつて助けられたこと、何よりも罪からの救いを思い出して、今ある苦しみや悲しみから助け出され、慰めをうけるときが来ると、神様を信頼します。そしていつかは死ぬときが来ても、なお天国を望み見ることができる。天国では「もはや涙もなく」と黙示録に書かれているように、完全な慰めが備えられているのです。この信仰に立ったとき、11節。
11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
パウロはコリント教会の人たちも悲しみから助け出され、神による慰めを受けて、今度は祈りをもってパウロに協力し、神様の恵みを感謝するまでになることを信じているのです。私たちも、今、悲しんでいる人たちのために祈り、困難の中で与えられる恵みを感謝する者となりましょう。慰めの神は今も私たちと共にいてくださるからです。
2.パウロの計画の変更(12〜20)
二つ目のポイントに移ります。12節。
12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
パウロは、自分たちの行動が人間の知恵ではなく、神の恵みによることを語っていますが、知恵を用いなかったわけではありません。どんな知恵を用いたか。13節では。
13 私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。
パウロはコリント教会に何度も手紙を書き、また他の教会に書き送った手紙も他の教会にも回覧されていました。パウロの手紙は難しく、コリントの人たちの中には自分の狭い考えで間違った理解をして躓く人もいた。でもしっかりと読むなら彼の伝えたいことが伝わってくる。それは神様がパウロに与えてくださった知恵があるからです。手紙だけではない。15節。
15 この確信をもって、私は次のような計画を立てました。まず初めにあなたがたのところへ行くことによって、あなたがたが恵みを二度受けられるようにしようとしたのです。
16 すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニヤに行き、そしてマケドニヤから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。

この計画と言うのは、パウロが当初考えていたもので、エペソから直接船でエーゲ海を渡ってコリントに生き、コリントから北の方にあるマケドニヤ、そこにはピリピ教会もあります。そして、またコリントに戻って、そこからユダヤのエルサレムに向かう、という計画でした。地図の好きな方は御言葉と照らし合わせても良いでしょう。ところが、このパウロの計画は変更されることになってしまった。その変更を、パウロの反対者たちは非難して、パウロは不誠実だとでもいうのです。その批判にパウロは反論して、自分が語ったのは、「しかり」と言ったのが「否」に変わってしまうようないい加減なことではない。イエスと言ったのにノーとなるのはいい加減です。でもパウロは神ではない。神様に従うのが彼の本文であって、神様がこちらに行けと言われたらそうする。そして神様は語られたことを必ず実現されるお方です。ただ神様のお考えは人間の思いをはるかに超えたものです。パウロは二回コリントに行って、15節の後半に、「あなたがたが恵みを二度受けられるように」と書いているように、コリント教会に恵みと喜びをもたらしたかった。でも、実際はパウロが第二コリントを書くよりも前にコリント訪問したようなのですが、その訪問は失敗に終わり、コリントの人たちも、またパウロ自身も悲しむ結果となってしまった。でも、その後、パウロはもう一度コリントに行って、三か月過ごした。それはじっくりと交わることが出来、慰めと恵みへの感謝があった。パウロは二回の恵みと考えたけれど、実際は、一回の悲しみと、一回の恵みです。でも、その悲しみは本当の慰めを受けるために通らなければならないものであって、それが解決したときに大きな恵みがあったのですから、悲しみも恵みへの一歩だった。ですから確かに旅行計画の変更はありましたが、パウロの目的は達成された。それはパウロの知恵ではなく、パウロに働かれた神様の知恵です。
私たちも、いくら計画を立てても、コロナ感染者がまた増加して計画が変わるように、これからも人間の計画通りとはならないかもしれません。でも、神様の御言葉に信頼するなら、神様がご計画を進め、恵みを備えていてくださるのです。
3.神の計画の配慮(20〜24)
神様の最大の計画は、救いの計画です。天地創造の前から人間を救うために御子を送ってくださる計画を立てておられた。多くの歴史を経て準備が進められ、ついにイエス様において成就し、またキリストのからだである教会によって前進し、キリストが再臨されるときに完成する。それが20節。
20 神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

神様はキリストの十字架と復活によって救いの計画を成就されただけでなく、さらに聖霊を送ってくださり、私たちに確信を与えてくださるのです。「油を注がれた」というのも聖霊のことです。神様は教会に聖霊を送ってくださり、信仰をあたえてくださり救いに導かれ、さらに、私たちの心の中に聖霊を住まわせてくださって、確信をもって生きるようにしてくださる。22節の「保障」という言葉は、下の注釈を見ると、「手付金」という言葉だと説明されています。約束だけでもいいはずなのに、手付金まで与えて、確実に実行することを保証してくださる。実に、至れり尽くせりの神様です。
パウロは最後の23節、24節で、
23 私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。
自分から「思いやり」だというのは日本では少し変に感じますが、でもパウロは常にコリント教会のことを考えて行動しているし、また24節。
24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
パウロは支配者としてコリント教会を力づくで押さえつけるのではない。むしろ教会と協力して彼らが喜びと信仰に立てるようにと願っている。このパウロの姿勢は、神様の姿勢から来ています。神様は天地万物の主として全てを支配する権威を持っておられるのですが、人間に対しては支配者としてではなく、私たちが喜びを得ることが出来るように協力者となってくださり、私たちに助言をし、そっと助けてくださり、私たちの祈りに耳を傾けてくださる。これが神様の思いやりです。
神様は私たちへの配慮をもって計画を立て、助けを与え、聖霊を送ってくださる。このお方を信頼するなら、私たちにも御言葉が実現していくのです。
まとめ.
今、慰めが必要な方、助けを求めている方。どうか、神様が私たちのために建てておられるご計画を信頼して、祈りつつ、御言葉を聞きつつ、歩み続けるなら、神様はその人に必要な慰めを与え、慰められるだけでなく、ついには喜びに達するように導いていてくださるのです。
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2022年07月17日

7月17日礼拝「主にあって共に」第一コリント16:1〜4(16章)

7月17日礼拝「主にあって共に」第一コリント16:1〜4(16章)
今日開かれていますのは、コリント人への手紙第一の16章で、この手紙最後の章です。ただ、この第一の手紙と、続く第二の手紙とは深い結び付きがありますので、来週はこのまま第二の手紙に入りたいと思います。もうしばらくパウロの手紙にお付き合いください。
新約聖書には多くの手紙が載せられています。大半はパウロの書いたものですが、手紙ですから最初には手紙の差出人や受取人、また挨拶などが書かれていて、最後の部分には結びの挨拶があります。挨拶は、個人的なものですから、適当に飛ばしても良いと思われるかも知れませんが、パウロは挨拶の部分にも大切なことを教えていることがありますので、今日は16章全体から学んで参りたいと思います。パウロが教えているというだけではありません。神様は聖書のいかなるページからでも私たちに語りかけておられます。カタカナの名前が多く出てくると退屈しやすいのですが、パウロの挨拶の言葉を通して神様の恵みに目をとめていきたおと思います。
いつものように三つのポイントに分けてメッセージを取り次がせていただきます。第一に「パウロの働き」、第二に「同労者たちの働き」、そして第三に「教会の働き」という順序で進めてまいりたいと思います。
1.パウロの働き(1〜9節)
これまでも何度か、この手紙が書かれた背景のようなことをお話させていただきました。コリント教会に今起きている問題があり、それに関してコリントのクリスチャンたちからパウロに質問が寄せられた。パウロはその質問に答える形で語っていきます。その意味では、コリント教会の問題を解決することが手紙の目的だと言うこともできます。時代や国や文化の違いはありますが、コリント教会の問題は私たち自身の問題にもつながってきますので、この手紙から私たちが学ぶべき点は多くあると言えます。しかし、パウロはただ質問に答えるだけでなく、他にも目的をもって手紙を書いているようです。それが1節です。
1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。
1節で「聖徒たち」と言っているのは誰のことか。パウロは手紙の冒頭でコリント教会の人たちのことも聖徒と呼んでいて、キリストを信じて救われ、キリストのものとされた人はみな聖徒です。ただ1節で「聖徒」と言っているのは、特にエルサレム教会の人たちのことをさしています。そして「聖徒たちのための献金」とは、簡単に言うとエルサレム教会への援助のことです。教会で神様にお捧げする献金というよりも、他者を助けるための援助金と言っても間違いではありません。
このことは、パウロの他の手紙や、また使徒の働きの中でも触れていて、大まかなことは分かっています。エルサレム教会は、最初は救われた人たちが自分の財産を教会に捧げて、貧しい人たちを養っていた。それは、当時のエルサレム教会には世界各地からエルサレムに帰ってきていたユダヤ人たちが多くいて、彼らは故郷を離れて来ていたので、貧しい人が多かった。聖書、当時は旧約聖書だけが聖書だった時代ですが、律法には貧しい人を助けるように教えられていますから、エルサレム教会でも愛による援助が行われていたわけです。しかしこれが長期化しますと、財産を売り払って捧げた人たちもやがて貧しくなり、教会全体が経済的に困窮するようになる。そんなおりに、飢饉がやってきて、食べるのも困るようになった。その時、エルサレムから始まった教会は世界のあちこちに広まって行き、各地にできた異邦人教会がエルサレム教会を援助しようと、献金、つまり援助金を募って、それをエルサレムに送る。昔ですから銀行を使って送金するということもできず、個人が運ばなければならない。その働きをパウロもしていたようです。『使徒の働き』を読むと、パウロの伝道旅行の途中でたくさんの同行者が加わってエルサレムに向かう出来事が出てきますが、これは多額の援助金を運ぶために、一人では危険ですから各教会からの代表者たちがパウロを守りながらエルサレムに着いていった。パウロは、この異邦人教会の援助の働きにコリント教会も加わるようにと指導していたのでした。他の地方の教会からの援助金を携えてコリントにも行く。そのときに、慌てて集めるのでは無く、あらかじめ蓄えておくように教えていき、献金を送り届ける一行にコリント教会からも参加するように代表者を決めておくようにと書いています。2節。
2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。
3 私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。
4 しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。

パウロはどうしてこの援助活動に熱心だったのでしょうか。パウロはコリント教会を教えて彼らが御心に適う正しい姿になることだけを考えていたのではありません。パウロは福音宣教に熱心だったのは言うまでもありません。また福音を教えた後は放っておくのではなく、後に訪問し、手紙を書き、仲間を遣わして、教会を教え導く、すなわち牧会にも熱心でした。また神の愛の働きである貧しい者への援助もしていた。それらの働きの全てが、実は一つの目的に向かっているのです。
他の手紙で語られていることですが、この時代、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間には残念ながら隔たりがあった。ユダヤ人は選民意識があって高慢でしたし、異邦人クリスチャンはユダヤ人を嫌っていた。考え方の違いから教会全体が分裂しそうになっていた。パウロは異邦人教会がユダヤ人中心のエルサレム教会を援助することで、ユダヤ人教会と異邦人教会が結びつくように願っていたのです。こうして、違う者がキリストによって一つとされることでキリストのからだである教会が建てあげられていく。パウロは自分の考えを伝えることだけに終始していたのでは決してありません。いつも教会の主であるキリストのためにあらゆることを行っていたのです。
このことは、今の私たちも覚えておきたいことです。教会には宣教の働き、牧会の働き、奉仕や援助の働きなど様々な働きがあり、また携わる人もそれぞれの力や思いによって違う働きに取り組むこともあります。でも、それらの全てはキリストのため、キリストのからだである教会を建て上げるためであることを覚えて、それぞれに託されている働きを忠実に行っていくことが神様の御心なのです。
2.同労者たちの働き(10〜14節)
二つ目に、10節からパウロは二人の人を紹介しています。10節ではテモテ、12節ではアポロです。テモテはパウロの弟子とも言える若い伝道者で、たびたびパウロの手足となって各地の教会を巡っていました。この第一の手紙を運んだのもテモテです。10節。
10 テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。
11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。

テモテが若いからと言って軽んじられたりしないように、そしてコリントでのテモテの働きがしやすいように配慮を頼んでいます。弟子であるテモテのためにも、テモテを迎えるコリント教会にも益になるようにパウロは頼んでいるのです。二人目は、12節。
12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらへ行こうとは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう。
兄弟と呼んでいるのは、彼を軽んじているのではなく、主にあって同じ立場であることを示しています。パウロとアポロは、どちらも聖書に精通していた、また福音を宣べ伝えるのに熱心であった、という共通点もありますが、アポロはバプテスマのヨハネの影響を受けたことなど、違いもあって、それがコリント教会の人たちの中にアポロ派とパウロ派ができる結果にもなった。でも、それはパウロとアポロがいがみ合っていたのではなく、立場や方法は違っても二人とも主に用いられた器でした。パウロもアポロを尊重しています。コリントに行かせないのではなく、行くようにと勧めつつ、でもアポロの考えや計画を認めています。立場の違う者を尊重するという態度があれば、コリント教会の分裂問題も解決へと向かうのです。
池の上教会も、その歴史にあって様々な伝道者たちの働きがありました。創立者である山根先生のお働きは言うまでもありません。山根先生に協力してくださった本田先生や羽鳥先生を初めとする多くの先生がたがおられます。それによって信仰の幅が与えられ、信仰が強められる。パウロもコリント教会を自分だけの教会とするつもりはありません。多くの同労者たちの助けがあることで、新しい視点が与えられ、信仰が強められる。また違いを受け入れ、助け合う愛が、お互いを結びつけます。それが13節。
13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。
14 いっさいのことを愛をもって行いなさい。

3.教会の働き(15〜24節)
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。15節以降は、あまり知られていない名前がいくつも出てきます。15節の「ステパナの家族」は、ステパノではありません。コリント教会を含むアカヤ地方の初穂として教会の土台となった家族であり、古くからの信徒として新しい人たちを指導する働きをしていた。15節。
15 兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。
16 あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。

服従するというと支配しているように聞こえますが、指導する人に協力することで、全体の働きがスムースになります。なんでも反対すると動きが取れなくなります。また、ステパナだけでなく、ポルトナト、この人の名前はここ以外に出てきませんが、コリント教会から遣わされてきて、手紙を届け、またパウロの助けを手伝ったようです。17節。
17 ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。
18 彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。

この三人はパウロを、またコリントの人たちも安心させた。不安に陥れたり、悩ませたりするのではなく、安心させ、平安をもたらす。イエス様が「平和を作り出す人は幸いである」と教えられたのを思い出します。
19節からは、アジアの教会、おそらくエペソ教会のことですが、こちらの人たちからコリントへの挨拶で、アクラとプリスカという夫婦の名前が登場します。この二人は有名です。パウロが最初にコリント伝道したときに知り合って、パウロの仲間となった信徒で、今はエペソで家を開放して伝道しているようです。19節。
19 アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。
20 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。
ここには名前が挙げられなかった人たちもいたでしょう。多くの無名の聖徒たちが教会を支えているのです。みんなから良く知られている人も、知られていない人も、それぞれが主に仕える、良き僕としてイエス様から誉めていただける。教会はそのような人たちによって支えられています。
20節の「聖なる口づけ」は、当時の教会での習慣です。今の私たちなら、「聖なるお辞儀」でしょうか。お辞儀のどこが聖なのでしょうか。それはキリストの愛に満たされ、お互いに仕え合う謙遜があり、陰に祈りがあり、他にもいろいろとあるでしょう。それが口づけにせよお辞儀にせよ、挨拶の背後にある。この世にある形だけの挨拶、下心のある挨拶とはひと味違う。神様に属する者の挨拶が「聖なる口づけ」です。挨拶という小さな事ですが、愛を持って行われるなら、それがキリストのからだを結びつけていくのです。
まとめ.
終わりの言葉は、口述筆記ではなくパウロ自身が書きました。
22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。
23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
24 私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。

「呪われよ」とはびっくりしますが、これも当時の教会で流行していた言葉で、キリストへの愛を忘れるなら、それは教会の人たちを苦しめることになるということです。主の恵み、すなわちキリストの愛が豊かにあることをパウロは祈っています。またパウロ自身の愛を自己主張するのではなく、キリストにあって、キリストが共にいて彼らを愛していてくださる。主は私たちとも共にいて、私たちにも恵みを注いでいてくださることを覚えてまいりましょう。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教