2022年06月12日

6月12日「教会はキリストのからだ」Tコリント3〜8(12〜13章)

6月12日「教会はキリストのからだ」Tコリント3〜8(12〜13章)
先週はペンテコステで、聖霊が教会に下られた記念日でした。特別に聖霊に関するメッセージをしなかったのは、今、コリント書から教会についてお話をするのに、何度も聖霊についても触れてきていることもあります。ですから、今日も、いいえ、今日は特に教会に関して重要なことが語られている箇所の一つ、第一コリントの12章と、それに続く13章は「愛の章」として有名な箇所です、結婚式でも開かれるような御言葉ですが、ただ愛について教えているのではなく、教会という文脈の中で、改めて13章にも少し触れたいと思います。今日はコリント人への第一の手紙12章と13章から「教会はキリストのからだ」というタイトルでメッセージを取り次がせていただきます。
いつものように三つのポイントで。第一に「多様性と一致」ということ。第二に「聖霊による一体性」、そして第三に「神の任命と愛」という順序で進めてまいります。
1.多様性と一致
まず、12章の1節をご覧ください。
1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。
御霊の賜物、すなわち聖霊による賜物ということに関しては、夏の退修会でのテーマとなる予定ですが、今日は特に教会との関係における賜物ということをお話ししてまいります。この「御霊の賜物」という大切な主題は、12章だけでなく14章にも続いていますので、もう一度、お話ししようと思っています。先ほど司会者にも読んでいただきましたが、3節。
3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
この後、具体的な賜物の話を始める前に、聖霊の大切な働きを述べています。それは、聖霊によらなければ誰もイエス様を信じることはできない、ということです。御霊の賜物というのは、特別な人だけ与えられたのではなく、クリスチャンとなるときには全員に与えられているものです。「イエスは主である」という御言葉は、もっとも簡潔な信仰告白です。どんなに小さな信仰でも、それを告白して救いをいただくのは、聖霊の助けが陰にあって、それも聖霊の賜物、すなわちプレゼントです。私たちには誰にもこのプレゼントが与えられ、それを受け取ったとき、救われるのです。でも、救われただけでおしまいでは無く、さらに聖霊は豊かな賜物を用意しておられる。それが12章で語られていることです。
この豊かなプレゼントは、何のために与えられるかと言いますと、4節から。
4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

賜物にはいろいろな種類がある、と書かれていて、具体的にはどんな種類のものがあるかは、後で語られていますが、賜物に様々な種類があるのは、5節では「奉仕にはいろいろな種類」、6節には「働きにはいろいろな種類」と書かれています。賜物は奉仕、すなわち神様に仕え、キリストのからだである教会で仕えるためにあります。この世では賜物と才能が混同され、才能でしたら自分のために用いることもできますが、賜物は仕えるため。また6節は働きのためとありますが、これも普通の仕事ではなく、6節後半で「神はすべての人の中ですべての働きをなさる」と書かれているように、神様のお働きの一端を担うのです。そして賜物が与えられて、教会に仕え、神様のお働きのお手伝いをさせていただくことが、7節では「みなの益となる」と書かれています。賜物とは、そのような目的で与えられるのです。
具体的にどんな賜物があるか。8節から読みます。
8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

ここに書かれているのが全てではありません。さらに聖書を調べていきますと、もっと豊かな、バラエティーに富んだ賜物があります。ここには、おそらくコリント教会の人たちが知っていた賜物を取り上げているようです。8節には「知恵」と「知識」、9節には「信仰」、これも御霊の賜物だというのです。また9節の終わりには「いやしの賜物」。10節には「奇蹟」、「預言」、「霊を見分ける力」、そして「異言」と「異言を解き明かす力」。この最後に二つに関しては14章で詳しく述べられています。何らかの奇蹟を行うことができる人がいたのでしょうか。「癒やしの賜物」を持っている人。知識や知恵に富んでいる人。すごいですね。ただ、これらの賜物を持っていると自称する人が、それを教会に仕えるためでなく、それができるのを自慢して、自分の誇りのために用いている。これは賜物の間違った使い方です。それを戒めるために、パウロはここで、いろいろな賜物がある、と教えながら、同時に4節では「御霊は同じ御霊」。その賜物は聖霊からのプレゼントで、それは自分のものではなく、聖霊が与えてくださったのであり、聖霊はお一人のお方です。5節でも、様々な奉仕はあるけれど、同じお方に仕えている。神の働きも様々ですが、お一人の神様の働きです。ですから、賜物を正しく用いたら、コリント教会の教会のような分派分裂になるのはおかしい。一つとなるはず。それが12節。
12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

いろいろな賜物があり、それにより様々な働きがあり、また教会にはユダヤ人、ギリシャ人、様々な人がいても、キリストのからだは一つなのです。それがからだの例えで、手や足や目や耳があって、それぞれの能力や働きは違うけれども、からだはバラバラではなく、一体なのです。
教会には様々な人が来ておられ、それぞれの人に神様が与えてくださった賜物を用いて、いろいろな働きがなされています。ある教会で、少し前の話ですが、教会の礼拝をローカルテレビに流そうと考えたのですが、誰がそんな技術を持っているだろうか。そうしたら、一人の信徒の方が紹介されて、実はテレビ局で働いていたことがあって。その人は自分の経歴や仕事の技術が教会に役立つとは思っていなかったのが、不思議なように神様の働きのために用いられたのです。皆さんも、仕事でも趣味でも、何か神様のために用いていただくことができる。詳しくは夏の退修会でどうぞ。コマーシャルでした。
教会には様々な人が来ていて、違いもたくさんあります。でも、その違いを生かして、神様のために用いていただくとき、キリストのからだである教会の一員として生き生きと仕えることができる。主にあって、一致できる。これが教会の多様性と一致ということです。
2.聖霊による一体性
二つ目のことをお話しします。多様性のある教会が一致できるのは聖霊によることは、最初にもお話しした通りです。でも、聖霊による一体性とは、具体的には、私にとってどういうことなのか。
14節から26節は、からだとはどういうものかを分かりやすく語っていますので、後からでも読んでください。20節から。
20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

人間の肉体も様々な器官、いろいろな部分がある。でも、ひとつの体であって、その体の中でお互いに否定し合うのは意味が無い。目が手に向かって、お前は何も見えないから必要ないと言ったり、手が目に向かって、お前は何も持てないから必要ない、というのはナンセンスです。
しかし、キリストの体である教会でそんなことが起きたら残念ですが、他の人を必要ないと言って排除することはしないとしても、自分はあの人と違って何もできないから自分は教会にとって必要ない、と自分を否定してしまうなら、それはキリストの御心ではありません。反対に、自分の方があの人よりも力がある、自分の方が価値がある、と高慢になるのも御心に反します。
ただ、人間は自分の弱さを認めたくない存在です。自分には何かができるということに自分の存在価値を見いだして満足したい。それができないと自己卑下して、自分を慰めようとする。自分よりも弱い人を批判して、自分が正しいと考えて弱さを認めない。もっと聖書的な表現を使うなら、人間は自分の罪を認められない。それをさせてくださるのは聖霊の働きです。聖霊が私たちの中に働かれるとき、御言葉によって語りかけて、私の中にある罪、自分の弱さを、素直に認めて、神様に助けを願う。そのとき、私の力によって働くのでは無く、神様が私の中に働いてくださるのです。
聖霊が私のうちにも自由に働いてくださり、私を御心にかなったものとして用いてください、と祈ろうではありませんか。
3.神の任命と愛
三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。28節。
28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。

ここに様々な働きが上げられ、それは賜物とも密接につながっています。その働きに、神様がその人を任命したと書いているのです。ホーリネス教団は任命制度を採用しています。牧師は神様から任命されて教会に遣わされる。でも牧師だけでなく信徒も神様の任命によってその教会でキリストに仕えているのです。パウロは、様々な働きも神の任命であって、私たちはその命令にお従いするのだと教えています。だから、人と違っても良いのです。どうして私がこの働き、この奉仕をするのか、最初は分からないこともあります。でも神様が任命してくださり、私を用いてくださるということを学ぶとき、そしてそのために必要な賜物を与えてくださり、私を用いていただけると受け止めたとき、その働きが感謝と喜びになってくるのです。
でも、どうして神様はこの働きへと私を遣わしたのだろうか。26節に、こう書かれています。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
一体である教会は、一人が苦しむとき、共に苦しみます。一人が喜ぶとき、共に喜びます。素晴らしい交わりです。でも、誰かが痛んでいるとき、誰かが悲しんでいるとき、誰よりも心を痛め、悲しんでおられるのは、かしらであるキリストご自身ではないでしょうか。そのイエス様も、父なる神様の御心に従って、地上へと遣わされて救い主の働きをされ、十字架にまでついてくださった。それは父なる神のお心が人間の罪の故に痛み、人間が滅びることを悲しまれたからです。
からだの背後には愛があります。人間は自分の肉体を愛します。「我が身かわいさ」という言葉があるくらいです。それは両親の愛、そして神様が私を愛していてくださるからです。その神様が私たちを働きへと遣わすのも、動機は愛です。私たちが救われ、賜物が与えられた、その意義を発揮できるように、働きに遣わして用いてくださり、働くときにはキリストが一緒にいてくださる。神の任命は愛なのです。私たちは神様の愛に応答する、それがクリスチャンの、いいえ、神様に造られた人間の目的なのです。
まとめ.
今日は13章をお話する時間が無いのですが、13章は「愛の章」です。神の愛がどんなものであり、私たちも神の愛に生きるようになることを願っておられる。愛はどんな賜物よりもすぐれたもの、偉大なもの。それは神様の御心に一番近いからです。教会でも、愛を持ってお互いに仕えましょう。それが教会を、キリストのからだとして一つにし、建て上げていくからです。
posted by ちよざき at 12:00| Comment(0) | 説教